特別寄稿

「能登・輪島の現場から」

〜「輪島温泉八汐」谷口正和専務講演より〜

公益財団法人日本交通公社
理事・観光研究部長・旅の図書館長
山田雄一

 「1月1日、16時過ぎ。少し大きい地震が襲ってきた。お客様を旅館の外へ誘導し、津波が心配になり海を見るために館外に出て歩き始めていたところに、本震がやってきた」「あまりの揺れに立っていることができず、四つんばいになったが、それでも耐えられず、地面にうつ伏せになった。すると、旅館が大きく揺れ、増改築したジョイント部分で建物が分離と結合を繰り返している姿が見えた」輪島で温泉旅館「輪島温泉八汐」を営む谷口専務は、元日に能登地方を襲った地震について、そう語った。
 谷口氏が、初めに遭遇した地震はM5・5、最大震度5強。その後の本震は、M7・6、最大震度7を記録する激震であった。M(マグニチュード)は、0・2大きい地震で約2倍、1・0大きい地震では約32倍とされ、2・0大きい地震は実に1000 倍のエネルギーを持つ。5分前の余震と、本震との間には想像を絶する差があり、その激烈さは体験者のみが語れるものだろう。
 激震ではあったが、幸い、「輪島温泉八汐」は倒壊することなく(その後、中規模半壊の認定)、お客様は無事であった。一部屋だけ、ドアが変形してしまい窓からの脱出とはなったものの、皆を館外へ避難させることができた。
 海を見下ろすと、海岸線が大きく後退していた。これは海岸隆起によるものだったのだが、当時は、そんなことはわかるはずもなく、大規模な津波の前触れとしか見えなかった。そのため、津波を警戒した輪島市民が、高台にある「輪島温泉八汐」を目指し、あっという間に、旅館の周りは多くの人々が集まる避難場所となっていった。しかしながら、電気・ガス・水道は機能停止。

時間的に夕食の支度前であったため、厨房にも調理済みの食料は乏しく、食べられるものは、売店の少量の菓子類のみであった。旅館から持ち出すことができた寝具や浴衣、タオル類では全く足りず、十分に暖もとれず、またトイレの対応もできない状態となった。
ただ、ペットボトルの水は豊富に在庫があったため、水分補給に問題が生じなかったことは、不幸中の幸いだった。
 そのうち、南東側に火の手があがった。こちらまで延焼を心配するほどの大きな炎だったが、まさか、朝市がある市街地が炎上しているとは思わなかった。朝市の火災はまさに戦場のようで、一晩中、火の勢いは収まらず、ガソリンやタイヤなどの爆発音が鳴り響いていた。照明がなく、暗い海や沿岸部には津波の危険、そして内陸では大規模な火災。宿泊客、市民、従業員を問わず不安な気持ちで夜を過ごすことになった。

 翌2日。明るくなってから、避難所へお客様の避難を開始。お昼ごろには完了し、従業員や自身も避難を開始した。3日には、市街地の料理人が主体になって炊き出しが始まったため、旅館としても食材などの物的支援を行った。4日になると、JTB金沢支店より「宿泊客の避難のためにバスを送る」という連絡が入った。輪島と金沢方面との陸路は所々で寸断されており、通行には相当な時間(通常2時間のところ10時間以上)がかかると聞いていた。だが既に自衛隊車両の一部は入ってきていることもあり、時間はかかるものの通行は可能だとのことだった。そこで、避難所に避難していたお客様に連絡をとり、移送をお願いした。
結局、避難バスは往復11時間、復路11.5時間を要したものの、お客様は無事に金沢まで避難することができた。
 手配していただいたバスによるお客様の避難輸送は大変助かったが、一つ問題も生じた。それは、避難所に避難したお客様への連絡方法である。当然、宿帳はつけており連絡先も把握しているが、今回の場合、現地において通話可能な携帯電話でないと機能しない。発災から一次避難、避難所への避難までは、宿泊施設としてお客様の状況について確認できていたが、その後のフォローアップ時の課題が浮き彫りとなった。また、地震発生時がチェックイン時間帯でもあったので、予約していたすべてのお客様の確認ができたわけではなかった。把握できたのはその時に旅館にいたお客様だけで、チェックイン前や連泊していて外出中のお客様の把握はできなかった。
 お客様の域外避難(帰宅)を終えても、輪島地域の生活再建の目途は全く立たず、避難所の状況は日に日に悪化していった。これは、これまでの震災でも指摘されてきたことであるが、衛生管理が不十分であり、かつ、冬期であったために、多くの感染症が広がることになったからだ。電気の復旧には早いところで1週間程度、遅いところだと1か月以上かかった。水道となると早いところでも2か月近くの時間を要した。水道については市内中心部でもこのような状況であり、田舎の集落は半年以上かかったところも多かった。これは、主要浄水場が多数被災し、隆起によって道路の下を通る水道管が激しく損壊したためである。避難所などを優先して復旧工事が行われたものの、個人の建物内の配管については各個人で対応する必要があった。各住宅内の漏水を自力で処理できなければ、水道を復旧させることはできず、さらに月単位の時間が必要となった住宅も多い。個人住宅は自己責任と言いながら、修理をしてくれる業者はすべて自治体にかり出されている状況ではどうしようもなかった。
 こうした状況において、仮設住宅の設置が強く望まれ、2月下旬より整備が始まった。しかしながら、もともと平地の少ない地形に加え、地域の家屋約2万棟の内の1万棟以上が半壊以上、被災を免れたのは1割程度かもしれないといった状況では、設置できる敷地は限定され、消去法的に海沿いや川沿いに設置することになった。この判断が、後日の豪雨災害時に被害を増大させることにつながったが、当時としては避難所ではなく、落ち着いて住める場所の確保を優先するということで、やむを得ない判断ではなかったかと谷口氏は考えている。とはいえ、2024年9月に、奥能登を襲った豪雨はようやく震災から立ち直ろうとしていた人々に甚大な被害と苦難をもたらした。記録的な雨量もさることながら、震災による土砂崩れや隆起によって山林の保水力が低下していたことや、震災後の復旧がままならず河川、用水路、下水管が大きく破損したままになっていたことなどが重なり被害をさらに甚大なものとした。震災時の損壊や焼失を免れた家屋や、仮設住宅の多くも水害に巻き込まれることになったが、より深刻なのは、水害の場合、建物が無事でも家財の多くが利用不能となってしまうことだった。生活の「記憶」を留める様々な家財が汚損されたり、流出したりした状況では、復興への望みを託していた多くの人々の心を折ることになったと谷口氏は語った。
 このように豪雨災害が大きくなったのは、震災からの復興が遅れていたことが理由の一つであるが、その遅れた理由として、同氏はマンパワーの不足を指摘した。震災後、他地域から多くの行政職員が応援に駆けつけた。しかしながら、応援職員が地域の状況を的確に把握することは難しく、状況判断、意思決定の多くは輪島のもとからいる職員に依存することになった。輪島の職員は、自身も被災者であり、自身の家族の生活再建も求められている状況でありながらも、行政職員として過負荷な業務遂行を求められる状況であった。
 また、水害にあった家屋は、泥をかぶっているため早期の復旧作業が必要となるが、住宅内は基本、所有者が対応することが求められている。しかしながら、被災者の多くを占める高齢者世帯が自力で清掃などを行うことは現実的に困難である。実情としてはボランティア頼みになるしかないのだが、7名のボランティアで1日に1棟処理することも難しいくらいの作業量であり、全体として、ボランティアも全く、足りていない状況にあった。

 さらに、中長期的なマンパワーの衰退についても懸念される。地域の復興には、地域の人々の永続的な営みが必要となる。しかしながら、震災後、地域の小・中学校の生徒数は4割近く減少しているという。住民基本台帳上でも、地域の人口は減ってはいるが、それ以上に住民票は異動していないが、実際には地域外に移っている人が多いことが推測される。地域で活力を生み出し、地域を支えていくことが期待できる子どもを持つ世帯の多くが、域外に流出しているとなれば、インフラが復旧しても地域の活気は戻ってこないのではないかということを谷口氏は危惧している。
 自身の事業については、さらに深刻に捉えているという。震災、水害と続いたことで、自身の旅館のある高台地域でも山体の崩壊が起きつつある。中規模半壊した施設は公費解体予定だが、公費解体の順番はまだ来ていない。ただ同氏は「地域の困っている方を優先していただき、居住していない旅館は最後でいいと考えています」と語っていた。施設を再建するには、輪島の観光活動が復活することが必須であるが、地域社会、コミュニティの復旧すら展望が見えない状況において、観光客が不便なく滞在できる水準にまで地が戻ることを現時点で想像することは難しい。能登観光という観点で言えば、和倉温泉の復旧状況にも大きく左右されることになるだろう。また、事業を再開するには、改めてスタッフを確保する必要があるが、年単位での休業となれば、元のスタッフを再雇用することは難しく、人材の確保についても大きな課題となる。地域及び事業の復興には、なりわい再建支援補助金などの大幅な拡充が不可欠だが、それだけではなく、人、マンパワーを中心に据えた中長期的な視野を持った復興支援が求められると、谷口氏は最後に述べた。
 能登を襲った震災と水害がもたらした影響は甚大であるが、我が国の現状を考えれば、同様の災害が今後、どこで起きても不思議ではない。この8月、南海トラフ地震臨時情報が出たことは記憶に新しい。また、大きな被害をもたらす台風、線状降水帯の発生も珍しくない状況となっている。能登で起きたこと、起きていることをしっかりと把握し、それを踏まえた対策を講じていくことが必要だろう。
 例えば、谷口氏は発災時には、固定設備やネットワーク型のシステムは利用不能になると考えておくべきだと指摘した。電気、水道、ガスが止まり、耐震であるはずの受水槽も壊れてしまうような状況において、役に立ったのはペットボトル、割り箸、カセットコンロといった単体で利用できる使い捨て用品だったからだ。携帯トイレやマスク、手袋といった衛生用品の備蓄があれば、さらに重宝しただろうと話す。
また、現在のハイブリッド車(給電対応車種)は給電機能を使って、ガソリンがある限り家庭用電力を引き出すことができ、それが大いに役立ったが、一方で電源からの充電が必要な電気自動車はほとんど役に立たなかったとも述べた。環境面、経済面を考えれば、使い捨て商品の利用を減じ、過大な在庫を持たないことが志向されがちであるが、震災などのリスクを考えた場合には、違う価値基準も存在するということである。これは、災害時に求められる対応は、通常時の「常識」を超えた世界にあることを示すものであるだろう。
 能登の震災や水害は、別世界の出来事ではない。我々の地域でも生じうる災害である。能登で起きたことを自分事として捉え、それぞれの立場でできる支援を継続していくことで「能登の状況を知り続ける」ことは、能登の復興を助けるだけでなく、自身の(自地域の)災害への対応力を高める取り組みであると認識したい。

※本稿は2024年11月9日(土)に金沢市内(ANAクラウンプラザホテル金沢)で開催された輪島温泉八汐専務取締役谷口正和氏の講演をもとに構成しております
※写真提供:谷口正和