ガイドという仕事…❾三重・大台町
ガイドとは、地域のタイムカプセルを紐解き、未来へのヒントを手渡す仕事

大西かおり(NPO法人 大杉谷自然学校 校長)

 大杉谷自然学校は三重県大台町の最奥部、大杉谷地区にある廃校を拠点にする教育団体である。主な活動場所である大杉谷地区は一級河川宮川の源流及び上流域に位置し、一部が吉野熊野国立公園、全体がユネスコエコパークに認定されるなど自然豊かな場所であり、また高齢化率が70%を超える限界集落だ。大杉谷自然学校は2001年4月に開校し、今年21年目を迎える。常勤職員が6名(地域おこし協力隊1名含む)と非常勤職員7名が働く。

大杉谷自然学校で働くまで

 筆者は生まれも育ちも大台町だ。小学校へは往復1時間以上かけて徒歩通学し、川で泳ぎ、野山を駆け回る子供時代を過ごした。高校からは町を離れ、大学を卒業した1995年から3年間は青年海外協力隊理数科教師としてフィリピンで活動した。帰国後は(公社)日本環境教育フォーラム自然学校指導者養成講座を受講し、北海道にあるぶなの森自然学校で1年間のOJTを受け、自然学校の運営の基礎を身に付けた。そして2000年に廃校した大杉小学校を活用した大杉谷自然学校で2001年の開校と同時に働くことになったのである。

大杉谷自然学校の事業内容

 大杉谷自然学校は地域を生かした環境教育をテーマに自然体験、歴史文化体験、学校教育をはじめ、エコツアーや人材育成、自然環境の調査研究等を実施している。近年では移住促進事業や柚子の収穫を観光客にお手伝いいただくボランティアツーリズム、お茶畑のオーナー制度など過疎高齢地域を支える仕組みづくりも積極的に進める。その他、熊野古道令和道250㎞再興プロジェクトや伊勢湾から上流域まで川のつながりを取り戻すことを目標とする環境配慮型の公共工事の推進など活動は多岐に渡る。

間伐から代金を得るまで行う総合学習

 一人でも多くの人に地域を楽しんで好きになって欲しいと考え、子供たちが学ぶ機会を平等に得られる学校教育には特に力を注いでいる。森林環境教育や伝統漁法しゃくりの継承、豪雨被災経験を元にした防災教育等の体験学習を町内の学校に取り入れていただいている。中でも一番長く20年間も毎年継続しているのが町内の小学4年生が行う林業体験である。森林組合の指導により、子供たちが自ら間伐、皮むき、搬出をし、市場で販売し代金を得て、そのお金を使うまでを1年間の総合学習で挑戦する。自分たちが間伐した後の山がどれだけ健康でいい山になったか等を市場でプレゼンするなど主体的に関わる行動が増えてきた。この林業体験を元に、間伐と積み込み作業を1日で実施、後日競りの様子をリモート中継し、売り上げを学校に寄付するという修学旅行向けメニューも開発した。コロナ禍の今だからこそ、ぜひ多くの学校に大台町に来て欲しい。

地域を生かした環境教育効果の事例

 当校には五右衛門風呂があり、焚き方を80代の地域講師に指導していただいている。ある日、薪が湿っていて着火に苦労した日があった。講師は「わしは365日毎日薪で風呂焚いとるで、1日も同じ日はない。水の温度や薪の湿り気に合わせて最も少ない燃料で早く焚けるように自分が自然に合わせて加減しとる」と言われた。自然と共にある暮らしというのは、自分の思い通りにならない如何ともしがたい自然や地域の仕組みとどう折り合いを付けていくかの毎日なのだろう。自然を感じる力や試行錯誤する意欲、如何ともしがたい相手に対する忍耐等を積み重ねてこられた人生が滲む。1日だけの薪風呂焚き体験の振り返りでは、面白さが勝り苦労が小さいため、ボタン一つで毎日同じ温度のお湯が出る便利さに感謝するだけで終わることがしばしばある。だが、地域の方の話を聞くと、実は便利な社会やサービスと引きかえに大切なものを失ってしまったのかもしれないと気づかされる。地域を生かした環境教育では、地域を紐解き読み取ることから自分なりの学びを得る機会を大切にしている。
 数百年の歴史や文化を連綿と継承している生きる叡智とも言える大杉谷地域の人々だが、2001年当初は約50%だった高齢化率が現在70%を超える。残念なことだが地域の方たちとはたくさんの別れを経験してきた。だから今こそ地域社会へでかけるべきだと声を大にして言いたい。「地域が存続している今、会いに来てください」。

地域のタイムカプセルを開ける

 失われていく地域の姿や事象を少しでも留めるために行っている伝統文化の継承や記録から、聞き取り結果を一つ紹介する。「水はどこまでもスイスイ(透き通ってきれい)で、20m先まで見えた。捕っても捕っても鮎は湧いてきよって、川には足の踏み場もなかった」。今から70年前の宮川の様子である。実は昭和30年代に上流と中流に相次いで建設されたダムの影響と流域の人工林化、気象変動などいくつかの原因と相まってか、現在60代以上の方々が知る昔の宮川の面影はほとんどない。宮川上流域の鮎は全て養殖して放流されたものであるし、河畔林は消え川の環境は大きく変わり、水の透明度も落ちた。しかし観光情報等では「日本一美しい宮川」の文字が躍る。今しか知らなければ、宮川は今でも十分美しい川と言えるかもしれない。しかし、昔の宮川を知れば、もし取り戻せるならと誰しも思うだろう。伝統漁法の聞き取り記録には現在の宮川からは想像できないほど、命に溢れたかつての美しい宮川の姿が詰まっている。昔の宮川の本来の姿を伝えることは地域のことを紐解くガイドの真骨頂だ。ガイドは現地で川を楽しんでくれた人の心に、過去から未来へと続くさらなる宮川の美しさを描くことができるのだ。
 「川は命の次に大事や」とは地域の方の言葉である。どれだけ川を愛し誇りを持っていたのかが伝わってくる。当時の宮川の姿や河川文化を将来的に取り戻すことが当校の悲願である。
 人と自然が共生していた証は地域の人、文化や事象に、あたかもタイムカプセルのように埋め込まれている。そして私たちはそのタイムカプセルを開けて、保存された情報を自分なりに読み解くことができる。その情報は必ずや今を生きる人の未来に効いてくると信じている。
 だから筆者にとってのガイド業とは、何百年も人と自然が共生してきた地域の叡智を伝える仕事であり、新しい社会や未来を作るヒントを手渡していくことなのである。