観光地づくりオーラルヒストリー<第6回>小久保 恵三氏  2.「観光」における取り組み

2015.03.11

(1) 観光分野で何をやってきたのか

 私は29年間、この仕事をしてきましたが、その中でいくつかターニングポイントになる仕事にめぐり合いました。仕事だけでなく、印象的なクライアントや刺激を受ける計画仲間とも出会います。そのような機会にどれだけ出会うかが重要だと実感しています。それによって自分自身の成長も毎年平均的ではなく、ある時、突然大きく成長することがありました。

 ローテーションやチーム体制の状況などの偶然、社会の動向やブームにも左右されますが、少なくとも「自分は何をやりたいか、何が得意か」というアピールと実績を積んで常に準備しておくと、幸運に応えられることを経験から実感しています。成功も失敗も含めていくつかの例をお話ししたいと思います。

●フィールドワークの大切さ/国有林から始まった観光計画調査事業

 フィールドワークはすべての観光計画案件で重要な役割を果たしました。その大切さを最初に感じたのは、1974~75(昭和49~50)年の総合森林レクリエーションの仕事です。林野庁の外郭団体である林野弘済会という機関を通じて発注されました。

 私の入社数年後、世の中では様々な官の事業にメスが入り出しました。膨大な赤字を抱える国有林野事業もそのひとつです。国の事業として「総合森林レクリエーション構想」策定の機運が高まり、全国の営林局から財団に調査計画の発注が相次ぎました。財団とつきあいの深いラック計画研究所も同様で、研究員の交流なども行いながら仕事をしました。

この一連の調査計画事業で学んだのは「とにかくフィールドに出る」ということです。国有林なので山の中を一週間くらいかけて林班図を抱え、藪漕ぎすることが何度もありました。溝尾さんには5万分の1の地図の折りたたみ方、「階段は1段飛ばしが常識」とたたき込まれ、「とにかく歩け、そのためには靴が大事」とも言われました。

 鈴木先生はこうおっしゃいました。「土木屋はまずは計算機を持つ、建築屋はとにかく製図台の上で図面を広げる、さて造園屋は何をする? 外へ出てタバコを一服して周りを観察することから始める。造園屋が使う石や岩や樹木は色も違えば表裏もあり、一つとして同じ素材はない。それをどう組み合わせて美しき心地良い空間を作るかが問われる。だからまず外へ出て観察しなさい」。

 一つずつ異なる材料の個性をちゃんと見なさいという教えは、地域を見る場合にもあてはまり、観光計画にとって大事な考え方だと思いました。マーケットについても同様で、デスクの前で座って考えているのではなく、外へ出てお客さんの動きを観察することが必要だと思います。

 じっくり地域を観察するには、何度も地域を訪れる必要がありますが、当時はそれが許されていた時代で、コストもあまり意識せずに「行って来なさい」と言われ、今思うと幸せだなと思います。

 総合森林レクリエーションの仕事をしていた時は、メッシュアナリシスという手法を使いました。それまではフリーでいろんな図面を書いていましたが、広大なエリアにはメッシュアナリシスが適していると思いましたね。

●ニセコの勤労者休暇村

 ニセコの勤労者休暇村も思い出深い案件です。クライアントは国労共済という労働団体ですが、新幹線の北海道誘致に合わせ、倶知安などの地元の意向をもとに室蘭本線ではなく函館本線を選択させたいということで、布石の一つとして国鉄の休暇村を地元に作ろうという政治的思惑の強い案件でした。

 若い頃はそういう背景はわかりませんでしたが、こういった調査計画の受託営業は殆ど原さんひとりでこなしていました。当時はコンペもなく、営業セクションもなく、「仕事の成果が次の受託につながる唯一の方策」という考えでやっていました。

思い起こせば、官民問わず政治的色合いの強い受託事業も少なくありませんでした。提案の結果や方向性があらかじめ決まっているものもあり、マーケットのニーズをどう見るか、どういう市場性があるかなどはあまり重視していませんでしたね。今思うと反省すべき点もありますが、当時、ニーズは掘り起こせば無尽蔵に思われ、計画の魅力度がすべてを解決するという風土があったように思います。

●山形県

 フィールドワークという意味では、1985(昭和60)年に行った山形県の観光基本計画調査(図1)も自分にとって重要な役割を果たした仕事です。

 山形県からは1973(昭和48)年に初めて総合観光基本計画構想の委託を受け、観光計画室の総力で取り組んだものの、月山の自然保護の問題が県内で議論を呼び、「お蔵入り」になった経緯がありました。

図1 山形県観光基本計画図1 山形県観光基本計画 (山形県)

 その12年後、「改めて県全域の観光計画をとりまとめてほしい」と再び山形県から要望がありました。観光課の若い担当者が非常に熱意のある人で「従来の県観光基本計画はお題目の垂れ流し。我々のプランは今までの計画とは異なり、具体的提案を念頭に置こう」と主張し、我々も意気投合しました。クライアントとつきあう中で、こうした熱意ある若者と遭遇する経験が時々ありますが、あの時ほど熱心に議論したことは珍しいと思います。

 池辺さん、梅川さんなどと一緒に全県47市町村すべてを回ってヒアリングを行い、当時県庁舎横にあった「馬小屋」と称する小さなプレハブ会議室にこもって作業しました。

 こうしてチームで全力を挙げて取り組んだのですが、最終段階で観光課の課長によってすべてカットされることになりました。「県が具体策を提案することは市町村の領域を侵す。市町村に過大な期待を持たせることは避けるべく、方針のみを示せ」ということで、無難なまとめ方を余儀なくされました。

 鈴木先生が以前こうおっしゃっていたことを思い出しました。「国は漬け物石、白菜は市町村、県は石と白菜の間のうすいフタという関係だな」。言い得て妙だと感じました。県のポジションの意味合いや役割に疑問を抱き始めたのはその頃からのことです。

 この案件以来、いくつかの山形県の調査に従事することになり、山形交通の柏倉社長と懇意になるきっかけにもなりました。同氏は県観光界の大ボスで、知事をも動かす存在でした。計画策定の責任者という立場から、彼との関係に一線を画すことは忘れませんでしたが、地域の実情を把握する上ではありがたい存在でした。

 しかしある時、山形交通直営の蔵王スキー場の拡張計画の話が出た時、山形市が反対をし、我々は板挟みになってしまいました。計画中止を進言したところ、柏倉氏と議論となり、その後疎遠になってしまいました。誤解が解けないまま、柏倉さんは亡くなられてしまいましたが、計画通り拡張していたら、今はお荷物になっていたのではないかと思います。

●沖縄県との関係

 財団で過ごした29年の間で、最も深く関わってきたのは沖縄です。きっかけは1977(昭和52)年にスタートした沖縄開発庁沖縄総合事務局の委託による「離島振興のための観光開発調査」です。八重山諸島、宮古諸島や本島周辺と3年間続けて調査を行い、南北大東島、渡名喜島、粟国島を除いてすべての離島を回りました。

 以来、総合事務局から信頼されて仕事をいただくようになり、その後は沖縄県の調査、海洋博覧会記念公園の利用調査、美ら海水族館のリニューアルなどさまざまな調査計画で15年以上のつきあいが続きました。沖縄県離島振興特別措置法の10年おきのエバリュエーションレポートの観光部門も担当しました。

 ちょっと難儀したのは、1996(平成4)年の美ら海水族館リニューアル計画です。ハードは別の会社が担当し、財団はソフトを担当しましたが、情報交換などはせず個々に動いていました。バックヤードのコスト計算などが難しかったですね。魚は減価償却5年で計算するとか、ジュゴンのエサ代を計算するのにキャベツがいくつ必要かなど、いろんな事例を調べました。今非常に人気を博している施設なので、一定の貢献はできたと思います。

 沖縄の調査成果としてどれか挙げろと言われれば、1986(昭和61)年に沖縄の将来とハワイの比較研究をまとめた「沖縄における国際リゾート観光振興基礎調査」(図2)があります。コンサルタントへの委託調査にしては、比較的研究色が強いものとなりました。

 沖縄とハワイは似ていると言われたりしましたが、分析してみたら大きく異なることがわかり、報告書の骨子は「決してハワイとなど比較できるものではない、自然条件も市場条件も違いすぎる。別のシナリオを探すべき」というものでした。日本が脱亜入欧でなくもっとアジア回帰を進め、アジア南部に巨大な観光市場が形成されていれば、東西の巨大市場に支えられたハワイと対峙できたのに、という内容です。ちょっと否定的な要素もありましたが、当時の沖縄県観光開発財団の理事長に「よくできている」という評価をいただきました。近年はタイやインドネシアなどの経済成長により、日本もアジア回帰の傾向が生まれつつあるので、今後に期待しています。

図2 沖縄における国際リゾート観光振興基礎調査、図2 沖縄における国際リゾート観光振興基礎調査、
昭和61年度、沖縄開発庁 沖縄総合事務局 沖縄県合同委託調査、
昭和62年3月、財団法人日本交通公社

 1983(昭和58)年に行った竹富島の観光開発基本計画策定のための調査では、コンサルタントとしての限界を味わうことになりました。

 町の委託事業でしたが、背後にいたのは西武都市開発(後の西洋環境開発)です。セゾン系のディベロッパーで、地中海クラブの日本側カウンターパートでした。西表島でリゾート開発が可能かを検討することが目的でしたが、原さんとしてはこういうことは官を巻き込むことが大事ということで動かれて、発注者を町にする形になりました。

 最終的に地中海クラブは石垣島に作られましたが、決定するまでは本部の嵐山、慶良間、読谷、部瀬名、西表島の月ケ浜と沖縄のあちらこちらを探し回りました。担当は故寺沢氏で、私が案内役を務めました。従来の純粋なプランナーというより、開発行為のステージに組み込まれた印象でしたね。寺沢氏からは「うちの会社に来ないか」と誘われたこともありました。確かに「これが開発ビジネスか。プランナーと違うおもしろさもあるな」とは感じましたが本籍を移す気にはなりませんでした。

ただし、困惑したのは町の要望とわれわれの提案内容に大きな乖離が生じたことです。町としては「ヤマネコよりも人だ」という思いで「一週道路やロープウェイの導入」を強く主張されたのです。できるだけクライアントの要望に従うというのは当然ですが、譲れない一線もありました。結局提案は押し通しましたが、割り切れない思いが残ったのを思い出します。

●社会的な動きにリンクした受託案件

 1994(平成6)年にコンベンション法が制定される少し前、運輸省(当時)から「コンベンションとは何か、どういう体制を整えていくべきか」という相談を受けました。これが、1987(昭和62)年から3年継続の大型調査「国際コンベンション振興システム開発調査」につながりました。今のMICEのさきがけであり、この後、全国でコンベンションビューローが産声を上げることになります。

 この調査は運輸省からの直接受託ではなく、JNTOからの再委託でした。これをきっかけにコンベンションの知識やノウハウを得ることができ、その後の数年間に渡って各地からコンベンション関係の仕事が相次いで舞い込みました。

 中でも記憶に残るのは沖縄県からの依頼です。建設中の沖縄県コンベンションセンターの管理運営計画で、従来のようなハード系の計画でなかったので、期待にそえるアウトプットができるか不安はありましたが、原さんの「見ればわかるし、やればできる」という楽観的な一言で取り組むことにしました。

 全国を回って事例収集していくつかのシミュレーションを行い、成果物としては評価をいただけることになりました。そのときの県の担当者は後に万国津梁館の館長を務めた方ですが、長いつきあいをすることになりました。その成果は青森市や福島県などの調査につながり、また都市の観光計画におけるMICEの可能性を検討する手法を獲得することになりました。

 国が何か音頭を取り始めるといっせいに全国の市町村が群がる、というのは我が国の悪い癖ですが、その時々のブームというのは確かにあります。林野庁の活用やスキー場の開発、あるいは温泉の再開発などですね。この時はコンベンションブームという時流にうまくのったと言えますし、以降は都市の観光計画を考える時、コンベンションは避けて通れないテーマになりました。

 原さんなどは常にアンテナを張っていましたが、世の中にはそうした波があるので、それをどうつかむかもプランナーにとっては大事な話ではないかと思います。

●国際関係部門への挑戦

 1985(昭和60)年から2年間、財団OBの永松紀義さんから誘いを受けて国際開発センター(IDCJ)へ出向しました。6省庁の認可による国策財団で、公正な立場で海外技術協力案件の調査に取り組む団体です。世界銀行をはじめとした内外の研究機関から優秀なスタッフが集結していました。

 永松さんはIDCJで、主に発展途上国の交通計画策定に携わっていました。政府開発援助では観光部門の協力というのは本来お呼びではない分野でした。しかし、手早く外貨が稼げるので発展途上国からのリクエストは多く、地域開発という形で対応していたため、今後もこうしたニーズが増えると見た永松さんから「財団もそろそろ海外協力に関わったらどうか、これからはそういう仕事が増えるだろう」と言われ、新たな分野の開拓ということで取り組むことになりました。

 私は英語ができないので大丈夫かなと思ったのですが、いろんなところに行く機会もあるし面白そうだと思ってお受けし、永松さんのもとでいくつかの調査団に加わることになりました。こういう海外関係機関に出向したのは、財団では私が初めてだったと思います。

●運輸経済基礎調査

 最初に私が担当した仕事は、運輸省国際課の発注による運輸経済基礎調査でした。2年間行われ、調査対象国は1985(昭和60)年度がパキスタンとヨルダン、1986(昭和61)年度がエジプトとナイジェリアでした。これら4カ国を回り、多くのカルチャーショックを受けました。

 調査は発展途上国を毎年2カ国ずつ選定して、運輸部門を対象に日本がどういう分野にてこ入れをすれば効果的にその国の発展に貢献できるかという案件を見つけることが目的です。いいプロジェクトが見つかれば円借款や輸出入銀行からお金を貸し、現地でプロジェクトを興すと。そのために、いかに有望なプロジェクトを探し出すかという調査です。

 対象は航空、鉄道、道路の各部門が中心でしたが、観光についてもできるだけ取り上げていくという基本方針でした。パキスタンの調査では鉄道部門の電化プロジェクトに日本の協力が効果的ではないか、という声もありましたが、結論としては国全体の総合交通ネットワーク整備計画の策定という基本的な案件を推挙するということになりました。

 IDCJとしては、提案した協力案件の実施も継続的に担いたいという希望がありましたが、これは必ずしも簡単に受注できるものではなく、多くのコンサルタントを含めて競争入札となっていました。

<注釈>
*当時、海外でのコンサルティング業務を行っている法人は約600社、個人でJICAに登録している専門家が140人程度。そのうち、実際に受注活動を行っているのは100法人程度といわれている。
 海外の調査案件に関わる有力コンサルタントは「日本工営」、「PCI」、「セントラル」、「八千代エンジニアリング」、「パスコ」などだったが、観光部門の大部分は日本工営、PCIが受注していたと思われる。
 2001、2002(平成13、14)年あたりの海外コンサルティングの市場規模推計は約1,000億円で、分野別では「運輸交通」が26%、「電力エネルギー」が15%、「水資源開発」が15%、「農林水産」10%。「商業・観光」はわずか2%で20億円程度に過ぎなかった。

●海南島総合開発調査

 1987(昭和62)年、IDCJから財団に戻ると、中国南部にある海南島へ私を派遣してほしいという依頼がありました。3ヶ月くらい現地に行きました。この仕事は私にとって一番大きな経験となりました。

 発注者は国際協力事業団(JICA・現国際協力機構)です。JICAの任務は大まかにいって技術協力、経済協力は海外経済協力基金(当時)の担当でした。開発調査というのは円借款などの経済協力案件に結びつける前のスタートラインにあたる調査です。今回は日本政府が中国政府の要請に応じ、当時開発が遅れていた海南島の総合開発計画を作るために調査するということでした(図3,4)。

図3 中華人民共和国 海南島 総合開発計画調査、
図3 中華人民共和国 海南島 総合開発計画調査、
1988年5月、日本国際協力事業団

図4 牙龍湾計画図 現地公司作成済みのもの(小久保氏提供)図4 牙龍湾計画図 現地公司作成済みのもの(小久保氏提供)

 調査全体を統括するコーディネーターはIDCJの中堅研究員が務めました。仕事量からすれば兼務不可能。ほぼ一年中拘束され、一年の1/2~2/3は現地駐在となります。

 その下に各分野の専門家が配され、最大時は20名程度いました。エネルギーや都市開発、農業、漁業、鉄道、道路、上下水などに分かれ、2年かけて計画をまとめていくという形です。中国側の要望もあってその1つに「観光」が入れられ、私が担当することになりました。

 現地では長期にわたる調査のため、ホテルをほぼ貸し切り状態。職住一致の環境で、良い意味でも悪い意味でも濃密な人間関係が形成されました。幸い海南島の滞在ホテルは低層で、庭が大きく、真中に会議室や食堂があって全体が大きな別荘のような造りだったので、仕事環境はゆったりしていました。調査の元請けとなると、こうした現地での生活基盤の構築という業務があり、想像以上に苦労すると実感しました。

 調査は各分野それぞれに中国側のカウンターパートがつき、建前は共同作業で進められました。実質的には日本側の作業内容を相互に確認しながら進めていく形です(写真2)。

 中国側も北京の国土計画委員会という元締めと広東省、海南政府といった地元政府とでは微妙に思惑の違いがあります。その調整がコーディネーターの役目ですが、相手国の役所の意識落差、組織の関係、人間関係や気質の違いなどまで把握する必要があります。中国側でやっとOKをもらっても、日本の作業管理委員会がダメと言えばまた焼き直しということで、こういう調査のコーディネーターはとてもできないと思いましたね。この計画中に海南県が省に昇格したため、全面的な計画条件の変更や広東省をなだめるといった予定外の作業もありました。

 私の担当する観光部門についたカウンターパートは25歳くらいの現地旅行会社の社員一人だけでした。観光についても専門家もいなければデータもないので、まさにゼロからのスタートでした。本来なら道路や鉄道などの担当者と打ち合わせが必要なのですが、完全な縦割りだったのでそこまでできませんでしたね。

写真2 海難行政区とのミーティング(小久保氏提供)写真2 海難行政区とのミーティング(小久保氏提供)

 現地調査の基礎となるのが地図です。しかし、苦労したのが軍事上の理由で正確な地図が手に入らなかったことです。肝心なところが消してあったりするんですね。イギリス海軍が作成した地図があることがわかって、わざわざ取り寄せたりしました。

 海南島は現地調査に3週間かけましたが、九州くらいの大きさがあったのでかなりの強行軍でした。観光資源といっても、自分たちの狭い市町村の中はわかるけど、隣のことは全然知らない。全島を俯瞰してこういうのがあるというのは誰も考えていない状態でした。地元の人しか知らないという場所を一つ一つ見て回りましたね(写真3)。私がそうやって回ったということが、地元の新聞に載ったりしました。

写真3 現地視察-人力での工事-(小久保氏提供)写真3 現地視察-人力での工事-(小久保氏提供)

 当時、海南島にはエアコンのあるホテルが450室くらいしかなく、大都市は海口と三亜の2カ所で三亜は比較的開かれていましたが、招待所という共産党の人たちが泊まる宿泊施設があるくらいで外国人が泊まれるようなホテルはありませんでした。

 各都市がうちはホテルを何軒作るとレポートを出してくるのですが、それを一つ一つ精査して、どれだけ具体的な話なのか、投資者は誰なのかといったことをチェックする仕事もありました。

  海南島政府に対しては、日本の観光計画の黎明期に策定された「東北地方の観光計画」(日本観光協会)の観光行動圏設定の技法を使い、一番有望な資源をベースにしてそこから1日行動圏みたいなのを作っていくという方法を使えばいいのではと提案を作りました。

 彼らにとっては見るもの、聞くもの、初めてのことばかりで、作業途中のワーキングペーパーをわざわざ印刷して配ったほど新鮮だったようです。基本用語も初めてのものばかりで、一つ一つ教える勉強会みたいな感じでしたが、逆にそれが評価を得た形になりました。

 農業や漁業などの部門は既に現地に研究所のような機関も存在し、一言ある人もいたりしましたが、観光の分野は本当に何もなかったので、ゼロからのスタートということでやり甲斐がありました。

 海南島の三亜にある牙龍湾(現・亜龍湾)は、私が行った時は何もない海岸と原野でした(写真4,5)が、今や高級ホテルが林立するビーチリゾートに変貌しました。私は当初、香港の富裕層を狙い、次に外国人をターゲットにしてはと考えていたのですが、一気に国際リゾートとなってしまい、その変化のスピードはまさに中国おそるべしといった感じです。

写真4 牙龍湾の海岸(小久保氏提供)写真4 牙龍湾の海岸(小久保氏提供)

写真5 牙龍湾の野原(写真4の後背部)(小久保氏提供)
写真5 牙龍湾の野原(写真4の後背部)(小久保氏提供)

●オポチュニティコスト

 この後、1989(平成元)年に経済企画庁(当時)発注の「観光セクターの経済開発効果に関する調査」という仕事でバリ島やフィリピンの現地調査をしました。途上国観光の観光振興を図る上で何が課題かとわが国の協力のありかたを探る調査でした。

 この調査は、今まで論理立てて考えてこなかった観光の経済効果について勉強できたのが大きかったと思います。この時に知った概念が、観光開発をやらなかった場合はどういう効果があり、観光開発をしたためにどういう機会を損失しているのかを算出する「オポチュニティコスト」です。

 今まではそういうことを我々はまったく無視してまず観光開発ありきでやっていましたが、「開発しなかった場合」という別のシナリオもあるわけです。それと比較した上で、やはり開発した方がいいと証明していかなければということですね。

 あとはごみ処理、治安、衛生といったコスト、目に見えない効果にどれだけお金を使っているのかを測る必要もあるということです。そうした要素をプラスマイナスしてはじめて経済効果が測れるのであり、儲かったところだけ着目するのはおかしいという考え方をこの調査で学びました。

<小久保恵三氏が担当した主な海外プロジェクト>

◎調査名:ランカウィリゾート開発計画調査
■調査目的:マレイシア・ランカウイ島のリゾート開発基本計画の策定
■一次受託者:JTBF
■調査対象国:1990(平成2)年度 マレイシア
■発注者:金融機関

◎調査名:南太平洋観光調査
■調査目的:南太平洋地域の観光振興に対し、わが国の協力可能性を探る。プロジェクト発掘調査
■一次受託者:JTBF
■調査対象国:フィジー・トンガ
■発注者:一般省庁/運輸省観光部国際業務室 

◎調査名:南タイ地域総合開発調査
■調査目的:名目は総合開発であるが、実質的にはタイ南部(主としてプーケット)のリゾート開発基本計画
■一次受託者:JCP
■調査対象国:タイ
■発注者:経済協力実施官庁/国際協力事業団(現国際協力機構)

●リゾート

 時代の流れに即して拡大した調査案件といえば、リゾート法施行前後の類似調査があげられるでしょう。この頃は毎年、国土庁地方振興局総務課からの調査受託を受けましたが、単に受託者というだけでなく、政策実施のアドバイザー的役割を果たしていたと思います。

 基本構想承認のための計画づくりを行ったのは宮城、山形、静岡、和歌山、宮崎、沖縄などで、それまでの一般の案件の数倍の委託額でした。三菱総研などがこの分野に乗り出してきたのはこの頃からです。

 原さん、渡邉先生、梅澤忠雄先生などのラインが政策的な理論構築を行い、私は梅川さんとともに様々な事務局運営で組織的な協力をする形ができていました。リゾートについては当初はあまり勉強していませんでしたが、この数年間は非常にいろんな知識を得られた時代だったと思います。

 もちろん、各県の構想づくりについては反省点も多くあります。国の承認基準に「熟度」という曖昧な概念が含まれており、各県は企業誘致、それも事業体というよりはとりあえず工事に預かるゼネコンや更地の捜索に明け暮れていました。結構乱暴な仕事もあって、地上げみたいな計画もありました。どこに使えそうな土地があるか、車で走って見に行くと。業務が多忙になると、それまでの丁寧で赤字覚悟の良心的なコンサルタント資質が失われていってしまいます。

 国土庁相手の政策立案関係の調査では私も海外に行っていろいろ情報収集を行い、旺盛に知識を得ました。これは無駄になっておらず、成長できたと思います。シンポジウムやワークショップを繰り返し、梅川さんが主導したリゾート開発研究会なども社会的使命を果たしたと自負していますが、その具体的展開となる県や市町村、民間の調査では胸を張れるものがあまりないというのが正直な感想です。我々は露払いのように最初の調査や計画づくりなど、お膳立てはやるけれど、一番おいしいところはほかのディベロッパーがらみの業者に持っていかれることが多かったですね。とはいえ、我々が土地がらみの話も含めてプランニングできるかというと、力不足だったとは思いますが。

 県のリゾートの仕事で一番苦労したのはコンセプトづくりです。それぞれネーミング、キャッチフレーズをつけましたが、歯の浮くようなものもいっぱいありました。とは言え広い範囲、特定の地域を一つにまとめるにはコンセプトを統一する必要がありました。「リゾートは個性がなくていい、金太郎飴でいい」という話もありますが、リゾートの特性をどう打ち出すかというのは一番苦労しましたね。

(2) 観光分野での業績、そして自慢できる功績は何か

●拙速を排したこと

 財団といえども、利益を残して自分の給料分は残さないといけない、という現実はあるものの、調査計画の過程では極力手順を省かないよう努力を重ねました。自然観光地を対象とする観光地計画は、あまり多くはなく、すべてそこには住民が存在し、社会が形成されています。そうした地域を対象に計画を立案するには、ヒアリングを丁寧に行うことが大原則だと思います。

とは言え、観光関係者の意見を拾い上げても答えはほとんど予測できるものばかりです。逆に主婦、老人会などからのヒアリングでは有意義な答えや問いかけが多かったと言えます。

●副産物としての人材育成~草津町の社会開発計画(まちづくりと観光) 

 1975(昭和50)年に、群馬県草津町で社会開発計画を実施しました(図5)。これこそまちづくりにつながる取り組みだったと思います。

 当時の中澤清町長は非常に懐が深い方で、「町を担う若手を育成してほしい」という依頼がありました。東工大の永井先生をキャップとして実施したのが鈴木先生の考案・主導による「買い物ゲーム」です(図6)。

 まず、我々が町役場に行って決算書をすべてチェックし、町の投資的経費を調べて学校はいくら、病院はいくらという形で町が必要とする投資メニューに価格づけをします。そして社会構造を解析した上で、様々な階層から選抜された町民が投資経費を財布に入れて、町に必要なものは何か、架空の買い物をしてもらいます。

 それぞれ欲しいものが異なるので、全員の希望を満たそうとすると総額は財布の中身の何十倍になってしまいます。ここからがハイライトで、徹底的に議論してトレードや統合をしたり、時にはあきらめたりして、全員が智恵を絞って折り合いをつけながら財布の額に近づけていくのです。

 その過程で欲しいものはいろいろあるけど、全部要求するとこんなにお金がかかるのか、自分とあの人の考え方はこういう風に違うのかなどいろいろな気づきがあります。予算の限界を知り、無駄を省いて優先順位をつけ、仲間の考え方を知り、人との会話の中で自分たちの町の姿を描いていくと。町民は30人くらいで、数班に分けましたが、最後はすごく仲良くなって、青年観光協議会という2代目世代の集まりがすごく結束が強くなりました。最初にアンケートで「自分の家の前のドブの改修もしてくれない町が何の観光開発か」と不満を訴えていた主婦が、最後はにこやかな顔で庁舎を去っていったのが印象的でした。

 こういう手間ひまかかることをする地域は当時、あまりなかったですね。町長の個性も大きいと思いますが、私はこの仕事に携われて非常に幸運だったと思いますし、今の時代だからこそ社会実験のような形で同様の試みがあっていいと思います。

図5 草津町 社会開発計画 1977.3 財団法人日本交通公社 観光計画室図5 草津町 社会開発計画 1977.3 財団法人日本交通公社 観光計画室

図6 買い物ゲーム(草津町 社会開発計画より)図6 買い物ゲーム(草津町 社会開発計画より)

第6回・・・(元)財団法人日本交通公社 観光計画部長 小久保 恵三氏

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