わたしの1冊第22回
『峠越え』

山本一力 著
PHP研究所2008年(文庫。単行本初版は2005年)

小林哲也 株式会社帝国ホテル特別顧問

 『小人は縁(えにし)に気づかず。中人は縁を生かせず。大人は、袖すり合う縁でも縁とする。』
 世の中には尊敬できる人、すごい人、格好いい人、いろんな人がいるが、その人に会いたいと思ったときは、発信することが重要だと常々思っている。まさに、私にとって直木賞作家の山本一力先生もそのひとりだった。
 今から十八年前、当社で開催された社団法人の会合で山本先生の講演を拝聴する機会に恵まれた。講演タイトルは「江戸庶民の心意気」。当時興味を持っていた狂歌のことなども織り込まれた話に、私はグイグイと引き込まれた。会合の後、心に受けた素直な感動をそのままご本人へ伝えに行った。それが、山本先生と私の「袖すり合う縁」だ。それからも、弊社の会員誌での対談や食事など、公私にわたりお付き合いをさせていただいている。
 冒頭の言葉は、物語の中で江戸に縄張りを張る てきや稼業の元締めのひとりが口にした教訓だ。もともとは中国の故事らしいが、私はこの言葉をえらく気に入っている。
 物語は、女衒稼業の不始末で借金を背負った主人公の新三郎が、壺振りおりゅうとともに互いに足を洗うため、江の島の弁財天を両国の回向院に移して参詣させる「出開帳」の成功に向けて奔走する前編と、そのツキにあやかろうとする てきやの元締め衆の久能山参りを、新三郎が今で言うツアーコンダクターとして四苦八苦しながら先導する後編からなる。親分衆の心意気もさることながら、新三郎の口先で誤魔化そうとせず、ひたすら誠実を尽す姿勢には心が洗われる。「百術は一誠に如かず」である。
 私は人間が好きだ。高校時代から様々な作家の本を読み、人間というものに興味を持った。ホテルを〝稼業〞に選んだ理由にもそれが大きく影響している。ホテル業はまさに人間相手の商売だ。もちろんホテルのお客様に限らず、仕事場でも街中でも人間の営みが存在する場所には無数の「縁」が潜んでいる。「まずは行動し、人と会い、縁に気づき、その気づきを受け入れ、受け入れたらそれを発信する。」このことを意識して実践すれば人間はどこまでも豊かになれると私は信じてやまない。
 しかしながら、昨今世界を襲うコロナ禍は、「在宅勤務」や「リモート会議」、「バーチャル旅行」といった、人類の悠久の歴史を振り返っても考えられない習慣や文化を生み出すきっかけを作ってしまった。もちろん、それがこれからの時代のニューノーマルであることは理解しているが、人間が大切な何かを失うような気がして心が落ち着かない。
 ホテルに求められる「ニューノーマル」とは、人が集うこと自体を否定することではない。密を避け、衛生的に安全を担保し、安心してご利用いただける環境をしっかりと整えることで、「縁」をつなぐ場であり続けていくことが、アフターコロナ時代のホテル稼業の役割である。
 それに誠実に取り組むことで、いつか流行り病を『峠越え』できる時が来ることを祈るばかりだ。

小林哲也(こばやし・てつや)
株式会社帝国ホテル特別顧問。1945年新潟県生まれ。1969年慶應義塾大学卒業後、帝国ホテル入社。セールス部長、宿泊部長、営業企画室長、取締役 総合企画室長、常務取締役 帝国ホテル東京総支配人、代表取締役副社長 帝国ホテル東京総支配人などを経て、2004年代表取締役社長、2013年代表取締役会長、一般社団法人日本ホテル協会会長。2020年から現職。