観光地づくりオーラルヒストリー<第8回>三村 浩史氏  1.「観光」への接近

2016.06.14

ホスト・ゲスト論で語る観光

             

京都大学名誉教授

三村浩史氏

 

 1934(昭和9)年和歌山市生まれ。1959年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。大阪府企業局技師を経て1960年京都大学工学部助手、1964年京都大学工学部助教授。この間、地域計画、居住環境計画の立場から観光を研究。1968年に「地域空間のレクリエーション利用に関する研究」で工学博士。1985年京都大学教授、1997年京都大学名誉教授。

 

三村浩史氏の年表
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【主な著書・編訳書】
1971年『都市を住みよくできるか』
1978年『都市計画と中小零細工業』(共著)
1980年『人間らしく住む都市の居住政策』
1981年『歴史的町並み事典』(共著)
1985年『世界のすまい6000年』(共訳)
1987年『すまいの思想』(NHK市民大学)
1989年『すまい学のすすめ』
1990年『サンアントニオ水都物語』(共訳)
1991年『観光・リゾート開発の人類学』(共訳)
1991年『住環境を整備する』(編共著)
1993年『近代建築物の保存と再生』(共著)
1997年『地域共生の都市計画』
2006年『歴史都市の破壊と保全・再生』(編共訳)
2010年『京町家の再生』(共著)

     2015年10月6日 京都市景観・まちづくりセンターにて
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(1)なぜ観光の道を選んだのか

●建築学科での恩師との出会い

 私の生まれは和歌山県和歌山市です。紀ノ川の河口、南側の高台に伏虎城と呼ばれる天守閣が優美なたたずまいをみせています。その城下町の西北海岸の一帯には紀淡海峡から季節風が吹き上げた砂の丘がひろがり、新しい町が開かれました。私の生家はその町の一角にありました。

 三村の本家は実業家で、紡績業や金融業を営んでいました。私の父は紀ノ川中流の農家出身で三村家の娘婿養子となり新宅を設けました。職業は小学校教諭で師範学校時代から油絵が趣味で、独立展に出したりしていました。自宅の2階はアトリエで、絵描き仲間の出入りもあって、美術に親しめる家庭環境だったと思います。

 私も見様見真似で絵を描いたり、中学・高校では鉄道模型やラジオの組立てなどをしていました。大きくなったらラジオ屋さんになるか建築の設計屋さんになるか。大学受験の学科選択では第一志望を建築に、第二志望を電気にしましたが、どちらかにこだわっていたわけではありません。浪人する余裕もありませんでした。後からおもえば実に大きな選択だったわけです(笑)。

 入学して、とりあえず「美術研究」サークルに入れてもらい、博士コースの先輩に連れられて主に近畿地方の社寺や仏像などを訪ね、史跡名勝を巡りました。観光という点から振り返ると、それまで旅行などまともな体験はありません。小学校時代は軍事体制下、戦災、敗戦、中学校・高校時代は食糧難、インフレで貧しく、和歌山から外へ出たのは大阪難波・心斎橋での買い物・映画と修学旅行で訪れた奈良の正倉院まででした。京都へ来たのは大学受験が初めてでした。美術研究サークルの指導教授はインド哲学の上野照夫※1先生で、毎回のフィールドでの解説には実に魅せられました。もっと旅に出て建築や美術、未知の地域を巡りたいという衝動が溢れてきました。それまで閉じこもっていた反動でしょうか。

 そうした活動を通じて建築や美術からそれらが鎮座まします地域へと関心が移り、やがて建築や住宅の街並みにもいざなわれて、大学院修士への進学段階になると、地域都市計画、各地の居住地計画をテーマとする西山夘三※2助教授のゼミに入れてもらいました。国民のための住宅問題や都市づくりの調査と研究が大事だという問題意識とともに、このテーマなら各地への旅行の機会が多くなるぞという下心の方が大きかったかもしれません(笑)。

 私が大学院に入ったのは1957(昭和32)年ですが、この時代の日本は戦後復興から国土開発の時代に入っていました。政府は国土における人口、産業、都市の配置構想を立てており、建築界もニュータウンや産業団地、区画整理など公共建築ブームでした。

 都市・地域計画というと、それまで工学系では土木工学が主力でしたが、住宅団地やニュータウン建設など、建築学からの参画が増えたのもこの頃からです。「これは面白い」と、私は千里ニュータウン計画などに夢中で参加していました。

 一方、観光地の美観やデザインという点に関しては目立ったテーマではありませんでしたが、西山先生をはじめ、建築や造園、土木や工芸などデザインの専門家が声をあげ始めていました。先生は「観光地にも関わらなくてはいけない」と戦前から主張されており、いくつかの府県や市の観光振興委員会のメンバーにも参加していました。西山研に入った当初の私は、そのことも知らずに、旅すること自体が嬉しくて「なんでもみてやろう」と先輩の調査のお伴や自費のローコストツアーに耽っていました。

(2)観光との出会いはいつ、どこで・・

●大学院でレクリエーションを学ぶ

 当時の池田内閣が目指した理工学系の倍増構想に伴い、京大の建築学科も一学科増設することが決まりました。そこで地域都市計画部門としてできたのが「地域生活空間計画学講座」という長い名前の講座です。住環境、都市構成と移動、レクリエーション空間までと、非常に幅広い範囲をカバーする講座でした。土木学科にも既に都市計画の講座があったのですが、京大の土木と建築は反りが合いにくいところもありましたので、建築系らしいキャラクターでいこうということになったようです。住生活、生活様式等にかかわる研究をしていたので、講座にも「生活空間」という言葉が入っています。

 ここで西山先生が重視したジャンルのひとつは、レクリエーションとその空間の課題でした。これはル・コルビュジェ※3の影響を受けていると思います。ヨーロッパでは第一次世界大戦後、1920年代に近代都市計画の動きが出て来て、住居と職場と余暇生活のための空間という3要素を近代交通システムで繋げば都市ができる、とコルビュジェなどが主張していました 。そのためには余暇生活研究も合わせて大切だということです。

 西山先生の新しい講座では、住宅計画や都市開発論をメインに研究していましたが、私は西山先生から突然「お前はレクリエーションの研究をやれ」と言われました(笑)。特に観光空間に関するテーマを研究しろ、と。最初は「え?」と思ったけど「まあ、やりましょう」ということで始めましたが、当時は厚生省が健康白書とか余暇時間の保有について調べていたくらいで、レクリエーションについて教える先生もおらず、学べる環境もありませんでした。だから私は独学で旅行の民俗慣習や旅行風俗などの文系資料を学習していましたが、それだけではリアリティがありません。

 そこで西山先生から3,000円くらいもらって、東京の官庁街を5日間かけて周り、余暇に関わりのある官庁や国鉄などのそれらしい機関をまわって資料を集めました。そこで、どういうことを今やっているか一通りつかんだことが後で役に立ちました。

 労働と余暇などの社会経済論も参考にしました。余暇論というのは労働論と結びついて、一つの論拠があるんです。労働は心身を消耗させる。それを余暇時間に休養して労働力を再び回復させる(Re-Create)」ということがもともとの意味でしたが、さらに自由時間として気晴らしや健康増進などの機会とみる。つまり、レクリエーションに対する考え方としては当時、消極派、体力回復派、人間形成派の三派に分かれていました。西山先生は人間形成派で、余暇生活とは積極的に人間の暮らしの領域を広げ、能力を展開する場でなければいけない、と主張していました。私もその考えに賛同して、そっちの方向でやってきました。

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●城崎温泉で観光開発の現場にふれる

 1959(昭和34)年の秋、兵庫県の城崎温泉街から20分くらい北側の日和山海岸地区で小さな旅館を経営しているご主人から西山先生に「ひと回り大きな観光開発をしたいので計画案を描いてほしい」と相談がありました。兵庫県下では西山先生はよく知られていました。先生は兵庫県の観光関係の委員をしたり、姫路城の入り口広場にある迎賓館を設計したりしていました。迎賓館は木造本格和風で豪快さを感じさせる先生の数少ない建築作品の一つです(現存)。また、城崎町ではまち並み風景から見ても大切な外湯めぐりの各温泉の改築や新築の設計を指導していました。一番目立つコーナーの地蔵湯は和風とコルビュジェ風が混ざった、何ともへんてこなデザインでしたね(笑)。

 その建物や地元の老舗旅館の改造で西山先生は城崎温泉でも有名になり、声がかかったんです。ところが、先生は忙しいので「お前行って聞いてこい」と言われ、私が現地に行くことになりました。25歳、修士2年の大学院生が1人でやってきたので、先方さんもさぞ面食らっただろうと思いますが、1週間住み込んで現地観察と要望のヒアリングをして計画条件の整理をしました。2回目の訪問では開発スケッチを持参してより具体的に磯遊びの場を考え、デザインしました。

 相談を依頼されたご主人は、地元で魚の行商を永年続けて財を成して実業家に成長した方と聞きました。地元の様々なこと、例えば地形や海の様子などもよく知っていて、磯を使ってどういう遊びができ得るか、また来客が楽しく過ごす様子などかなり明確なイメージを育んでおられました。例えば浦島太郎の物語をベースに、自然を大切にしながら磯遊びや釣り堀などが楽しめる海岸遊園を作りたいという腹案がしっかり出来上がっていました。面白い方でしたね。

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 そのアイデアを私が聞き取り、対話を通じて自然景観・造園・レクリエーションの空間的利用の分析を加えたスケッチをレポートとして提出したら、この原案がかなり採用された様子です。

 一昨年孫達を連れて訪れてみたら、驚いたことに約50年間存続していたんです。過大に開発せず、中規模で自然も残し、周囲の一帯と調和していました。これが、私の観光事業とのお付き合いの始まりです。

       三村先生によるスケッチ(1959年)
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 当時、民間でレクリエーションの専門家も観光地コンサルタントもまだ稀だった時代でした。後になると民間コンサルタントとか電鉄資本などが開発プランをもって進出してきます。開発の審査でも、たとえば山陰海岸国定公園の指定は、それから4年後でしたから自然保護関係のチェックはありませんでした。

 歴史保存などがテーマですと著名な先生方からのチェックを受けて、間違ったことをいうとすぐ指摘されるけど、観光については正解がなかったのか、間違っているという人はいませんでした。世間知らずの若者でも役に立てたのは,この当主のように、地元のことをよく知り地道に考えながら観光地づくりを進めてきた人がいたからです。各地でのそういう先駆者たちの仕事振りや業績のことをもっと明らかにしておきたいものです。

※1 1907-1976 昭和時代の美術史学者。インド美術・ヒンズー教美術の研究で知られた。京都大学名誉教授。(デジタル版日本人名大辞典+Plusより)

※2 1911-1994 住宅研究の第一人者で、古都の景観保存運動にも積極的にかかわった。京都大学名誉教授。

※3 ル・コルビュジェ 1887‐1965.スイス生れパリ育ちの建築・都市計画家。複雑に入り組んだヨーロッパの伝統都市を否定して、緑のオープンスペース(戸外レクリ空間含む)で囲まれた超高層の住宅街やオフイス街に再開発することを提案した。このような都市機能の分離と交通手段による結合は近代機能主義=funtionalismとして世界に影響をあたえた。1922『300万人の現代都市』(パリ)、1930『輝く都市』1933『アテネ憲章』(近代建築国際会議、中心リーダー)。

三村 浩史氏 2.観光における取り組み

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