わたしの1冊 第32回 『論語と算盤』

渋沢栄一・著
角川ソフィア文庫刊

井口智裕
株式会社いせん 代表取締役

 日本の近代資本主義の父とされる渋沢栄一の『論語と算盤』は発刊から100年以上経った今でも多くの経営者に読み継がれている名著である。あまりにも有名な書籍なので、すでに多くの方々はご存知かと思うが、宿泊税やDMOが議論される機会も増え、これまで以上に観光地域づくりに経営的視点が求められる今だからこそ、経営の原点に立ち返るためにぜひ見直して欲しい一冊である。
 この書籍には2つのメッセージが込められている。1つ目は「道義を伴った利益を追求せよ」というものであり、2つ目は「自己の利益より、他人の利益を優先し、公益を第一にせよ」というものである。これらのメッセージは多くの経営者によって引用され、また古くは近江商人の三方よしの精神にも通じているため、我々日本人にとってはそれほど目新しさを感じないかもしれないが、実際に行動してみると言葉一つ一つに思想の深さを感じる。
 『論語と算盤』が執筆されたころの日本はまだ観光産業も未発達であったため観光については触れられていないが、もし渋沢栄一が今の観光地域づくりに関わる人々に対して、論語と算盤を語ったらどういう話をするだろうか?  「算盤のない論語など戯言」であり、「公益を第一義とするのであれば、自ずと関係者や自分にもその利益は戻ってくる」と一喝されそうだ。多くのDMOの事業計画には地域の未来を指し示すビジョンや道義が書かれているが、利益を出していくための算盤に対する熱量は一般企業の事業計画と比べると少ない。書籍には「論語(道徳)と算盤(経営)」という一見すると相反する2つの価値観を一体化させる重要性についても書かれている。観光地域づくりにおいては価値観が異なるもの同士の間で衝突がしばしば生じる。また立場によって会議体そのものを事業者側または行政側と分けてしまうことも多い。2つの異なる価値観を融合させることが新たな考えや仕組みを生み出す種になることは渋沢栄一が生涯で約600近い事業に携わってきた実績が証明している。
 書籍の中で一体化している経営を「良い金儲け」と定義し、一体化していない形は「悪い金儲け」としている。事業者の数や経営資源も限られた地方での観光振興では、狭い範囲での相互扶助によって成り立たせていかなければならない。もし一部の人達が「悪い金儲け」を行えば、それは自社に跳ね返ってくるだけではなく、地域全体にも影響を及ぼす。だからこそ観光地域づくりに関わる人たちには改めて『論語と算盤』を読み返して欲しい。地域にとって必要な論語とは何なのか、優先すべき算盤はどこを意識するべきなのか、論語と算盤を通じて地域全体での共通言語を持つことはこれからますます重要になるであろう。


井口智裕(いぐち・ともひろ)
旅館の4代目として家業を継ぎ、2005年「越後湯澤HATAGO井仙」をリニューアル。2008年に周辺7市町村で構成する「雪国観光圏」をプランナーとして立ち上げ、2013年には代表理事に就任。2019年には老舗温泉旅館の経営を引き受け、雪国文化を感じる古民家ホテル「ryugon」へのリノベーションを実施。「宿は地域のショールームである」との思想のもと、実業と地域経営を共存させることで国際競争力をもった地域ブランディングの構築に取り組む