わたしの1冊 第37回『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』

高野 登・著
かんき出版

仲田道弘
公益社団法人
やまなし観光
推進機構 理事長

 この本は、ザ・リッツ・カールトン元日本支社長の高野登さん(人とホスピタリティ研究所代表)が、ホテルマン時代から書き溜めた「人の心が動く瞬間」に関するメモを基に執筆した本である。初版は20年前で、既に60刷を超す大ベストセラーになっている。初版の年、アメリカでは大きなハリケーンによって多くの人々が家を失った。これにご縁を感じた高野さんは、この本の印税を全てその救済基金に寄付。今でも続けているという。
 さて、正直なことを話すとこの本の題名を見た瞬間「やられた」と思った。当時、私は山梨県庁でホスピタリティ産業推進の担当をしていて、どうしたらホスピタリティを理解してもらえるのか悩んでいた。そんなとき、ホスピタリティとサービスの微妙な関係性を見事に言い表した題名に感服したことを、今でも覚えている。
 この本には、人の心を動かす具体的な事例が満載されている。例えばお客さまからプロポーズのお手伝いを相談されたホテルマンが、ホテルの仲間と連携してプロポーズの場所を設営し、部屋を100本のバラで飾る話。見事成功したプロポーズと100本のバラは二人の一生の思い出になる。もちろん、そこまでのサービスはお客さまから頼まれていないので経費はホテルの持ち出しになるが、それを実践するかしないかがサービスを超えるか超えないかの境界線だと高野さんは言う。
 さらに、これは高野さんの講演会で聞いた話。あるレストランで高齢により失禁してしまったお客さまに対し、ウエイターが瞬間的にわざと「すみません。手が滑ってしまいました」とグラスの水を股間にこぼし「別室へ」と案内する「おもてなし」。
これは、同席した家族には感動すら超える異次元の神わざとして心に刻まれる。
 そして、このようなサービスを超えるおもてなしを、一緒に働く仲間が日常的に行えるようにするためのルールであるとか雰囲気であるとかを生み出す組織をつくるのが、経営者の仕事というわけだ。
 この本をきっかけに、どうしたら満足を超える感動が生み出せるようになるかを考えるのが私の日課となった。そんなとき、「おもてなし条例」を作れないかという当時の知事の要請があり、2011年には「おもてなしのやまなし観光振興条例」が制定された。その根底には人の心を動かす「茶道」のおもてなしが意識されている。
 茶道のおもてなしは、よそおい、しつらえ、ふるまいの3つの要素で構成される。まさしく、ホテルに例えるなら建物、設備、サービスの総合格闘技。これを地域に当てはめると、よそおいは自然景観や歴史文化、しつらえはそこから生み出された芸術や特産品。そしてふるまいはその地域文化を基にした人と人とのふれあいである。この三者を官民で磨きながら連携させ訪れる人に感動を与える。条例はこんな構成となっており、県下のおもてなし事例を発表する県民大会が15年続き、ワインツーリズムやワイン県などの取り組みも生まれている。
 高野さんは長野の戸隠出身でソムリエの資格を有していて、山梨の白州生まれの私にとってワインの良きライバル。時折、東京で長野vs山梨のワイン対決をするのが楽しみとなっている。その影響もあって私は日本ワインの歴史にのめり込み、何冊か本を出すまでに至った。
 この『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』はとても分かりやすく一気に読めるが、自分自身への戒め、お守りとしていつも座右に置いている本である。いみじくも高野さんは「おもてなしの神髄は他者と喜怒哀楽を共有すること。それは他者と比べようとするのではなく自分自身の成長意欲から生まれる。そしてそれは毎日の心の筋トレによってのみ身につく」と言う。


仲田道弘(なかだ・みちひろ)
1959年山梨県生まれ。筑波大学卒業後、山梨県庁に入庁し30年以上山梨ワインの振興に携わる。観光部長を経て2020年から(公社)やまなし観光推進機構理事長。日本ワインの歴史研究家として、現在、山梨県立大学特任教授、オーガニックワイン推進コンソーシアム会長、OIV登録品種協議会顧問なども務めている。著書に『日本ワイン誕生考』(山梨日日新聞社2018)、『日本ワインの教科書』(柴田書店2021共著)、『日本ソムリエ協会教本』(日本ソムリエ協会2024〜共著)、『日本のワイン全歴史』(創森社2025)などがある。