観光地域づくりオーラルヒストリー<第9回>阿比留 勝利氏  1.「観光」への接近

2017.01.06

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観光を「異日常性」(異なる生活文化)を介した「生活者交流」と捉えた観光地経営を期待したい

城西国際大学観光学部客員教授
阿比留勝利氏 

 

 1943(昭和18)年長崎県対馬市厳原町生まれ。1967(昭和42)年3月早稲田大学第一理工学部建築学科卒業、1969(昭和44)年同大学院理工学研究科建設工学専攻都市計画専修修士課程修了、1973(昭和48)年3月博士課程単位取得退学。
 1970(昭和45)年4月~1986(昭和61)年3月芝浦工業大学兼任講師、1970(昭和45)年4月(株)日本計画技術集団設立参加を経て1973年3月退職。1973(昭和48)年12月(株)環境計画研究所(福岡)、JAED日本環境ダイナミックス(東京)を統合して(株)ジェド・日本環境ダイナミックスを設立、代表取締役に就任。以後、全国各地の観光地をはじめ中山間地域、離島等の地域振興に携わる。その後、2001(平成13)年岐阜県立森林文化アカデミー非常勤講師(~2010年)を兼務。2005(平成17)年4月城西国際大学経営情報学部教授に就任し、2006(平成18)年4月から新設の観光学部に異動。2013(平成25)年4月から観光学部客員教授、大学院国際アドミニストレーション研究科教授(観光まちづくり、観光地経営等担当)。
 これまで日本観光研究学会理事、国土庁地方振興アドバイザー、総理府観光政策審議会専門委員(国際観光モデル地区)、総務省地域再生プロデューサー事業アドバイザー(観光)及び地域経営の達人、経済産業省集客交流サ-ビス産業検討委員のほか、長崎県総合計画審議会委員、山形県地域振興アドバイザー、長野県観光開発審議会(20年余)、神奈川県、岩手県の観光審議会委員、千葉県景観審議会委員、また(社)日本観光協会、(財)地域活性化センター、(財)電源地域振興センター等のアドバイザ-等を歴任。
 現在、国土交通省国土審議会特別委員(離島振興対策分科会)、内閣官房有人国境離島保全分科会(略称)委員、鴨川市、大網白里市都市計画審議会委員等。

写真1 阿比留勝利氏への取材風景写真1 阿比留勝利氏への取材風景
(2016年2月8日、(公財)日本交通公社ライブラリー会議室にて)

●対馬の暮らしが自然や文化を楽しむ素地を育む

 私が生まれたのは、長崎県にある国境の島、対馬です。長崎より福岡の方が近く、博多まで海路132kmですが、韓国釜山までは対馬海峡の西水道を隔てて49.5kmとさらに近く、空気が澄むと釜山周辺や市街地の夜景が見えるほどです。現在の人口は3万4千人強、老齢人口比率は30%弱(22年国勢調査)で、かつて7万人いた人口も減少し高齢化も進んでいます。県立対馬高校を卒業するまで島で暮らしました。阿比留一族は平安時代末頃まで島を牛耳っていた豪族のようですが、以後、宗氏の時代に変わりました。阿比留という姓は今でも対馬で一番多いと思います。
 対馬は照葉樹林が美しい島ですが、ヒトツバタゴ、コウライキジなど大陸系の動植物やアムールヤマネコの亜種ツシマヤマネコ、対馬馬などの固有種も生息しています。古代の防人配備から始まり戦前まで要塞の島。今も国境の島として国防・国土管理の役割を担っています。海域を含めて文化の十字路といわれ、平時は大陸往来の玄関口として遣新羅使などを介した大陸文化や交易の窓口、刀伊の入寇、元寇、対馬沖海戦(日本海海戦)など有事には国防の最前線でした。国境性と国際性に彩られた歴史、文化が継承されています。
 私の実家は歯医者で、7人兄弟の末っ子です。五歳の頃、国境故に敗戦早々進駐してきた米軍のジープに轢かれ、今でも国境離島の因果を体験していますが、おかげで?ユニバーサルツーリズム、ヘルス&ウェルネスツーリズムに強い関心をもっています。

写真2 厳原町の石垣の街並み写真2 厳原町の石垣の街並み
資料:阿比留勝利氏提供

 中学に入ると傷が癒えて、曲がった足ながらも少し走れるようになり、体力がついて海遊び・山遊びができるようになりました。伝馬船の櫓こぎを覚え、釣り、うっつめ(鳥罠)かけ、目白おとしや飼育、昆虫採集、松虫・鈴虫捕りなど身近な環境で楽しめるものを多く身につけました。海に飛び込んで素潜りでサザエやアワビを採るのも夏休みの日課でした。
 年の暮れになると、親戚の山から梅・松・ユズリハ・モロモクなどをもらって門松をつくり、元日には山越えをして磯場でご来光を拝みながら壱岐や沖の島の島影を遠望しました。初詣は神宮皇后を祀る八幡神社です。彼岸にはお寺参り、盆には精霊流し、お地蔵様巡りと港祭り、秋には紅葉狩り、キノコ狩りなどを楽しみました。中でも最も好きなのが海釣りで、大学時代までは夏休みに帰島すると、タイ釣り、カツオ・ヒラマサ・シイラのホロ引き漁(漁師流トローリング)、イシダイ釣り、近場のベラ・アジ・ホシカリ(カサゴ)・メバル、クロイオ(メジナ)、チヌ(黒鯛)、ウナギの穴釣りなどを楽しみました。釣ったものは食べることを原則とし、魚を三枚に下ろす技も身につけました。漁師さんとともに、生きた小鯛を餌にジャンガリという鋼鉄線の仕掛けを付けて2mを超えるサメ釣りも体験しました。
 今、グリーン&ブルー・ツーリズムが浸透する中で、幼少期から大学時代までの島での遊びや歳時記の体験をノウハウとして活かせる面が少なくありません。

●「外界との交流」が島の存立基盤であること知る

 対馬は急峻な山場が多く平坦地は3%程度です。古くから米・穀物など生活物資の多くを本土や朝鮮半島など「外の世界」に依存してきました。対馬周辺海域は日本有数の漁場で、戦後しばらくは近海が鰺、鯖そしてイカなどの好漁場のため、漁期には五島、平戸、生月などの漁船団が訪れて賑わいました。しかし、魚が獲れなくなると漁船団の来航も減り、高度成長期で若者も島を離れることが増えました。離島振興法による公共事業等で現金収入は増えましたが、全体に元気が萎えてきました。
 海が荒れれば対馬・壱岐・博多間の船が欠航し、特に冬季はアナジと呼ばれる季節風が厳しいため長い時には3~4日欠航します。すると生活物資が乏しくなって、島の近場でとれた魚食が中心になる。東京の人に話すと羨ましがられますが、しかたなしに鯛を食べていました(笑)。
 一般に島では、普段見慣れない島外からの来客には怪訝なまなざしを向けます。一種の通過儀礼で素性や事情がわかれば歓待する。来島者に対する警戒心がある反面異人歓待の文化や寄神(よりがみ)信仰が見られます。対馬も同様です。よく我が家にお客が来ると、飼っている鶏をつぶし鶏肉と地魚、野菜を入れた郷土料理の「イリヤキ」(寄せ鍋)で歓待していました。中学時代、我が家の客人接待時の鶏の解体は私の仕事でした。残酷とも思わず、お客が来ると出番があってどこかうれしかったですね。こうした生活体験も遠因ながら観光・交流に関心を持つ素地になっているのかもしれません。
 当時、命に関わる救急患者や高度の専門治療を要する病人は博多(福岡市)まで運ばないと十分な処置ができませんでした。後述する母の場合もそうです。こうしたことから、異人歓待もさることながら、島は域外との連携があって初めて生きられること、流通基盤(航路、空路、情報網)こそ島の存立の生命線であること、を理解するようになりました。

●はじめての修学旅行 ~人が来ることで成り立つ観光地の存在が奇異だった~

 私が初めて島を出たのは小学5年生の春です。母の福岡での入院に同行し、一ヶ月くらい病院で暮らしました。その時電車に乗せてもらい「都会」を見たわけですが、都市ガスの臭いに違和感をもった記憶があります。島との異質性に楽しさは感じたものの、都会の猥雑さには疲れました。当時は、昭和20年代の後半で、まだ一般に観光旅行をするような余裕もなく、子ども心に気にとどめた島外旅行はせいぜい兄の新婚旅行くらいでした。
 中学3年になって九州半周の修学旅行で福岡、熊本、別府、阿蘇などの有名観光地を初めて訪ねました。阿蘇の雄大さに感銘を受け、別府の坊主地獄、海地獄などに驚きました。珍しい体験ばかりでしたが、何よりも温泉で人を集めて消費で成り立つまちを初めて実感して驚きました。
 高等学校の修学旅行は3年生の夏で久留米の石橋文化センターから関西(京都・奈良・大阪)、東京、日光まで代表的な観光対象を周りました。1週間余りの長丁場で、夜行の鈍行列車では座席より楽なので通路に新聞を敷いて寝ました。京都あたりまでは元気がありましたが、東京駅に朝5時過ぎに着いて顔を洗うと早朝から浅草見学。この頃になると疲れから眠くて記憶もまだらで、何を見たかあまり覚えていません。翌日は日光に行きましたが、私は疲れと風邪で倒れ、大学生の兄のアパートで1週間養生して一人帰島。初めての一人旅の体験でした。

●漁師をあきらめて建築学科へ

 高等学校を出たら大学に行きたいと考えていました。私は末っ子で進路に制約もありませんでした。海と漁が好きだったから、水産大学を出て漁師にでもなろうかと考えましたが、足が悪いので船上でバランスがとれないなどから不向きだと知りました。
 次に好きなのは大工仕事。そのほか音楽や絵なども好きだったので「人間くさい?理工系」をイメージして建築を志望しました。結果、大学では長崎出身の建築家武基雄先生にご指導いただきました。

●ジャズ研入りで音楽を、友人との九州一周旅行やラリーで移動の面白さを知る

 大学では釣りクラブとモダンジャズ研究会の演奏部に入りました。先輩が連帯保証をしてくれたアルトサックスの月賦を印刷屋の版下や図面トレース、科学技術庁が支援する外国語建築雑誌の要約バイトで必死に支払いました。ジャズ好きは今も観光や文化イベントへの関心の下地になっていますね。
 一年の夏には、建築学科の親友3人で九州一周旅行をしました。気ままな観光旅行を初めて楽しみました。鹿児島で女性ガイドが添乗する観光タクシーに初めて乗りましたがよい印象を今でも持っています。
 このほか在京保証人の子息達と3年間日産のナイトラリー(タイムラリー)に出場しました。夜9時に山手線大崎の日産自動車社屋を出で翌日昼頃にゴールにたどり着く徹夜のタイムラリーです。当時まだ電卓はなく計算尺とヘッドライトでナビゲーターをつとめました。交通事故の経験から自動車への関心は高くなかったのですが、このラリーで何よりも自家用車のもつ個室性と風を感じて走る移動の魅力を知りました。

●学費値上げ反対運動に参加してダイレクトに社会性ある仕事を模索

 大学3年の頃、学費値上げ反対運動が起こりました。建築学科の学生は問題意識が旺盛で私も末席ながら反対運動に参加。機動隊の出動、本部封鎖などにも出くわしました。
 対馬は保守的な風土で朝からそのような訓示を聞いて育った私にとって、これは大変革命的かつ新鮮な体験でした。正直戸惑いもありましたが、次第に伝統・共同体志向に染まって生きてきた自身の在り方に疑問を持つようになりました。そして自由に生きるというのは大変な喜びだと感じ、以来、「勝手に生きよう」と(笑)。今思えば、大学に入って一番活き活きした時期で、あの運動に参加したことが自立の引き金になった感じです。

(1)なぜ観光の道を選んだのか

●都市問題や余暇社会論への関心からマスレジャー論を卒業論文に

 大学卒業の頃は高度経済成長のまっただ中で、工業社会や車社会化が急激に進み、東京五輪に続く大阪万国博覧会の開催計画もあって、都市開発、マスレジャー、自動車観光の増大などにも関心をもつようになりました。
 4年生の時、大学院の建築計画研究室とは別に都市計画研究室ができました。武基雄先生と吉阪隆正先生が指導教員でした。武研究室で鎌倉の古都保存調査を行い、それを活かして卒業論文を書くことができるというので友人と参加しました。友だちと4人で1ヶ月ほど長谷寺に住んで地域を歩き回り、現地調査やアンケートなどをする中で、風致破壊、鎌倉の自家用車観光と生活阻害などの問題を実感しました。鎌倉は古都で環境が優れています。当時大都市圏ではスプロール現象が著しく、優れた環境への居住志向が強かったため風致地区の裏側に宅地造成が入って山が削られたり、観光交通の集中による生活阻害など多くの課題がありました。この調査の中で古都保存、さらに地域社会と観光との調和問題(観光公害等)に私の関心は高まりました。当時は余暇社会論などが盛んになりつつあったので、鎌倉の都市調査を踏まえつつ、私は「大衆社会におけるマスレジャーの発展的考察」というテーマで大衆レジャーの将来性について総論を書きました。これが将来観光に係わる入口になったと思います。ホモ・ルーデンスなど、その頃読んだ本は今も持っていますが、遊びや余暇に対して社会的な成長性が予感され、観光分野にも関心を持つきっかけだったように思います。
就職はせず、都市・地域計画を学ぶために大学院へ

●就職はせず、都市・地域計画を学ぶために大学院へ

 当初は大学卒業後に建築設計事務所に就職するつもりでした。しかし、学費値上げ反対運動に関わり、その頃乱読した思想書、技術論等の影響、古都保存調査の体験などから、設計業界への就職の関心が薄れました。それよりも直接的に地域社会に関わる仕事がしたいと思い、都市・地域計画を学ぶために大学院を選びました。
 面接試験で志望研究室を含む4人の教授から「何を研究するのか」と聞かれ、当時激しい過疎化で有名だった奈良県大塔村などに飛び込んだりしていたので、「過疎地振興と余暇問題(観光・交流)をやりたい」と答えました。
 都市開発にも興味があったので、「地域再開発事業の実施プロセスにおける当事者の移転問題への対応方法を学びたい」というような返答をした記憶があります。今思えば、前者は観光開発分野、後者は、結果的に後で係わることになる、土地区画整理やダム水没者の移転・生活再建問題と関連地域開発(ダム湖、移転替地を含む観光による雇用創出等)への関わりにつながったようにも思います。

(2)観光との出合いはいつ、どこで

●大学院の修士課程で初めて観光施設計画を手がける

 大学院の都市計画専修の修士課程では座学と実務研修を合わせたような課題があり、昭和42年度に早大初の観光分野の受託研究「南阿波パークウエイ関連施設基本計画」の立案に参画しました。これが具体的な観光地域づくりの最初の出合いです。
 この事業は(社)日本観光協会(以下、日観協と略記)から武基雄都市計画研究室が受託したもので、徳島県の日和佐・牟岐間に観光有料道路を建設するための需要予測、路線決定から沿線における拠点施設の計画立案を行うものでした。当時の窓口が奈良繁雄さん(後の日本観光協会常務理事、城西国際大学経営情報学部教授)で、私はこの時初めて奈良さんにお会いしました。
 計画の基本方針、自動車観光交通量の予測、景観分析による路線決めや全体計画案は研究室の先輩が分担しました。少し前にケビン・リンチの景観論などが出てきていたので道路からの景観分析が導入されました。観光レクリエーション施設計画は私を含めて数人で分担しました。私の担当は明丸地区での海水浴場、野営場を含む宿泊研修施設の計画でした。規模を想定し模型を作って施設構想を提案しました。その後、この有料道路は実現し沿線施設の一部も武研担当等で実施されました。

写真3「南阿波パークウエイ関連施設基本計画」計画図と模型(明丸地区)1写真3「南阿波パークウエイ関連施設基本計画」計画図と模型(明丸地区)2写真3「南阿波パークウエイ関連施設基本計画」計画図と模型(明丸地区)
資料:阿比留勝利氏提供

●八代市観光開発計画に参画して得た出会いが「最大の宝」に

 その後、研究室の先輩を介して日観協で行う熊本県八代市観光開発計画の策定プロジェクトへの参画の打診がありました。私はそれまで少し観光施設計画に関わっていただけで計画調査全体の段取りや部門別の対応策などは不勉強でしたので、参加させてもらうことにしました。
 メンバーは日観協の奈良繁雄さん、東大大学院生の前田豪さん(現リージョナル・プランニング代表)、同じく東大大学院生の渡辺貴介さん(後の東京工業大学教授)です。奈良さんとは挨拶程度にご面識はありましたが、前田さん、渡辺さんとはこの時が初対面です。作業は奈良さんを司令塔に、前田さんが全体作業を主導、渡辺さんが需要予測、私は現況分析を担当させていただき、この時観光計画調査の進め方など多くを学びました。
 以後、この三氏との出会いは、観光の研究や仕事をする上で最大の宝となりましたね。残念ながら奈良さん、渡辺さんは逝かれましたが、前田さんからは折々の交遊の中で多くを学んでいます。

●大学院在籍中に(株)日本計画技術集団の設立に参加

 当時、わが国は高度経済成長の絶頂期で、新全総、大阪万国博覧会の開催など将来社会の可能性を感じさせる動きが横溢していました。その中で1970(昭和45)年に研究室の先輩から株式会社日本計画技術集団(略称ジュピオ、代表取締役伊久見嘉男、副代表倉本旭博、都市計画役員竹内泰夫さんなど)への参加の打診を受けました。私も大学院に在籍しながら出資して参加しました。
 ジュピオは衣食住生活関連産業及び環境開発の総合シンクタンクとして、研究から事業開発までを実践する意図で設立された会社でした。衣食住関連産業を手足として収益を上げ、R&D機能(頭脳集団)を併せ持つ組織づくりを目指す実に面白いものでした。
 事実、気鋭の専門家をそれぞれの部門のヘッドに配し、「衣」では服飾デザイン、ブティック経営とファッションR&D誌(情報誌)の発行を、「食」では手始めに喫茶店経営を、また「住」では那須高原でのプレハブ開発を試みました。また多様な人材交流のためのメンバーズクラブも具体化しました。
 場所は千駄ヶ谷駅前を皮切りに、原宿の明治通りと表参道の角のオリンピアアネックス。その一番上階が計画・研究部門、地下はブティック、喫茶店と画廊を開設。また研究・計画部門では、国・地方自治体との関係の密な公益法人などと連携して、水資源開発、工業開発、観光開発などの計画研究及び事業化を主な仕事としました。
 私は主任研究員として、都市・地域計画作業のうち主に観光計画調査を担当しながらダム水没者の生活再建及びダム湖周辺の関連地域開発(観光開発等)にも関わりました。中でも渡良瀬遊水池のレクリエーション利用計画では、この遊水池がかつては足尾銅山の鉱毒事件で廃村になった谷中村跡だっただけに、田中正造翁の渡良瀬川鉱毒事件に対する公害闘争の歴史から地域開発の光と影を深く学びました。このプロジェクトは、以後の私の地域計画を進める基本姿勢に大きく影響したと自覚しています。
 ジュピオで身についた衣食住関連事業や観光等地域計画の経験は実に有意義でした。また、この頃仕事を通じて豊川洋さん(後の川村学園女子大学教授)、古賀学さん(現松蔭大学教授)、(社)日本能率協会総合研究所の高地高司所長、花井照平、北矢行男主任研究員(後の多摩大学教授)の方々には自立後も大変お世話になりました。

表1 阿比留勝利氏の経歴

経歴

1967(昭和42)年

早稲田大学第一理工学部建築学科卒業

1973(昭和48)年

同大学院理工学研究科都市計画専修修士課程修了、博士課程単位取得退学

1973(昭和48)年

JAED日本環境ダイナミックス(東京)、(株)環境計画研究所(福岡)設立

1975(昭和50)年

両社を(株)ジェド・日本環境ダイナミックスに社名変更、代表取締役(~2006年7月)

2001(平成13)年

岐阜県立森林文化アカデミー(前岐阜県立林業短大)兼任講師(~2010年3月)

2005(平成17)年

城西国際大学経営情報学部教授(国内・国際観光まちづくり等担当)

2006(平成18)年

同大学観光学部教授(~2013年3月)

2010(平成22)年

青森公立大学兼任講師(~2011年3月)

2013(平成25)年

城西国際大学観光学部客員教授、同大学院国際アドミニストレーション研究科教授(~現在)

資料:阿比留勝利氏提供資料より作成

表2 参画プロジェクト
表3 学会・社会活動
表4 論文等 
表5 著書
【表2,3,4PDF】

第9回・・・城西国際大学観光学部客員教授 阿比留勝利氏

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