観光地づくりオーラルヒストリー<第5回>古賀 学氏  2.「観光」における取り組み

2015.03.31

 (1) 観光分野で何をやってきたのか

●日観協への入協

 1972(昭和47)年に大学を卒業して日観協に入りました。高橋進さんが業務部長、奈良繁雄さんが調査課長で、私はその下に配属されました。私の観光の計画や調査に関する先生をあげるとすれば、日観協に入ってからの高橋さん(当時東京農業大学非常勤講師兼務)、奈良繁雄さんのお二人であり、さらには調査・計画・研究をご一緒させていただいた先生方やコンサルタントの方々だと言えます。中でも奈良さんにはすごく鍛えられました。ただ、奈良さんは最後はすべて数字で表せるという考え方を話されたことがあり、そこが私とは考え方と少し違っていました。

 私が入った時は猪爪範子さん(現地域総合研究所主任研究員)がいました。東京農大出身で私の先輩でした。ちなみに日本観光協会から立教大学に行かれた小谷達男先生も東京農大です。観光関係には東京農大出身者が結構いたんですね。環境庁も東京農大出身者が多いですね。当時は自然公園などが観光のベースになっていた部分が多かったので観光計画の本や定期機関誌などにも多くの環境庁の人に書いてもらっていました。

 猪爪さんは私が入って2ヶ月後くらいに辞められました。ですから、入ってすぐ高橋さん、奈良さん、私の3人態勢になりました。その後調査を強化するということで、次の年、北海道大学から有山忠男さん(現株式会社ライヴ環境計画代表取締役)と東京農大から依田健一さんの入社を皮切りに私の後に結構新人をとりました。一時期は調査部門が7~8人態勢になりました。

 昔から絵や図面を書くのが好きでした。キャンプ場やスキー場、子どものレクリエーション施設などのサイトプランとかを結構やっていましたので、結果的に自分のやりたかったことがうまく生かせたと思います。

 私は途中で旅フェア(現ツーリズム・EXPO・ジャパン)などのイベントをやったり、総務課長をやったり、情報もやったり、協会内部の仕事は一応全部やりました。でも、基本的には入ったときからずっと調査の仕事でした。自分では覚えていませんが「調査から異動したら辞める」と言ったというのを当時の常務理事から聞きました。結果、旅フェアの1回から4回目までを担当したことは、新たな観光事業の魅力を知ることになり、総務課長では調査と異なった人々と組織と関係を広く持つことができ良かったと思います。関東支部事務局長は1年たたずに変わってしまったのですが、その間、JRや都道府県の方々と楽しく事業を行うことができました。

 観光調査や研究は、日観協に入ることが決まるまでは全然やったことがありませんでした。大学4年の時、入協が決まってから1971(昭和46)年の秋から冬にかけて新潟県の広神村・守門村の観光診断にバイトで参加しました。メインはスキー場開発についての調査で、それが初めての観光計画への参加です。その時のチーフが当時農大の助手だった中田総一郎さんです。当時3年生だった蓑茂寿太郎さん(元東京農業大学教授)も参加していました。

●観光診断を生んだのは日観協

 私が入ったときに、それまで日観協がやってきた観光診断を全部調べ『観光』に載せました。タイトルは「日本観光協会 観光診断の28年」で昭和21~47年までをまとめています(図1)。当時は観光計画、観光診断の2種類の呼び方があり、概念の整理はちゃんとされていなくてごちゃごちゃでした。1964(昭和39)年頃は観光診断と呼ぶことが多かったですね(図2)。1952(昭和27)年に行った伊豆半島の調査は「伊豆半島観光開発計画」(社団法人日本観光連盟)という名前でしたが。

 日観協が観光診断というようになったのは、1947(昭和22)年に依頼が来た時が最初です。当時、中小企業診断というのがはやっていたので、企業の経営診断を観光地にあてはめたような形で高橋先生が「観光診断」という言葉を作ったそうです。気象条件とか基礎的なことをきちんと調べるんですよ。だから「診断」なんですね。私は本人からそう聞いています。最初に観光診断をはじめたのは日観協と言えます。

 その後、最初に観光診断をして、後で観光計画を作るといったケースも出てくるんです。昭和40年代になると観光開発計画など、「計画」という言葉の方が多く使われるようになりました。そのうちにだんだん「診断」という言葉が使われなくなってきました。

図1 日本観光協会観光診断の28年図1 日本観光協会が実施した観光診断の実績(昭和21年~47年)(古賀氏が入協時に整理)
出所:『観光』50号(昭和48年7月)、日本観光協会    

図2 観光診断島根図2 観光診断報告書(例)島根県観光診断報告書1964(昭和39)年10月日本観光協会

 私が日観協に入って初めてやった仕事が、山形県鶴岡市の観光診断です。私が入った頃、日観協の調査はほとんど大学の先生がやっていました。入った頃は人手もなく忙しかったので、多くは他の組織等へ協力お願いをしていました。専門委員制度などもありました。そうしたことがきっかけで、大学の先生方、ラック計画研究所、ジェド日本環境ダイナミックス、ジュピオ、そして(財)日本交通公社の人たちなど多くの方々と知り合うことができました。

 安島博幸さん(現立教大学観光学部教授)は私が入協した1年後の1973(昭和48)年にラック計画研究所に入ってこられ、一緒に房総の白子に行って民宿の調査をやりました。民宿の主人にアンケートをとるという仕事です。「テニス民宿」として隆盛で、当時の宿泊施設は結構民宿が主流だったんですね。

 ちなみに、私は25歳の時(入協2年後の1974年)、仕事を休んで個人的に40日間くらいヨーロッパを放浪しました。回ったのはドイツ、スイス、イタリア、フランス、イギリス、ベルギー、オランダなどです。大学のアメリカ以来、これが2回目の海外旅行でした。

 当時上司はダメだと言いましたが、常勤役員の支持もあり結果的におゆるしが出て、当時、美化運動が注目されていたので、「ごみ箱を撮ってこい」と協会から10万円の支給がありました。それは全部写真代になりましたけど。その時の経験はすごく生きています。今でもまだ、当時のヨーロッパに比べて日本は遅れていると思うくらい、観光的に進んでいましたよね。

●日本船舶振興会の補助事業

 日観協では日本船舶振興会の補助事業が年間に5~6本あり、やりたいことを申請すれば通るという感じだったので、この補助金でやった事業はいろいろありました。今でも一番大きい成果だといえるのは、観光の各種原単位を表した「観光レクリエーション施設の基準」づくりではないでしょうか。また『観光の実態と志向』(図3)も調査研究の柱でした。この調査は1964年(昭和39年)から始まり、最初は隔年で実施していましたが、1989年(平成元年)を期に大都市の調査をやめて全国調査を毎年実施する方向で切り替えました。一時は各地の観光計画の前半部分となる「観光の現状」の半分くらいが、『観光の実態と志向』からの引用だったりしましたね。

 『観光開発計画の手法』1970、『観光計画の手法』1976(図4)なども日本船舶振興会の補助事業です。今、私がもう一度復活させればいいと思っているのは『都道府県観光白書』(図5)です。1975(昭和50)年に第一回目の調査をやって、5年ごとに4回くらいやったと思います。日観協の調査部の7~8人で分担して全都道府県を回る形で、1人5~6カ所を担当しました。

 私が担当したのは沖縄、兵庫、岡山などで、1県につき2泊3日滞在して、県庁の中をぐるぐる回って観光の部署と関係部署を訪ねて資料集めて話を聞くという形です。最初に担当した県をその後もずっと担当するので、観光政策がどう変化したかよくわかるんです。今は、都道府県で観光政策がかなり違うので、今でこそやるべき事業ではないかと思いますね。予算書なども引っ張り出し、行政の観光構造を知る上で大変勉強になりました。都道府県にとっても他との比較もでき、大いに役に立ったと思います。  

図3 『観光の実態と志向 昭和40年1月』

図3 『観光の実態と志向 昭和40年1月』社団法人日本観光協会

図4 観光計画の手法 図4 『観光計画の手法』社団法人日本観光協会

図5 都道府県白書図5 『都道府県観光白書 昭和49・50年度』社団法人日本観光協会

 国内の観光統計の基準作りも船舶の補助金です。最初、観光統計は総理府が管轄だったんです。昔は総理府が観光政策審議会を所管していましたから、総理府とも結構事業をやっていました。結局、統計基準の統一はできませんでしたが…。県庁の人たちも統計の専門家ではないんで、できるだけ易しい方法をいう要望をきくと、誤差が50%くらいになってしまったり。県によっては、「うちはもっと詳細にやってる」というところも出てくるわけで、統一するのは難しいですよね。都道府県統一の観光客の定義ができないのが課題です。

●原点となった新潟県村上市の仕事

 私の観光の仕事での原点は、新潟県村上市の仕事といってもよいかもしれません。市の構想から計画づくり、そして観光施設の設計、周辺の公園整備に至るまでの継続した取組みになりました。

 最初は1982(昭和57)年に「村上市観光レクリエーション構想計画調査」(村上市商工観光課)を行いました。次の年に「村上市鮭公園整備計画」(村上市農林水産課)を作り、それがサケの資料館「イヨボヤ会館」(写真2)の計画、実施設計になり、さらにイヨボヤ会館に隣接するサーモンパークの計画も同時に行いました。

 水産庁の内水面漁業振興対策事業の一環で、遊漁者のための展示施設を作るという事業で、7,000万円の予算で資料館を作ってほしいという話が来ました。村上市の高孝三さんという観光課長が考え方の進んでいる人で、その人と親しくなって、毎月1回村上に通うようになりました。高課長が7,000万円の補助金では足りないということで、作りたい施設を充実させ予算3億5千万円くらいの計画を提案しました。

 その計画を水産庁に持っていったら、無理だと言われたんですが、たまたま次の年から自治省のまちづくり特別対策事業が始まるということで、高課長がこのことを敏感に察知して、その年に彼はまちづくり特別対策室長に就任したんですね。そちらの予算を使おうということになったんですが、水産庁は「それは困る」と。結果的に、水産庁が3億円を出したんです。ちなみに、次の年まちづくり特別対策事業が始まったときの応募記入要項の記入例にサーモンパークの内容が使われていました。

 それで資料館の予算は3億円になり、その周辺の造園の園地を作ろうということでサーモンパークという公園の整備計画となり、結果的には総額12億円の事業になりました。今もサーモンパーク(資料館の名称はイヨボヤ会館)(写真3)は年間10~15万人の来場を維持しています。村上市には瀬波温泉という温泉地がありますが、この計画をやる前に観光客が来るのは夏の海水浴の時期だけでした。イヨボヤ会館ができてからは、冬の入り込みの方が増えたんですね。今も温泉の名物としてサケ料理が定着しています。

 イヨボヤ会館の実施設計も私がやりました。最初、計画の仕事として受けたら、「建物の設計もやってくれないか」と言われたんです。建築をやっている友達がいるので、徹夜で教えてもらって図面を書きました。多分、変更されるだろうと思ったら、そのまま建ってしまいました。

 この設計には大成功と大失敗がありました。大成功は、最上階の3階に調理場を作ったことです。そこで地元の高校生がサケ料理の実習をするようになり、単なる資料館ではないということで、ニュースでも報道されるなど注目されました。

 でも数年経ったらこの調理場がなくなったんです。どうしてかというと、料理や材料を運ぶのが大変だからということでした。3階建てだから、エレベーターを作らなかったんですよ(笑)。4階ならエレベーターを作っていたと思うんですが。後から調理場は建物の横に作られ鮭道場となり、最上階は展望室になりました。

 地下に、鮭のふ化が観察できる場所があります。これが一番苦労しました。始めは三面側の下にトンネルを掘り、横や底をガラス張りにして鮭の遡上やふ化が観察できるようにしようとしたのですが、建設省から絶対駄目と言われました。3回目くらいの会議のときにその代替案として、それなら人工河川を作りそこに鮭を泳がせ見せてはという案を委員会に出しました。が、鮭を生きたまま運ぶことが難しいとか、夏場はどうするとかといった提案に対してマイナーな議論しか出ませんでした。そして次の会議のときそれをやめて別の提案をしたのですが、委員からはあの案はどこいった?という意見。え!といった思いで案を復活。人工河川を作り、建物の地下をガラス張りして人口河川の側面から日本で初めて鮭がふ化するところを見られる施設が誕生しました。その後実際に三面川の鮭を捕る種子川の横をガラス張りにして鮭の遡上が見られる施設が整備されました。が天候により濁りなど観察条件が左右されるので、結果人工河川を整備して良かったと思います。

 計画を行っているとき、北海道にサーモン科学館ができ、先を越されてしまいました。向こうが科学なら、こちらは文化ということで、現在のいよぼや会館は鮭文化伝承館ということで進めました

写真2 いよぼや会館写真2 イヨボヤ会館

写真3 いよぼや会館 鮭のふ化がみられる水槽写真3 鮭のふ化がみられる水槽

●「そば」で長い付き合いとなる利賀村

 利賀村では、1986(昭和61)年に「利賀そばの山里整備計画」、翌年に「利賀村そば資料展示体験施設計画」を作りました(写真4,5)。村上市のことを利賀村が知って、そばの資料館の設計を私に依頼してきたんです。中谷信一さん(当時利賀村役場企画係長)が当時村長でした野原啓蔵さんと一緒に日観協に来て、「日本一のそばの資料館を作りたい」と。こちらは「資料館だけでは観光にならないので、そばの里にしましょう」ということで、食事や体験場所などを作ることを提案しました。

 いろんな人たちから「何で利賀でそばなの?」とよく言われましたね。なぜそばどころの信州じゃなくて利賀なのかと。信州も含めて、きちんとしたそばの資料館というのがその頃はどこにもありませんでした。利賀村もそばがさかんな場所ではなかったけど、野原さんが郵便局長をしていたとき、富山県で1人当たりの貯蓄額が最下位という汚名を返上しようとそば祭りをやったら成功したんですね。貯蓄額が富山県1位になったのです。それが尾を引き、村長となりそばでまちおこしをやろうという話になったそうです。

写真4 利賀村そばの竿と全景写真4 利賀そばの郷全景
写真5 そばの郷 そば資料館写真5 そばの資料館

 1989(平成元)年には、利賀村の人たちと一緒に村の姉妹提携事業でネパールに行きました。当時、信州大学の氏原暉男先生というそばの大家がいろいろ協力してくれていました。「信州はいっぱいそばどころがあるのに、どうして利賀村と組んでやってるのですか」と聞いたら、初めて声をかけてくれたのが利賀村だったということでした。

 氏原先生はネパールのツクツェという村で実験農場をやっていたんですが、その村と交流しようということになり、宮崎道正利賀村長や議長以下15人くらいで行くことになったんです。私も仕事を休んで個人的な旅行として参画しました。NHKも取材で同行し、30分番組で放映されました。

 その後も私は10年に1度のペースでネパールには行っています。今まで3回行っていますね。2013(平成25)年も個人で行きました。その前は2001(平成13)年にJETRO(独立行政法人日本貿易振興機構)の仕事「富山県利賀村・ネパールツクチェ村観光・物産交流事業」で行きました (写真6)。

 定期的に通っていると、ツクツェ村の変化もよく見えますね。最初に行った時は移動手段はロバと徒歩という世界で、車は全く走れませんでした。その時、地元の人たちは「自転車が欲しい」と言っていましたが、利賀村が油圧ショベルを1台寄贈したんですね。それで一気に道が舗装されて車が走るようになりました。

 でもそのおかげでトレッキング客が減ったそうです。車が走ることでほこりが多くなったからです。発展の功罪を見たという感じですが、とは言え、今もトレッキングする欧米人が結構いますよ。道路のおかげでサイクリストも現れました。

 ネパールで特定区域をトレッキングをする時はパスを買う必要があります。外貨獲得の目的もありますが、いくつかのチェックポイントが設けられており、トレッキング客が無事かどうか確認する意味もあるんですね。ペットボトルをなくすためのウォーターステーションと共に、なかなかうまくできているシステムだと思います。世界遺産などの街に入るときにもチケットを買う必要があります

写真6 ツクチェ村 利賀との交流館 2013 集合写真6 ツクツェ村での集合写真

 利賀村では、1992(平成4)年に「世界そば博」というイベントが開催され、そばでまちおこしを目指すいろんな自治体が集まりました。そのつながりを保とうということで、中谷さんが1993(平成5)年に作ったのが全国麺類文化地域間交流推進協議会という組織です。2012(平成24)年中谷さんが理事長になり、2013(平成25)年から一般社団法人全麺協に変更されました。

 この全麺協ではそばの段位審査をやっています。初段から五段まであって、今年から級を新設しました。昨年から級もつくりました。段位取得者は全国に1万1000人くらいいますね。私も結構引っ張りだされていて、最高段位にあたる五段の審査委員をやっています。

 五段の審査は2,3年に1度行われ40人程の人が参加し、受かるのは10数人です。元々、そばで地域振興をするのが目的の組織なので、そば打ちの技術だけでなく、地域振興をやる資質があるかどうかを審査します。論文発表の時間もあり、5分間ずつ発表してもらい、それをチェックします。1回目と2回目は利賀村でやっていたのですが、2013(平成25)年の第3回は北海道の幌加内で開催しました。私は会の20周年の基調講演を行い、現在「そば段位倫理委員会」というのにも委員として参加しています。そばの関係では、利賀村がそばの現在交流をしている韓国平昌郡へも同行しました。

 日観協として利賀村から仕事として受けたのは、このそばの里の一連の計画と、飛翔の里の構想計画、JETROの仕事だけです。(「利賀そばの里山整備計画」1986年、「利賀村そば資料展示体験施設計画」1987年)。あとは利賀村でダムができる時に、景観委員会に入るなど委員的な形で関わっており、どちらかというと個人的なこととなっています。そばの郷の実現化、世界そば博覧会、「瞑想の郷」等一連の整備計画、観光振興策についての指導・助言が中心でした。村の人からは「こういう計画があるけどどう思うか」みたいな話は来るけど、相談には委託費があるわけではないので日観協として動けないので、基本的に個人として動くしかないという感じです。

 例えばスキー場とゴルフ場の計画が持ち上がっていて、「どう思うか」と村長から相談を受けたりしました。スキー場は以前から若い人たちがやりたいというのを聞いていたので「いいのでは」と言いましたが、ゴルフ場は利賀村みたいなところが山を削って作っても人は来ないし、計画を見ても無理があるので、「やめた方がいい」と言いましたら、スキー場は作ったけど、ゴルフ場は結局作りませんでしたね。

 今の南砺市長田中幹夫氏が利賀村出身で、中谷さんの元で働いたことのある人で、私は彼によく送り迎えしてもらっていました。そういう関係もあって南砺市の観光大使をやっています。このように利賀村と長くつき合っている理由は、とにかく利賀村の人たちと個人とのつながりからといってよいとおもいます。当時人口が1,000人くらいの村だから、行政も住民も一緒なんですよね。行政マンも住民としての意識が強い。市のレベルだと完全な行政マンとして付き合うけど、村だと行政マンも一人の住民として話をしますから、「家に泊まっていけ」とか自然と友達づきあいになってしまいますね

●時間とともに体制を整える新潟県高柳町との付き合い

 利賀村のほかに長くつきあっているところは、新潟県の高柳町(現柏崎市)ですね。ここは利賀村での私の仕事を知って、頼んで来ました。高柳町では1988(昭和63)年にふるさと開発協議会という組織を立ち上げ、私は5つの分科会の中の第4分科会「都市と農村の交流」という会にアドバイザーとして入りました。これは、地元の人たちが自主的に運営することを基本とした委員会で、行政はオブザーバーとして書記の役割をするくらいでした。

 その第4分科会を中心に「ゆめおいびと」という組織が作られ、「狐の夜祭り」というお祭りが生まれました(写真7)。踊りも曲もメンバーの自作自演です。1989(平成元)年9月15日に第1回が開催され平成と共に回を重ねています。第1回目を開催したときは、地元の人たちが40万円くらい自分たちの持ち出しでやりました。2回目に、この祭りを撮った方の写真が新潟県の観光写真コンクールで最優秀賞か何かの賞に選ばれたんです。次の年からカメラマンが大挙してくるようになり、現在でもカメラマンの多いイベントとなっています

写真7 高柳きつねの夜祭り写真7 高柳きつねの夜祭り

 「ゆめおいびと」は、狐の夜祭りを始めたのを切っ掛けに、じょんのび村を始め観光振興の実施部隊として動きました。設立3年目、町が彼らに補助金を1000万円出し、雪祭りも始まりました。今も高柳町ではこの「ゆめおいびと」という組織が中核的に動いています。

 2011(平成23)年にはメンバーの米山秀基さんが地域のそば生産者と組んでそば屋をオープンさせました。私はそのそば屋づくりを手伝ったり、高柳とはここ数年一緒に仕事をしています。アドバイザーとして年に6回来てくださいといった形です。簡単な報告書などは作りましたが。NPO法人じょんのび研究所(柏崎市高柳町)の「百姓のそばネットワーク推進事業」(2010-2012(平成22-24)年。新潟県地域復興事業)や荻ノ島地域協議会の「食と地域の交流促進対策交付金事業(集落活性化対策)」(2012-2013(平成24-25)年、農林水産庁事業)などを手伝いました。

 2013(平成25)年に、高柳町の荻ノ島集落に「NPO法人かやぶき集落荻ノ島」が立ち上がりました。私はそのNPOの理事にもなっています(写真8、9)。今は保存活用で進んでいますが、ふるさと開発協議会が始まった当時は、住民からは、かやぶき民家の保存・活用に対して、私たちが貧しかったから残ったのであって、お金があったらとっくに建て直していた。そんな貧しい建物を人に見せることはできない、という声などもありました。私は欧州で「ウサギ小屋」と称された東京のコンクリートの住宅とどちらがよいでしょうかと話したことから、住民の方々と白熱した議論が交わされていたことが記憶に残っています

写真8 高柳町萩ノ島環状かやぶき集落の風景写真8 高柳町萩ノ島環状かやぶき集落の風景
写真9 高柳町萩ノ島環状かやぶき集落の風景(冬)写真9 高柳町萩ノ島環状かやぶき集落の風景(冬)

 じょんのび村の再整備計画は、アドバイザーとしてかかわってきました。国土交通省の家族旅行村をはじめ様々な補助金を使って作る施設です。そうした施設の一番の欠点なんですが、温泉、宿泊、食事などそれぞれの施設によって補助金の出所が違うので、食事施設に厨房と客室があり、温泉施設にも厨房と客室と土産売り場があり、加工施設にも厨房と土産売り場がありといった形で、設備が幾重にもだぶってしまうんですね。これではとても管理できないということで、整理して統合しようということになったんです(写真10、11)。その再整備計画として「高柳じょんのび村経営改善方策検討事業」(2005(平成17)年)を日観協として受託しました。

写真10 じょんのび村写真10 じょんのび村
写真11 じょんのび村萬歳楽写真11 じょんのび村の村萬歳楽 

 今、高柳は食の観光に力を入れています。塩沢街道といわれている沿道には、そば屋、ラーメン屋、パン屋などが集積しています。「百姓のそばネットワーク推進事業」(2009(平成21)年)では食の街道マップも作成されました。ラーメン屋は、いつも行列ができており、その店の前には、じょんのび村をやめた夫婦がはじめた手づくりパンの店があって、午前中で売り切れるほど人気です。魅力的な食の施設がうまい具合に集まったんですね。あと「月湯女(つきよめ)荘」という施設があり、しゃれた内装にして山菜のバイキングなどをやったりして、ここもなかなかいい方向で動いていたのですが、残念ながら行政施設であり、行政が廃止を決定してしまいました。

 荻ノ島では、NPO法人かやぶき集落荻ノ島を中心として、再整備計画が始まっています。2014(平成26)年4月から寄付金も集め始めています。絵手紙教室をやっている東京の先生など様々な方々が支援活動に参画しています。荻ノ島は絵手紙教室の場にもなっています。そういう意味では、継続的な地域のファン作りというのは大事ですね

●千葉県での県計画策定から広域計画、市町村計画への展開

 意外と面白かったのは千葉県の仕事です。当時県には80市町村あったのですが、私は全市町村を3回、回ってるんです。千葉県庁でもそんな人はいないといわれたくらいでした。

 まず、1983(昭和58)年に計画を作る前段階の基礎資料調査(「千葉県観光基本計画策定基礎資料調査」千葉県商政観光課)をやったんですね。その翌年に観光基本計画(図6)を策定するための調査(「千葉県観光基本計画策定調査」千葉県観光物産課)をし、さらにその翌年の1985(昭和60)年から3年かけて5つのブロック別計画を作りました。初年度の1985(昭和60)年は南房総地域と九十九里東総地域、翌年に北総地域、次の年が千葉東葛地域と上総地域です。1回目に全県を周り、ブロック別の時にまた回っているわけです(写真12)。続いて「千葉県国際観光ルート策定調査」((財)千葉県観光公社)をやったので、その時にまた回りました。さらに1990(平成2)年に国際観光モデル整備計画の方針も策定しました。特に、千葉県観光資本計画においては、80市町村を延べ40日かけて県の方々と回ったり、報告書の仕上げは、市内の旅館に県の方々と泊まり、1泊2日みっちりと最終調整作業を行ったことが印象に残ります。私1人に県の方が10名ほどいました。

写真12 千葉県調査写真写真12 千葉県ブロック別計画(南房総地域)策定時の集合写真

*石川洋美先生(委員長、芝浦工業大学(当時)、最前列中央)、山村順次先生(千葉大学(当時)、中列右から三番目)、牧谷孝則さん(観光デザイナー、株式会社コミュニティ&コミュニケーション、中列左端)、豊川洋さん(日本観光協会、その後川村学園女子大学教授、昨年退職、中列左から三番目)、奈良繁男さん(日本観光協会、最後列左から三番目)、古賀学氏(日本観光協会、最後列右端) 

 翌年の1991(平成3)年に千葉県観光経済効果実態調査を、翌々年に千葉県の観光協会で、ホテル旅館の実態調査を2年にわたって実施しました。2004(平成16)年には千葉県アドバイザー派遣事業で3年くらい関わりました。千葉県内で手を挙げたところに、ふさわしい調査員を派遣する。基本計画、実施計画、実施というところまでをやりました。我々がアドバイザーとして行く、または派遣するのは最初の2つの部分まで。実施の部分には県が補助金を出すという補助金制度でした。

 当時、千葉県は新しいことをやろうと一生懸命考えている若くて面白い人がいました。観光に力を入れていたので、市に対していい補助金を作りました。計画づくりを行い、それを実現するための事業を3年間支援するというものです。継続性がある補助制度だったので、いろんなことができました。佐原の山車会館などもその補助金で作られました。計画づくりから施設整備までを含めたいい補助金でしたね。そんな形で千葉県とはつながっていました。

 県がやると、今度は市も動くということで、県の基本計画ができたのが1984(昭和59)年でしたが、1985(昭和60)年に千葉市の観光基本計画をやりました。その後千葉市が毎年、観光バスのルート整備計画(1985年)、観光船の運行計画や、ちばインターナショナルレクリエーションビレッジ計画(1987年)など、1991(平成3)年頃まで千葉市の調査も続けてやっていました。他に木更津とか、千葉県内をやるようになり、千葉県内はかなり集中的に行いました。市の方は、多くは石川洋美先生(芝浦工業大学名誉理事長)、阿比留勝利さん(株式会社ジェド・日本環境ダイナミックス代表取締役、現城西国際大学観光学部客員教授)と一緒に行いました

図6『千葉県観光基本計画』(千葉県)の表紙図6『千葉県観光基本計画』(千葉県)の表紙

図7『熊本県観光振興行動計画』(熊本県)の表紙図7『熊本県観光振興行動計画』(熊本県)の表紙

 千葉県と同時期に、「熊本県観光振興行動計画」の策定もしました(1989(平成元)年)(図7)。ここも各ブロック、地域別にヒアリングをし圏域別の計画を作りました。その内容をふまえて書くわけですが、そのうち一番いいところに次の年に補助金を出す。要するに、やる気のあるところに出すという姿勢でした。今では当たり前のことかもしれません。当時は平等にということがほとんどだったが、その担当者の草野さんの英断でやってたようです。ちょうど細川知事のときです。草野さんはユニークな人でした。新しい試みをしたり、意気込みがありました。計画書は、見開きだけでいい、文字はあまり書かなくていい、できるだけわかりやすくと。そして、表紙は利賀村のネパール同行のときに知り合った古川通泰さんに仕事として描いてもらいました。人によって、県の計画といえどもずいぶんユニークなことを、やればできる例だと思います。その方と2人で現地調査と称して県内を回り、天草にあるデザインが和洋折衷の民宿に泊まったり、人気の出始めた黒川温泉を視察したり、楽しい旅をすることができました。

●宝塚市のロゴ制作

 平成のはじめに企業や行政でCI計画が流行った頃、宝塚市からロゴを作ってほしいという依頼を受けました。そういう仕事の依頼を受けたのは最初で最後です。宝塚市職員の名刺に刷られている五線譜のロゴはそのとき作ったもので、今も使われてます。委託料は500万円でしたけど、実費で530万円かかってしまって、赤字でした(笑)。阪神競馬場で行われるお祭りで、3つの案を市民に見せてどれがいいか意見を聞いたり、いろんなことをしましたね。

 当時、日観協は相談窓口みたいな感じで、言えばなんとかしてくれるという存在だったんですね。「すみません、これしか予算がないんです」みたいな話がだいたい日観協に来るんです。一応、県レベルでいくら、市レベルでいくらという目安は決まっていましたけど、結局値段とは関係ないんですね。日観協としては県が会員なら、その下にいる市町村もやはり会員という意識をとらざるをえないところがあるので、頼まれればやるという感じでした

●松江市における都市観光の推進

 継続的に、そして様々な事業で集中して行った地域として松江市があります。始まりは、1998(平成10)年度自主交付金事業として「観光地づくり推進モデル事業」で松江市をモデルの1つとして取り上げたことでした。それを切っ掛けに、松江市より依頼があり、平成11年度から平成24年度まで日観協を通して人材を派遣しました。当時私が総務課長を行っていたのと旅フェアとの関係で旅行会社の方とつながりがあったため、東急観光から松江市へ日本観光協会を通した形で派遣をおねがいしました。さらに、1999(平成11)年度JNTOと共催で「国際観光シンポジウム」を開催しました。

 その後、松江市テーマ型観光推進事業(2000(平成12)年)、松江市朝の散歩道アンケート調査(2001(平成13)年)、松江市都市型温泉再生事業(2004(平成16)年)。そして2006(平成18)年に松江市観光振興プログラム策定調査事業を行いました。松江市都市型温泉地再生事業は、都市計画部市街地整備課からの委託でした。それは長く観光のセクションにいた方が市街地整備課に異動になり、人的に継続していたことによります。松江しんじ湖温泉が、中心市街地の中にあることにもよりました。そして、2007(平成19)年に「松江しじみ館調査事業」の依頼が年度末にありました。松江市が、その年の後期NHK連続ドラマだんだんの舞台となり、宍道湖のしじみが題材となるからでした。観光物産館を改造ししじみを中心とした会館にするというものでした。当初ほどの規模にはなりませんでしたが、現在、しじみ会館としてリニューアルされています。これが日本観光協会において、私が担当した最後の計画となりました。

第5回・・・元(社)日本観光協会 総合研究所長  古賀 学氏

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