事例② ニセコ
データで動かす、観光客の満足度・事業者の生産性・住民QOLの好循環
〜ニセコエリア・倶知安町の挑戦〜
公益財団法人日本交通公社 観光研究部 副主任研究員 川村竜之介
1.はじめに
北海道のニセコエリアは、極上のパウダースノーで世界中のスキーヤーやスノーボーダーを魅了する国際的なリゾートである。近年は、夏のアクティビティにも力を入れており、通年型リゾートとしての性格も強めつつある。
しかし、その人気と成長により、訪日外国人の急増とコロナ禍を経た回復、それに伴う季節や曜日による需要の変動、地域住民の生活との調和など、多くの課題にも直面してきた。
こうした状況に対し、同エリアの倶知安町では2020年度から2031年度を計画期間とする「倶知安町観光地マスタープラン」を策定し、その中で「スマートリゾート構想」を掲げて取り組みを進めている。この構想は、ICT(情報通信技術)やデータを最大限に活用し、観光客にとってはシームレスで質の高い体験を、事業者にとっては効率的で戦略的な経営を、そして地域住民にとっては観光との共存共栄による生活の質の向上(QOL向上)を実現することを目指すものである。
この構想の根底には、収集したデータを活用して観光客の満足度を高めるだけでなく、そのデータを事業者側の生産性向上やマーケティングなどに繋げ、最終的には地域経済の活性化と住民生活の質の向上という「好循環」を生み出すべきだという考え方がある。
本稿では、この理念に基づき、スマートリゾート構想を具現化するため、倶知安町と一般社団法人倶知安観光協会(地域DMO)を中心に展開されている、ニセコエリアの一連の取り組みについて紹介したい。
2.倶知安町における観光DXの全体像
ニセコエリア・倶知安町の観光DXは、大きく分けて三つの側面から展開されている。
一つ目は、観光客の体験価値の向上を目的としたリアルタイムな情報提供である。これはスマートリゾート構想における「来訪者のシームレスな体験と、事業者と来訪者間のリアルタイムのやり取りの実現」という目標に直結する。広大なエリアに点在するスキー場のリフト運行状況やコースコンディション、飲食店や駐車場の混雑具合、エリア内を巡るシャトルバスの現在位置といった情報は、観光客が限られた時間を有効に使い、ストレスなく滞在を楽しむために不可欠である。これに応えるため、「ニセコデジタルマップ」や「リアルタイムトレイルマップ」(図1)といった情報集約プラットフォームが開発・運用されている。これらは、AIカメラやGPSなどの技術を用いて収集したデータから、観光客が必要とする情報をスマートフォン等で直感的に把握できるよう構築された。観光客の行動変容を促し、混雑の平準化や満足度向上に寄与している。これらの取り組みは、倶知安町と俱知安観光協会に加え、株式会社ニセコリゾート観光協会や民間企業などで構成する「ニセコエリアスマートリゾート推進コンソーシアム」が主体となって進められた。
二つ目は、データに基づく客観的な意思決定を支援し、事業者の生産性向上やDMOの戦略策定に貢献することである。これは、スマートリゾート構想が目指す「データに基づいた観光政策」の核となる部分であり、後述する「データ収集分析プラットフォーム」や「先予約レポート」がその役割を担う。
そして三つ目が、地域の事業者と地域住民双方の満足度を高め、持続可能な観光地経営を実現するための取り組みである。スマートリゾート構想では「住民QOLの向上」も重要な要素とされており、これには地域住民向けの優待サービスを提供する「Kutchan ID+」などが含まれる。この取り組みについても後述する。
これらの取り組みは、それぞれが独立して存在するのではなく、相互に連携し、一つのシステム基盤が多様な目的に応用されている。
3.未来の情報から戦略を磨く
〜データプラットフォームと先予約レポートの実装〜
リアルタイムの情報提供が観光客の「今」の行動を最適化する試みだとすれば、過去から蓄積されたデータと、少し先の未来の予約状況を読み解くことは、より戦略的なデスティネーション・マネジメントを可能にする。これは、「倶知安町観光地マスタープラン」のスマートリゾート構想における、データに基づいた観光政策の実現や、エリアの価値向上を目指す取り組みの中核を成すものである。
従来は、行政が宿泊事業者に対して実施する、半年に一度の統計調査が主なデータソースであったが、即時性に欠けていることから、マーケティングへの活用は限定的であった。特にニセコエリアはコンドミニアムが多く、
個々のオーナーの意向も絡むため、エリア全体の宿泊動態を正確かつ迅速に把握することは容易ではなかった。また、宿泊施設は、自社の予約状況からある程度は先の見通しを立てられるものの、飲食店やアクティビティ事業者にとっては、いつ、どのような客層が多く訪れるのかを事前に把握することは難しく、仕入れや人員配置の最適化が困難な状況にあった。
こうした課題に対応するため、2020年度の観光庁実証事業を契機に「データ収集分析プラットフォーム」が導入された。このプラットフォームは、エリア内で広く利用されている「RoomBoss」などの宿泊施設管理システム(PMS)とAPI連携することにより、日別の宿泊者数、国籍、宿泊単価、客室稼働率といったデータを自動的に収集・蓄積するものである。PMSとAPI連携していない宿泊施設については、各施設のPMSから出力したデータをプラットフォームにアップロードすることができる。これらのデータは匿名化された上で集計・分析され、ダッシュボードで可視化される。行政やDMO、そしてデータ提供に合意した事業者は、ダッシュボードを通じてエリア全体の観光動態を詳細に把握できるようになった。
プラットフォームの導入から4年以上が経過し、データが蓄積されてきたことで分析の幅も広がってきた。
過去のデータと比較すると、直近の2024‐25年の冬シーズンでは、年末年始後の一時的な落ち込みはほぼ解消され、冬期を通して安定的に誘客できていることが確認されている。また、夏期は日本人観光客が7割を占めるため、依然として週末や祝日に利用が集中する傾向にあるものの、徐々にインバウンドが増加してきたことで、全体の底上げに繋がっていることも見て取れる。イベント開催時の宿泊者数の変化なども明確に捉えられるようになり、施策の効果測定や次年度計画の精度向上にも貢献している。
さらに、このプラットフォームの導入後、地域からは「直近の傾向だけではなく、もっと先の状況を知りたい」との声が上がり、新たに「先予約レポート」(図2)が追加された。これは、PMSから得られる今後の予約に関するデータを用いて、最長6カ月先までの傾向(前年比)を閲覧できるようにしたものである。DMOの会員であれば誰でも閲覧することができる。これにより、例えば3月のスキーシーズンの終わりがいつ頃になるか、あるいは好調な時期はいつ頃か、などといった先の情報が、シーズン開始前に把握できるようになった。また、時期によって異なる国籍の傾向(例えば、シーズン初期はアジア系、1月頃はオーストラリア系、3月頃は再びアジア系が増加するなど)も分かるため、飲食店などがメニュー構成や多言語対応を検討する際の参考情報としても活用されている。更に、これらのデータは、DMOが循環バスの運行計画やMICE誘致のプロモーション時期を検討する際の重要な判断材料にもなっている。
しかし、事業者にとって自社の経営データは機密性の高い情報であり、その共有には心理的なハードルが伴う。事業者の理解と協力を得るために、データ活用のメリットを説明し、個々の事業者の懸念に配慮しながら信頼関係を構築していくことで、仕組みの実現に至っている。
4.「Kutchan ID+」に見る、観光と住民生活のより良い関係づくり
観光客の満足度向上と事業者の生産性向上は観光DXの重要な目標であるが、倶知安町・俱知安観光協会の挑戦はそれに留まらない。「倶知安町観光地マスタープラン」では、「住民のQOLを高める環境」の整備も柱の一つとして掲げられており、観光の恩恵を地域住民にも還元し、共存共栄の関係を築くことが重視されている。近年、国際リゾートとして急速な発展を遂げる中で、特に物価の問題は地域にとって大きな課題となっていた。こうした状況を踏まえ、同エリアでは観光客だけでなく、地域住民にもメリットをもたらし、観光と住民生活のより良い関係を築くためのデータ活用へと舵を切り始めている。
昨今の物価高の影響もあり、地域の事業者としては仕入れや人件費などのコスト上昇分を価格に反映させたいという意向があるものの、日本人、特に地元住民の感じる適正価格に配慮すると、大胆な値上げが難しいというジレンマを抱えていた。価格の上昇は、外国人観光客にとっては許容範囲でも、地元住民にとっては「リゾート価格」と映り、観光に対するネガティブな感情を生む可能性も否定できない。この課題に対し俱知安観光協会は、事業者が商品の価格にコストの高騰を反映させつつも、地元住民は割引などの優待制度を利用できるようにすることで、この問題に対処する方法を生み出した。それが、2024年から導入された「Kutchan ID+」(図3)である。まず、倶知安町民は、スマートフォンアプリでマイナンバーカードによる認証を行うことで、デジタル住民証明を取得できる。これを用いて、「Kutchan ID+」に協力している店舗でデジタル住民証明を提示するか、WEBサイトでID認証を行うことで、割引などの優待を受けることができる。例えば、リフト券や各種アクティビティ、飲食店、地元スーパーマーケットなどでの割引である。マイナンバーカードを利用することで、なりすましや使い回しの抑止につながるうえ、免許証などの身分証明書をその都度提示する際に比べて、個人情報の漏洩リスクも低減する。
この仕組みによって、地域住民の生活コストの上昇を抑えながら、事業者は収益を確保することができるようになる。そして最終的には、従業員の賃金アップや地域への定着を促すことで、さらに質の高いサービスの提供につながる「好循環」を生み出すことを目指している。現在、利用者は増え続けており、本稿執筆時点の登録アカウント数は、倶知安町の人口約1万5000人(約8000世帯)に対して、約1500に達している。
さらに、この「Kutchan ID+」の基盤は、他の地域還元施策にも活用されている。例えば、町民限定で1万円分の飲食チケットを5000円で購入できる「マジカルダイニング」(図4)という取り組みである。チケットを利用することで、住民は町内の人気店で特別メニューを楽しむことができ、観光地に住んでいることのメリットをダイレクトに感じることができる。差額の5000円分は倶知安観光協会が財源を確保しており、利用された店舗に対して支払われる。発売後10日程度で900枚が完売するなど、大きな反響を呼んだ。
「Kutchan ID+」のような取り組みは、観光客の動態データとは直接的な関わりが薄いように見えるかもしれない。しかし、観光客を受け入れる地域社会の持続性なくして、観光地の持続的な発展はあり得ない。住民が観光の恩恵を実感し、誇りを持てる地域であってこそ、観光や観光産業に対する理解や、観光客に対するおもてなしの気持ちが生まれ、それが観光客の満足度向上にもつながることになる。データは、その「好循環」を生み出すための触媒となり得る。
5.おわりに
ニセコエリア・倶知安町の観光DXの取り組みは、地域の課題認識と、「倶知安町観光地マスタープラン」に描かれたスマートリゾート構想という明確なビジョンから出発し、様々な目的・視点から、データ活用の仕組みが構築されてきた。これらから、複合的なデータ活用の有効性が見えてくる。リアルタイム情報による現在の最適化、蓄積データによる未来への対策、そして住民向けサービスによる地域との共生。
これらの異なるレイヤーのデータ活用を有機的に連携させることで、持続可能な観光地経営が可能になる。
ニセコエリア・倶知安町の取り組みは、「倶知安町観光地マスタープラン」が描く2031年度のビジョンに向け、今後も進化を続ける。その挑戦は、他の地域にも多くの示唆を与えてくれるだろう。
〈取材協力〉
鈴木紀彦(一般社団法人倶知安観光協会事務局長)
沼田尚也(倶知安町観光商工課主幹)