観光研究最前線
2021年度第2回温泉まちづくり研究会座談会
コロナ禍で改めて考える「旅」と「地域」〜地域があるから宿がある、暮らしがあるから旅がある〜

桑野和泉((一社)由布市まちづくり観光局代表理事)

 皆さんおはようございます。温泉まちづくり研究会の皆様、昨日から本当にありがとうございます。こうして皆さんをお迎えできることを、由布院のメンバーも本当に楽しみにしておりました。Zoomで見ていらっしゃる皆様にもこの気持ちや空気感が伝わっているのではないかと思っております。温泉まちづくり研究会については先ほどご紹介がありましたので、私からは、なぜここにこのお3方が並んでいるかをご紹介したいと思います。
 今回のテーマである〈コロナ禍で改めて考える「旅」と「地域」〜地域があるから宿がある、暮らしがあるから旅がある〜〉というのは、やはり中谷健太郎さんなくして始まらないテーマだと思っておりますし、そこにうちの父もご一緒させていただくということです。由布院に戻ってきて60年にもなると思いますが、そういったことも踏まえて、その60年の時間軸でお話いただくということが、私達にとって非常に大事なことではないかと思います。
 同時に、温泉まちづくり研究会では未来のことも話していますので、そういう面でもお2人がいて、そこに後藤靖子さんがいらっしゃるという意味が私は大きいと思っています。
 後藤さんは1997年に九州運輸局の企画部長として初めて由布院にいらっしゃいました。それからもう24年です。その間、私ども由布院だけではなく、山形県、新潟県など色々な地域と長くお付き合いされていらっしゃいます。
 実は、由布院はバブルが終わった2000年頃に開発の波があり、まちが変わっていきました。ではこれからどうするかといった時に、当時、由布院観光総合事務所の事務局長で、現在は國學院大学教授の米田先生や、「ゆふいん料理研究会」の代表をされていた新江憲一さんなどの若手で「観光フォーラム21」というシンポジウムを企画しました。その時に、後藤さんは東京から駆けつけてコーディネーターを引き受けてくださいました。
 10年、20年と絶えず地域を見てくださっている後藤さんが聞き手になって3人で語っていただくというのが今日の座談会です。こういうことができるのが、温泉まちづくり研究会であり、私達ではないかなと思っております。この3人のお話を、次のステージのために聞けたらと思っております。

後藤 今日は本当にこんな素晴らしい場を作っていただき、私も参加させていただいて、人生でこんな幸せなことはないと思っています。私が九州運輸局にいた頃、当時はまだ観光行政に地域の概念がない時代に由布院の皆様にお会いしました。そして、そこで地域に目覚めたと思っています。
 当時、中谷さんも溝口さんも地域づくりの神様と言われていましたけれども、色々な地域がそのことに志を感じて、様々な取り組みをして、悩んできたのではないかなと思います。
 私自身も、そこで学んだことが自分の仕事上でも、生きていく上でも大きな支えになっています。
 地域に目覚めたという意味はいくつかあるのですが、学んだことの一つ目は、観光・交流は、地域の多様な産業を活性化することができるものであり、様々な産業を繋げる力があるということです。
 二つ目は、色々な人が入り混じるということは大事だということです。ジャンルを超えて、枠にこだわらず、繋がっていくということが地域にとって大事ですし、私自身もそれを目指して頑張ろうと思いました。
 そして三つ目は、誰でもプレイヤーになれるということです。どうしても仕事をしていると、自分の仕事の枠の中にこもってしまって、観光なら観光、農業なら農業、行政なら行政の範囲で考えてしまいます。「それは私の仕事ではない」と思ってしまうこともあると思うのですが、一歩踏み込んで自分ができることは何かというのを考えてやっていこうとすること。そして、一緒にできる人を探して仲間を増やしていくことが大事だということを学んで、自分も心がけるようにしてきました。それは色々な地域がやってきたことで、この温泉まちづくり研究会もそれがあるからこそやられているのではないかなと思います。
 新型コロナウイルスの感染拡大も、観光業界を揺るがす大変な出来事で、今もその中にあるわけですが、この時期にお2人の話を聞けるというのは大変素晴らしいことだと思います。今日は、亀の井別荘や玉の湯の談話室でお話をしているような、そんな和やかな雰囲気で進めていけたらと思います。
 まずは、改めてこのコロナ禍で、旅や地域をお2人はどのようにお考えになってきたのかということをお伺いしたいと思います。また、今、コロナ禍で苦しんでいる状況にある中で、由布院でずっと取り組まれてきたまちづくりは意味があったのかということ。そしてこの状況の中で新しく気づいたことがあるかということをお伺いしたいと思います。まず、中谷さんからお願いします。
中谷 今の由布院駅の駅舎ができた30年くらい前、僕らは旅してたんですよ。ハンガリーからイタリアを回ったり…。そのことを(公財)日本交通公社の助けをいただいてまとめた冊子(注1)が好評です。他にも薫平さんと私と、誰や彼やの漫談を1冊にまとめたのがあるんですが(注2)、それを見てて今ね、ちょっと情けないなあと思ってます。あれは一介の旅人でしかなかったということです。もちろん、旅人として学ぶことはいっぱいありました。例えば、道路を思いきり広くとっておけば、ショーウインドウができて、立派な商店街ができる。店は個人のものだけど、ショーウインドウは公共の空間じゃから、素晴らしい夜の散歩道ができる。その昼間の照りをカバーするために木を植える。
 「木植えろ、木植えろ」ったって、木を植えると葉が散る、葉が散ったらゴミになる、ゴミになったら誰が掃除するの、あんた来てくれるの、みたいな議論を由布院は30年もやってきた。ショーウインドウディスプレイは自分たちの手に負えんから、素晴らしいデザイナーの目線でショーウインドウ通りを造ってもらう。
 それじゃまずいと思うんですよ。そんなことは見りゃわかることで、僕らは大分の果ての由布院から、銀行さんに無理言ってお金借りて、忙しい家をほっといて、仕事はみんな家族やスタッフにやらしといて観て歩いたのに、報告書を作ったところで止まってしまったのは、実に浅はかだったと思う。
 ハンガリー・イタリア研修から帰ってすぐの頃にベルリンの壁が打ち倒された。そして僕らが憧れて観た映画「第三の男」のような、ああいう大変な状況が、今日まで戦争を引っ張っている。
 あれから、僕らが見て歩いたヨーロッパの人たちが、どれだけひどい目にあわされたり、逆にひどいことをしてきたか。そしてその後も世界中で報復する流れが止まらない。観光どころですか?俺たち観光業者はあんな所に行って「素晴らしい、木植えてる」「素晴らしい建物がある」「メシが旨い」つって帰ってきて、それを報告書に書いて、それだけっていうのは…?、何か始めんと…。
 何から始めるか?こういうところで喋るときに、どんな言葉で喋ればいいか迷うんですよ。どういうふうにしゃべれば話が通じるか?
 この頃、やっと少し見えてきたのは、「観光」ちゅうのは、人をお迎えする側のテーマであって、出かけていくテーマは二の次でいい…。お迎えする時のテーマは正しいか、まちごうておるか、じゃない。こっちが正しければ、お客さんが感動するかっていうと、そんなことはないと…。みんな「こっちが正しい」と言うて、戦争するわけですからね。
 ワシたちが「これ」と言っても、お客様側からしたら「あれ」であって、「あれ」と「これ」が合わんとお客さんは嬉しくない。そうかと言うて嘘を言うて、お客様を喜ばせる時代がありましたよ。だけど、そういう偽物の正義を振りかざして、「この町はこれだ、あんたたちとは意見が合わん」と言い募ってゆくことが観光ではないでしょう。
 宿屋は何するか?気持ちのいい人間関係を創るんですよ。良い想い出を創るというかな?それは「言葉」だと思うんですよ。明治から後の標準語はほとんど長州の言葉を参考にして作ったそうですね。観光は仲間以外の人。仲間同士でいるのが気持ちがいいのは当たり前で、酒飲んで歌ったらOKです。ではよその人と「仲のいい出会い」をするにはどうするか?まず言葉ね。自分がホッとする「懐かしいなあ」っち思える「懐し語」ちゅうかなあ。文部科学省が認めてる「正しい語」でしょう。そして外国語が、「珍し語」かなあ。「珍し語」も一つぐらいは覚えんと、今はスマホですぐに翻訳できますから、あれでいいんじゃないかっちゅうかもしれんけど、あれは嬉しくないですよね。だから嬉しい出会いのための「珍し語」っちゅうのが要る。
 つまり、「懐かし語」と「正しい語」と、それから「珍し語」の三つの言葉は覚えたい。それでとりあえず、「いらっしゃいませ」ができるんやないかな。
後藤 ありがとうございます。先ほど健太郎さんが言われた、海外に旅に行って、いろんなことを学んで、それを由布院のまちづくりに生かしたというのは、全国のまちづくりのバイブルのようになっていますが、それを情けなかったと仰いました。そして、また新しい色々なことを考えて、歩みを止めないという中谷さんのお話だったと思うんですけれども、薫平さんはいかがでしょうか。
溝口 私はね、健太郎さんのこういう理屈っぽいというか、理論的な部分を絶えず聞かされてる(笑)。だけどね、これをね、聞く耳を持ってる人といない人がいるんですよ。特に行政にとっては、健太郎さんが何か喋ると、何かことが起こるというようなことがあるから。「まあまあ、そう言わずに、健太郎さんの言っておることはこういうことだ」と言って、私は解説をしてきおった(笑)。
 しかし、やっぱりその元を捉えて発信する人がいないと…。なかなかいないですよね。しかしこれはね、後先を考えたら発言できなくなるんですよ。健太郎さんは後先を考えんで、自分の思ったことをどんどん進めるわけですよ。だからね、際立つ。それが、由布院を際立たせた一つの要因ではないかな。
 そういう面ではね、偉大な人なんです。だから絶えず言うんです、もうちょっと健太郎さんを大事にせんと(笑)。あの人を長生きさせんと、由布院は暗くなるよと。由布院の中での太陽は健太郎さんなんです(笑)。
 今は亡くなりましたけれども志手康二さんという夢想園の社長を含めた3人の弥次喜多道中みたいなヨーロッパの旅は、いろんな驚きがありました。それを健太郎さんが編集長になって記録誌にきちっとまとめた。『花水樹』(注3)という冊子もそうですけども、やはりそういうふうに記憶を記録する人もいないといけない。
 私はやはりそれぞれの役割があると思う。ヨーロッパへ行ったときに、向こうで問われたのは、「君たち3人はどういう役割をするのか」と。健太郎さんは今のお話のように、企画力に優れた人。それから志手康二さんっていうのは人気者っていうか、人柄がいいというか。遊び人といっては奥さんに悪いんですけど、大衆性を持った人だったんですね。だから仲間がすごく多かったし、私と健太郎さんが走ってるときに、それを若い人たちに解説してくれた。「遊び人」が街の中にいるかどうかっていうのは、大変貴重なんです。遊び人っていっても本当にいい遊びなんですよ(笑)。
 健太郎さんが走り、志手康二さんが丸めてくれ、私が調整する。健太郎さんは、行政に好かんことばっかり言うからね(笑)。行政ともうまくいかなきゃならない、それからいろんな人たちにも伝えて調整しながら、「まあまあ、なんとか」って言って、話をまとめながら前に進むというね。だから、三人三様がその時代にいたっていうことが確かにありがたい。
 由布院は決して今のように全国区になるようなところじゃなかったですよ。今日は先進地の各温泉地の皆さんがお越しくださっていますけれども、私たちはそういうところを見て回って、教えを乞うたものです。みんな、由布院の先生方だったんです。
 今日の温泉まちづくり研究会のように、こういう場を持ってくださらないと広がらないですね。観光特急のゆふいんの森号が通った時に、後藤靖子さんがいらして、研究会の司会までやってくださった。後藤靖子さんは観光業では草分けというか、ずーっと中心を歩かれた方です。尊敬する方をお迎えしてこの会を持てたということはすごく素晴らしい歴史です。

後藤 ありがとうございます。今、薫平さんがお話しになった、三人三様でそれぞれ個性が違っているけれども、お互いの役割分担があって、お互いの能力を認め合い尊敬し合いながら、それぞれ力が発揮できるようにしたという人間関係は奇跡的なような気もしますが、考えてみれば日本の地方のどこにでもそういう人はいそうな気もするんですよね。
 隣に大きな別府という観光地があって、当時は小さな農山村だった由布院だと思うんですけれども、それが可能になったのは何があったとお考えでしょうか。
溝口 私は、貧しかったからだと思うんです、豊かではなかった。その豊かさというのは、物質的に豊かではなかったね。そして近くに別府という大きな観光地があってくれた。でも別府と同じように、パイを大きくする方針をとらなかった。「弱い人たちが生きていくためにどうするか」と言ったときに、やっぱり力のないものはお互いに協力する以外ないですよ。
 だから、まちの中で皆が協力し合って、由布院というものを何とか知ってもらおうじゃないかと。その時に観光地化せずに、「保養地」というのをキーワードに、そして皆さんが安心して来られるようなところを目指しました。
 それと、別府が男性社会でしたから、由布院は女性を中心とした温泉地にしていこうということでした。女性を中心にということであれば、「安心安全」もそうですけども、「食べ物が美味しい」ということです。それが一番明快に伝わるのは、やっぱり女性の口コミだったんです。それで女性を大事にしていきながら、そういう方たちが口コミで「由布院は安心で良いところだよ」というと響きが良い。そのことが由布院を「安心な観光地」にしてくれた。口コミがいかに大きかったかっていうのは、確かにひしひしと感じました。
後藤 貧しかったからというのはなるほどと思います。その中でお隣の成功事例をそのまま真似しなかった。皆さんすごく考えられたことだったと思います。
 観光業界はみなさんそれぞれ経営も大変ですし、やっぱりうまくいってるところを見ると、そこを見習ってやっていきたいというのが多くの地域や経営者はあると思うんですけれど、それをなさらずに違う道をちゃんと考えてこられたところに分かれ道があったような気がします。
 ところで、観光はまさしく人と人が繋がって交流することですけれども、コロナはこの交流、そして物理的に人が来るということを否定せざるを得ない出来事だと思います。
 観光に携わる人や地域、私達はそれをどう受けとめて考えたらいいのでしょうか。
中谷 えーっとね、やっぱり歳ですからね。クンペイさんは88歳、ワシは87歳(笑)、それにコロナでしょう。以前みたいにワーワー飲んだり歌うたりできませんわ(笑)。今まではなんとかやってきてたんですよ、村の親分衆はおるし、軍隊から帰ってきた「世話人」はおるしね。都会から入ってきて、チャッテ、チャッテと東京弁で喋る人たちもいっぱいいて(笑)、混乱状態ですよね。それがなんとかなったのは言葉を「正しく」使うたからじゃないかなあ、例えばねえ。今俺、「ねえ」ちゅうてしもうたけど、いつもは「なあ」ちゅうんです。
後藤 どうぞ、いつもの通り。
中谷 ワシは「そやけんなあ」と言いおると、薫平さんは「そやからねえ」と言うんです(笑)。文化の高い日田出身の人なんじゃ。日田っていうのは天領やったから、堂々たるところで、「そやからねえ」ちゅう(笑)。
 ワシは隠れ切支丹の由布院村の片隅で、宿屋をしおったから、仲間に入れて欲しくて「なあ」ちゅうんですよ。「せやからなあ」「ほしてなあ、おいさん」と(笑)。薫平さんは文化の日田藩の出じゃから「ほしてねえ」と…(笑)。
 そこに水分峠(みずわけとうげ)ちゅう峠があるんですけど、水分峠を越えると途端に「ねえ」になる。そこは複数の藩があった立派な村で、こちら側はそんなもんはないから、「それでなあ」と。中で一番偉い溝口家とか、岩男家とかの庄屋さんは、「そうじゃからのう」ちゅうんです(笑)。「ねえ」と「なあ」と「のう」がカラオケ屋で、歌うたり、文句言うたり…。褒めたりもするんですよ、他所の
人がおるときは…(笑)。
 ちょっと話が違うけど、5年前に熊本地震が来て家がひっくり返った時に、これはもうあかんわと思って、物置に置いてあったそれまでの50年分ぐらいの資料を並べたら、だんだん傷んできて、見えんごとなるんですよね。(公財)日本交通公社からも応援いただいて整理をしましたけど、これは大学か文化的事業団かなんかが入らないと手に負えん(注4)。50年ちゅうけどね、由布院に客人が来始めてから90年くらいになります。だから、90年分ぐらいの人様との往来の資料が役場にもあるだろうけど、うちやら、村・町の家の物置にあるんですよ。それを何とかしとかんと…、それをやり抜くのにこれからどうするか。
 で、コロナになると、集まって、盛り上がって、話をまとめるというこれまでの手法は無理だろうと思うねえ。中村桂子さんと言う面白い生物学の博士がいますが、地球上に生命が生まれて43億年とか書いてますね。短い論文でも30何億年、そんくらい前から命が一緒になって地球の上でやってきた。だから、コロナが3年前から来たぞと言うけど、40億年前から一緒に生きとったわけ。
 それをね、大砲を持って撃ち殺すようにワクチンでやり過ごせ、殺せって言うても、向こうも変わってきますわな。変わってきたら、またさらに新しいクスリで逃げるっていう、変わるたびにあの手でこの手で凹ませておったら、わし達がもたんわね。
 妙なやつが来たら、一緒に何とかやり過ごしていく。そのために、どうしたらいいか?出会うて踊ったり歌うたり、焼酎飲んでカラオケしたりはダメだ。だけど3人でも5人でも出合うて、しゃべって…。あるいは発信したり、ハガキを出したり。ハガキは63円で全国に運んでくれる懐かしい飛脚便です。以前、小泉元首相は「郵便局を民営化するぞ」と言ったけどワシは「郵便局を守りたい」。その代わり、63円ハガキを50円にして貰う(笑)。
 さて、そこで何を発信するかっちゅうと、「過去」ですよ。「未来」は怪しい。未来は、半分ぐらいは嘘っちゅうか、苦し紛れっちゅうか(笑)。確かなものは、過去です。過去は納得ができる。43億年ですから。アニミズムや、曼荼羅とか、神様や仏様の世界です。何十億年前から、みんな一緒ということでやってきた。そのしきたりを、地球の上で人間がはびこり出してから壊してしもうて、人間が一番、仲間以外はみんな邪魔じゃちゅうて…。観光も相当、凝り固まっちおるんじゃないかなあ。キリスト教とイスラム教が同じ町に住んで、仏様と神様が、一軒の家の中に祀られて…。生き方を探してきた。戦争の時代は皆苦しかった。観光は違う人たちとどうやって、仲よくとは言わんけど、まあ「なんとか連れ合うていく」っていう「方法論」でしょ。そのためにまず「言葉」が大事ですなぁ。初めて逢う人にも、「懐かしいなぁ」と思われるような言葉を使いたい。
 僕らが帰ってきた頃に村を守っておった男衆はみんな軍隊帰りでした。軍隊帰りはあの頃、失望しちょったんですよ。あの頃の小説とか映画を見ると、男がみんな情けないんです。女の人はなかなか立派なんですよ。「子供達も夫も皆戦争に出したのに、あんたたちは負けて帰ってきたんかい」っていう中で、男どもはひしゃげて、戦後を迎えてるんや。『町誌湯布院』(注5)というこんな分厚い本があるけれども、あんまりそういうことは出とらん。その頃「興郷会」という「故郷を興そう」という会があって、これが中核になって青年団や消防団が動き出した。それが戦後に芽吹いた「湯布院町の町づくり運動」の「新芽」です。やがて朝鮮戦争が始まり、自衛隊が補強され、東京オリンピック・大阪万博等が脚光を浴びて、「地方の時代」がやってくる。湯布院の「町づくり運動」がスポットを浴びるのはその頃からで、まあ時代の流れに乗って浮かび上がったようなものです。「一村一品」とかね…。じゃから底が浅い。そこは戦後の「興郷会」で、その前の「北由布村」「南由布村」の時代…そして「隠れ切支丹村」の歴史にまで遡らんと、町づくりの地殻は見えてこんですよ。じゃから「市町村合併」に対抗できんかった。敗れました。
 さて観光じゃけど、「異人・客人」と交わって新しい文化と経済を産み出すのが観光です。
 アフガンの人もイスラムの人も中米の人も、中国の人も、みんな気持ちよく歌える歌を、これから歌うていくのが、観光の仕事かなと。
後藤 お伺いしていると、今は目の前のことで本当にいっぱいいっぱいな気もするんですけど、由布院自体で見ても何十年と色々なことがあったんですよね。コロナも大変ですけど、それ以外でも健太郎さんも薫平さんも地域の人もみんなそれを乗り越えてきて、地球全体から見れば43億年の中にもっと色々なことがあって、「そんなに人間、ヤワじゃないでしょ。観光でできることがある」っていう、そんな気に今なったんですけれども、薫平さんいかがでしょうか。
溝口 色々なことを体験してこれた、そしてしたたかに、しなやかに生き延びたかなという気がしています。それと、由布院の場合はね、仲間がいたんですね。同調してくれる仲間がいて、お互いがそれぞれ自分を主張しながら、うまくこうまとまっていった。
 でね、私色々考えるんですけど、やっぱり景観っていうかね、風土と景観、そういう面で由布院という風土が、そういうものをじわりじわりとね、育ててくださったんじゃないかと。そうしますと、その風景をもう一度私達は今から作っていかなきゃならんと。あまりにもそういう風土なり景観を壊してきたんではないかというような反省を含めてですね。私は、少しずつ1人でも多くの人たちがまちの中に木を植えていこうと。
 100年前、本多静六さんが由布院に来て、『由布院温泉発展策』(注6)を話してくれた。その基本というのは、やはりそういう風土であり、温泉もそうですけれども、木を植えていくことです。植えた木が100年たった明治神宮はあれだけ素晴らしいものになったけど、由布院の中で見てみると、意外に鎮守の森がなくなってるんです。今からの私の運動としては、そういう木を育てて、そして100年後の子供たちが素晴らしい環境で育っていけるようにしていきたいなあと思っています。
 健太郎さんの、過激さっていうのはもう本当にすごいですけどね、壊すんですよ、色々なことを(笑)。だけど、それがまた次の発展の芽を育てるということで、だから私は健太郎さんと長い付き合いですけど、いいコンビが組めたなあというように思ってる。もう本当に健太郎さんなくして由布院はできなかった。
 この人は自作自演でね、喋ると書いて残してるんですよね。それがすごいですよ。由布院がこれだけ名を成したというのは、由布院の記録をきちんとまとめてくれたというのが一番大きい。その書き手がそれぞれの温泉地にいらっしゃるかどうかというのも大事じゃないでしょうか。
後藤 確かにそうですね。私も最初に由布院にお邪魔した時に、健太郎さんや薫平さんが取り組みを始められた頃のワイワイガヤガヤ議論された記録が『花水樹』に全部残っていて、それをだいぶ読ませていただきました。記録を残すというのは、すごく大事なことだなということを実感しました。その後もずっと記録を残されていると思いますが、日本中の地域がやりたいけれどもできていなかったということもあるのではないかなと思います。
 未来は苦し紛れかもしれないけど、過去が大事だということも伝えていくという。かつ自分たちの仲間内だけではなくて、色々な人を巻き込むために伝えていく作業が必要だということもお考えになりながらされていたのかなと思いながらお話を聞いておりました。
 健太郎さんも壊しながら、薫平さんも木を植えてというように、どんどん次のことをお考えになっていると思うのですけれども、私たちはこの2人を先生と思ってやっていますし、由布院の皆さんも師匠と思ってやっていると思います。
 お2人から見てですね、もっと若いのは俺たちを乗り越えろよみたいな、いつまでも先生と生徒じゃなくていいから、もっとハチャメチャやってみろみたいなことはないでしょうか。
中谷 旅館組合長にいよとみ、観光協会長に草庵秋桜がなってくれて、やっと若い人「由布院人」たちがリーダーになった。「秋桜」っちゅうのは、元は医者じゃったと思う、そういう人たち、つまり根から土に生えちょる人たちが、観光協会や旅館組合のトップに踊り出て、それを大昔からの溝口家という、庄屋をくぐって出てきた薫平さんや、寺の血を引いた和泉ちゃんが由布市まちづくり観光局の代表に出てきたちゅうんで、やっと根が生えたなあという気がするなあ。
 で、ワシらは、外国語や外国の人と、どう付き合うかということを、もうちょっと考えて、関係をスムーズに、しかも安心したものにする。価値観も言葉も違う人たちとハートをどう交わらせるか?戦争するんじゃなくて、良かったなっていう形にやっていく道を、これから4、5000年くらいは続けていかんと、まったりした良い関係は生まれませんよ。県外の文化や技術を呼び込んだのは、政治かもしれんけど、迎えて育てたのは観光です。雅楽とかも元はあの辺ですよね。それから「巨蛇退治」という由布院神楽があるけど、須佐之男に斬られた大蛇の腹から出てきた天叢雲の剣は鉄製の剣で、やって来たのはヒッタイトからです。いつまでもアメリカにつくか、中国につくかみたいなことで意気んでいないで、くるっと地面を潜っていって、地面同士で仲良くすることを考えていきたいと思ってます。
後藤 なるほど。薫平さんいかがでしょうか?
溝口 健太郎さんの説を、絶えず辻説法みたいに若い人たちを鼓舞してもらいたい。若い人たちは自分の意見を言わなくなった。おとなしくなりすぎている。やはりなんとかせにゃいかんっていう人たちが生まれてくるっちゅう風土を由布院の中で育てる。「ああ、由布院っていうのは、何か変わった人がたくさんいるな」と。それと外の人たちをどれだけ受け入れるかっていうことも大事なことではないかなと思います。
 そういうことをしながら、昔のような日常を急激に大きく望むのではなくて、やっぱり一歩一歩、そういうことを固めていけるようなまちであって欲しい。
それから、意見が行政に届くことが大事ですが、行政の庁舎が市町村合併で遠くなったんですよ。コミュニケーションを図りながらいかに皆さんとの間をつないでいけるかです。そうすると「ああ、由布院はいいところだな」というような安心感が生まれて、今回のコロナでも、やっぱり安心・安全なところに行こうということでお客さんが由布院に来てくれるわけです。やはり観光っていうのは安全・安心なところだという原点を私達は大事にしていかなきゃなと改めて思いました。
中谷 「ゆふいん親類クラブ」(注8)な。あれが受けたわな。私は由布院におりゃせんで、もう博多やら大分やらに行って、昼間はちょっと県庁とかマスコミとかに行くんです。で、「夕方待っちょるけんな」、その一言が勝負やね(笑)。昼間の挨拶は普通のことしか言わんから。
 それから、「牛喰い絶叫大会」(注9)もNHKにずうっと放送してもらうんやけど、原っぱで牛を喰うて、絶叫するので応援に来ておくれ、というわけです。ムチャクチャや(笑)。
 音楽祭でも、小林道夫先生みたいな、世界に冠たる人の家に泊めて貰うて飯食わしてもろて、みたいなことをやっておる内に、先生が由布院に引っ越しておいでた。
 じゃから、皆さんの仕事っちゃ面白いんじゃないかなあ。じいっと待っちょるっていうイメージじゃない。遊びに行くちゅうよりも呼びに行くんじゃな。「呼び使い」じゃな。鬱々としてた人がようなる。鬱々とせん人同士が集まりたいから、また来る。盛り上がる。いらんこと言わんで、ここらでやめときます(笑)。
後藤 お話を聞いて改めて思うのは、由布院は人が好きなんだなっていうことですね。だから仲間内もそうだし、他の地域の人も色々な産業の人も東京の人も、地域の人と旅人との間に境界線がなくって、みんな一緒みたいな。「呼び使い」っていうのは初めておうかがいしましたけども、なるほどなと思いました。
 多分、好きになってくるとこっちも好きになるし、やっぱり由布院と一緒になって考えるっていうのも、その人の人生にとってものすごく楽しくて豊かになっているという関係が、多くの人にできているということだと思います。ぜひ皆さんもどんどん一歩踏み込んで、あっちこっち行って、「呼び使い」していただけるといいなと心から思っております。
 そろそろ時間が少なくなってきました。本当はもっと色々と聞きたいことはありますし、またこういう機会を作っていただけるといいなと思うんですけれども、最後に地域に対する期待とか、こんなことをやりたいといったことがあれば一言ずつお話しいただけると嬉しいです。
中谷 もう言いたい放題言いましたので、真面目な人に締めてもらって。
溝口 いやいや、過激な人がいてね、まちは活性化するんです。それとやっぱり外の人が来てくださる。今日みたいに全国からですね、温泉地にずっと携わった方たちが一堂に会して、色々な議論をしていただき、まとめて冊子にして残してくださることも大事だと思います。この諸々の人が来て、由布院に行ってきたと言って、由布院のお話をしていただければ、それに私達地元としては応えていくだけのおもてなしというか、懇ろにお客様をお迎えするという心をですね、一層、住民一人一人が持っていくと。やっぱり民度が高まらないと、観光っていうのは上がってこないんじゃないかなと思います。皆さんどうぞよろしく。
後藤 本当に今日はありがとうございました。このお2人の話をまとめるという愚かなことを私はするつもりはありませんが、この1年半ぐらいの間にすごく思ったのは、やっぱり人に旅は必要だと。人と繋がったり交流したりすることで、人間というのはインスパイアされるし、生きる希望も出てきます。今まで放っておいてもどんどん旅行していた時代には気づかなかったことを色々気付いたと思います。皆さんご心配だと思いますが、「旅行しろ」って声高に言わなくても、みんなそれを求めて旅すると思います。日本
人が日本に気づいたこともたくさんあると思うし、海外の人だってそうだと思うし、言葉が通じない人とももっともっとお話ししたいと健太郎さんも言われていましたが、そういうことは必ず通じると思います。ぜひそういう多くの人の気持ちに応えられる価値を伝えられる地域を、これからも皆さんで作り上げていただけると嬉しいなと思っております。今日は、本当にありがとうございました。


※本稿はその場の雰囲気を伝えるために、話し言葉をできるだけそのまま起こしています。

〈温泉まちづくり研究会について〉

 温泉まちづくり研究会は、温泉地が抱える共通の課題について解決の方向性を探り、各地の温泉地の活性化に資することを目的に、2008年4月に設立されました。現在、北海道阿寒湖温泉、群馬県草津温泉、三重県鳥羽温泉郷、兵庫県有馬温泉、愛媛県道後温泉、大分県由布院温泉、熊本県黒川温泉の7つの温泉地を会員とし、当財団の自主研究(公益事業)の一環として運営しています。
 会員温泉地の観光事業者をはじめ、行政・DMO・旅館組合
等の担当者、大学の研究者や専門家などが集まり、定例研究会等で自由闊達に議論を行っているほか、調査や視察、実践的な取り組み等もおこなっています。また、研究会で得られた情報や知見は、「提言」や「総括レポート」等にまとめ広く発信しています。
 本稿に掲載した座談会が開催された2021年度第2回温泉まちづくり研究会では、コロナ禍で改めて認識した「温泉地として大切にしていきたいこと」を確認・共有するものとして「温泉まちづくり研究会 由布院宣言2021」を採択しました。
(本宣言を採択した地域(由布院温泉)の名前をとって由布院宣言2021としています。)
(文:観光政策研究部 活性化推進室 主任研究員 福永香織)

出席者

溝口薫平氏 (株)玉の湯代表取締役会長

1933年(昭和8年)生まれ。日田市立博物館勤務を経て、1960年代より由布院の自然保護やまちづくりに携わり、1963年から玉の湯旅館の経営に参加、1982年㈱玉の湯の代表取締役に就任、2003年には代表取締役会長となる。湯布院町商工会長や由布院温泉観光協会会長、公益財団法人人材育成ゆふいん財団理事長等を歴任。中谷氏・志手康二氏とともに由布院のまちおこし・まちづくりを展開。2002年第1回観光カリスマに選ばれ、2005年には春の叙勲にて旭日小綬章を受章。

中谷健太郎氏 (株)亀の井別荘相談役

1934年(昭和9年)、湯布院町生まれ。1957年明治大学卒業後、東宝撮影所に入社。1962年、父の他界を機に帰郷し旅館亀の井別荘を継ぐ。1980年、㈱亀の井別荘代表取締役社長に就任、湯布院町商工会長や由布院温泉観光協会会長を歴任。ゴルフ場建設計画に対する「由布院の自然を守る会」の結成や、大分中部地震による観光客低迷に対する、ゆふいん音楽祭、湯布院映画祭、牛喰い絶叫大会等の様々なイベントの企画等、由布院の文化と自然資源を育てるまちおこし・まちづくりを溝口氏・志手氏とともに展開。2009年、第1回観光庁長官表彰。

コーディネーター
後藤靖子氏 (株)デンソー社外監査役、(株)資生堂社外監査役

1958年愛知県で生まれ、大阪、静岡の富士山のふもとで育つ。東京大学法学部卒業後、運輸省入省。九州運輸局企画部長在勤中に由布院の皆様に出会い地域にめざめる。日本政府観光局ニューヨーク観光宣伝事務所長、山形県副知事、国土交通政策研究所所長、九州旅客鉄道株式会社常務取締役、取締役監査等委員などを経て現職。

【注】
(注1)『ゆふいん大航海時代の幕開け―旅をした仲間たち』由布院の百年・編集サロン編、日本旅館協会由布院連絡会、2021年6月
(注2)『たすきがけの湯布院』中谷健太郎、ふきのとう書房、2006年
(注3)「由布院の自然を守る会」が1970年に創刊したまちづくり雑誌。同会は、1970年に猪の瀬戸でゴルフ場の建設計画が持ち上がった際、湿原植物の宝庫でもあるこの場所を守るために観光事業者や観光協会が中心となって組織された。由布院でのまちづくりの活動や議論の様子などが記録されている。
(注4)由布院でのまちづくりにおいて中谷氏が記録し、保管してきた資料は、「由布院の百年・編集サロン」で管理されている。同サロンでは寄付やボランティアの協力の元、資料の整理作業が進められている。また、溝口氏が所有する資料や写真については玉の湯の社内で保管されている。当財団は2019年度に由布市まちづくり観光局より「由布市観光アーカイブ支援業務」を受託。観光やまちづくりに関する資料の目録作成や一部整理、アーカイブ化をおこなったほか、今後のアーカイブ方針について提案を行った。また、資料を用いて両氏の対談を2回に渡って開催。その内容を編集して冊子化されたのが『ゆふいん大航海時代の幕開け―旅をした仲間たち』。
(注5)『町誌湯布院』湯布院町誌編集委員会編、湯布院町、1989年
(注6)1924年に林学博士の本多静六氏が由布院に来訪し、由布院として取り組むべきことについて講演をおこなった。本書はその内容をまとめたものである。由布院ではこの内容を現代語訳し「ゆふいん観光新聞別冊」(由布院観光総合事務所、2004年)として広く配布した他、子供にもわかりやすいようにまとめ、『本多静六博士の「由布院温泉発展策」〜心ゆたかなまちづくりの知恵〜』(由布院温泉観光協会、2006年)として発行している。
(注7)「由布院の自然を守る会」が発足した翌年の1971年に同会が「明日の由布院を考える会」へと発展移行。
(注8)1996年頃に由布院ならではのグリーンツーリズムのあり方を模索する中で、湯布院町民と外部の由布院ファンが親類と付き合うように交流しようとするもの。
(注9)牧草地で豊後牛のバーベキューを食べた後に、参加者が大声で思いの丈を叫ぶイベントで、1975年から現在まで続いている。元は「牛一頭牧場主運動」の農家と子牛のオーナーとの交流会という位置づけであった。「牛一頭牧場主運動」は牛を成長させるまでの間、現金収入が得られない農家の支援と美しい草原を守ることを目的に、都会に住む人に子牛のオーナーになってもらう取り組みである。

【参考】
『由布院モデル 地域特性を活かしたイノベーションによる観光戦略』大澤 健、米田誠司、学芸出版社、2019年