わたしの1冊第25回
『人生をいかに生きるか』
(上/下)
林語堂 著
講談社 1979年

金井啓修 有馬温泉観光協会 会長

 2020年1月下旬、春節だったが中国からの観光客のキャンセル通知が入りだした。新型コロナウイルス感染症の始まりだった。桜の咲く頃には、夏休みには、紅葉の時期には終息するだろうと考えていたが一向に終息しなかった。
 そしてコロナの期間中に人生の師ともいえる人を亡くした。御所坊の字等を書いて頂いた無方庵という号を持つ綿貫宏介(ひろすけ)氏だ。先行きの見えない閉塞感を感じていた時に、ふと氏の『南天葉露堤要』拓本集を思い出した。一見漢詩風に見える内容だが、タイトルを「なんてパロディよ」と読むように中身はユーモアで溢れている。その冒頭に林語堂の言葉が引用されていた。そこで氏が影響を受けたという林語堂の『人生をいかに生きるか』(上下)を購入した。林語堂は福建省の生まれでキリスト教の牧師の家庭で育った。アメリカやドイツで学び、晩年は台北で過ごしたユーモアを愛する世界的なジャーナリストだ。
 かつて嫌煙が叫ばれるようになった時、禁煙にするかどうか迷って氏に相談をかけた。その時「喫煙家が禁煙家に迷惑をかけているのは肉体的なものであるのに対して、禁煙家が喫煙家にかけている迷惑は精神的なものである」という言葉を教えてもらった事がある。今では分煙や完全禁煙にしなければいけないが、その言葉もこの本に書かれていた。本の内容は項目ごとに分けられているので、僕は読みたい項目や節を選んでバラバラに読んでいる。
 タイムリーなので、第九章十節の「旅行の楽しみ」に書かれている内容を紹介したい。
 冒頭に旅の邪道が述べられている。邪道の第一として精神向上のための旅を否定している。精神向上のために観光ガイドが誕生して講釈を述べる。その話を聞くよりも、たまの休暇には心をのんびりさせて休養を取るべきだという。
 確かに自分の知識だけをひけらかし、旅行者の知りたいものや時間などお構いなしのガイドも多いのではないかと思う。昨今でいえば体験メニューが必要なのか疑問も湧いてきた。
 第二の邪道は、後日の話の種を作る為の旅。お茶の名所で茶を飲む姿の写真を撮っている。茶を飲んでいる自分の写真を友人に見せるのは良いが、本物の茶を味わうより写真の方に気を取られている事が問題だ。確かに今はSNSに載せる為に旅をし、食事を注文しているのではないかと思える人も多い。
 第三は、完全に旅程をくんだ旅。それを後生大事に守る事。日常スケジュールに追われており、旅に出ても同じような事をしている。最近は少ないと思うが、多くの日本人はそのような旅をしていると思う。
 林語堂は旅の醍醐味は、世を避け人から逃れる旅 忘れる為の旅だと云っている。
 コロナが終息しインバウンドが再開した時に、成熟化した旅行者を受け入れる為には、林語堂の言葉が重要ではないかと思う。海外のリゾート地で成熟化した旅行者は、何もしない時を楽しんでいる様に思うからだ。

金井啓修(かない・ひろのぶ)
日本で一番歴史のある有馬温泉。その中でも一番歴史のある温泉宿 御所坊の15代目主人。1955年生まれ。1978年有馬に戻り、以後40余年間、有馬温泉の地域づくりに関わる。その間、国土交通省の「観光カリスマ100選」に認定される。趣味はゴム動力飛行機づくりとラガー・ビア。休日は4人の孫守りに追われている。