わたしの1冊 第36回『五分後の世界』

村上 龍・著
幻冬舎文庫

井上正幸
一般社団法人
秩父地域おもてなし観光公社
専務理事兼事務局長

 私が行政職員として観光の仕事に携わり始めた数十年前、地域の観光事業は〝経験則〞と〝勘〞に基づいて進められていました。
実績のあるイベントをなぞり、前年踏襲が常であり、数字は後からついてくるもの――それが「現実」であり、「常識」でした。
 しかし、観光を取り巻く環境は急激に変化しました。人口減少、価値観の多様化、情報の爆発的増加。「地域創生」の掛け声のもと、従来のやり方は通用しなくなり、広域連携やDMO(観光地域づくり法人)といった新しい枠組みが求められるようになりました。
 そこでは、データに基づく戦略立案、住民との対話、トライ&エラーを重ねる柔軟性、そしてPDCAを回す「観光の産業化」が求められました。最初は戸惑いました。頭では理解していても、どこかでかつてのやり方を手放せない自分がいたのです。
 そんな中で、ふと再読したのが、村上龍の小説『五分後の世界』でした。初めて読んだのは、観光事業に携わる前のことでした。当時は単純に物語として楽しみ、その衝撃や、冷たい戦場の描写に圧倒され、深くは考えていませんでした。けれども、今回気になって、改めて読み返したとき、作品の底に流れるテーマが、現在自分が直面している「観光地域づくり」と奇妙に重なっていることに気づかされたのです。
 本作は、第二次世界大戦で無条件降伏を拒否した〝もうひとつの日本〞を舞台に、死と隣り合わせの世界で人間が尊厳を守り、生を選び取ろうとする主人公の姿を描いています。偶然迷い込んだ世界の理不尽と絶望のなか、それでも地に足をつけて戦う――その姿に、私は地域創生の本質を重ね、自らの在り方を省みることになりました。
 従来の観光施策には「正解」がありました。ところが、いま私たちDMOが向き合う現実には、明快な地図もゴールもありません。良かれと思った施策が理解されず、制度の壁に阻まれ、住民の思いと行政の論理がすれ違う。理不尽で、報われない。
まさに〝五分後の世界〞です。
 それでも私たちは、この新たな現実のなかで進み続けなくてはならないのです。
 作中の登場人物たちは、明日死ぬかもしれない世界においても、自ら問い、自ら選び、不条理に抗いながら「自分の存在を証明する」ために生きています。
与えられた意味ではなく、自分で意味をつくり出すその姿勢にこそ、私は観光の使命を見出しました。
 観光事業もまた、与えられるものではありません。私たち自身が定義し、つくり、伝えていくものです。DMOの役割とは、単なる観光情報の発信ではなく、「地域の存在証明」を構築することなのです。
『五分後の世界』は、遠い未来の物語ではありません。思考停止と惰性の果てに現れる、すぐ隣にある現実です。私たちはその「五分前」に立っています。
不安定で、理不尽で、確かでない――だからこそ、観光の仕事はおもしろく、やりがいがあります。
 この一冊は、観光という営みを通じて、「私たちはどう生きるのか」「この地域は何を語るのか」と問い続ける姿勢を私に与えてくれました。いまや、インバウンド、サステナブル、観光DX――私たちはまた、別の〝五分後の世界〞に立ち会おうとしています。それでも私は、矛盾と向き合いながら、この仕事に挑み続けたいと思っています。


井上正幸(いのうえ・まさゆき)
1991年秩父市役所に入庁。1996年から観光行政に携わり、秩父観光協会事業(事務局長)、道の駅ちちぶの運営会社である㈱ちちぶ観光機構の設立、その後出向して駅長などを歴任。2010年から公社の設立準備を開始し、2012年に公社を設立。2014年に法人化したのち、事務局長として出向し、2020年よりCFO、2021年には専務理事を兼務して現在に至る。観光庁「世界に誇る観光地を形成するためのDMO体制整備事業」専門人材、「広域周遊観光促進のための専門家派遣事業」専門家、東京都観光まちづくりアドバイザー人材、総務省「経営・財務マネジメント強化事業」(地方公共団体間の広域連携)アドバイザー。