“やまなし歴史の道”の観光活用を目指して [コラムvol.470]

世界遺産富士山、北岳、八ヶ岳などの雄大な景観や、温泉、ワイン、果樹などの特色ある観光資源に恵まれ、首都圏からのアクセスも容易な山梨県。コロナ禍においても、県が認証する「やまなしグリーン・ゾーン認証」など感染症対策への取組に熱心に取り組んでいる、魅力と安心を兼ね備えたデスティネーションである。
筆者は、山梨県が令和2年度から3年度にかけて実施した「やまなし歴史の道ツーリズム推進事業」に携わる貴重な機会を得た。今回はこの事業での取組を簡単に紹介したい。

「やまなし歴史の道ツーリズム推進事業」とは

「やまなし歴史の道」とは、山梨県内にある江戸時代以前の道のことである。「歴史の道」事業は文化庁が始めた取組であり、人々が古くから利用してきた「道」を「文物や人々の交流の舞台となり、我が国の歴史を理解する上で極めて大切な意味を持つ物であり、最も身近な文化財の一つ」だと意義付け、1978年より調査、保存整備、活用等を進めてきた。こうした国の取組を受け、山梨県でも『山梨県歴史の道調査報告書(全19集)』(1985-1991、山梨県教育委員会)を取りまとめ、『山梨県歴史の道ガイドブック』(1998、山梨県教育委員会)によって調査の成果をより広く公表している。
今回の事業では、「やまなし歴史の道」の観光活用を目指し、「甲州街道」「富士道(谷村路)」「秩父往還」「棒道」「みのぶ道」を対象として、資源調査、モデルコース設定、研修会、ファムトリップ・モニターツアー、プロモーション、大判マップや御朱印帳の作成、案内板の整備、ガイドアプリやノウハウ集の制作などを行った。

「やまなし歴史の道」特設コーナー:本事業の成果物は当財団「旅の図書館」にも展示している(2022/05時点)。
立ち寄った際にはぜひ手にとってご覧いただきたい

魅力を伝えるモデルコースを設定

今回取り上げた5道は県内の広範囲に延びており、14市町(注1)の観光部局、文化財部局、観光協会、事業者、研究者、県内外の有識者等の協力を得て検討を進めた。関係者の方々にお話を伺い、時には一緒に歩いていただきながら調査したところ、ひとことでは伝えきれないほど多面的な、各道の魅力が見えてきた。
たとえば、筆者が担当した棒道(北杜市)。甲斐源氏のその流れを汲む武田信玄が拓いた道と言い伝えられているほか、八ヶ岳南麓の村々の民衆たちが交易などのために行き来していたという。また、山梨の名門武士・甲斐源氏が力を蓄えた逸見(へみ)を通っている(2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する武田信義も甲斐源氏であり、棒道に近い韮崎市神山町の武田八幡宮で元服して「武田」という姓を名乗った)。
実際に歩いてみると、八ヶ岳と南アルプスを望み、甲府盆地の向こうに富士山が構える景観の迫力に、思わず圧倒された。そして、地元の方にお話を伺いながら、棒道沿線の山林や湧水、石仏や道祖神、城跡や神社仏閣を巡るうちに、八ヶ岳南麓の人々の営みが生き生きと伝わってきた。

  • (注1)甲府市、富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、韮崎市、北杜市、甲斐市、笛吹市、上野原市、甲州市、早川町、身延町、西桂町 ※地方公共団体コード順


富士山:棒道沿いの富蔵山公園前から撮影。
富士山と八ヶ岳の双方を望む山梨県西北部には、この2つの山が背比べをしたという伝承が残る
(負けた富士山が悔しがって八ヶ岳を叩いたところ、現在の高さになったという)


八達衛神(やちまた)の碑:江戸時代末期の道祖神。
裏面には「棒道は武田家が戦時に作らせた道」だと刻まれており、当時の人々の認識がうかがえる


三分一湧水(さんぶいちゆうすい):三分一湧水・女取湧水・八右衛門出口湧水とそこからのびる農業用水路の点検・清掃を
当番制で行う仕組が江戸時代から続いている(「長坂三ヶ区の札番・水番制度」県指定無形文化財)。
点検時に当番が札を入れかえ、点検済みであることを示す「札所」を各湧水の近くで見ることができる


棒道を歩く:今はカラマツに囲まれているが、かつては馬草などをとる草原が広がっていた。
道沿いにゴロゴロと転がる大岩は、八ヶ岳からの土石流「おんだし」の痕跡である

こうした多岐に及ぶ魅力をできるだけ余さず伝えるために、5道がそれぞれ残してきたストーリーをテーマに据え、合計28件のモデルコースを設定。ガイドアプリや5道のマップ等にその紹介を掲載した。ご協力いただいた関係者の皆さまに、この場を借りて心より御礼申し上げたい。

5つの道のマップと御朱印帳:5道のマップは、今後、県内の観光案内所などに設置予定なので、
もし見かけたらぜひこれを手に「やまなし歴史の道」をめぐってみてほしい

「やまなし歴史の道」の魅力を高めるには

検討の過程では様々な気付きがあった。筆者が主に担当した韮崎市、北杜市の取組の中から、特に印象に残った場面を紹介したい。

 

北杜市で実施した棒道のモニターツアーでは、長野県との県境付近から北杜市考古資料館まで歩き、沿線の石仏群などを中心に巡り歩いた(棒道の石仏探訪コース)。石造物を研究している北杜市職員の笹本さんが次のように語ると、ツアー参加者の目が輝いた。

「この道祖神は頭がとれてしまっていますね。なぜでしょうか。――おそらく、岩石中に含まれる水分が、八ヶ岳南麓の厳しい冬の間に何度も凍って膨張したのが原因で、細くなっている首のあたりからポキっと折れたのだと思います」

「この石仏、全体的に黒っぽいですが、表面の一部が緑色ですよね。これはどうしてだと思いますか?――苔ではありません。実は、石材の種類に原因があるのです。八ヶ岳の麓は安山岩、玄武岩質になっています。これらの火成岩に銅が含まれている場合、年月がたつと、表面に染み出してきてサビつき、青銅になるんです。だからこの石仏は緑色っぽくなっているんですよ。ちなみに同じ北杜市内でも、白州町の石造物は白っぽいです。甲斐駒ヶ岳の花崗岩を使っているからですね」

道祖神や石仏の解説では、一般に神仏の種類や像容などについて説明されることが多く、石材の種類や状態にまで踏み込んだ解説は少ない。さらに、石材の様子から地質、気候につなげることで、目の前の石造物と今まさに歩いている場所をつなぐストーリーが見えてくる。参加者らは引き込まれた様子で、熱心に石造物を観察していた。

棒道の石仏:西国三十三箇所、坂東三十三箇所の札所になぞらえた石仏群。
江戸時代末期、地域の人々が資金を出し合い、商人や旅人たちの道標として安置した。写真の石仏は表面が緑色に変色している

 

甲州街道・韮崎宿のモニターツアー(時代を越えて継承される町づくりの息吹・韮崎宿コース)では、韮崎市教育委員会の閏間さんが、次のように語ってくれた。

「この巨大な細長い岩は『七里岩』といいます。ここ、すごくゴツゴツしていますよね。――それは、八ヶ岳が崩れて流れてきた土砂でできている岩だからなんです。両側の塩川と釜無川に削られて、こんなふうに細長い形になったんですよ」

雲岸寺窟観音境内の通路:山梨県韮崎市から長野県蔦木市まで、約30kmにわたって横たわる巨大な“七里岩”。
雲岸寺窟観音の境内にある七里岩を彫り抜いた通路では、ゴツゴツとした砂礫の様子を観察することができる

「この姫宮神社がある舟山からは、七里岩の先端がよく見えますね。――七里岩と舟山の『先』が睨み合っている、すなわち『にらみさき』だから『韮崎』という地名なんだ、という説があります。でも、それでは争い事大好き!みたいな印象になってしまうので、『七里岩の細長い先端が、ニラの葉の先に似ているから』という由来の方が、地元の方に好まれています」

姫宮神社:境内でドーナツ形の石を見つけたら、ぜひ覗き込んでみてほしい。
晴れていれば穴の向こうに富士山が望める

「この道、ちょっと周囲より高く盛り上がっていませんか?――実はここ、江戸時代には堤防だったんです。あっち側にある釜無川が氾濫したとき、この堤防が韮崎宿を守っていたんですよ」

堤防跡:釜無川の氾濫から韮崎宿を守っていた。
写真は草地だが、一部は舗装道路になっており、住宅街に溶け込んでいる

「今歩いているこの歩道。建物がみんな、道に対して斜めに傾いていませんか?――これは、間口を狭くしつつ、奥行きをできるだけ深く確保することで、間口にかかる税金を押さえるため。あるいは、八ヶ岳から吹き下ろしてくる強く冷たい風、八ヶ岳おろしを防ぐため、などといわれています」

「このあたりには、リノベーションされたおしゃれな建物や、新しくできたお店が多くあります。もともと韮崎宿は、佐久往還と駿信往還に分岐する交通の要衝で、人やもの、情報が集まる拠点として非常に賑わっていました」

「見ていただくとわかるように、韮崎宿は、宿場という言葉から想像されるような古い街並みが残っている場所ではありません。でも、昔と同じように、今も人や物が集っているからこそ、街は更新され続けているともいえます。いわば、ここは “現役の宿場”なんです」

アメリカヤ:1967年に建てられた韮崎のランドマーク「アメリカヤ」が2018年にリニューアルオープン。
最上階や屋上からは韮崎の町並みや富士山、八ヶ岳などを一望できる。
長屋をリノベーションした「アメリカヤ横丁」が向かいにあり、レトロな雰囲気の中ではしご酒を楽しめる

周辺の地形や古くから残る地割などから当時の暮らしを想像させ、新しい街の様子を過去と結びつけると、昔も今も賑わう韮崎宿の姿が立ち上がってくる。参加者からは、こうした解説が高く評価されていた。

目の前にあるものから語り起こし、背景に踏み込み、土地とそこに住まう人々の関係性を解き明かして過去と現在をつなげていく立体的な解説は、その地域で調査研究を重ねてきた方々ならではだろう。「やまなし歴史の道」の魅力をさらに高めるには、このように地元の研究者やガイドの知見を活かすことが有効だと感じた。

視察やモニターツアーでいただいた解説のエッセンスは、ガイドアプリにも掲載している。また、「やまなし歴史の道」の解説のほか、研修会やファムトリップ、モニターツアー等で得た知見は、「やまなし歴史の道」の活用に資するよう、『やまなし歴史の道ツーリズムの手引き』に取りまとめた。詳細はこれらの制作物に譲ることとしたい。

おわりに

山梨県立博物館の森原さんは、次のように語っていた。

「山梨県の旧国名“甲斐(かひ)”の由来は、“交ひ”だと考えられています。交通・交流の“交”ですよね。山間の厳しい土地にあって、交流の基盤である“道”は、国の名前の起こりになるほど大切なものでした」

「甲斐は、東海道、東山道・中山道という、海沿いと山中の主要な幹線道路を縦につなぐ数少ない場所であるため、軍事戦略の要として武将らが取り合っていました」

「甲斐にとって“道”は重要なもの。だからこそ、『やまなし歴史の道』には、訪ねる価値のあるたくさんの見どころがあるのです」

今回紹介したほかにも、多くの魅力がある「やまなし歴史の道」。本事業をきっかけとして、「やまなし歴史の道」の活用がさらに進んでいけば嬉しく思う。