大分県津久見市保戸島における島おこしの挑戦 ~「よそ者」プロジェクトチームの関わり方に焦点を当てて~ [コラムvol.466]
津久見市保戸島の景観

東洋のアマルフィか軍艦島か

保戸島(ほとじま)は、大分県津久見市から航路で25分の位置にある、周囲わずか4kmの小さな島である。古くは景行天皇が訪れたといわれ(腰掛石がある)、柳田国男も「海南小記」に保戸島のことを記している。かつて遠洋マグロ漁業の一大基地として栄え、最盛期の昭和30年代には、年間百億円を超える水揚を誇った。周囲に比して極めて富裕だった島民たちは、競うように鉄筋コンクリート2~3階建(地下有)家屋を建てたが、平地のない島では、斜面に密集して建てる他なく、独特の過密な家並みが作られた。

その結果、保戸島は、軍艦島のようだとか、アマルフィの街並みのようだといった評価がされている。観光客向けの施設はほぼ皆無なため、旅人から秘境といわれることもある。入り組んだ魅惑の路地、気持ち良い海風、ゆったりと暮らす島民。とても素晴らしい島である。

四浦半島と保戸島をつなぐ架橋と、離島航路のこと

その保戸島では、かねてから架橋(橋をかける)の要望がある。そもそも、四浦半島(ようらはんとう)の突端である間元(まもと)から100m程度しか離れていない。かつては干潮時には歩いて渡ることができたそうだが、マグロ漁業の盛期に漁船の通行のために海底が掘削され、現在は、海流の速い間元海峡と呼ばれている。島民が富裕だったことから泥棒除けの意味もあったとのことだ。

昭和後半、車社会の到来により、主要交通手段は船から車に代わり、四浦半島から島への架橋を望む声が大きくなった。道路整備も進み、急病人の対応、船の利用料、荒天時の欠航など、車の利便性が相対的に高まったからだ。近年行われた島民投票では架橋への要望が多数であったようだが、建設コストの大きさから実現への目途は立っていない。

これには別の問題もある。保戸島と津久見市中心部は、現在、有限会社やま丸が運行する定期航路によって結ばれている。代替交通手段がないこと等を理由に、国の補助を受けている国庫補助航路である。架橋された場合は基本的に国庫補助は受けづらい。このため、航路と架橋の選択を迫られる可能性も高い。その場合、市中心部まで、現在は航路で25分であるが、バスの場合は、四浦半島を経由して約1時間(九州産業大学調べ)の道のりになる。

島民とよそ者が共に考えるプラットフォーム・保戸島わくわく会議の開催

津久見市は、島民自身が、この航路・架橋問題を含めた島の振興(島おこし)へ取り組むため、「島民とよそ者が共に考えるプラットフォーム」が必要と考えた。

企画にあたり、津久見市は、プロジェクトチームを結成した。メンバーは、観光担当、離島担当、観光協会、(事業費を折半している)県の担当者、(島居住の)地域おこし協力隊に加えて、航路専門家の若手大学教員で構成した、ほぼ「よそ者」チームである。大学教員を加えたのは、氏の人柄が島おこしにぴったりであったことも重要だが、市自体が当事者であるこの課題に取り組むにあたって、客観的視点が必要であると考えたからである。地域おこし協力隊は島出身者であるが、しばらく島外で仕事をしていたUターンである。私も観光協会の職員としてメンバーに加わった。

この「よそ者」プロジェクトチームは、島民の信頼の厚い、地域おこし協力隊と擦り合わせながら、以下のような方向性を共有した。

  • 島民の関心事項への客観的データを示し、共通の課題意識を作る
  • 島民の主体性に基づきながら、段階的に難しい課題に取り組む
  • 「よそ者」であることを活かす
  • 最後は、島民に決めてもらう
  • 楽しみながら取り組む、無理をしない
  • プロジェクトチームメンバー自身が、強い熱意を持って取り組む

基礎調査として、島の魅力や課題についての島民アンケートと、島内の空き家全件調査を行い、その報告を、「保戸島わくわく会議」とプラットフォームを意識した名称を付けた場を作って、島民に自由参加を呼び掛けた。

その結果、予想の三倍、60名以上が集まり、資料も茶菓子も座布団も足りず、苦情をいただくほどの盛況となった。20代の県担当者も追加資料や座布団を持って走り回ってくれた。

報告では、島の7割が空き家であることが納得感と衝撃を持って伝わり、島民アンケートでは、島民が(我々の想像以上に)島の暮らし(特に、食、安全安心、人間関係など)、自然(特に、海風や空気の良さ、風景など)に強い愛着を持っていること、島にもっと活気が欲しいと考えている人が多いことが伝えられた。

これらの結果報告への関心は高く、その後のワークショップは熱気を帯びた。そもそも、島内では家族や友人以外との交流-島のコミュニティが弱体化しつつある中で、今回のプロジェクトチームのような「島を想い、実際に動く気概のあるよそ者たち」による、しがらみのないワークショップは歓迎されたようである。島民からは、「こういう話がしたかった」といわれた。

保戸島わくわく会議の様子

まぐろかぶと汁の開発の様子

わくわく会議が生み出したイベント vicolo保戸島~めぐり逢い路地~

平均年齢70歳超えともいわれた「保戸島わくわく会議」は、その後も複数回開催され、誰からともなく、自分たちの自慢の総菜を販売するイベント「vicolo保戸島~めぐり逢い路地~」を開こうということとなった。vicoloはイタリア語で路地のことらしい。路地ばかりの島と、アマルフィのようだといわれることを組み合わせたタイトルである。

各々が自慢の総菜を持ち寄った試食会や、若手大学教員の提案から始まった保戸島ならではの「まぐろかぶと汁」開発(レシピは喧々諤々の議論で作られた)、保健所対応の指導などを通して、楽しみながらイベントの準備が進められた。ほとんどが女性だったのだが、遠巻きに見ていた男性陣も徐々に口を出すようになった。イベントロゴは得意なスタッフが手づくり、空色のオリジナルエプロンは、島おこし団体穂門ノ郷がいつもTシャツを作っている店で作った。観光協会も、島内スタンプラリー(フォトラリー)を企画した。

イベント当日は、船の欠航が心配されるほどの荒天だったにもかかわらず、二百名ほどの来島者があった。完全に油断していた島民たちは、カラになった容器を持って、料理を追加するために走り回った。

新名物「まぐろかぶと汁」は、全員の合意の下で、最高齢の女性が味を調えることにした。大変評判が良く何度も追加して作り続けた。実は「まぐろかぶと汁」の販売は赤字だった。高価格を設定すべきというプロジェクトチームメンバーと、もっと安くしないと売れないという島民の意見が割れ、結局安くしてしまったためだ。しかし、あっという間に売り切れる様子を見て、次回はもっと値段を上げてよいという声が大勢となったようだ。

イベント終了直後から、島民から、反省会と次回の企画を早くやろうという声が出た。とても楽しかったようで、島民は笑顔で船を見送った。島民主体の中に、プロジェクトスタッフも、島の「仲間」として受け入れられているような雰囲気が生まれつつあった。

イベントの様子

イベント後の見送り風景

新型コロナによる渡航自粛でも消えない種火

こうした前向きな状況の中で、新型コロナの感染拡大により、医療資源が限られていて高齢者ばかりの保戸島へは、渡航自体が難しくなった。保戸島わくわく会議も取組の中断を余儀なくされている。

加えて、有限会社やま丸は、船員確保の困難さ、経営者の高齢化、島民減少による利用料収入の減少等を理由として、航路運行からの撤退意向を示した。保戸島観光の名所であった、島唯一のまぐろ料理専門店も、新型コロナの影響で、実質休業せざるを得なくなった。状況は、時間の経過と共に困難になっているのが実情である。

しかし、動けない間も、プロジェクトチームは、新たにイベント用の法被をデザインし島民投票を行ったり、島民有志が「保戸島フォトコンテスト(昔の写真可)」を継続的に行ったり、軽トラ市に出店をしたり、遠隔診療の実証実験を行ったりと、新しい話題には事欠かない。つい先日はNHKの取材も入り芸能人が現地入りした。島内では、こうした「チャレンジ」に対して、面白いよね、いいね、という寛容で前向きな反応が増えてきているようである。

「外の力」をうまく使う島おこし

「よそ者」プロジェクトチームは、観光を1つの手掛かりとして、島民が主体的に島のことを考えて行動するプラットフォームを作り、目下最大の課題である航路・架橋の課題に、主体的に取り組める体制を作ることを目指した。

新型コロナの影響もあり、目指す姿には到達しているとはいえないが、島民の意識の変化が見えることや、プロジェクトチームが人事異動を繰り返しても、未だ高い意識と意欲を持ったまま継続されていることは、注目すべき成果である。

人口が減少し高齢化が進んだ離島において、島民だけで振興を図ることは極めて困難である。今回、津久見の事例では、「よそ者」プロジェクトチームが、埋もれていた意欲を引き出し、よそ者であるが故のしがらみのなさを活かして、島民と一緒に考えて動いたことが、島民、プロジェクトチームメンバーの双方に良い影響を与えたのではないかと考えている。

今後も、永く保戸島の挑戦を見続けていきたい。