活力に欠ける今日の日本にあって、今こそ「旅」に注目し、旅が生きる力となる“旅の恵み”に気づき、“旅への誘い”を発信すべく特集しました。人生に重ね合わせた旅の魅力を、さまざまな視点からご紹介します。
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【200号 PDF版】
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日々書斎に呻吟していると、無性に旅に出たくなる。こういう心を、昔、芭蕉は「風羅坊」と名付けた。
例えばこんなことがないだろうか。
朧々たる爛春の午下でも、底抜けに晴れた爽秋の朝でもよい、折しも来合わせた電車に乗り込もうとして、ふっと、このまま仕事も何もかも抛擲して、あてどもない旅に出てみたい、と思うような刹那が。
いやいや、実際には、浮世の柵は、そうそう行方知れずの旅に出ることなど許してはくれぬから、所詮見果てぬ夢なのだけれど、そういう時、私たちは、心の奥処に、この風羅坊という名の「旅への憧れ」をかそけくも宿していることを自覚するであろう。
私なども、仕事で全国を旅することが多いのだが、そこでいつも実践していることは、「旅の余白」を残しておくということである。
例えば、一泊二日の講演旅行だとしようか。この場合、まず第一日は「行くだけ」で、何も予定は入れない。宿は必ず自分で取って、仕事先の人とは何の約束もしない。そして、二日目の午後に講演があるとするなら、その日の午前中もまた「余白」として取っておくのである。
この「余白」が私のささやかな旅の時間で、ただ風羅坊の唆すままに、初めて訪ねる街の駅裏の繁華街を見物しながら、寂しい一膳飯屋に夕餉を喫してはもののあわれを味わったり、市場を逍遥しては見慣れない食べ物を買い食いしたり、観光客など一人もいないような古ぼけた街並みを歩いては、恐らく生涯に二度と見には来ないだろう風景を写真に撮ったり、あるいは俳句を詠んだり、ぶらりと骨董の店を冷やかしたり、その時その時の気分で、どんなふうにでも過ごせるように、心を自由に遊ばせる時間を用意しておくのである。
案内者もガイドブックも一切要らない。地元の人の案内も乞わない。ただ自分の心の赴くままに西東、風に転じゆく蓬のように歩き回る。そうやって、思いもかけなかった珍しいものと巡り合いたいのだ。
ああ、旅に来てほんとうによかったな、と思うのは、まさにこういう時である。
だから、ぜひ勧めたいことは、すべてを綿密なスケジュールで埋めてしまわないで、常にそういう「旅の余白」を残しておくということである。どの国のどの地方のどの町にも村にも、私たちの風羅坊の訪れを待っている珍しくも美しい「何か」が隠れているのだから。
(はやし のぞむ)