観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏  3.「観光」に関する失敗と反省

2014.08.13

(1)我が国の観光の何が問題か

 いろいろ問題はありましょうが、前出してきたように観光プランナーという立場で、具体的にやってきた経験に基づいて挙げるとすれば、以下の4点です。

①「観光」に対する捉え方が明確に共有されていないこと

 昔ほどではないにしろ、観光に対するアレルギーや観光業が下半身を含めた少々いかがわしい産業という捉え方も無くはなく、観光が的確に理解されていないことが最大の問題ではないかと考えています。それゆえ、まず「観光の意味と意義」を観光関係者はもとより国民が正確に、しっかり理解・意識することが肝要なのではないかと思います。つまり、原点をしっかりさせることが大事であり、不可欠であると考えています。小生が観光を学び始めた1965(昭和40)年の頃は、観光は「神社仏閣や名所旧跡、各種文化財、行祭事などの観光対象を見ること」と教わりましたが、今はそうした観光対象に加え、その地域の生活ぶりや佇まいなど全てを含めて「光」とし、それを五感で感じることと考えており、それなくして美しい町・国土は出来ず、観光先進国並の観光立国はなし得ないと考えています。

 そもそも今使われている観光という言葉の語源は、中国の五経の一つである[易経(周の時代にまとめられた[周易])]の観の卦にある、「観国之光、利用賓于王」(国の光を観るは、もって王に賓たるよろし)に由来し、日本人が創った(と言うか、拾い出した)言葉です。その意味は、「他国の光を参考に観に行く時は、その国の賓客として扱われる」。つまり、周の時代(紀元前1100年頃~前581年)は、前半が西周、都を成周(今の洛用付近)に移した後半を東周といい、東周の前半は春秋、後半は戦国ともいわれています。この時代、まだ中国に仏教が伝わっておらず、今でいう仏教寺院等は無く、大衆に開放された庭園等も無く、群雄割拠の時代で戦争が絶えず、お互いに敵情視察を重要視していました。そうした視察を受け入れる側にあっては、自国の治世状況の良さを見せつけ、侵略を阻止しようとしたわけでしょう、国賓待遇でもてなしたようです。つまり、ここでいう「光」は、その国の生活ぶり、たたずまい(その背景にある王様の治世ぶり)を意味しており、小生は近隣国となにかと揉めている今こそこの原点に戻り、観光を捉えるべきだと考えています。

 我が国において観光という言葉を広く大衆が認知したのは、オランダ国王から徳川幕府に贈られた木造蒸気船に付けた「観光丸」という名前からではないでしょうか。察するに、観光丸と命名した意図は、進んでいる海外の実情を観るという意味が主であることは、まず間違いのないところでしょう。諸説があるようですが、観光の観という字は、「みる」と共に「しめす」という意味があり、観光丸という名称と共に、1875(明治8)年に岩倉具視が出した報告書『米欧回覧実記』の表紙に観光とあることから窺えるように思います(右参照)。つまり、単に先進国を観るだけでなく、わが国の意気をしめす(誇示する)という意味も併せ持っていたように思うわけです。因みに正式に購入した船には「咸臨丸」という名前を付けていますが、これは「力を合わせて事に望む」ことを意味しており、これら2つの船名に、明治開国時の高らかな心意気が感じられます(詳しくは『観光実務ハンドブック』(社)日本観光協会編、丸善の第1章観光概論、序論1.1観光理念(235頁~245頁)をご覧下さい)。

 こうした素晴らしい意味が「物見遊山」に矮小化された(?)のは、昭和初期と戦後の観光ブームではなかったかと思っています。小生が卒業論文を書いた時、担当の教授(この人の専門は観光ではなく、造林学)から、「前田君のやっている観光と、『観光新聞』の観光とどう違うのかね?」と質問され、困ったことがあります。当時、その『観光新聞』は、もっぱら下ネタを扱う新聞だったのです。

②「観光資源」の内容も変わってきたことに対応し切れていないこと

 それと共に「観光資源」の意味も、正確に理解することが必要ではないかと思います。前述した(財)日本交通公社が1971(昭和46)年に全国の観光資源調査を行った時は、その対象は神社仏閣や名所・旧跡、行祭事、各種文化財などで、今でもそう考える人が少なくありません。ここに我が国の観光地が、低迷している最大の原因があると考えています。つまり、既存観光地に「いわゆる観光対象」はあるものの、そこに生活感が乏しく、ヨーロッパの先進観光地に見られるような、街全体の美しさがなく、とても「住んでよし・訪れたくなる街」とは言えないからです。

図表22_美しき日本 例えば、右の上段は、(財)日本交通公社が1999(平成11)年に発刊した『美しき日本;いちどは訪れたい日本の観光資源』という本です。昔ながらの観光対象を網羅した、一種の日本全体の観光ガイドです。それに対して下の2段目、3段目は、1988(昭和63)年にニューヨークで出版された『ITALIAN  COUNTRY』CATHERINESABINO 1988 ClarksonN.Potter,Inc.という本の表紙と内容の一部です。内容は四季に分けられ、一季に2箇所のイタリアを代表する観光地域を取り上げ、そこでの生活を中心にその地域を紹介しており、3段目の写真はトスカーナのぶどう園における作業員が新酒を楽しんでいるところです。なんとも楽しそうで、一緒にワインをいただきたくなります。日本のは、まさに典型的な絵葉書を集めたようなガイドブックで、「一度行けば済み」となるのに対し、イタリアのは、「そこに行って、しばらく暮らしたい」と思わせるようなガイドブックです。この此岸の差が、インバウンドが4,636万人のイタリアと837万人(共に2012(平成24)年)の日本の差ではないかと見ています。

 そうした意味で、魅力的な国土づくりこそが最大の観光戦略であり、地域住民ひいては国民に「観光からのまちづくり」を理解していただき、その施策の実行に参加・協力をしていただくことが大事なのではないかと考えています。単に旧来型の観光資源、それに立脚した観光地、そこに成立するのが観光業という狭い範囲での捉え方を脱却し、「国土総景」「ふるさと賛歌・お国自慢・生活自慢」として捉えていくことが肝要ではないでしょうか。

 観光庁が設立されましたが、主に外客誘致に力が注がれている感が強く、国民に観光の意味・意義等に関する働きかけは皆無のようで、我が国の観光的な魅力アップを図っていないのではないか(?)と思えてしかたありません。現在は「第4次世界観光革命」が進行中で、アジアの国々の国民が観光旅行を本格的に楽しむようになりつつあり、2013(平成25)年の我が国のインバウンドは、1,000万人の大台を超えました。ASEAN諸国からのお客さんも増えていますが、今来ている観光客は主に上流階層で、彼らは世界規模で観光対象を選択していますから、しっかり国土磨きもしていかなければ、“卒業”されてしまう怖れも無いとは言えません。今、「お・も・て・な・し」が日本の観光的魅力として自己陶酔している感がありますが、サービスの良さ・料理の美味しさだけでなく、景色もおもてなしの一つですし、何よりも国民の笑顔のサービスに優るものはありません。

 その意味で何度も言いますが、国民が「観光の意義・魅力・楽しさ」をしっかり理解すると共に、胸を張って世界からのお客さんをお迎えできる「魅力的なふるさと・国土づくり」に、国民それぞれの形で参加することが肝ではないかと思います。手塩に掛けたふるさと・国土であれば、胸を張って観すことが出来るのではないかと思います。

③行政に観光の専門家が極端に少ないこと

 その意味で国や地方自治体が観光政策を立案し、それを全分野で総合的に実施していく役割は益々大きくなると思いますが、現時点では観光を専攻した役人が殆どいないこと、それに加えて担当者も2~3年で代わり、継続して政策が実行されないというのも大きな問題点だと思います。

 誰でも観光旅行をしたことはありますが、それで魅力的で、長続きする観光施設や観光地域が造れるわけではありません。前述した旧運輸省の観光レクリエーション室の若き室長さんもその一例ですが、運営のソフト設計もないままに、ただお金を掛ければいいとばかりに、お山の中に離れ形式の宿泊施設を造った首長さんや潮の流れがきつい海岸に、無理々々コンクリートで囲い込み、小さな泳げるビーチやマリーナを造ったものの、県外からの利用は全くないのに、毎年堆積する砂を排除するのに5千万円掛けている県(当時の知事)など、反面教師の事例は枚挙に暇がありません。

 バブル期に観光が大きく伸びたときに、その専門家を養成するために、観光関連の学科の増設やそうした学科や講座を持つ大学が数多く新設されました。一時は100を超える程になったものの、バブル経済の崩壊に伴い、大型複合リゾート案件が全て頓挫するだけでなく、既存の観光施設の倒産等が相次いだため観光の職場が急速に縮小し、「大学は出たけれど就職する先が無い」状態になり、観光関係の大学の多くは苦戦し、戦線を縮小していきました。集中講義でお世話になった佐世保にある長崎国際大学は、ハウステンボスが卒業生を全て引き受けることを大前提に生まれた大学でしたが、ハウステンボスが苦境に陥りますと一人も卒業生を引き受けることが出来なくなってしまいました。しかし、大学は薬学部を新設し、大学事業を継続するというしたたかさで、切り抜けようとしている(?)ようです。倒産後HISが経営を引き受けたハウステンボスは、当初の “現代の長崎出島(オランダ村)づくり”といった基本コンセプトをかなぐり捨て、ワンピースなどの思いつく全ての“流行もの”を実施して経営を立て直し、また長崎国際大学の観光学科の卒業生の雇用を再開しているかもしれません。このあたりは、「基本コンセプトの厳守・継続は、観光施設・観光地域づくりの持続の必須条件」と考えている小生には、よく理解できないところです。負け惜しみといわれそうですが、小生の半世紀に近い観光経験だけでなく、この間に知見した他分野等の老舗の、老舗たり得る企業理念のしっかりしていることを勘案しますと、HISのカリスマ社長がピークを過ぎたとき、やはりまた大きな転換に直面するのではないかとみていますが…。

 観光施設は、基本的に民間事業者に任せるべきだと思いますが、観光立国を目指す上で国や県、市町村全体の観光戦略は益々必要になると思われますから、それを立案できるとまでは行かないまでも、作成を担当するコンサルタントを的確に監督できる感性と知識を持った専門家を雇用したり、育成することは、きわめて大事なことだと考えています。しかし、それは簡単なことではなく、観光も優れて文化ですから、文化三代といわれるように、観光も成熟するには三代かかると思います。「観光三代」です。戦後で言えば、1945(昭和20)年代から1965(昭和40)年代に親であり、それなりに家族で観光旅行を楽しんだ世代を一代とすれば、その子どもが親になって家族で観光旅行を楽しんだ図表23_カリブ教本1975(昭和50)年代から1995年代で2代が経ち、2005年代から3代目に入った勘定ですから、そろそろ「初心忘れることなく」成熟した感性を身に付けたいものです。まだ混在していますが、一部には素晴らしい感性を持った首長さんや職員を見かけるようになってきましたのは救いです。一日も早く、もっと増えて欲しいと願っています。

④学童に対する「観光教育」が不在であること

図表24_カリブ教本2 「観光三代」として年輪を重ねていく上で、学童に対して観光の意味や意義、自分達でも出来ることを教えることは、非常に大切だと思います。これに関しては、カリブの国々が先生が学童に観光の意味や意義、サービスのあり方等を教える際の教本『カリブ観光教本』を見た時、そのレベルの高さに吃驚しました。右はその表紙で、左が小学校1年生に教える内容です。最初に教える〈基本概念〉も当たり前のようですが、大事なことを簡潔に書いてあります。基本概念の6.誰でも他の土地へ行けば観光客になる、を西伊豆町の先生が知っていれば、観光客を避けるようなことはなかったと思います。無論、当時伊豆の観光開発の仕方や、一部観光客のマナーが悪かったのは事実で、その点を問題にしたのでしょうが…。

 小生はこの本にいたく刺激され、前述したように宮崎県でおそらく日本初となる『観光副読本わたしたちにできることってなあに?』の制作をお手伝いし、それが一つの契機となっていくつかの素晴らしい「観光教育」が始まったのは、なんとも嬉しいことでした。また、こうした宮崎県の動きに刺激され、由布院等でも似たような動きが始まりましたが、残念ながら全国的には反応はあまりなかったように思います。とりわけ国がそれによって影響を受けたような動きが全くなかったのは、きわめて残念に思っており、旧(社)日本観光協会の総会で知り合った元観光庁長官の溝畑さんに関連資料を郵送したのですが、なしのつぶてでした。残念!!。 

(2)我が国の観光政策は有効に機能してきたか

 我が国の観光政策は、基本的に国や地方自治体が策定し、実施してきたようですが、これに関しては基本的にあまり詳しくなく、自分が係わったところでコメントすることにします。

 ●旧運輸省の「家族旅行村」の原案作成から実際の計画・設計までに携わって

 国の観光政策としては、旧運輸省の「中規模観光レクリエーション地区(通称家族旅行村)整備計画」というのがありました。旧運輸省としては、所管のユースホステルが小規模、大規模観光レクリエーション基地の中間に位置する施設として、大阪の万国博を契機に急速に増加してきた家族旅行をターゲットにして、フランスの家族旅行村をモデルに日本版家族旅行村を整備しようという政策でした。前述したように、その調査をラックが受託し、小生が担当してその原型を創るとともに、実質的には第1号として当時運輸省の外郭団体であった観光開発財団を通して、宮崎県の「須美江家族旅行村」の計画づくりから主要施設の基本設計までお手伝いしたわけです。

 運輸省の担当者の方も若い方で、原案づくりは基本的に小生に全て任せていただきました。ただ、発注担当の観光レクリエーション室(?)の室長さんは、たった1年の調査期間内に2度ほど替わりました。観光レクリエーション室が運輸省の出世ポストどころか、傍系もいいところで、キャリア官僚にとっては一瞬の腰掛けだった(?)のではないでしょうか。前述の通り、ある室長さんは、海外での個人的な旅行体験を得々述べるだけで、辟易したことがありました。つまり、観光計画的には全くの素人でした。観光開発財団の担当者も同様でしたから、こちらは観光計画の“専門家”ということで、ブイブイやって思い通りの計画を作成しました。

 迎え撃つ(?)宮崎県の、その当時の知事は黒木博氏で、岩切章太郎氏と“車の両輪”となって、宮崎県の観光振興を熱心に進め、それにより宮崎県の「沿道修景」は哲学、修景の美しさ、修景された沿道の長さなど、全ての面で我が国の最先端を行くもので、宮崎県をして“新婚旅行のメッカ”に押し上げる原動力になった方です。黒木知事さんが実行されたのは、なんとも素晴らしい観光政策でした。ですから家族旅行村の計画に対しても凄く熱心で、計画案の説明はすべからく知事室で担当の部長、課長が同席されて行われましたから、出来上がった計画は全て的確に実行されました。

 ただ、その後他の地域で家族旅行村が誕生したという話は、寡聞にして聞いていません。宮崎県の家族旅行村が実現したのは、一重に宮崎県の元知事黒木博氏の観光に対する感性・積極的な取り組みがあったことが最大の要因だったと思います。国策で国営公園等を自ら整備し、外郭団体に運営する例はありますが、国策の観光関連施策でも「実施するのは地方自治体」が殆どですから、国以上に地方自治体における観光の専門家の育成を図ることが大事ではないかと思います。

 ただ、首長さんに対する「観光教育」は、はなはだ難しく、いわんやこれから生まれるであろう首長さんに対する「観光教育」は、まったく不可能です。とすれば、前述したように、国民に対する観光の意味・意義の啓蒙同様、その本質を理解され、かつ観光客としてではなく、具体的に「観光からのまちづくり」を進める上で要点を学んだり、感性を磨くべく様々な観光地を一つでも数多く見られることを祈るばかりです。

 ●旧厚生省の「大規模年金保養基地」は大失敗だった

 旧厚生省の「大規模年金保養基地」、いわゆるグリーン・ピア計画においては、1974(昭和49)年に全体構想を担当しましたが、高齢社会に対する認識がまったく不充分で、机上の空論だったと反省しています。整備候補地の選定はあまりに政治的で、辺鄙なところに分不相応な大規模施設を造ったり、運営も外郭団体が行うなど当初から問題含みで、かなり早い時期に破綻が露呈し、結果的には大失敗だったと思っています。1972(昭和47)年にはじまって、2005(平成17)年3月に清算されたグリーン・ピアの総整備費は3,728億円、売り払った時点の合計額は48億円です。つまり、3,680億円、利子等をあわせますと約4千億円という国民の大事なお金が消えてしまったわけです。

 その全体計画は、年金福祉事業団から年金保養協会に委託され、そこから委託されて小生と同僚の渡辺貴介氏(その後東京工大に移り、教授。2001(平成13)年没)で主に下作業したものです。その当時、アメリカのサン・シティとかの“老人保養施設”が喧伝されていましたが実際に見に行くことはなく(この点が返す返すも痛恨!)、いろいろ机上で勉強しました。結果的に「サン・シティはまったく高齢者だけで、家族の見舞い・訪問も自由に認めないというのはいかがなものか。日本の老人保養施設はもっと大家族主義的な施設がいいのではないか」ということで、利用料金だけは年金受給権者を安くするという以外、結果的に誰でもが利用できる保養施設にしました。整備したところが、利用しやすいところとは言えない不利さにお役所的な運営もあって、思うように人が集まらず、短い命になってしまったわけです。

 この大規模年金保養基地は、経済高度成長期においてもてはやされた“第三セクターによる大規模プロジェクト”の一つです。モデルはフランスのラングドック・ルシオン地方(マルセイユの西側。東側は19世紀初頭からリゾート開発が進められ、高級リゾート地に成長したコートダジュール)の開発です。このラングドック・ルシオン開発は、急増する大衆リゾート需要に応え、かつ開発が遅れていたラングドック・ルシオン地方の活性化のために進められたものです。その手法として、官(第1セクター)の許認可権と民(第2セクター)の資金力・経営ノウハウを生かすべく、共同で第3セクターを設立して事業を進めたわけです。この開発方式が成功した要因として、第3セクターに土地の先買い権を与えたことと、拠点毎に建築デザインを1人又は1チームに任せて、統一された景観を創り出したことが大きいと見ています。しかし、わが国はそうした“肝”を学ぶことなく“格好”だけを真似、以降雨後の竹の子のように第3セクターが生まれたものの、観光関係の第3セクターの半数以上は赤字です。なにしろ第3セクターより先に偉い人が土地を先に買うことがあるくらいですから、うまくいかないのも無理はありません。嗚呼。

 ●大規模保養基地整備法は通称リゾート法と呼ばれたことが間違いだった

 大規模保養基地整備法(1987施行)も前述したように、計画をする人間をはじめとして観光関係者の未熟さ、にもかかわらずそうは思っていなかった「夜郎自大」さ故に、大やけどをしました。この法案の元は、前述したラングドック・ルシオン開発等を見た議員さんの発案で始まった格好ですが、フランスは労働時間の短縮(休日の増加)等に係わる法案を後々リゾート法と呼ばれるようになったのに対して、我が国は旅行の発生に係わる労働時間の短縮や有給休暇の消化には手をつけずに、リゾート先の受け皿の整備を先行してしまいました。フランスと後先が逆でした。

 リゾートブームが起きたのは、3つの要因がありました。一つは、バブル景気による金余りと国民の欧米なみのリゾートに対する期待です。特に株は鰻登りで上がり続けており、週刊誌も「毎週が給料日」と株の指南コーナーを設けて煽っていたくらいです。もう一点はバブル経済の熱気が届かず、相変わらず過疎等で寂れる一方の地方が、千載一遇のチャンスとして開発の誘致に狂奔したことです。それも規模が大きいほど経済効果が大きいと踏み、土地提供など積極的に協力しました。宮崎県も一つ葉海岸を整備候補地に挙げ、地域一帯に保安林の網がかかったところでしたが、当時の松形知事は元林野庁長官という経歴を生かし、福島県と三重県に並び第1号で認定され、整備に漕ぎ着けています。

 3つ目は、事業の拡大を考えていた、これまでリゾートに係わってこなかった既存の企業群の参入です。地上げ屋さん、鉄鋼屋さん、焼き肉屋さん等も参戦してきたように見聞しています。それには政治家の陰もあったようです。共通しているのは、理念や理想よりも目先の開発利益の追求です。なにしろ整備が100億円単位で、1,000億円もあろうかというレベルでしたから、まさに狂奔したわけです。

 しかし、バブル経済の崩壊によって直ぐさま旅行需要が萎縮し、受け皿は一気に倒産してしまい、しばらくは「リゾート」という言葉は禁句になったほどですし、リゾートのイメージは最悪になりました。その意味で大規模保養基地整備法をリゾート法と呼ぶのは間違いだと思いますが、いまだに使われていることがあり、「大規模保養基地整備法憎ければリゾートも憎い」となり、リゾートのイメージは立ち直れないほど傷付けられ、身の丈にあった日本らしいリゾート・ライフが定着しないのは、なんとも残念な話です。

(3)私は観光分野で何を失敗し、反省しているか

 半世紀近く観光に係わり、複数年に係わるものも含めますと約400件に及ぶ調査や計画に携わってきましたから、前述した「大規模年金保養基地」や大規模複合リゾート計画等も含め、いくつもの失敗や未熟故の後悔を重ねてきました。計画での失敗は、仕事を依頼していただいた方には、大変申し訳ない話ですが、あえて3つの例をお話しすることにします。

 ●計画対象地の歴史・風土の理解が不充分だった山形のワインレッド・クアパーク

 山形県南陽市の温浴施設「南陽ワインレッド・クアパーク」の計画を手掛けたことがあります。1989(平成元)年でした。それに先立ち1987(昭和62)年に、明治時代にイザベラ・バードがこの置賜盆地を訪れ、彼女がこの地域を「東洋のアルカディアだ」と言った言葉を“金科玉条”として、山形県が温泉地の数(83箇所)、温泉保有市町村率(84.1%)など全ての面でバランスのとれた日本有数の温泉県であることを示し、それに基づいて山形県温泉地振興計画『山形県クア・アルカディア開発基本指針』の策定をお手伝いしています。その計画は、核となる温泉地を「クアポリス」とし、核となる拠点を「クアパーク」、そこにドイツのクア施設のような「クアハウス」を全県的に整備していこうというものです。

 その第1号として、南陽市で計画したのが「南陽ワインレッド・クアパーク」というわけです。南陽市はブドウの産地でもあり、ブドウ畑に囲まれ、見晴らしも良く、日当たりも良い、小高い場所を整備適地として選びました。そしてイザベラ・バードに因んで、ワインカラーの洋風の建物にしたわけです。ところがその場所が、実は江戸時代に制定された赤湯八景の一つで、小高いところに臨雲亭という建物もあったそうだったのです。恥ずかしいことに赤湯の歴史を充分に調べず、イザベラ・バードの足跡に目を奪われ過ぎていて、赤湯八景のことまで全く思いが及びませんでした。

 また、ぶどう畑を取り込んだものを計画していたのですが、当時の農地法では農地を農業用以外に利用する場合、ブドウの木を伐って農地でないようにする必要があった(?)そうで、“ブドウ畑に囲まれたワインレッド・クアパーク”にはなりませんでした。また、当初からソフトの設計も行う予定でしたが、実施設計からはまったく係わりが無くなってしまいました。理由は解りませんが、施設の名前もよく解らないハイジア・パークという名称になり、驚きました。経営的にはなかなか苦労されているみたいで、トータルに関われなかったという不満足さ以上に、計画の未熟さを申し訳なく思っています。

 ではどうすればよかったのか。「れば・たら」の話になりますが、赤湯八景の伝統を活かし、地元の材をふんだんに使い、道後温泉のような和風の施設を造れれば良かったかなと思います。とは言え、当時は和風なものを提案しても通る時代ではなかったのも事実です。事実、山形県の別な町でプール付きの温浴施設の話があった時、「是非、和風の施設を」と話したら、小生に任されることはありませんでした。当時地方の方は、より強い都市志向(西洋文明志向)を持っていたように思います。その頃、富山県で健康関連施設として和風の施設を提案したときは、「富山じゃ受けません。若い人が古い自宅を壊して洋風にする時代です」と一蹴されたことがありました。同じような言葉は、京都の茅葺き集落の京都の美山や五箇山でも見聞きました。「古い建物を残しておくのは恥ずかしい」と、お金を持っている人ほど早めに、茅葺き屋根の家を現代風の家に建て替えていました。地方で当時、「和風というのは昔風で、現代風ではない」という風潮が強かったですが、今思えば、もう一歩先に踏み込んで地元の歴史を学び、頑張ればよかったかなあという反省はあります。しかし、それだけの歴史観や理念・哲学が無く、未熟さを羞じる以外ありません。 

 ●本格的なリゾート・ライフの経験も無いままに、「想い」だけが先行した鳥羽浜離宮

 私が「日本型リゾート」という言葉を使い始めたのは、前述した山形の仕事の後くらいからだったと思います。前にも述べましたが、大規模複合リゾート計画がブームになった時、アメリカのボカウェストやハワイのハイアットリージェンシー・ワイコロナ、ニースやコートダジュール、ラングドック地域、イタリア・サルディニアのコスタ・スメラルダなど海外のリゾートをいろいろ見ました。その中で印象的に残っているのは、ラングドック地域のグランド・モットとポート・グリモーの違いです。

 前者は、海に張り出す形でマリーナを整備し、海岸沿いにビル風が生じないように三角形のマンションを林立させた、ポンピドーセンターを設計したジャン・バラディールが手掛けた極めてモダンなリゾートで、最初に見た時(1972)は、さすが“20世紀のピラミット”と吃驚しました。しかし、2度目に見た時(1986)は、斬新なデザインのマンションを、フランスの大衆が買えるような安い価格で販売できるような“安普請”にしたため(?)、マンションの壁にクラックが入っていたりして、全体に色褪せて見えました。しかし、その時見たポート・グリモーは、グランド・モットとはまったく逆でした。マリーナは内陸側に掘り込み、それに沿って三層のシックなマンションの出来ており、全て縦割りになって屋根の高さや壁の色も変え、「個」が主張されたリゾート・マンションで、家の前からヨットやボートに乗れるようになっています。これを設計されたフランソワ・スポーリーさんの設計事務所もこの中にあり、たまたまおられた氏とお会いし、お話しを伺うことが出来ました。曰く、「全体のコンセプトはジュネーブの博物館で見た、海上に建てられた高床式の家がヒントになった」と聞き、博物館の意味も含めていろいろな意味で“目からウロコ”でした。ここは、時間が経てば経つほど味が出て、価値も高くなるリゾートだと思いました。

 大規模複合リゾート計画のブームは、前出したように1987(昭和62)年に施行された総合保養地域整備法がきっかけでした。三重県をして第一号承認の一因になった、鳥羽市の大規模複合リゾート計画のプランづくりの話が来たのが、法律施行の1987(昭和62)年でした。そうそうたる一流企業からなる委員会が設置され、その一員である知り合いの清水建設の人が「小生に頼みたい」ということで、元IBMの副社長さんをされていた濱口光彦鳥羽市長を紹介され、お会いすることになりました。その席上欧米のリゾートに対する小生の印象等やそろそろ日本も日本らしいリゾートを造るべきだと話し、“口頭試験”に合格した格好で小生が担当することになりました。市長さんは「どうせ造るなら鳥羽市らしいもの、できれば和風のリゾートを造りたい」ということで、潮の干満を利用して海水を循環させている東京の浜離宮をモデルにした「鳥羽浜離宮」を提案し、賛同をいただきました。以降は一切お任せで、事業性を考えてかなり大規模なものになる予定でした。

 しかし、バブル経済が破綻したとたん、リゾートブームはピタッと終わりました。なんとか規模を縮小したりして実現を図ろうとしたみたいですが、徒労に終わり、実現しませんでした。その後、各地の大規模リゾートの破綻の厳しさを知るにつけ、実現しなくて良かったと胸を撫で下ろしています。つらつら考えてみるに、国内外のいろいろなリゾート地を見に行きましたけど、せいぜい1泊2日で、ゆっくり滞在してリゾート・ライフをエンジョイしてみる経験はまったくありません。つまり、「滞在する」という概念というか、中身が解っていませんでした。

 大規模リゾート計画の参考にすべく、イタリア・サルディニア島の「コスタ・スメラルダ」を見に行って、現地で聞いた話です(今となってはうろ覚えですが)。「コスタ・スメラルダ」をプロデュースしたアガ・カーンⅣ世は、世界で有数の競走馬の所有者で、世界期に浮き名を流した父アガ・カーンⅢ世に連れられ、小さい頃から世界のいろいろな一流リゾートを見て育ったのでしょう。アメリカに留学していた時、サルディニア出身の同級生から「サルディニアはもともと流刑地で、開発が遅れているので、なんとかリゾート開発をして欲しい」と頼まれたそうです。我が国の総合保養地域整備法施行の時と同じです。Ⅳ世は、最初は出来ないと断っていたそうですが、口説いた同級生も必死だったのでしょう。ある天気のよい日に、船で海に連れて行き「ほら、陸から見るとゴツゴツなのに、海から見るとこんなにきれいだろう」と。その景色と熱意にほだされて、リゾート開発をすることになったそうです。

 しかし、Ⅳ世がとった行動は、実に堅実かつ大胆でした。まず、最初にローマとミラノからの空路を拓きます。そして地元に、開発資材にも使うべく、地元の土を使って出来る煉瓦工場を建てています。それと共に、乱開発を防ぎ、地域全体の景観の調和を図るべく地域全体の景観計画も策定しています。そうした地ならしをした上で、ホテル整備に取り掛かります。小生が行った時は、ホテルは4軒しかありませんでしたが、共通しているのは非常にシンプルな基本コンセプトでした。静かな環境で、人目につかず、静かにリゾート・ライフを楽しめることを基本とし、施設構成はシックなホテルとレストランとプールとビーチだけです。一軒だけテニスクラブとマリーナがありますが、自分の船で来る方も多い、富裕層をターゲットにしたリゾートです。見せてくれませんでしたが、最高級のビトリッツアというホテルはコテージ・タイプで、屋根は島の石を張って空からも見つけられにくくしており、海岸線にも木を植え、部屋からは海が見えるが、海からは覗かれないようにするなど、徹底してプライバシーが保たれるようにしています。実際に見たロマンチーノというホテルは、その名のようになかなかロマンチックな、おしゃれなつくりで、客室もそんなに大きくなく、割と小さめでしたが、お隣のベランダが見られないようになっていました。恋人とベランタで何をしても見られる怖れはないわけで、つくり方が上手だなと思いました。なんとも「桁違い」の経験の差で、見事なプロデューサーでした。

 ●「夜郎自大」だった大規模リゾート計画

 バブル経済によって派生したリゾートブームや1987(昭和62)年に施行された総合保養地域整備法に後押しされた大規模リゾート開発ブームの際には、前述した「鳥羽浜離宮」を含め、220数件の大規模リゾート計画を手がけました。幸か不幸か一件も実現せず、今となっては胸をなでおろしています。

 計画を作成するのにあたって、それなりに世界のリゾートを見ましたが、そこでリゾートをしたことはありませんでした。ポート・グリモーを見てそれなりにツボは掴んだように思いましたが、計画・設計者のフランソワ・スポーリーさんはそこに事務所を構え、365日リゾートを体験しつつ、世界各地のリゾート計画を手掛けているわけですから、経験のレベルが違います。コスタ・スメラルダも、開発者のアガ・カーンⅣ世の豊かな体験を踏まえ、その上でもっといいリゾートを造るにはどうすればよいのかを考えた結果、セレブ御用達のリゾート;コスタ・スメラルダが出来ているわけです。

 自分自身、長期のリゾート滞在を体験したことがないまま、大規模リゾート計画をしたのは、まったくの夜郎自大だったと反省しています。因みに夜郎自大というのは、漢の時代、中国大陸の西にあった夜郎国は、漢がその又西にある越南を牽制するため使者を夜郎国に派遣した時、夜郎国王は尊大にも「我が国の漢とどちらが大きいか?」と聞き、使者を絶句させて、その後夜郎国は漢に滅ぼされてしまいます。つまり、「世間知らずで、自信過剰」なことを言います。なんとも当てはまりすぎる言葉です。嗚呼。

 ●書き残したい『私製観光黒書』

 そういう意味で今、私が一番書きたいのは、失敗事例を集めた『私製観光黒書』です。約半世紀観光に係わってきて体験したり、目撃した失敗事例やひどいと思われる、観光関係の“悪い事例集”です。それを集め、そうした悪しき“二の舞”を踏むことなく、小生のテーマである「観光からのまちづくり」に邁進すると共に、畏れ多くも世界の誇れる観光立国の一石たらんと考えたわけです。毛沢東の言葉を借りれば、「反面教師例集」を自分なりに整理しようかというわけです。自他共に見られる夜郎自大的な失敗事例集です。本の題名を黒書としたのは、昨今の観光白書が何ら反省すること無く“自画自賛”に終始しにもかかわらず状況が徐々に悪くなってきているのを“おかしい”と考えたことによります。

 振り返ってみて思うに、観光に携わる人、とりわけ公務員の方で、大学で観光を学んできた人は極めて少なく、また殆どが2、3年で異動してしまうため、じっくり観光のあり方を考える時間が殆ど無いのが実情でしょう。個人的な旅行体験の多い方もおられますが、サービスする側とされる側では全く違い、むしろ観光地域の計画に個人旅行の体験を振りかざすのは、マイナスな場合も少なくありません。武士の商法と同じです。そうした人への情報提供として考えられたのが、国内外の“成功事例集”です。今でも成功事例集が多く出されていますが、それが「何故生まれ」、「現在どうなっているのか」、「なんら問題はないのか」、「将来大丈夫か」をしっかり精査しているだろうか、と疑問に思うことも少なくありません。そうした成功事例集の編著者として記されている、高名ではあっても観光地や施設づくりの専門家ではない委員長や委員の名前を見ますと、全ての現地調査をせず、調査会社のリポートを机上でチェックしているだけのも少なくないのではないでしょうか。それゆえそうした事例集は、それを鵜呑みにするのは論外で、せいぜい視察に行く対象を選択する資料の一つぐらいの役割でしかなく、それ以上を期待するのはケガの元だと思います。

 諸行無常の世界ですから、何時までも“成功を続ける”こともないわけですからそうした“視察先選定参考事例集”にあまり目くじらを立てるよりも、同じ轍を踏まないためにも“失敗事例集”こそが、学ぶべき点が多いのではないかと思うようになったわけです。しかし、観光のマイナス面の現状を書くのは、成功事例を書く場合の何倍かの検証が必要なため、うまくできるかどうか、少々不安もあります。その点、アレックス・カーの『犬と鬼』を読んだ時(2003(平成15)年)は、本当にびっくりしました。鋭い指摘も去りながら、最初英語で書かれた本の巻末には、400以上の引用・参考文献が名を連ねてあります。そこまで出来る自信はありませんが、恥をさらしつつ、拙い一石を投じようと考え、自らも荷担し、かつ見聞きした悪事例を“黒の10箇条”とした、目次案は以下のとおりです。

図表25_観光国本


第3回・・・リージョナル プランニング代表  前田 豪氏

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