特集② イタリアにおける観光と生活の共存をめぐる現状と雑感
東洋大学
国際観光学部教授 佐野浩祥
1.ローマに住んで感じたこと
筆者は2024年7月から2025年3月までの9ヶ月間、研究休暇でイタリアに滞在する機会を得た。住まいはローマ・ナヴォーナ広場からほど近い、狭い路地に面する築500年あまりのアパートメントで、観光客の多いエリアに住むことになった。ローマでの生活を開始して驚いたことが2つあった。
1つは、ホームレスの多さである。テルミニ駅近くに多いのは知っていたが、ナヴォーナ広場周辺にもホームレスらしき方を多く見かけた。教会の前で物乞いをする人、時々大声でわめき散らしながら街をさまよう人など、自宅近くを歩くとたびたび出くわした。
確かに、ローマの住宅事情は厳しいものがある。筆者が借りたアパートメントの家賃も、東京の自宅のそれの2倍近くであり、1年以上住み続けるのは難しいと感じていた。OECD(経済協力開発機構)によれば、2023年のイタリアの一人当たりの国民所得は4万1124ドル(日本は3万5588ドル)と、日本よりやや高いものの、それほど所得が大きく異なるわけではない。おそらく、多くのイタリア人にとって、ローマ中心部の家賃は到底払えるものではないだろう。また、同じくOECDによるとイタリアの家賃は上昇し続けており(2015年を100としたときの2024年の家賃指数は107・9、日本は99・7)、住宅事情の厳しさは、以上のようなデータからもうかがえる。
もう1つは、騒音である。自宅はアパートメントの4階だったが、向かいの建物の1階にはレストランが入っていた。割と人気店のようで、連日多くのお客が入っていた。夕方になると店の前の路上にテーブルと椅子が設置され、多くのお客は屋外での飲食を楽しむ。連日、深夜まで賑わっており、観光地としては素敵な光景だが、住民としては甚だ迷惑であった。窓を閉めても、陽気なお客の話し声や笑い声が寝室まで響いてきて、なかなか寝付けなかった。観光地に住むということはこういうことなのかと、実感させられた。
2.観光大国・イタリアのオーバーツーリズム
イタリアは観光大国である。UNWTO(国連世界観光機関)によれば、2023年の国際観光客到着数は5739万人で、フランス、スペイン、アメリカに次いで4番目に位置しており、その数を順調に伸ばしている。観光産業による付加価値(観光GDP)が国内総生産(GDP)に占める割合は5・7%(2019年)にのぼり、日本の2・0%を大きく上回っている。イタリアの首都であり主要観光地であるローマもまた、2024年の観光客到着数は2220万人、延べ宿泊数は5140万人泊と過去最高を記録しており、2025年はジュビリー(カトリックの聖年)でもあり、さらなる観光客の増加が予想されている。
では、イタリアのオーバーツーリズムの実態はどうなのか。これを把握するのはなかなか難しい。冒頭で自身の感じたことを書いてみて、少なくとも観光客の増加が、住宅事情の厳しさや騒音に関係していることは疑いないが、それがどの程度なのかは不明である。ローマの中心部で暮らしていても、オーバーツーリズムを肌で感じたり、目に見える形で確認したりするのは困難だと思える。確かにローマの街は人や車で混雑しているけれども、市民と観光客の笑顔で溢れていて、商店や飲食店、広場などの公共空間は人々で賑わっていて、オーバーツーリズムという現象は幻想なのではないかと感じることもある。
一方で、新聞やウェブなどのメディアでは、オーバーツーリズムという用語はよく使われている。市場調査を専門とするIPSOS社のイタリア観光に関する調査「Future4Tourism」は、イタリア人のオーバーツーリズムに対する認識を明らかにしている。調査によれば、イタリア人の6割がオーバーツーリズムに対する何らかの対策を講じることに賛成している。その割合は、観光客の多い地域ほど高いという。また、オーバーツーリズムの最も深刻な影響については、住民にとっての住みやすさの悪化( 51%)、観光客にとっての悪い観光体験(39%)、環境や生態系への影響(38%)などが挙げられている。多くのイタリア人がオーバーツーリズムに関心を持っていることの証左であり、これは日常生活では見えてこない事実である。なお、同社が2023年から2024年にかけて22 カ国の外国人を対象に行った調査によれば、イタリアのどの都市を知っているかという質問に対して、ローマ(68%)、ヴェネツィア(53%)、ミラノ
(47%)、フィレンツェ(30%)、ナポリ(30%)が上位を占めており、その他の都市については10%を下回る回答率であった。知名度の高い都市に観光客が集中することは容易に想像される。近年、このような大都市では、家族や学生向けの住宅が観光客向けの短期賃貸物件に入れ替わっている状況が、多くのメディアで取り上げられている。住まいを追い出された住民の多くは、その状況を批判する機会を持てず、黙殺されることがほとんどであろうが、抗議の動きは少しずつ現れてきている。
例えば、2024年10月頃から開始された「ロビンフッドとその一族」という活動は、Airbnb をはじめとする観光客用の民泊サービスの象徴として、アパートメントの鍵を保管するキーボックスを攻撃の対象にしている。活動家は夜間に街へ出て、民泊サービスのキーボックスを見つけると、暗証番号を入力できないように接着剤を注入して破壊し、ロビンフッドの帽子が描かれたステッカーを貼っていく。
ローマから始まったこの活動は、イタリア全土に広がりつつある。このほか、イタリア観光大臣に抗議する内容の横断幕が市内に掲げられたり、観光客を歓迎しない旨のグラフィティ(落書き)が建物の壁に描かれたりしている。このような目に見える形での抗議の声は
即座に政府によって撤去・消去されるため、日常生活の中ではほとんど気づかないが、メディアを通してこのような活動を知ることになる。筆者もこのような声を探して街を歩いてみたが、中心市街地ではなかなか見つからず、中心市街地のやや周縁部にその痕跡を発見することになった。それは、筆者が住んでいるような、ほぼ観光地化された歴史的市街地ではなく、観光客はほとんど見かけないような、しかし観光客向けの短期賃貸物件が増えつつある(と思われる)住宅地においてであった。家屋をめぐる観光客と住民によるせめぎ合いの最前線とでも言えようか。
3.イタリアのオーバーツーリズム対策
イタリアにおけるオーバーツーリズムの問題は、確実に存在する。しかし、その内容や範囲は判然としない。政府側は、この問題をどう捉えて、どのような対策を講じているのか。
観光大国であるイタリアは、当然ながら国家戦略においても観光を重要視している。パンデミックを契機に次世代E U と呼ばれる基金を得て、2021年7月に成立した国家復興・回復計画(Piano Nazionale di Ripresa e Resilienza:PNRR)では、6つのミッ
ションのうちの1つ目に観光を位置付け、オーバーツーリズムにも言及している。ただし、オーバーツーリズムの内容や範囲には触れず、観光客の流れを持続可能な形でイタリア全土にバランスさせ、文化および観光の振興による過疎地域の再生を目指す根拠として位置付ける。より具体的には「Caput Mundi(世界の首都)」プロジェクトであり、ローマからイタリア全土に続く歴史的でユニークな道路を活用して、様々なセグメントに対応するような新たな観光ルートを構築しようとするものである。
同様にイタリア国家によるオーバーツーリズム対策としては、市民の声に押される形で、イタリア内務省が2024年11月、民泊サービス用のキーボックスの使用の締め付けを図る通達を出した。キーボックスの使用を禁止するのではなく、テロの可能性を含めた安全保障上の理由から、宿泊施設の管理者に宿泊者の本人確認を怠らないよう、キーボックスの不正な使用を禁止するものである。以上のように、国家レベルではオーバーツーリズムの内容や範囲を定めないまま、しかし何らかの対策を通して、間接的にその問題に対処しているように映る。なお、2020年よりローマ、ナポリ、フィレンツェ、ボローニャ、ミラノの5都市が共同で短期賃貸物件関連の課題に取り組み、国家へ対策の提案を行っている。
オーバーツーリズム対策は、国家よりも各自治体において、具体的かつ前衛的である。フィレンツェ市は2018年に成立した周辺17自治体との広域観光圏を基盤として、2022年より、歴史的市街地に集中する観光客の流れを自転車ルートなどのプロモーションによって広域的に分散させる取り組みを進めてきた。フィレンツェ観光研究センターの収集した観光流動に関するデータによれば、2024年には周辺自治体の観光客数が急増し、取り組みの結果が表れているという。さらに、2023年6月には長期賃貸物件居住者向けの住環境の改善を目的に、バルセロナをモデルとして、世界遺産区域での民泊サービスの新規開業を禁止した。この決定は裁判所によって一旦は無効とされたが、2024年7月に再び市は民泊サービスの新規開業を禁止する都市計画決議を承認した。新規開業を計画している事業者側は、短期賃貸物件の増加と住民向けの住宅不足の間に直接的な因果関係は存在しないと主張し、市を提訴する構えで、この争いの展望は不透明なままである。
オーバーツーリズムにさらされている小さな自治体では、さらに野心的な対策が講じられている。チンクエテッレは、リグリア海に面し、ジェノヴァから東に続く美しい漁村集落群を含む国立公園だが、人口4000人の地域に毎年350万人(うちクルーズ客200万人)の観光客が訪れ、特に夏の繁忙期には狭い路地を観光客が埋めつくし、地域への交通手段である列車チンクエテッレ・エクスプレスも混雑して時間通りに運行されない状況になる。静かな生活を送っていた住民は、移動の自由を奪われ、夜遅くまで続く喧騒に頭を悩ませる。海沿いの細い遊歩道である「愛の小道」には観光客が殺到することに加えて、たびたび高潮や土砂災害に見舞われるなど、自然災害を含めた崩落のリスクが大きい。そのための対策として、チンクエテッレ国立公園は2001年より定額で複数の観光サービスを享受できるチンクエテッレカードを導入、「愛の小道」などのトレイルを含めた地域の観光資源をパッケージとして提供することで観光客を分散させ、滞在時間を延ばすと同時に、石垣などの修復のための資金としてきた。現在、「愛の小道」は事前予約制で人数を制限するとともに、原則一方通行としている。なお、住民の入場は無料で、入場可能時間も観光客より長く設定されている。また2024年には、アルゴリズムによる混雑予測に基づいて「愛の小道」以外のトレイルを一方通行にしたり、リアルタイムの情報や警告を表示するデジタルトーテムを主要なトレイルの入り口に設置するなど、テクノロジーの導入も進められている。
一方、ローマ市のオーバーツーリズム対策はやや消極的に映る。観光客の混雑が危険なレベルに達しているトレヴィの泉の入場制限を課したり有料制を検討したりしているが、局所的、対症療法的なものにとどまっている印象である。先述の「Caput Mundi」プロジェクトでは、ローマ郊外のアッピア街道の整備や、ガビイ古代都市などローマ市周辺の代替観光ルートを提案するアプリ「Unexpected Itineraries」を開発するなどして、観光客の空間的分散を図っている。異色の取り組みとして、地域DMOであるEsquilino Comunitàは、ローマ市中心部にありながら観光客にほとんど知られていないエスクイリーノ地区において生活と観光の共存を図り、本物の観光を提供するパイロットモデルを模索しているが、ローマ市全体においては住民の生活の質の低下には目が向けられていないようである。
4.観光と生活のリバランス戦略のあり方
イタリア国内のオーバーツーリズム対策を概観してきたが、いずれもはじまったばかりであり、その効果はほとんど出ていないため、現時点で評価することは困難である。ただ、オーバーツーリズムの内容と範囲を明確にしなければ、有効な対策を打ち出せないことには疑いの余地がない。住民の生活の質の低下の問題が現れているのか、観光客の観光体験の質の低下の問題が現れているのか。その問題は空間や時間によって異なるため、きめ細かい対応が可能な小規模な政策集団による対策が有効であると考えられる。チンクエテッレの「愛の小道」のように、時間あたりの観光客数というパラメータを定め、その上限400名という閾値を設定するシステマティックな対策は一つのあり方だろう。しかしながら、そのパラメータ設定が問題の本質をついているのか、その閾値が問題解決にとって適切なのか、絶えず議論や検証が必要だろう。
他方で、上記のようなパラメータや閾値の設定が困難な地域がほとんどであろう。オーバーツーリズムと感じるかどうかは主観的な問題であり、人によって捉え方が異なる。また、観光によって恩恵を受ける人と損害を受ける人という立場の違いもある。ローマで見てきたように、過度な観光によって自身の生活に悪影響を受けている人の大多数は沈黙を余儀なくされていることが容易に想像され、非合法的な手段でしかその声を発することが難しい。多くのイタリア国民は何らかのオーバーツーリズム対策が必要と考えている調査結果もある。そのため、オーバーツーリズムによって被害を受けている人の声なき声をすくい上げることが必要である。逆に、観光が市民生活にもたらす恩恵について広く市民に周知することも不可欠である。その上で、オーバーツーリズムをめぐって意見の異なる市民間の対話や議論のアリーナを出現させることが望ましい。首長選挙や裁判等による観光推進か反観光かの二者択一的な議論ではなく、二者の対立を乗り越えるような弁証法的解決策の模索が進められると良いだろう。
佐野浩祥(さの・ひろよし)
東洋大学国際観光学部教授。
2006年東京工業大学大学院情報理工学研究科修了。
博士(工学)。立教大学観光学部、金沢星稜大学経済学部を経て、2019年より現職。専門は、国土・地域計画、都市計画史、観光まちづくり。主な著書に「都市計画家・石川栄耀」「インバウンドと地域創生」「初めて学ぶ都市計画」「コンパクトシティのアーバニズム」(いずれも共著)など。