わたしの1冊 第38回『日本唱歌集』

堀内敬三 井上武士・編
岩波文庫

中川 大
京都大学名誉教授・
富山大学特別研究教授

 子どものころ、父の書棚にこの1冊が置かれていた。本書の目次には「故郷」「春の小川」「海」「朧月夜」など、耳に馴染んだ歌が並んでいたが、「鉄道唱歌」はとりわけ印象深かった。旋律は知っていたが、長く続く歌詞の全てを見たのは初めてで、いつのまにか最後まで覚えようとして繰り返し口ずさむようになっていた。思えば、それが初めての「旅を想う体験」であったのかもしれない。
 本書には、明治から昭和初期にかけて作られた多くの唱歌が収められている。これらの歌詞からは、日本人がどのように季節を感じ、自然とともに暮らし、旅や郷土に思いを寄せていたかが伝わってくる。「故郷」は身近な自然を通して、原風景を呼び起こす。「春の小川」は都市化が進む中でも自然と調和する感覚を歌い、「海」は雄大な景観を思い浮かばせる。そして「鉄道唱歌」は、列車に乗ることで見えてきた新しい旅の可能性への喜びを表現している。東海道編の最後である66番が、「明けなば更に乗りかえて 山陽道を進ままし」と前向きに結ばれていることも希望に満ちているように感じられた。
 唱歌は単なる音楽教材ではないと言えるだろう。日本人の風景観や時間意識を育て、旅の情緒を感じさせる文化も生み出している。歌詞に描かれる自然や生活の情景は、近代化の中にあっても、人々の暮らしに静けさや安心感を伝えている。
 若い世代は歌う機会が少なくなった唱歌もあるだろうが、その旋律や歌詞の底には、土地と人とを結ぶ普遍的な美意識が脈打っていると思う。忙しい社会の中でも、ふと口ずさむことで、私たちは自らの中に流れる「日本の時間」を取り戻すことができるのではないだろうか。
 唱歌はそれぞれの人にとっての心の中の旅の地図でもあると感じる。歌を通じて風景を思い描き、まだ見ぬ土地に憧れ、ふるさとを重ね合わせる。同じ歌詞であっても人によって想像する風景は違うこともあるだろうし、同じように感じることもあるだろう。様々な想いを巡らせることができるものであることにこそ、唱歌が長く愛されてきた理由があるのだろう。
 あらためて本書のページをめくってみると、日本人の自然観・季節感・人生観・郷土観などを表現した歌詞が並んでいる。懐かしいフレーズを少し列挙しておきたい。できれば思い出しながら口ずさんでいただきたい。
 「秋の夕日に」、「春のうららの」、「春高楼の花の宴」、「村の鎮守の神様の」、「卯の花の匂う垣根に」、「更けゆく秋の夜」、「あした浜辺をさまよえば」、「兎追いし彼の山」、「さ霧消ゆる湊江の」、「ただ一面に立ち込めた」、「菜の花畠に入り日薄れ」、「われは海の子白浪の」、「夕空はれてあきかぜふき」……。
 旅に出たいと思えてくる人も少なくないのではないだろうか。


中川 大(なかがわ・だい)
1981年京都大学大学院工学研究科修了。建設省、国土庁、東京工業大学、京都大学を経て2017年4月から富山大学副学長。
2022年4月から現職。社会資本整備評価、都市・交通の活性化等に関する研究を行うとともに、富山ライトレール、京都丹後鉄道等各地の地域公共交通の再生・活性化事業に参画。