十代の頃、私は「宝塚歌劇」と「歌舞伎」を観ることにほとんどの情熱を費やしていた。
タカラヅカには現実から逃避できる「夢」を求めて通いつめ、歌舞伎へは同じ現実離れはしていても、さらに伝統の重み、日本古来の香りのようなものを味わいたくて、一興業に何度も通ったものだ。
片や禁男の園、こなた女人禁制・・。うーん、私の趣味は偏っていたのかなぁ。でも、タカラヅカは云うなればウイスキーボンボンの甘さ、歌舞伎は抹茶と和菓子をいただくようなちょっと大人になった気分で、その味わいには大いに満足していた。
歌舞伎座に通いつめたのは高校生の頃である。時はまさに團十郎(十一代)になる前の海老蔵の「海老サマ」ブームの真っ只中でもあった。お金がないから大概三階席。時には幕見席(立見席)で観るのだが、ここはいわゆる「ツウ」が多いこともあって、その中に身を置くと、こっちまでいっぱしの歌舞伎ツウになった気がしてくるのが嬉しいのだ。半分はそんな雰囲気に惹かれ、陶酔していたところがある。「白浪五人男」や、「三人吉三」、「切られ与三」とかの名せりふを一生懸命覚えたりして、歌舞伎にハマっている自分にも陶酔していた。
それから幾星霜。一世代も二世代も代替わりしても、伝統芸能の「血」が脈々とつながっていることに改めて感激する。
出雲の阿国に端を発する歌舞伎四〇〇年の歴史の重さの中で「一代」を守り、つないでいくためにどれだけの人の力と、どれほどの心血が注がれていることだろう。幼少の頃から厳しい修行ともいえる稽古を積み、努力と精進を重ねる役者さんたちはもちろんのこと、長唄、清元の音楽から、床山、衣装、大道具……みんなみんな「特殊技能」である。どの道も一日にして成らず、である。
何事によらず、一日で成ってしまうようなものは「芸」とは云わないしプロでもない。一日で成れるのは観客くらいかなぁ。それに観客がいなければどんなに素晴らしい「芸」でも光ることができない。となると、一番容易く、一番えらいのは観客か? それなら私でもできそうだ。
先日、何十年振りかで幕見席を買いに行ったのだが、どの幕も満席で止むなくあきらめた。悔しかったけれど、歌舞伎の伝統の灯は確実に明日へ向かって輝いていることを実感して弾む心で無駄足を喜んだのであった。
(つぼうち みきこ)