わたしの1冊 第35回『人間の建設』
小林秀雄 岡潔・著
新潮文庫
多田稔子
一般社団法人
田辺市熊野ツーリズムビューロー
代表理事
数学が大の苦手である。大学受験を控えた数学の授業は憂鬱で仕方がなかった。やる気はあっても理解が追い付かないのである。そんな苦悩を察知してくれたのか、専任の先生が「数学は暗記教科と割り切って勉強しなさい」とアドバイスしてくれたのである。「そうか!」と、その言葉が妙に腑に落ち大学受験の数学をどうにか乗り越えたのだった。
私にとっての数学は、苦手以外の何ものでもなかった。しかしながら、岡潔という数学者に出会ってからは、色を帯び匂いを発し情感さえ感じる世界かもしれないと思うようになった。
岡潔は、世界的難問だった多変数函数論の分野における三大問題を、ひとりで解決した天才数学者である。といっても、その偉業を理解することは私には到底出来ないが、晩年に書かれたエッセイの数々を読んでいくうちに、数学が姿を変えて私に忍び寄ってきた。そして、真理に近づくための学問かもしれないと思うようになったのである。『人間の建設』は、近代批評の表現を確立した小林秀雄と岡潔の世紀の雑談本である。対談日の京都五山送り火の話から始まる冒頭の文章で、その場に居合わせているかのような感覚になる。「今日は大文字の山焼きのある日だそうですね。」と、口火を切った小林に、「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。」と返す岡。初見の二人の会話にしては気心が知れた空気が漂う。
数学や小説の話にとどまらず、ピカソの絵から日本酒の個性、骨董屋の俳句、素読教育と話題が次々と展開していく。まるで森羅万象を相手に言葉を紡ぎ出しているかのような緊張感と、心地よい時間の流れがリズミカルに刻まれていく。会話に集中しながらも、同時に美しい数式と新たな調べを思い描いているに違いない、そんな空想が膨らむ。
アインシュタインとベルグソンの件(くだり)では、それぞれの立場の表現で、二人の会話が伏流水の川の流れのように続いていく。読み進むうちに、縁遠かった自然科学や物理学、数学の世界に対する解像度が高まってくる。そして、自然科学は「建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。」と警鐘を鳴らすのである。さらには、岡潔がこの対談の中で幾度となく使う「情緒」という言葉に対談のテーマは集約されていく。人間の中心は情緒であり、その情緒がおのずから形に現れ、文化はその現れで数学もその一つにつながっていると説くのである。形に現れるもののもとは、すべて「情緒」にあるということである。
我が身に置き換えてみるに、観光まちづくりを実践していく上で、自分自身の「情緒」を美しく整え、耕やすことを忘れていないかと、日々問われている気がするのである。
多田稔子(ただ・のりこ)
一般社団法人田辺市熊野ツーリズムビューロー代表理事。和歌山県生まれ。和歌山大学教育学部卒業。熊野古道エリアを「世界に開かれ
た持続的で上質な観光地」とすることを目指して活動している。その他主な公職、和歌山県景観審議会委員、大阪観光大学アドバイザリー委員など。2023年5月からまちづくり会社「南紀みらい」代表取締役社長。2024年10月から和歌山県教育委員。