まちづくりと観光事業の間にある壁⑥ [コラムvol.316]

 「例えば京都市と比べると全部負ける」1)

 今回は川端五兵衛氏のこの言葉を“入り口”の一つとしたいと思います。

 川端五兵衛氏は、滋賀県近江八幡市の市長を1998~2006年まで務めた方で、1970年代に始まる八幡堀の再生など取り組まれた方です。青年会議所の一員として、その後市長として、地域でまちづくりを実践されてきた氏の言葉を通して、まちづくりと観光について改めて考えたいと思います。

写真 再生した八幡堀の風景

写真 再生した八幡堀の風景

言葉の本意を掴み取る

 さて、先ほどの言葉。皆さんはどのように感じましたでしょうか。

 様々な捉え方があると思いますが、

 京都市を比較対象とすることは適切ではない、比較対象地域の設定の仕方がよろしくない

 と表面的に捉えて返答をするのはいとも簡単なことです。今日、分析フレームや手法に関する図書が数多く出版される中で、そう考える人も少なくないでしょう。仮にこれが観光面での話なら、自らの地域を見て競合地域を設定し直し、比較分析を行い、相違点、優位性、差別化要素を明らかにして戦略を立案する。こうした助言が次のステップとなるかもしれません。

 しかし、ここで着目すべきは「京都市と比較してどうか」ではなく、川端氏が敢えて「京都市」を例に挙げて「全部負ける」と述べているのはなぜか、そのことを通じて伝えたかった、聞き手に感得して欲しかった本質的な意味、意図は何か。考えるべきはそこだと私は思っています。

 さて、それが何か、を端的にそして的確にこの場で説明できれば良いですが、正直まだ対外的に説明できるほど自分の中で咀嚼出来ていません。いや、現時点での私の能力が長年の実践に裏打ちされた人々の言葉の意味を理解し説明できるほどに達してない、時間と経験、実践を重ねてはじめて理解できる人間としての深みも未だない、だから説明できないと言ったほうが正確でしょう。まちづくりと観光に日々向き合う業務をするものとして、非常に情けないことです。出来上がったモデルやフレームを安易に応用、援用すること、そして体裁良く見せることに時間を掛け、目を逸らしてきた結果でしょう。

「モノ」に伴う表層的な比較優劣を越えて

 その言葉の意味を全て理解して説明することは出来ませんが、まずは先ほどの言葉の前後の文章も合わせて見てみましょう。

 いいまちの基準とは何か。一般的には都市基盤などのハードです。次に産業、経済の活力、そして、コミュニティーがしっかりしている、ことなどでしょう。 しかし、それらは自治体によって取り返しのつかないほど格差ができている。例えば京都市と比べると全部負ける。でも「このまちが本当に好きだ」「このまちのために尽くしたい」という割合ではどうか。そのような思いを持つ市民がどれほどいるかによって、まちのランクが決まると思う。私はそれを信じて疑っていない。1)

 実は前後の文章からは、私が思っていたような、例えとして「京都市」を出した意図というのは読みとれません。ではそれにも関わらず、最初の言葉を私が引き合いに出して述べたのはなぜか。それは、川端氏のまちづくりに対する一連の考えを知っていくと、何気ない一言も川端氏の姿勢から発せられたものとして見えてくるからです。

 それは、「モノ」に伴う、表層的な部分の比較による優劣をまちに持ち込むことに対する懸念と、まちの持つ“奥深さ”が「モノ」の比較(比較対象項目として表層的に落とし込める範囲)では十分には捉えられないということ、そして一般論やモデルに即して相対的にまちを捉えることに“留まること”の危うさを示唆しているのだと個人的には捉えています。「京都市」は比較対象として誰にでもイメージしやすく、かつ優劣をつけるとすれば、こちらが優だと安易に判断しやすい、そのような対象として敢えて選んで挙げたのではないでしょうか。

 さて、別の資料での言葉も見てみましょう。以下長いですが、川端氏が取り上げる岡山県の倉敷に関する話の中で重要な部分を抜粋して取り上げます。本意を掴むのにこれが良いと考えるからです。

 確かに倉敷のように若い女性たちが集まってくれば、町も賑やかになるだろうし、金も落とされて、経済的な活性化にもつながる。でも私には、みんなの話に耳を傾けながら、そんな風に倉敷を表層的に町並み保存のモデルとしてとらえることは、少し違っているのではないかという気がしてならなかった。

 それというのも二、三年前、折あって倉敷を訪れた時に自分が感じた感動は、ただ単に町並みの美しさによるものばかりではなく、むしろそこで出会った人々に対する驚きが大きかったからである。(中略)倉敷の文化についてあれこれ語るその話の内容は実に奥深く、並大抵ではない教養を感じさせる。中でも特に印象が深かったのは、女将さんが熱を込めて語ってくれた大原孫三郎さんの話である。2)

 よその町からやってきたものが倉敷の町を見る時には、ついその堀割や町並みの美しさだけをクローズアップして観光の対象として語ってしまいがちである。確かに倉敷の町といえば、落ち着いた掘や倉屋敷という印象がある。倉敷にとっては、経済的には、すぐそばの水島工業地帯の比重がずっと大きい。

 しかし「倉敷」という名前を耳にした人が、公害を連想させる巨大なコンクリートでなく、直ちに美術館のある文化的な街をイメージすることは市民にとって誇らしいことであろう。そういった意味では町並み保存は、町のイメージづくりに大きな役割を果たしていると言える。

 しかし、だからと言ってそれに習い、自分の町並みを観光資源にして売り出そうということは、倉敷のようなまちづくりに込められた人々の心を見ようとせず、その表層を追いかけることではないか。3)

 「商品」には、必ず優劣があるのが常だ。(中略)自分の町が「モノ」として評価され、比べられることは、この町に住んでいる人間としては耐え難い。それが住民としての正直な気持ちだった。自分たちの町を「商品化」してはいけないのである。

 それぞれの地域にはそれぞれの開発のやり方があるのだから、どれが正しくてどれが間違っているということはない。(中略)見本があることによって逆に、自分たちのものが作れなくなってしまうのではないか。第二・第三の倉敷になるということは、自らの歴史・文化を放棄するに等しい。4)

“町のもつ必然性”から未来を考える

 では、まちを「モノ」として捉えていけないのであれば、どうしたら良いのか。川端氏は、「「わが町」の未来を考えるための手掛かりは、常に自分たち自身の歴史の中にこそ見出せる」5)と述べています。そして、「歴史を知る者はより優れて未来を透徹することができる」6)と。自らのまちの歴史を振り返り、

 善光寺や金毘羅さんのように、もともと門前町として自然発生し、お詣りに来る人たちが大ぜい集まり発展していった町や、奈良・京都などなら、観光都市として生きてきた長い歴史もあり、それなりの必然性もある。しかし、八幡の町は四〇〇年の歴史の中でこれまで一度だって、観光を柱としてなりわいを営んできた経験はないのだ。それを今どうして急に観光都市になれるだろう。7)

 と。まちづくりについては、

 経済的な即効性と豊かさだけを追い求めることはしたくなかった。(中略)他人のため、見に来てもらうためのまちづくりではなかったはずだ。(中略)肝心なのは、自分たちがどういう生き方をし、何を子供たちに伝えたいのか、ということではないだろうか。(中略)その町に住む人々が、農業にしろ商業にしろ、それぞれのなりわいを通して、淡々と営みながら、それでいて、何かしら内側から光輝いている。目つきも違う。そして、振る舞いやたたずまいを見ても、本当に充実している。そんな生き方を見たいと自然に人が集まってくるのなら、結果として観光的要素があってもいいかもしれない。しかし、最初から観光客目当てで派手なイベントをしたりハリボテ的に表面を取り繕っても、結局後に残らない。8)

 そして、(以下で使用されている「観光」「リゾート」「開発」という言葉は、今日受ける印象と多少異なる部分もあり読む際は注意が必要ですが、)

 平成二年の現在、世の流行は観光開発からリゾート開発に移ろうとしている。だが、それは「工場が駄目なら観光があるさ」「観光がダメならリゾートがあるさ」とばかりに、それぞれの町のもつ必然性を考慮せずに、安易な開発が行われているような気がしてならない。何十年かのタイムスパンを経て、「現在」を「過去」として振り返って見れば、そのような流行性のニーズで描かれた未来図のほとんどが、具体化される前に価値観の変化で頓挫していることに気づくはずである。9)

 と、歴史的な視点でどのようにまちを見つめるべきか、を述べています。

 今日、観光地に限らず全国各地で観光を通じた地域活性化の取り組みが行われていますが、何かの代用手段として観光に取り組むのでもなく、表層を越えて“まちのもつ必然性”にどこまで差し迫り未来を描けるか。今行っている様々な取り組みや調査分析の先にそうしたことを見つめ直す機会が更に持たれることを私は期待します。

 さて、今回は特にまとめというものもありませんが、最後に参考までに川端氏が取り上げた倉敷に関して、公益財団法人大原美術館元理事長の大原謙一郎氏の文章を紹介します (https://www.jtb.or.jp/wp-content/content/img/publish/bunka/bunka215_P1.pdf)

 この文章を読み返し一つひとつの言葉の意味を改めて考えると、(技術的な調査分析内容の精度を上げることに留まらず、)目線高く奥深くそして引用に頼るのではなくそれを自らの言葉で表現できところまで目指さないといけない、と改めて感じます。

1)参考文献1,p.85 2)参考文献2,p.199 3)参考文献2,p.201 4)参考文献2,p.202 5)参考文献2,p.205 6)参考文献3,p.171,川端氏がまちづくりの中で知った言葉。 7)参考文献2,pp.204-205 8)参考文献2,p.204 9)参考文献2,p.205

【参考文献】 (1)「「このまちを何とかしたい」市民の割合がまちのランクを決める 滋賀県近江八幡市 川端五兵衛市長(21世紀を拓く首長⑩)」,『ASHITA』2000年10号,pp.83-85

(2) かわばたごへい(1991):『まちづくりはノーサイド』,株式会社ぎょうせい,pp.1-278 (3) 西村幸夫,埒正浩編(2011):「川端五兵衛 近江八幡 死に甲斐のある終の栖のまちづくり」『証言・まちづくり』,学芸出版社,pp.141-174