【特集】…② 大分県日田市中津江村
深めてきた交流が地域の自信と誇りに
2002年サッカーW杯事前合宿の誘致、深まる交流、その歴史

大分県日田市
今も続くカメルーンとの交流。中津江の人々は、日々の生活の延長線上に手作りで歓迎の意を示してきた。この小さな成功体験の積み重ねが最大のレガシーとなった。

村を知ってもらうためには

 「この小さな村を知ってもらうためには、これまでと違う発想が必要だ。」
 2002年FIFAサッカーワールドカップ(以下「W杯」)の事前キャンプ地として、中津江村が名乗りを上げる契機となったのは、一人の村職員の発案だった。
 中津江村は、日田市の南部に位置し、熊本県と福岡県に隣接する県境の地域だ。2005年に市町村合併し、現在は日田市の一部となっている。合併当時、村の人口は1300人を超えていたが、現在は約700人。地域の大部分を森林が占め、人々はその中でのどかに暮らしている。
 さて、遡ること今から25年前。1996年5月、W杯の日韓共同開催が決定し、アジアで初めて開催されるW杯に、日本国中が盛り上がりを見せていた。このとき、村の社会教育施設の所長を務めていた職員が、この大きな国際的スポーツイベントの活用を考えたのがすべての始まりであった。

厳しい財政状況打開の一助に

 キャンプ誘致の目的には、村の知名度を上げることのほかに、老朽化しつつあった施設の大規模な改修も含まれていたことも事実だ。
 村が誘致先の施設に考えていたのが「鯛生スポーツセンター」(以下「スポセン」)だった。この施設は、県内外の中高生等がスポーツや学習のために利用する合宿施設として、村が1990年に建設した。営業先では村営施設というだけで、設備の内容を見てもらうまでもなく、利用検討の対象外となることも多く、施設の経営も非常に厳しい状況だった。また、施設は大規模な施設改修をはじめ、グラウンドの再整備や機器設備の更新を迫られることも憂慮される状況にあった。
 財政状況が厳しかった村は、「W杯の公認キャンプ地」という肩書を得ることで、このような問題も解決し、施設を中長期的に維持できるのではないか、世界で活躍する選手たちが練習したグラウンドを擁する施設となれば、その知名度で多くの集客が見込めるのではないかと期待があった。

〝誰も知らない〞カメルーン

 当時、W杯のキャンプ地に立候補した所は全国で84地区あり、大分県内では当村を含む4地区が立候補していた。当村も、当時の坂本休村長がトップセールスとして精力的に訪問し、これらの努力の結果、2001年11月、遂に中津江村はカメルーン共和国のサッカー代表チームの事前キャンプ地として、W杯日本組織委員会から正式に公認され、調印を交わした。
 しかし、村はここで大きな壁に突き当たる。
 議員や職員はもちろんのこと、住民の多くが「W杯」という言葉も聞き慣れず、「カメルーン」という国の位置すらよくわかっていなかった。また、念願だった施設改修の目途が立ったものの、〝一流選手〞の合宿に応え得る施設とはどのような施設なのか、誰にも見当がつかなかった。
 村に前例もなく、参考にできる同規模の他町村の例は皆無に近い。だからといって事業をプロデュースできる広告代理店等に業務委託することは財政的に余裕のない村には不可能だった。このとき、村に残されていた貴重な資源。それは、住民という「人」だった。
 また、この前代未聞の取組みを、マスコミは「小さな村の大きな挑戦」と題して報道したのだった。そして、日を追うごとにマスコミの数は増え続け、最終的には選手団の「遅刻騒動」が拍車を掛け、日本中、そして世界中で「NAKATSUE‐MURA」が連日報道され続けることは、このとき誰も予想していなかった。

住民が主役となり、行政が伴走する

 そうして決まった事前キャンプ。村は各方面の協力を得ながら、受け入れ態勢を整えた。関係機関との連携や人的支援の調整はもちろんのこと、とりわけ村が重きを置いたのは、住民の協力を得ること、住民に主体性を発揮してもらうことだった。そこから、住民目線による「中津江村にできること」の模索が始まった。
 「選手たちに中津江村で快適に試合の準備をしてもらうこと」を行政と住民の共通目標として、住民に自由な提案を募ったところ、年齢を問わず様々なアイデアが寄せられた。
 村が採った手法は「住民のマンパワーを生かし、村職員がそれを支援し伴走する」。そうすることで、住民の活動意欲が増し、各方面での取組みが相乗的に効果を上げる結果となった。

成功の鍵は「コミュニティ力(りょく)」

 村は住民の提案を調整しながら、様々な取組みを実行していった。
まず、高齢者はスキルを生かして応援手旗の手作り。持ち手は、地元の竹を切り出し、椎茸栽培をしている協力者宅の乾燥小屋で仕上げ。紙の貼り付けは、子ども達とともに行った。
 また、女性たちの尽力も大きかった。「中津江村の思い出を持って帰ってほしい」「練習で疲れる選手たちの癒しになるように」と、様々な品物を手作りした。歓迎や激励の気持ちを表す言葉をデザインしたコースターやタペストリーをはじめ、中津江の四季から着想を得た絵手紙を子供たちと一緒に作成し、選手たちの部屋に備えた。さらに、幹線道路の清掃活動や、国旗の色を参考に花苗を植栽するなどして歓迎。合宿中は、使用済みの練習着等を仕分ける作業まで毎日担った。
 また、林業関係者や村の青年団も仕事の合間を縫って、チームのシンボルである「不屈のライオン」を模した特大看板等をそれぞれ作り上げ、歓迎の気持ちを表現した。
 小・中学校では、同国の文化を理解する一環として、村の国際交流員の指導のもと公用語であるフランス語を学んだほか、現地の郷土料理を給食で食した。また、千羽鶴を折って選手団の健闘を祈った。さらに、選手団を迎えての壮行会では、小学生で結成していた踊り隊が、練習を重ねた花笠音頭を披露。選手たちが子供たちの輪に入って一緒に踊り出すという嬉しいハプニングも起こった。また、中学生の音楽部によるカメルーン国歌演奏の際は、選手たちは一斉に起立し、演奏に合わせて国歌を斉唱した。
 そして保育園児は、選手団と高校生の交流試合において、カメルーン選手たちと手をつなぎ、エスコートキッズとして入場。選手たちは、園児たちを膝に乗せて試合を見せるなど、楽しそうにスキンシップを図っていた。
 このように、住民たちが世代や立場を超えて互いに協力し、それぞれに出来ることに取り組んだ。ただ、これらのおもてなしの数々は、キャンプ受け入れのために特別に行ったことではなく、地域で日頃から取り組んでいることが原点であった。例えば、地区に伝わる伝統行事の継承、公道の草刈り。これらは、地区住民が力を合わせて行ってきている。このように、日常生活の中で培われていた住民間のコミュニケーションや共に助け合う活動の延長に、中津江流のおもてなしがあった。このため、キャンプや交流の成功の大きな鍵は、住民が平素から培ってきた「コミュニティ力(りょく)」にあったと言える。

暮らしの再評価とその効果

 住民の熱意を持続できたのは、小さな成功体験の積み重ねがあったことも大きい。住民が日ごろ当り前に行っていることが、実は価値ある取組みであること。些細なことと思っていた小さな親切は、相手を思いやる大切な行為であること。この「地方らしさ」、「中津江らしさ」をマスコミという第三者は、価値あるものと前向きに報道した。住民たちはその報道に驚きながらも、それらの評価によって自身を肯定し地域への愛着を強めたように思われる。
 また、全国的な報道によって国内外で中津江村の知名度は大きく上昇した。これにより、村を訪れる観光客数やスポセンの利用者数が大幅に増大し、村の産業振興に大きく寄与した。
 しかし、最も大きな効果は、活動の小さなステップを積み重ねるごとに、住民が中津江村の交流のあり方に自信を深め、誇りを感じていったことである。これがキャンプ誘致の最大のレガシーである。

友好の軌跡

 カメルーン共和国と中津江村の交流は、キャンプ受け入れ決定の翌年から始まった。
 まず、2003年。当時の坂本休村長が同国を訪れ、親善を深めたことを皮切りに、メヨメサラ市と中津江村の友好親善協定を締結した。また、キャンプ誘致を主導してきた功労者として、坂本氏に同国最高位のシュバリエ勲章が大統領から授与された。また、同年に大分市で開催されたキリンチャレンジカップのカメルーン共和国チームの試合には、当時、人口約1300人の中津江村から約400人の村民が応援に駆け付け、選手に熱い声援を送った。その後も、2005年には、日本のJリーグでも活躍し、世界的に著名だった同国のパトリック・エムボマ選手が、キャンプ地のスポセンでサッカー教室を開催し子供たちと交流した。なお、同年に中津江村は市町村合併により日田市に編入合併している。日田市の一地域となった中津江村だが、その後も同国との交流は継続する。
 2007年は、再び大分市で開催されたカメルーン共和国チームの試合への応援、2008年は駐日大使が来村して記念植樹の実施。2010年に行われた日本代表対カメルーン共和国代表の試合は、村内に大型ビジョンを設置して村民一丸となって応援した。この年は、中津江村の子供たちが応援フラッグを作って同国へ贈り、現地の子供たちがそのフラッグにメッセージを寄せ書きした。これを、駐日大使が預かり、再び中津江村の子供たちへ返還する交流を行った。2012年はキャンプから10周年を迎え、再び駐日大使が村を訪れ記念植樹を行った。
 また、村内にはかつて金の採掘量が「東洋一」とも称された鯛生金山があり、その遺構は1983年から観光施設として活用されている。2013年は、その金山で施設開業30周年を迎える記念式典が行われ、駐日大使が足を運んでくれた。なお、元村長の坂本氏においては、2010年から2017年にかけて、カメルーン代表チームが参戦する国際試合を応援するために、同国や大会開催国を合計6回にわたって自ら訪れ、選手団やカメルーン共和国との交流に尽力している。
 さらに、駐日大使館が例年、東京で行っていた同国の建国祝賀会を、2018年においては、友好の意を改めて表すために中津江村で実施した。
 そして、2021年。東京2020オリンピックが日本で開催された。その事前キャンプ地として同国が選んだ地は、中津江村のある日田市であった。

東京2020オリンピックで再びの交流

 2019年8月にカメルーン共和国から東京2020オリンピック選手団の事前キャンプを日田市で行いたいと打診があった。オリンピック予選が始まっていない中で、選手団の規模、競技種目など分からず、さらには使用する練習会場や宿泊施設など、検討すべき課題が多くあったが、2020年1月に費用負担等を定めた受入協議書の締結、2021年2月に事前キャンプに関する協定書を締結し、事前キャンプ受入れの準備がスタートした。
 団体競技種目はオリンピック予選で敗退し、すべて個人競技(陸上、ボクシング、ウエイトリフティング、柔道、レスリング、水泳、卓球)となり、選手12人を含む総勢26名が7月5日に日田市に到着した。今回の事前キャンプを通じ、選手は体育館玄関で脱いだ靴を自ら揃える、市職員が準備していたPCR検査容器を自ら並べる、感染症対策として行動が制限された中で狭い宿泊施設内での自主トレ、陽気に市職員と触れ合うなど、カメルーン選手団はまじめであり、非常に友好的であった。
 また、当初はW杯の事前キャンプで使用したスポセンを練習会場、宿舎のメインとして考えていたが、団体競技種目がなくなり、練習会場も分散されるため、スポセンの使用を断念した。
 加えて、折からのコロナ禍の影響により、選手団が中津江を訪問することは困難と思われた。しかしながら、選手団の意向もあって、感染症対策を万全に整えることにより、W杯で合宿の地となったスポセンを訪れることが実現した。
 感染防止の観点から、住民と選手団の直接的な交流はかなわなかったが、中津江の住民は何らかのおもてなしができないものか地域で模索した。そこで中心的な役割を果たしたのが住民自治組織 中津江振興協議会(以下、愛称「中津江むらづくり役場」)であった。この組織は、人口減少が著しい中津江で、住民がこれからも安心して同地に住み続けられるよう、2018年に発足した団体で、さまざまな地域活動の核となっている団体であり、ここを中心に検討した結果、住民たちで応援グッズを手作りして贈呈することに決定した。女性たちを中心に手作りされたのは、2002年にサッカーの選手団にも大変好評を得たコースターで、この時も再び応援の気持ちを表す言葉をデザインした。また、練習着入れなどにしてもらおうと、片側に日本特有の和柄を、もう片側にはカメルーン国旗の色をあしらった手提げバッグも制作し、同国と中津江村の一体感を表現した。また、両国の国旗を模したミニワッペンも手作りしてバッグに取り付けた。
 さらに、住民有志によって、勝負の縁起を担ぐダルマなどを折り紙で折ってもらい、励ましの言葉とともに色紙に貼り付け装飾した。そして、保育園児がカラフルな絵の具を使って、前述の色紙に手形を押して応援に参加した。
 小・中学生も、同国の国旗に応援メッセージを丁寧に寄せ書きしたり、同国の郷土料理を給食で食し、カメルーンの文化に対して理解を深めたりした。
 グッズ作りでは、多くの住民がかつての「おもてなし」をすぐに思い返してくれたようだった。このため、短時間での手作業にもかかわらず、非常に丁寧で心のこもった応援グッズが出来上がった。
 選手に直接渡すことができないため、作業する住民の様子を撮影した数々の写真を贈呈コーナーに設置するなどして、住民の気持ちをできる限り伝えることに努めた。選手団はその写真を代わる代わる見つめて、贈呈されたグッズを手にしていた。また、グッズ作りの様子や住民からの声援は、選手団をはじめ、同国と中津江村、そしてあらゆる人々が世界各地でどんな時間も自由に閲覧できるよう、動画編集されてSNSにアップされている。

中津江村にとっての地域振興

 地域振興は、人と地域によって様々だ。一人ひとりが相手を労わる小さな思いやりも、なかなか来ない相手を信じて待つということも、時に文化の異なる相手や国中の人々の心も動かす立派な地域振興となる。中津江村の人々の自宅には、今でもカメルーンにちなんだ応援グッズが必ずあると言っても過言ではない。特別なことは必要ではなく、日々の暮らしの再評価や、別の視点による新たな価値付けが、その地域振興につながる最良の道だということを、今でも続くこのカメルーンとの交流が物語っている。
 そして、地域にとって貴重な財産である「人」「心」。これからも大事に引き継いでいきたい。