観光地づくりオーラルヒストリー<第8回>三村 浩史氏  2.観光における取り組み

2016.06.14

観光分野で何をやってきたのか

●過密・通過型レジャーへの疑問

 大学院を出た後は大阪府の技師として就職し、千里ニュータウンの設計に3年間従事しましたが、1960(昭和35)年に西山先生から新しい講座の助手として呼んでもらえました。

 この頃は高度経済成長期で全国総合開発の時代とあって、東京オリンピックや万博の開催、新幹線や高速道路の建設などで急激な都市化が進みました。所得倍増、余暇時間微増でしたが、都市化によって集中した人口が休養レクリエーション空間に殺到した時代でもあります。

 この現象は、大衆レジャー=マスレジャー時代の到来と呼ばれていました。私は、このマスレジャーの実態とそのためのアウトドア・レクリエーション空間の確保を観光研究のテーマとしていました。

 当時はどこもかしこも混んでいて、遊園地なども人で溢れていました。琵琶湖のそばにあった「紅葉パラダイス」(2016年3月に跡地に立つ巨大マンション団地売り出しがはじまった。)などの「ヘルスセンター」と呼ばれる施設が人気で、大浴場やプールに入ったりショー宴会を楽しみバスで帰ってくるといったレジャーが盛んでした。マイカードライブが流行る少し前で、大型観光バス時代の到来です。

 京都市内では東山から北上して、大文字山のふもとに建設するゴルフ場を経由して比叡山まで走らせる東山ドライブウェイを建設しようという計画がありました。さすがにこの案はつぶれましたけどね。まさに当時のレジャーは過密、雑踏、通過型でしたね。その頃から、私はそういうのは過渡期にしたいと思っていました。

●オランダ視察と琵琶湖の「湖岸公園化構想」

 1960年にオランダを訪問することになりました。当時、日本政府は国土開発のため国連からの基金導入をはかっていました。京阪神大都市圏の整備もそのプロジェクトのひとつでした。その予備調査の主査として来日したのが、オランダ社会計画研究所(ISS)のタイセイ・J・P教授でした。彼はISSの理事で、有名なオランダ中部大都市圏構想を実現させたプランナーでした。アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒトなどの都市が国土の中央の低地帯を囲んでイヤリングの珠の様に並んでいます。新しい人口や産業を受け入れ発展するのには低地を開発するのが安易であるのに、環状ベルト内のきめ細かい開発でコンパクトなまちをつくり、真ん中エリアは農業、戸外レクリエーション、自然保護、風土景観など多様な意味を持つ緑地ゾーンとして育てることにしたのです。

 タイセイ教授は、京阪神も自然特性や歴史からして、それぞれが特色をもっている都市連坦地域の例であるとして大変に興味をしめされ、毎年彼がオランダの研究所でやっている「総合計画」(Comprehensive Planning)専門家研修コースのテーマにこの素材をとりあげることにされました。おかげで、日本からも数人が資料持参と説明、共同討論の助っ人として招かれたのです。

 初めての海外、各国の専門家との応対は大変でしたが、各地域の視察や行政訪問で、この国の空間計画の政策や保全の様子を確かめてみたり資料を収集することができました。

 オランダは国土計画を国が全部行い、緑地計画がすごく系統だっています。よその国の国土は神が造ったが、オランダはオランダ人が造ったというだけあって、大小多数の水路も両側がオープンスペースとして開放されています。そういう風にスペースをきちんと系統立てて確保するという取り組みに感心して帰国しました。

 帰国後、1970年代に入ると、琵琶湖では京阪神の水需要の増加に対応するため、「近畿の水がめ」として、湖岸に堤防を築いてダム化する計画が総合開発の名の下で進んでいました。並行して、湖畔の埋め立てや切り売りなどの乱開発が進行していました。私はその頃、京大の助教授になっており、対抗案として自分の研究室で大津市域について「浜大津地区における湖辺空間の現状と問題点」という報告を自前で発表しました。市民や行政もみたいというので、市に印刷してもらいました。

           図 浜大津地区における湖辺空間の現状と問題点
(大津市は三村研究室の調査報告を貴重な資料として、研究室の厚意を得て複製して活用することとした)

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 すると、琵琶湖国定公園管理のために国から県の自然保護課へ出向していたスタッフから電話があり「乱開発が進む琵琶湖全域についても同じように提案ができないか」と言われたのです。

 丁度この時期、京大理学部の先生達を中心とした琵琶湖総合開発問題研究会が琵琶湖開発に批判的な調査活動を開始していました。私はこの会のメンバーから湖岸の生物学や生態学、保存のあり方について助言を受けることができて、利用と保全の地域類型パターンをデザインしました。

 こうした助言はとても役に立ちましたね。例えば、葦のある湖岸の生態は大切だから埋め立ててはいけないとか、内水路や内湖の意味などについてです。そういう要素を入れ、県への報告書としてものすごい勢いで「琵琶湖岸公園化構想」を作り上げました。かなり粗い仕事でした。

 この案がその後どれだけ役立ったかはわかりませんが、琵琶湖の水質や生態を守る運動でも、湖岸の景観とアメニティを一体的にイメージできる視覚的効果をモデル化しておくことはそれなりに有効だったと自負しています。

 それまでも、せっけんで水を汚してはいけないとか、水をたくさん取り過ぎるなといった意見が多々ありました。そういう意見と、湖岸を維持していこうとする形態的なイメージとが運動を通じて一致していくと、形あるものとして理解できるようになりますね。そういう湖岸の姿を描き出せたというのは意義があったと思います。

 この計画を見て、海岸防災協会という非常に権威ある団体からも原稿を書いてくれと言われ、寄稿しました。この時期、ヨーロッパのウォーターフロントの開発計画が出てきますが、あれは港湾・工業地帯を利用して都市の活性化を図ろうというもので、評価も賑やかさの要素が大きいと思います。

●水辺空間の重要性に着目

 その後も、地域計画の調査では水辺と人々の暮らしに着目する機会がありました。たとえば、伊勢河崎では歴史的町並みの調査を行いました。伊勢河崎はかつて伊勢詣での人達が三河の方から上陸する地点で、川の両側にぴっしりと町家がはりついている町です。しかし、上流丘陵の宅地スプロール開発によって大水害が起きたので、川筋両側の町並みを全部取り除いて、河川の幅を広げるという計画案が出てきました。途方もない大事業なのですが、その上にそんなことをしたら歴史上由緒ある町並みが消滅してしまうということで、ナショナルトラストから助成を受けて「戦闘的調査団」を組みました。そういう問題事例と戦い、お役所と喧嘩するほうが調査員も元気が出ますね(笑)。西山先生仕込みですね。西山先生は反権力、矛盾論から構想を立てる先生ですから。京都タワーにもアゲインストでしたからね。

 三村研は上海の同済大学の歴史文化都市研究センターと研究交流があり、大学院留学生も受け入れていたので、江南六鎮といわれる蘇州や周荘などの水郷集落も調査しましたが、ここも開発と保全のはざまにあってセンター長の阮儀三先生は乱開発と闘っておられます。

 もう一つは、長崎市の中心地を流れる中島川の大水害で眼鏡橋が流れてしまったことです。これも上流の宅地開発スプロールが原因なのに、あたかも石橋の断面が流れの邪魔をしたという言いがかりをつけられました。そこで川幅を2倍以上にひろげてメタルの欄干をつけた現代デザインの橋に置き換えようという案がでてきました。この時も日本ナショナルトラストの支援を受けて西山先生と現地へいって議論しました。その結果見かけの川幅は前と同じにして、両側の細い街路と宅地部分の地下に洪水時のバイパス水路を作るとどうかというわけです。結果的にこの私の案が採用になり眼鏡橋も復元されました。なんと、住民も石造アーチ橋のピースが残っていないか河口まで探しにいって、拾って来ていたんですよ(笑)。これは成功した事例だと思っていたら、当時、長崎総合科学大学の教授で、中島川を守る会の事務局長であった片寄俊秀さんからは、眼鏡橋が復元できてよかったが、バイパス水路の地上に整備した道路が広くなりすぎて風情がなくなったと苦情をのべられました。橋のことだけでなく、町並み景観全体として取り組む提案であるべきでした。

          図 復旧中の眼鏡橋と川床清掃の市民(イメージ図、1983年)
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 その後、北米のサンベルト地域開発調査団長としてテキサス州のサンアントニオに立ち寄ったことがあります。市内をアントニオ川の支流が運河のように折れ曲がりながら流れていて、両岸がリバーウォーク=散歩道になっています。メキシコ国境に近く、全米有数の観光都市です。ひととおり観光してバスに乗り込む前に、近くにあった本屋さんで「サンアントニオ水都物語」の原本を見つけました。この町でもかつて大水害があって、市内の運河を全部埋め立てて、下水道と道路にするという計画がありました。それに対して建築家のロバート・ハグマン氏が市民と市議会に働きかけ、生涯をかけてリバーウォーク散歩道を守った物語です。柳川掘割物語と広松伝※4氏の生涯とを重ね学ぶことができました。ツアー参加者が協力して「サンアントニオ水都物語」というタイトルで1990年に翻訳書を出版しました。

              図 サンアントニオ水都物語(表紙)
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 このように、水との関わりから土地を見ることはとても大事だと、最近の災害などを見ても思います。陸地だけから考えないということですね。大体、歴史は陸地に住んでいる人が書いていますよね。海賊は歴史をあまり書いていないのでは・・・?

 ただ、水からみる都市計画というのも限界があります。事例でこういうことをやったと言っていても、理論化できていない。河川工学や港湾工学ともっと仲良くしておけばいいのですが、学際的研究体制を組めなかったことが反省点と言えるでしょうね。

 地域の調査研究については、関連する分野の人達との交流、学際的研究チームの形成が大事だと学びました。そんなことも思いながら「地域の空間資源論」として原稿にまとめ、「新建築」という雑誌で2回ほど掲載しました。

●竹富島との出合い

 沖縄県が日本の行政に復帰する前の1969(昭和44)年頃、日本観光協会(当時)の観光診断の仕事で沖縄県に行きました(復帰後の振興策を立てることが仕事でした)。沖縄に行くのはその時が初めてでした。最初に行ったのは宮古島です。なかなかいいところでしたね。行ってみないとわからないところがあるなと思いました。町長さんが先頭になって鍾乳洞を案内してくださり、地質・地形・地下水脈と暮らしの結びつきから学べました。ついでに「沖縄で本格的な町並み保存をしているところはどこか」と尋ねましたら、竹富島だと言われ、予定を変更して竹富島に行きました。石垣島から夕方の船で着き、月明かりの下を、翌朝は夜明け前から歩き回って、朝一番の船で帰るというせわしない訪問でしたが、確信は深まりました。まことに素晴らしいところでした。沖縄の多くの地域では戦火や戦後開発によって消失した町並みも多いのですが、ここはちゃんと残っていました。沖縄の中で、この島の伝統的家屋と集落の町並みが一番品性・風格をよく保っているのではないかと直感しました。

 竹富島にはかけがえのない美しい町並みが残っている。この町並みを記録して成立過程の説明を加え、紹介したいと考えました。幸いに観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)の調査に採択されました。西山先生と私の研究室とOBで6~7人で島に出向き、町並み保全の調査に取りかかりました。

 事前にきちんと挨拶をしておかなかったので、見慣れない男たちの集団を見て地元の人達からは、「あなた方は何のために来たのか」といぶかしく思われることもありました。最初は町並み保存のことはあまり考えていなかったですが、調査を通じて交流が深まるにつれ、町並みが危機にあること、その保存問題を抜きに調査などしておられないことが分かってきました。

 この頃、島では土地の買い占めが進んでいました。島の人口は500人で、これまでは「ウツグミ」という共同体運営の伝統があり、村の自治制を守ってきました。しかし、島のリーダー達の話によると、いつのまにか島の大部分が外から来たブローカーによって買いたたかれ、買い占められているということでした。あるリーダーが話してくれたのは、ふろしきで顔を隠して家の前を通る近所のおばあちゃんを呼びとどめて聞くと「私の土地を買ってくれた人へのお礼にうちの鶏が生んだ卵を持っていくんだ」と。みんな知らぬ間に土地の買占めが進行している。おばあさんは土地に初めて値がついて売れるなんてと喜んでいる。そういう状況のもとで、島民の結束を無視する乱開発はやらせない、島の環境と運営秩序は守るというのが、リーダーたちの基本姿勢でした。

 私たちもまた民家・町並みの特性調査だけでなく土地問題を含めたしまの保存方針のコメント付きの報告書を1974(昭和49)年に作成して公民館で発表しました。文化庁の伝統的建造物群保存地区の制度(伝建制度)ができたのはその翌年の1975(昭和50)年です。非常にタイミングがよかったですね。こうした経験を通じて、伝統的な町並み保存と自主的な地域運営を維持することは、島の運営で共通するテーマになりうるということがわかって来ました。

 竹富島は1987年に伝建地区になりました。その時は全国町並み保存連盟の全国集会を開催しました。夕焼けの空に描かれた西表島のシルエットを背景にしてコンドイ浜で開かれたパーティの感動は忘れられません。及ばずながら私も応援団員になって竹富島を支援しようと、私はそれからも竹富島伝建審議会長を務めるなど、40年間ずっとお付き合いさせてもらっています。

 今もまた、竹富島では大きな問題が起きています。新しく石垣空港ができて観光客が急増しています。嬉しいことなのですが、石垣島から近いので竹富島のコンドイ浜という神聖地へ水泳客が押し寄せています。それを契機として、一大リゾートを作る計画が持ち上がっているそうです。どうすれば八重山の中でもシンボルスポットであるこの地の環境を守れるのかと審議会や町、住民と開発企業との協議が進行中です。

           図 竹富島の環境保全と将来の方向(三村研究室編集 1976年)
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●伝統的な町並み保全と「内発的開発」

 1970年代になると工業施設と公共施設の集積が進む一方、農山村は地域格差を訴えるようになりました。過疎対策事業の柱として打ち出されたのが、大資本と公共事業によるリゾート開発です。ゴルフ場や別荘地の開発分譲、マリーナなどの大型施設が次々と計画されました。

 しかし日本では別荘を持ってゴルフをやって、ヨットに乗ってという階級はほんの一部で、地元はもともと民宿、釣り船などで細々と稼いでいたわけでしょう。それを無視した、何十haという別荘地開発が上からふってきたわけです。

 竹富島の例もそうですが、余剰資金を使った投機的投資として、土地の買い占めが広がったのもこの頃からです。私も各地の状況調査に行きましたが、住民も自治体も大規模プロジェクトがくれば「交通が便利になる」「雇用が増える」と期待していましたが、結局は日本の大衆的なレジャー需要には合わず、今では宙に浮いているプロジェクトが少なくありません。

 私も観光専門家ということで、四国のある町の海浜リゾートセンターの計画委員会に参加したことがあります。伊勢海老がよく獲れるという磯浜がある湾を大量の砂で埋め立てて、ビーチタウンを開発するという内容でした。

 県庁での報告会が終わった後、一人の担当職員が私に近づいてきて「先生は、本当にこのプロジェクトを進めるべきだと思いますか」と質問されましてね。狼狽して答えに窮し「こういう案もあるが、今実行するのは次期尚早だ」などと、しどろもどろに言った記憶があります。海洋生態学者や地元の住民、漁民も不在のままの委員会に無条件で参加したことが悔やまれた一件でした。

 当時、こうしたリゾート計画は大規模コンビナート開発になぞらえて、「煙の出ない産業開発」と言われていました。買い占めた土地がたくさんあるから民間事業も公共事業も開発したいが、工業地帯開発などの手法しか知らない。だから、地元でやっている磯釣りとか民宿やみかん狩りなどを完全に無視して、観光についても大規模開発を、となってしまったわけです。

 そういう状況への批判から「内発的開発」という言葉が住民の間から出てくるわけです。地域のことは自分たちで仕事起こしをやらなければならないということで、これは大企業などによる「外発的開発」を見たから出て来た言葉でしょうね。大分県の「一村一品運動」などもこの流れにあったと思います。

 1970年代はちょうど、戦後生まれが成人になった頃で、彼らは田舎のことを知らないんですね。姉さん被り野良着のおばさんに、都会から観光でやって来た女の子が出会って無邪気にVサインしている写真が載った国鉄の「ディスカバージャパン」のポスターがヒットした時代です。全国町並み保存連盟ができたのもこの頃ですね。

 小京都という言葉が生まれたのもこの頃で、妻籠などの古い町並みが注目され、そういうことが伝建制度の誕生に繋がってくるわけです。町並み保存については、津和野や妻籠、名古屋の有松など何か所か有名な先達があります。

 私は伝建の専門委員を1度務めましたが、伝建制度が検討された経緯については、中央政府には関わっていないのであまり知らないです。避けた訳ではないですが、お呼びがかからないですね(笑)。 

 しかし今では、文化財保存の制度だけで良いのか、という問題が出て来ています。伝建制度を作った頃から40数年も経つと、地元世代も代が替わり、生活も変わり、観光客の欲求も変わってきていますから。持続的にやっていくにはどうするのかと。そこで、観光地の持続的な開発運営ということに気付き始めたのです。そこに、送り出す地域と受け入れ地域という話が登場してくるわけです。

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 ※4 広松伝(ひろまつつたえ)1937-2004 柳川市職員として掘割の埋め立て計画に反対し、浄化運動に取り組んだ。

三村 浩史氏 3.「観光」に対する失敗と反省