観光地づくりオーラルヒストリー<第4回>溝尾 良隆氏  2.「観光」における取り組み(1)

2015.07.14

(1)観光分野で何をやってきたのか


●外人旅行中央営業所での仕事

 株式会社日本交通公社に入社して、私が最初に配属されたのが外人旅行中央営業所西米課団体係です。私たちより3年前までは、大学卒採用は10人以下で、その人たちはみな外人旅行に配属されていました。だから外人旅行部に入った人は、会社の中枢部に行く、エリートの集まりといわれました。もちろん私たちのときは、同期が70人くらいいて、15人くらいが外人旅行に配属されたので、そんなエリートが行く部署ではありません。先輩たちはエリートです。オリンピック要員だったので、英語はもちろん、ドイツ語やフランス語、ロシア語、スペイン語、中国語ができる人がいました。語学系でない人も5~6人いましたが、彼らは入社前の1月からバイトしていたのでタイプも英語もでき、外人旅行を希望した人たちです。語学専門に何もやってなかったのは私1人。私は、出版部や国内旅行を希望していました。たいへんなところに入った感じでした。

 外人旅行に入ってよかったのは東京オリンピックを経験したこと、それにいい上司に恵まれたことです。当時、最後にはJTBの専務になった小竹直隆さんは係長の下の主任で私を指導する立場でした。私が外人旅行の部署から出たいと言ったら怒られました。「溝尾君、いつでも出してあげるけど、出る時は惜しまれつつ出ないとダメだ。能力がなくて追い出されたという形だと一生そういうレッテルがつく。これから3年間は一切出たいと言うな」と。今でも身にしみている言葉で、就職する学生たちにもよく言っています。

 小竹さんは私に合う仕事をやらせてくれました。たとえば冬は外人旅行の客はなく暇で 「溝尾くん、市場分析をしよう」と言って、どこの旅行会社が何人送って、過去に比べてどうかという分析や、バードウォッチングとか山登り、博物館といった、専門性のある手間のかかる団体ツアーを私にやらせてくれました。

 ほかの人は仕事が早いから、誰がやっても時間がかかり、なおかつ私が好きそうな内容のツアーを振ってくれたのです。そのように部下の適性をちゃんと見て行う指導方法は、勉強になりました。


●財団法人日本交通公社への移籍の経緯

 財団法人日本交通公社の存在は、会社に入った当初は知りませんでした。外人旅行中央営業所で働いているとき、財団調査部から『観光産業の経済効果-小豆島における理論的研究-』(1966)(図1)という本が出版されたというのをたまたまJTB新聞で目にして、財団の存在を知り「これは私がやることだ」と思いました。


図1 『観光産業の経済効果-小豆島における理論的研究-』(1966)
図1 『観光産業の経済効果-小豆島における理論的研究-』(1966)


 すぐに財団に行き、この本をいただけないかというと横溝博さん(旅館経営の専門家)が対応してくれました。「君、こういうことに興味があるの?」と聞かれたので、「はい、私の専門に近いです」と言って、ほかの報告書もいっぱいもらって帰ってきました。

 どうしたら異動できるかと考え、日本観光協会が主催している観光の論文懸賞で横溝さんが入賞したことを知りました。東京教育大学の先輩達も菅平の研究で賞をもらっていました。「そうか、この懸賞に受かれば財団に行ける」と思った私は、三浦半島の観光発展に影響を及ぼした京浜急行という主題で論文を書こうと勉強を始めました(完成しないうちに異動になりました)。

 「経営数学」という科目の社推薦の通信教育をやったのも、外人旅行を出るためでした。全国でも10人受けるかどうかくらい難しい科目でした。私はこれで賞をもらって、授業料が全部免除になりました。局長に呼ばれて「君、(外人旅行にいて)なんでこんなことやってるの」と聞かれて、しめたと思って「この部署を出たいから」と答えました。しかし、西米課の団体で私が一番古くなって、5年もいるといわゆる便利屋になってきてしまい、出るに出られなくなってきていました。

 そういう中、入社時の係長が再び課長として戻ってきました。「まだここを出たいのか」と聞かれたので、「課長がいる間に出してほしい」と頼んだら、課長は最後の確認をしたのでしょう、次の週の朝礼で突然、財団への異動が発表されました。

 永松紀義君は私の大学の同級生で一緒にJTBに入り、新宿営業所から私より1年早く財団の総務部に上司とともに異動してきていました(後に、財団の非常勤理事に)。彼も、私の財団への異動を後押ししてくれました。入社して5年近くが経っていました。


●財団移籍後の仕事

 財団には1969(昭和44)年2月に移籍しました。最初に私が配属されたのは調査部で旅行調査を担当しました。3月末で辞める職員がいたので、その後任として入りました。前任者がやっていたのが、羽田空港の制限区域内での外国人へのインタビュー調査です。私は外人旅行にいたからちょうどいいということで、その仕事を引き継ぎました。

 財団が一大飛躍する建設省の観光資源調査をやった時も、旅行調査から参加しました。原重一さんが大きい調査だからみんなでやるということで、永松君を総務から引っ張り、私も旅行調査の仕事をやりつつ手伝っていました。計画室に異動したのは、1974(昭和49)年頃です。旅行調査よりも計画策定などの方が地理学の知識も生かせるし、自分のやりたいことに近いと感じていましたので、原さんに引っ張ってもらいました。

 財団の中では旅館は横溝さん、観光地計画は原さん、旅行動向や心理は内藤さんと、みな得意分野を持っていたので、その中で自分はどこに入り込もうかと考えました。そこで、自分は当時日本で急激にふえている民宿をやろうと決めました。「すきま」分野を狙ったのです。民宿については勉強しました。経営学的なアプローチではなく、民宿の地域的分布や、地域別の発展過程、交通機関が民宿の発展にどういう影響を与えたかなど地理学的な観点から調べました。

 そんなつもりはなかったのですが、すぐに民宿の専門家とよばれるようになり、その関係で初めてNHKテレビに出たり、民宿ガイドの巻頭言を書いたりするようになりました。この頃から、「私だからできる」という存在価値がないとダメだ、人と違うことをしようといったことは考えていました。

 当時、財団に国鉄から委託が来ることはあり得なかったのですが、私は地域の変化に関心があったので、運輸省の仕事で「山陽新幹線が開通して地域はどう変わったか」の研究をしましたので、国鉄から「東北新幹線が開通したら東北はどうなるか」というテーマで調査委託が来ました。当時の企画課長は落合さんという有名な人で、その仕事がきっかけで落合さんと仲良くなり、財団と国鉄でソフトボール大会をしたりしました。

 その後は新潟に新幹線が開通するというので、新潟がどう変化するかという調査もしました。つくば博が開催されたら茨城県はどうなるか、瀬戸大橋が開通したら香川県はどうなるかなど、ビッグイベントに伴う地域変化の分析などもよくやりました。

 地域で言えば原さんは北海道で私は東北、省庁は原さんが環境庁と建設省、私は運輸省と総理府、原さんは計画論やサイトプランに強く、私はマクロかつソフト的な調査に強いという形で、自然に棲み分けができていきました。私はかなり県のマクロ的な計画が多かった。熊本県、佐賀県、長崎県、山形県、福島県、埼玉県、香川県、徳島県、岡山県、愛媛県、茨城県、新潟県…。ずいぶん県の仕事をしています。

 愛媛県、長崎県、新潟県は財団在籍時に基本計画(図2)を作ったのがきっかけで、今もつきあいがあります。愛媛県は観光関係の委員会があると委員長を私に頼んできますし、いまでも委員の人たちと同窓会をしています。


図2 『愛媛県総合観光計画(調査)』(1987)表紙)愛媛県総合観光計画 MZ61-35
図2 『愛媛県総合観光計画(調査)』(1987)


●JTBの支店調査

 普段の委託事業ではなかなか自分のやりたいことができないので、毎年10万円の予算をもらって自主研究をやっていました。コンサルタントは自分でテーマが選べないので、委託の仕事だけでなく、自分なりのテーマを追いかけないといけないと思っていました。

 自主研究で、JTBの支店を調査したこともあります。当時約300店舗あった中で1都市1店舗型の120支店を対象に、支店の売上と都市の力がどういう相関関係にあるのかを調べました。当時一支店として最も売上が多かったのが浦和支店です。それは当然で、大宮と川口に支店がなかったのですね。3市の100万都市に対して1支店しかないからで、むしろもっと売上が上げられるはずだと。そういう分析をそれぞれの支店についてやりました。

 JTBの支店立地は政治的な背景で決まることも多いのですが、営業力が低いので廃止した方がいい支店、販売増が期待できるので存続させてもいい支店、もっと力を入れれば伸びる支店などと評価して、さらにこれから支店を新設すべき都市も挙げました。

 そうしたら、株式会社日本交通公社の社長室がこの研究を評価してくれて、これを参考にして店舗計画を作ってくれたのです。社長室から「もっと詳しく調査してくれ」と言われ、調査費をいただいてさらに深掘りした調査を行いました。

 その後は、大都市の多店舗展開についての調査が、財団に正式な調査として委託されました。自分の地理学の知識や理論を生かせたケースと言えます。


●はとバスの調査

 はとバスの商品ラインアップについても調査をしたことがあります。はとバスはかつて、株式会社JTBと東京都が50%ずつ出資していました。その調査はJTBからはとバスに出向していて、そこで営業部長をやっていた人から頼まれました。「つまらない商品がいっぱいあるが、俺がつまんないとは言えないから…」と。

 そこで全商品をチェックして、「これはすぐやめる」「これは工夫して続ける」と仕分けしていった。立正大学教授服部銈二郎先生を起用して、新しいバスツアーも企画しました。話はうまいし、東京のことをよく知っているので、満員で評判よかったです。

 ストリップショーを見せるコースもありました。日劇ミュージックホールがなくなった後で、そのそばのビルに劇場があったのですが、女性も含めて何人かで見にいったら、全員声を揃えて「つまらない」と。このコースはやめた方がいいと結論づけたら、本当になくなりました。

 後楽園の巨人戦を見るバスツアーというのもありました。なぜわざわざツアーにするのかというと、試合前に元選手や野球評論家が今日の見どころの解説をして、参加者と話し合う時間を設けている。地方から来る人はなかなかチケットがとれないので、こういうツアーはニーズがあるから存続させようということになった。いろいろ勉強になりました。


●クルーズに関する調査

 1985(昭和60)年から3年間かけて、日本のクルーズ需要についての調査もやりました。当時の民社党は横断的な造船組合と関係をもっていたので、国会で民社党の議員が「日本の造船は韓国に負けており、このままではダメだ。ついては外国で流行っているクルーズ船を日本でも作り、クルーズを行ったらどうか」と国会で質問しました。それに対して中曽根首相が「私もクルーズの楽しみは知っているが、日本で成り立つかは調査しないとわからない」と言ったことから、調査の委託が総理府へ、そして財団に来て、私と有馬(元職員)さんで担当することになりました。

 ありがたいことに、造船組合が資料を一式くれました。日本の造船業界で何が問題で、外国ではどうかといったことがわかりました。彼らにいろいろ教えてもらって、私たちも1週間、カリブ海へ5万トンの船に乗りに行きました。

 そこから、カリブ海では1年中運航できるけど、地中海では冬は運航できない、日本発着のクルーズも冬が厳しいとか、今の法律だとカジノができないといった問題点を挙げていきました。あとは船を作る時、日本で作ると高くなってしまうこと、税金の問題から船籍をどこに置くか、船内スタッフをすべて日本人にするかといった課題も挙げています。

 結論としては、当分はクルーズ船先行で需要を喚起する必要があるが、やがて日本人もクルーズを利用するようになるというもので、その通りになったと言えます。この調査については、私の『観光を読む 地域振興の提言』(1994)にも書いています。

第4回・・・ (前)帝京大学経済学部 教授 (元)立教大学観光学部 教授 溝尾 良隆氏

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