観光文化情報センター 旅の図書館長 企画室長 主任研究員 福永香織

Historical Archive on TourismとThomas Cook Archivesを訪問

2018年に開設40周年を迎えた旅の図書館では、
国内にとどまらない新たなネットワークを形成するため、
ドイツ・ベルリンにあるHistorical Archive on Tourism(HAT)と、
イギリス・ピーターバラにあるThomas Cook Archivesを訪問してきました。
いずれもヨーロッパを代表する観光関連の歴史資料アーカイブスとして知られています。

 

Historical Archive on Tourism

HATはベルリン工科大学図書館に付属する観光専門のアーカイブスで、1929年にローベルト・グリュックスマン(注1)が世界初の観光科学研究所とアーカイブスを設立したのがルーツとされています。後世のために観光史料を保存し、研究や教育、メディア、観光、展示産業の利用に資することを目的として、1986年にベルリン自由大学で設立されました。翌年にはベルリン工科大学に移転し、複数の財団や企業の寄付を受け、同大学図書館の地下1階に現在の形で整備されました。
1999年からベルリン工科大学教授のHasso Spode氏が統括。歴史社会学者としてドイツの旅行史やアルコール消費文化などを専門に研究する傍ら、HATの管理・運営をおこなってきました。
Hasso Spode氏と我々の接点は2017年にさかのぼります。当館のことを知ったSpode氏から当財団宛に直接メールをいただき、資料をお送りいただいたことが最初でした。その後、Spode氏が日本にいらした際に当館にもお立ち寄りいただき、館内の案内と所蔵資料に関する情報交換をおこないました。当館の設備をはじめ、HATでも所蔵していないベデカーのガイドブックが当館にあること等に非常に関心を持っていらっしゃいました。あれから2年。当方としても、いつか訪れたいと思っていたHATへの往訪が実現したことはこの上ない喜びでした。
HATには3つの資料室があり、資料総数は70000点以上にものぼります。1室目はジャーナル、ガイドブック、トラベルガイドなど、2室目は地誌、紀行文、統計、全大陸の国別の旅行パンフレットなど、3室目は観光統計、写真アルバム、論文、ポスターなどが収蔵されています。特に世界中のガイドブックのお手本でもあったBaedekerのガイドブックに加え、日本ではあまり見ることのできないGriebenのガイドブック、富裕層が利用したMeyersのガイドブックなどが500冊以上並ぶ様子は壮観でした。
日本の資料としては文献とパンフレットが約100点あり、中にはジャパン・ツーリスト・ビューローの機関雑誌『ツーリスト』や、国際観光局が発行した『ツーリスト・ライブラリー』の一部などもありました。主に研究者やマスコミ関係者、学生などに利用されており、メールでの予約制となっています。
運営予算は企業や財団からの寄付でまかなわれてきましたが、その寄付が打ち切られることになったため、来年からの運営については未定とのことです。

 

 

Thomas Cook Archives

Thomas Cook Archivesはトーマス・クック本社内にあるアーカイブスで、1950年に設立されました。1970年に本社とともにイギリスのピーターバラに移転。マーケティング部門の一組織として運営され、company archivist のPaul Smith氏が1人で運営に携わっています。
アーカイブスの資料は社員の他、外部の研究者にも事前予約制で公開されており、1日平均3人ほどの利用があるそうです。また、博物館などの企画展にも所蔵資料を貸し出しています。
所蔵資料は、トーマス・クック社誕生から現在に至るまでの資料を中心に構成されており、ロンドンで開催された世界初の万国博覧会への旅行を促進するために出版されたExcursionistやThe Traveller’s Gazette Magazineをはじめ、同社の関連施設やスタッフの記録、旅行記、ガイドブック、パンフレット、時刻表などがあります。
日本に関係する資料として、トーマス・クックの息子であるジョン・メイスン・クックが世界一周で日本に立ち寄った際の旅行免状や、1920年に同社とジャパン・ツーリスト・ビューローが相互代理店契約を結んだ際の記録など、貴重な資料の数々を見せていただきました。所蔵資料は湿度・温度管理がされている専用の書庫で管理されています。雑誌や記録類は合本化され、パンフレット類は地域や年代ごとに箱で分類・整理されています。どれも非常に状態がよく、丁寧に管理されている様子がわかりました。
2016年に175周年を迎えた同社の歴史は、本社入口のギャラリーで紹介されています。さらにアーカイブスで保管されている資料を用いながら175年の歴史を紹介する冊子が作成されており、同社のブランドに歴史がうまく活かされていることを感じます。
また、マスツーリズムの歴史に関する会員制のデータベースであるLeisure, Travel and Mass Culture : The History of Tourism(注2)にも資料を登録しており、他
の機関との連携方法や研究者向けの情報公開のあり方の面でも非常に参考になりました。

両機関とは、所蔵資料の概要をはじめ、運営体制、課題、ヨーロッパにおける観光関連のアーカイブス施設などについて有益な情報交換をおこなうことができました。これまでは日本側の資料からしかうかがえなかったイギリスやドイツの観光の歴史が、現地の資料から垣間見ることができたのはとても有意義でした。
いずれも限られた体制や予算の中で、明確なコンセプトに基づいて資料を所蔵・管理・公開している姿勢、そして自社や自国のアイデンティティとして歴史を大切にし、その価値を発信している様子に感銘を受けました。現在そして今後の日本の観光を考える上で重要な資料を所蔵する当館としての役割や、公開のあり方などについても多くの示唆を得た訪問となりました。
世界でも数少ない観光専門のアーカイブス施設として、今後も研究者への相互紹介や情報交換などをおこなうことで交流と連携を図っていきたいと考えています。

<注・参考>
(注1)ローベルト・グリュックスマンの著書は1940年に国際観光局から『観光事業概論』(当館所蔵)として和訳・出版されている。
(注2)欧州の大学図書館・文書館、Thomas Cook Archivesなどが有する貴重な観光関連資料を収録したデジタルアーカイブ。リーフレット、ポストカード、ポスター、
パンフレット、写真、スクラップブック、マスツーリズムに関する政府の公式記録、旅行雑誌、定期刊行物、ガイドブック等が登録されている。
Historical Archive on Tourism …http://hist-soz.de/hat/archiv.html
Thomas Cook Archives …https://www.thomascook.com/thomas-cook-archives/

 

 

 

C o l u m n1

ジャパン・ツーリスト・ビューローとトーマス・クック社を結んだ猪股忠次

世界最古の旅行会社として知られるトーマス・クック社は、創業者のトーマス・クックが1841年に禁酒運動の一環として鉄道を利用した旅行を斡旋したのが最初と言われています。
クックが初めて来日したのは1872年に世界最初の世界一周旅行を催行した時です。その時の「私はイングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、イタリアの湖という湖のほとんどを訪れているが、瀬戸内海はそのどれよりもすばらしく、それら全部の最も良いところだけをとって集めて一つにしたほど美しい」という言葉は広く知
られています。
そして息子のジョン・メイスン・クックが初めて来日したのは1893年。その際に日本で初めてとなる支店を横浜に開設することについて賛同を得ます。
実際に開設にこぎつけたのは1906年のことでした。
ジャパン・ツーリスト・ビューローとクック社は以前から接点がありましたが、相互代理店契約を結んだのは1920年のことです。その背景には、ビューロー2代目の幹事である猪股忠次の存在がありました。猪股はビューローで勤務する以前、南満洲鉄道(株)で勤務していましたが、同社は鉄道やホテルを経営していたこともあり、外国語が堪能で国際事情に通じている社員を育成するため、猪股をクックに留学させました。2年間の留学で猪股は旅客事務について学び、日本人客がイギリスを訪れた際の世話役は全て猪股がおこなっていたという記録もあります。
猪股がビューローに転職するきっかけとなったのは、ビューローの設立総会を終えた直後、今後のビューローのあり方と事業内容を検討するためにヨーロッパ出張に出かけた生野團六(ビューロー初代幹事)とロンドンで再会したことです。生野からビューロー設立の話を聞いた猪股は、生涯の仕事として自分も取り組みたいと希望します。
生野も自分の後継者であることを確信しましたが、当時のビューローは営利会社ではなく好待遇ができないため、その時は積極的には勧めませんでした。大連に戻った猪股はホテル監督の業務にあたっていましたが、1918年に生野に電報を送り、ビューローへの転職が実現します。
猪股がビューローに携わった1910〜20年代は、第一次世界大戦、経済不況、インフレ、関東大震災などの悪条件が重なっていました。世界の周遊観光団船が相次いで日本に寄港する中、これまでの体制で斡旋業務を行うことは限界があると感じた猪股は、クックで学んだ旅行斡旋業の知識やビジネスセンスを活かし、ビューローの当初からのねらいであった自己収入を上げる取り組みに力を入れていきます。
こうした背景のもと、クック社側の東洋支配人であったグリーン氏との間で何度も折衝を重ね、1920年に相互代理店契約の締結が実現します。これにより、外客への便宜を図るだけでなく、日本人が海外旅行をする際の各種手配もできるようになりました。
さらに、海外からの観光船一隻につき千円(のちに二千円)を収受する制度を打ち出したほか、1915年に鉄道院旅客課からビューローに異動した石田善太郎と協力しながら、内外の鉄道会社、汽船会社、旅行会社との代売、代理店契約の締結、デパートへの案内所進出、邦人への一般乗車券・遊覧券の発売、旅行傷害保険、観劇券、旅行小切手、手荷物保険、日支小荷物ならびに日支邦文電報の取扱い等の新規事業を次々と実施して自己収入をあげていきました。
その他にも、クックやアメリカン・エキスプレス等主催の世界一周団体に職員を添乗させて斡旋業務の実際を習得させたほか、創業15周年にはビューロー主催のアメリカ視察団、世界一周視察団を送り出しました。
残念ながら、猪股は53歳という若さでこの世を去りますが、大正末期から主力業務となりつつあった乗車船券類の代売の業務はその後も強化され、第3代幹事の高久甚之助の時代になると、職員を170人から2800人に増加させ業務にあたりました。
この方針はビューロー内でもさまざまな議論がありましたが、これが1963年の当財団と株式会社日本交通公社(現・(株)JTB)の分離につながっていくこととなります。

 

 

参考資料
『鞄の塵』猪股忠次、猪股功、1928年
『回顧録』Japan Tourist Bureau、Japan Tourist Bureau、1937年
『故猪股忠次氏十三回忌追憶座談会』八木鐘次郎他、1940年
『この人々』青木槐三編、日本交通公社 1962年
『日本交通公社50年史』日本交通公社、日本交通公社、1962年
『日本交通公社七十年史』日本交通公社、日本交通公社、1982年