観光地づくりオーラルヒストリー<第7回>猪爪 範子氏  2.「観光」における取り組み(2)

2016.03.08
●地域総合研究所を設立


 2つの助成金による仕事を抱えて東京に戻り、地域振興を支える東京の拠点を作ろうということで、1980(昭和55)年に株式会社シーエスケイ(地域総合研究所)を設立しました。最初の数年は地域総合計画研究所でしたが、長いので、途中で地域総合研究所に短縮しました。集まったのはそれぞれ専門分野が異なる4人で、私と森戸さん、清成さん、斎藤さんの4人。そこに、いろいろな方たちが出資してくださいました。湯布院の清水喜徳郎町長、中谷健太郎さん、隠岐の布施村の村長さんも。

 森戸さんは、とても視野が広く、頭のよい人だと思います。地域の問題はひとつの専門分野だけでは解決できない、幅広い知見からのアプローチが欠かせません。彼の役割というかポジションは、複雑にからんだ問題の端緒を見つけてそこに穴をあけてダイナマイトを仕掛け、爆破したことでバラバラに細かくなった問題のピースを、いろいろな分野の専門家たちが拾って自身のカテゴリーのなかで分析し理論を組み立てる。それらを地域にとって有用なものにするには、専門ごとに分断された研究成果をもう一度組み立て直さなくては生かせません。それができる人は、そう多くはいないと思います。一つのカテゴリーにはまらず、複合的にものを見、再構築できる能力者がいなければ、外部の知見は内部化しないのです。

 地域総合研究所のメンバーは、大学で教えるなど、他に仕事を持っていました。それもあって、専従で給料をもらうという関係ではなく、自分の給料は自分で稼ぐ。事務所には本を置いたり、電話番をしてもらうためというつもりでした。フリーランスの集合体みたいな感じでね。

 でも世の中って面白い。旗を挙げるとその旗が一人歩きするんですよ。地域総合研究所では、地域におけるさまざまな課題を市民の目線で解題するという場面をたくさん与えられ、だんだんと、コンサル事務所のような形に推移してゆきました。

表6 地域総合研究所の「研究所が目指すもの」
表1  地域総合研究所の「研究所が目指すもの」

出典:猪爪氏提供資料より



●愛媛県内子町とのつきあい


 内子とは長い付き合いをしました。長期に町長職にあった河内さんが東京農大の1年先輩でしたし、隣接する五十崎町には酒造会社を営む亀岡徹さんがいました。学生の頃には知りませんでしたが、内子の計画に関わるうちに農業後継者と名乗っていた河内さんが町長になり、亀岡さんが商工会会長になりました。学生時代からお二人は親友で、同じ東京農大に学び、絵画や登山などのクラブ活動も一緒だったとか。

 最初の糸口は、愛媛県松山市の観光計画を、日観協から受けたことにあります。当時の道後温泉には、ヤクザの抗争騒ぎが多発し、客足が大きく落ち込んでいました。かつては、伊予鉄の株を買い、株主優待パスを持って電車に乗り、道後温泉の朝湯に行く。これが松山市民のステータスと言われていました。大型旅館が林立し、集客は専門の旅行業者が担い、風俗営業がたくさん立地するようになって、かつての市民目線はなくなってしまった。それを回復しよう。住む人の目線でもう一度見直そうということで、この時に、初めて「住んでよく、訪ねてよい」というフレーズを、計画書のなかで使ったような気がします。(『市民がつくる観光文化都市-松山市観光診断調査-』松山市、昭和51年度)。

図7 用語「まちづくりと観光」「市民型観光」の使用図7 用語「まちづくりと観光」「市民型観光」の使用
出典:猪爪範子「まちづくりと「観光」●愛媛県松山市」
『ジュリスト増刊総合特集9<全国まちづくり集覧>』、有斐閣、1977に加筆(赤枠)


 1977(昭和52)年1月には、道後温泉本館の2階の和室を借りて松山市主催のシンポジウムを開きました。地域社会研究会を支えてくださっていた都市計画の大御所高山英華さん、木原啓吉さん(朝日新聞記者、後に公益社団法人日本ナショナル・トラスト協会名誉会長)や清成さんなど、いろいろな分野の先生が参加してくださいました。その準備作業中に、たまたま見ていた地元新聞に、内子が町並み保存に向けて動き始めているという、小さな記事を見つけました。シンポジウムのエクスカーションとして、陶芸の砥部町、それに内子まで足を延ばし、宿泊先に大洲市を選びました。内子では、町並み保存を行政の立場で推進し、孤軍奮戦していた岡田文淑さんが勘を働かせてくれて、見ず知らずの私たち一行を受け入れてくださり、いい出会いとなりました。

 用意して下さっていた昼食が、それは素晴らしかったのです。有馬温泉で修行して帰ったばかりの息子さんがいる旅館で、実に洗練された美味しいお料理に、誰もがびっくりでした。今でいうところの、地産地消、オーガニック、スローフードなどがぴったりとはまっていて。余談ですが、地域社会研究会の事務を仕切っていた女性が、その後いろいろな結果を経て、河内さんの後に町長職に就いた役場職員の方と結婚しました。江戸っ子の一人娘さんでした。高山先生はことあるごとに、「高くついた昼飯だったんじゃないかい」と、嬉しそうにおっしゃっていました。

 その初訪問の時、岡田さんからまちなみ保存をしたいけど、どうすればいいかわからない、県庁も動かないという話を聞き、木原さんが文化庁に直接かけあって、町並み保存の地区指定が実現しました。その岡田さんが企画課長に就任し、観光も担当するようになり、私たちは岡田さんから依頼を受けて内子町の観光計画を作りました。

 この観光計画は長生きしました。岡田さんの後任の女性企画課長が「困った時にはこの計画書を見る。そうすると、何か書いてあるから」っておっしゃってくださって。いわばバイブルだと。こちらは、「え、そうなの」という感じでしたが、たくさんレポートを作ってきたなかでも、めったにあることではないですね。日常業務で使ってもらえるような、指針となるようなレポート。外部の専門家としての立ち位置を実感できた経過でした。

図8 内子の『光』を『観』なおそう 内子町観光振興計画書 表紙図8 内子の『光』を『観』なおそう 内子町観光振興計画書 表紙
出典:地域総合計画研究所編、内子町、昭58(1981)年

図9 内子町観光振興計画書1ページ「まちづくり型観光地」図9 内子町観光振興計画書1ページ「まちづくり型観光地」
出典:地域総合計画研究所編、内子町、1981(昭和58)年


●原宿にいた「もう一人の中谷健太郎」


 東京の表参道の商店街振興組合は昔「原宿シャンゼリゼ会」という名前で(現原宿表参道欅会)した。ここにも振興計画があって、中心的な推進者である、当時の組合長さんに会いました。私の住居が原宿駅最寄りにあることと、東京農大の授業に、臨場感ある東京の現場を教材にして、学生さんたちと議論したかったからでもあります。組合長さんの熱意と実力によって、この振興組合は数億の事業予算を持ち、沿道修景、ケヤキ並木の管理、地区計画導入、イベント企画実施、街路の清掃など、広範囲な公共的業務を担っていました。エリア全体の価値を上げる活動をすることで、集合体としての街がよくなり、ひいては個別の事業活動も活性化する。由布院での展開と、なんとよく似ていることかと、思いました。

 当時の組合長さんであった団塊の世代と推測する隅田さんは、個人で費用負担してリタイアした信用金庫の支店長さんを雇い、振興組合の専従スタッフとして働いてもらっていました。地元の方々が身銭を切って街区を整備し、賑わいを生み出すことで、個々のビルや店舗の価値が上がり、個別の事業活動も活性化する。きれいなユニフォームを着て表参道を掃除する人達が今もいますが、この発想も往時の振興計画の中から出ているようです。

 表参道でガソリンスタンドを経営するご両親のもとに生まれた隅田さんは、場所を移して家業であるガソリンスタンドを経営するほか、乗馬クラブや喫茶店、レストランなど、自分がやりたいことをビジネスにしているような感じの広がりでした。エコロジーという言葉が流行するずっと前に千葉に農場を買い、経営しているレストランの残滓を運んで、そこでつくったたい肥で野菜を栽培して、それを東京に戻してレストランの食材として活用することにもトライ。シーズンになると、レストランの店頭が小さな八百屋になって、そういう店舗が少ない原宿界隈なので、私は大いに利用させてもらっています。

 「エネルギー屋だから、化石燃料が枯渇することは目に見えている」と、所有するビルには早くから太陽光パネルや風力発電の装置がありました。市民目線の水平思考とそれを実現する力が、世界中から人を集める表参道の賑わいを作っているわけで、学生さんたちには、この界隈を歩いてもらいながら、賑わう装置を見つけ出しレポートしてもらいました。由布院の中谷さんとの交流があるのかしらと思うくらいに、根幹の考え方が似ていました。学生さんたちからの指摘を並べて見るにつけても、地域を総合的に捉えて管理していくことこそが、持続性を高める力になると。これこそが、観光をも包括した地域づくりの秘訣ではないかと思うのです。

 分野を切らずに横断して結んだスタンスは、縦割りでしか動けない行政のあい路を掻い潜り、地域全体をカバーします。由布院と原宿。全く異なる地域の振興方策の考え方が同じことに興奮しました。

図10 『原宿1993』商店街振興組合 原宿シャンゼリゼ会図10 『原宿1993』商店街振興組合 原宿シャンゼリゼ会


●大学での非常勤講師、博士論文、奨励賞へ


 地域総合研究所を設立してからは、設立経緯と活動の特色をベースに、多様な地域、テーマ、クライアントと出会いました。それが造園大賞受賞、自治体学会公募懸賞論文一席受賞につながり、国や地方自治体の審議会などへの参加機会が増えました。その流れで、関東学院大学と母校の東京農大で非常勤講師として教壇に立つようになりました。関東学院大学工学部2部で計画学総論、建築学科1部で景観論を、東京農大で特論、環境計画基礎、観光レクレーション計画論を担当し、その後、東京農大での観光レクレーション計画論に絞って担当しました。

 東京農大で観光レクリエーション計画論を頼まれた時、最初は何を話していいかわかりませんでした。サイトや施設の計画なら、前提が固定しているから伝えやすいのですが、観光レク計画となると、基準が定かではありません。計画を実施する主体も、一定ではありません。折々の社会状況によって、根幹となる部分まで変わるし、対応する広がりも予想外に拡大していきます。例えば、リゾート計画などは、その最たるものです。国をあげて推進したリゾート開発の促進が、10年持ちませんでした。地上げに翻弄された地域は、目標を達成することなく、残骸を押し付けられて疲弊しました。

 ですから、時代を越え、多様な担い手を鼓舞する計画には、計画担当者に時代を越える自分自身の座標軸のようなものが欠かせないと思います。そうでないと、計画が、地域を殺す凶器になってしまいます。私が学生さんに伝えたかったことは、対象となる地域の持続性を担保するようなスタンス。そのための、自分自身の立ち位置を明解に持つべきということでした。いろんな現場に行って、ボランティアでもなんでもいいからそこで関わりを持ち、自分自身でどういう部分がよく、何をすれば地域が持続的に発展できるか。そのことを見極める力をつけるべきということにつきると。

 でも、学生さんは、私が実感を持って言うことに対しては起きて聞いているけど、調べてきたこと、必ずしも自分のものになってないことを言うと、みんな寝るんです(笑)。だから、表参道のような、フィールドを共有できる場所を特定して、授業内容を構築しました。ただ、ぶらぶら歩くより、賑わう街の装置のようなもの、それを可能にする体制などを探る方が面白い。こういう授業は、寝る人がいませんでしたね。

 由布院など地域づくりの活動経過は、論文「農村における観光地化の過程の研究」としてまとめ、東京農大に提出し、学術博士を授けました。最初は農学でしたが、観光地化によって農村が保持できたというストーリーじゃないと許容できないということで。由布院の場合、大規模なリゾート開発は、農政による大規模な土地開発の失敗を糊塗するかたちで入ってきている実態があるのですがね。でも、その論文に対して、日本都市計画学会から「論文奨励賞」をいただきました。60年代からの由布院の変化の要因を分析したこの論文は、いままた、激変する地域に対して有用であると、密かに自負しています。ただ、私の紆余曲折が理由で、いい形で由布院の方々に結果を戻していないことが心残りです。

 

第7回・・・ 都市・農村計画 猪爪 範子氏

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