【特集】…④大分県
大分国際車いすマラソンの40年

1981年、「障がい者スポーツの父」中村裕博士の提案によって始まったこの大会は、コロナ禍を乗り越え、2021年に第40回を迎えた

大分国際車いすマラソン事務局

1.大分県のすがた

大分県は「アジアの玄関口」である九州の北東部に位置し、北は周防灘に、東は伊予灘、豊後水道に面しています。総人口は約112.2万人(令和3年2月現在)で、人口の最も多い市町村が県庁所在地である大分市の約47.7万人、最も少ない姫島村は約0.17万人です。総面積は、約6341㎢で、最も広い市町村である佐伯市の面積約903㎢は、九州一の広さを誇ります。
 歴史を紐解くと、古くは豊の国と呼ばれ、7世紀の終わり頃、豊前・豊後の二国に分けられました。8世紀には宇佐神宮が全国4万社の八幡の総本宮として栄え、国東半島には「六郷満山」と呼ばれる独自の仏教文化が花開きました。
 鎌倉時代、13世紀の初めに、大友氏が守護として豊後に入国し、以後400年間統治が続きました。特に、キリシタン大名として名高い大友宗麟の時代には、豊前を含め北部九州6カ国を支配するまでになりました。宗麟は、キリスト教に止まらず西洋文化を積極的に取り入れ、府内(現在の大分市)や臼杵には中国船やポルトガル船が入り、「南蛮貿易」が盛んに行われ、国際都市として繁栄しました。
 16世紀末、豊臣秀吉によって大友氏が除国されると領国は極端に細分化され、その後約300年間小藩分立の時代が続きました。一方で、各地に城下町文化が花開いたことにより、自主自立の気風を育み、代表的なところでは、南画家の田能村竹田や農学者・大蔵永常、近代以降では、小説家・野上弥生子や彫刻家・朝倉文夫など、多くの優れた人材を生み出しています。
 当県はまた、温暖な気候に恵まれ、海や山などの豊かな自然、その中で育まれた新鮮で安全な食材、前述の宇佐神宮や六郷満山に加え、国宝臼杵石仏や富貴寺大堂など、多くの豊かな地域資源があります。県内全域に広がる温泉は、日本一の湧出量と源泉数を誇り、地球上にある10種類の泉質のうち8種類を有しています。さらには、「The・おおいた」ブランドとして、関あじ・関さば、おおいた和牛などの高級食材をはじめ、かぼすやしいたけなど四季折々の素晴らしい食材も満載です。
 コロナ禍で観光には冬の時代が続いていますが、いずれ訪れるウィズコロナの時代を見据え、「おんせん県おおいた」をキャッチフレーズとして、優れた観光素材に磨きをかけ、多様化するニーズに対応することで、国内はもとよりアジア、さらには欧米・大洋州からの誘客にも取り組んでいきます。

2.中村裕博士と障がい者スポーツ発祥の地「OITA」

 我が国において「障がい者スポーツの父」とも呼ばれる中村裕博士は、大分県別府市に生まれました。九州大学医学部に学び、郷里の国立別府病院で整形外科科長を務めていた1960年5月、イギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターに留学し、ルードウィヒ・グッドマン博士に学びます。
 グッドマン博士は、第二次大戦での傷痍軍人の治療を通じ、スポーツをリハビリテーションに取り入れる、当時としては画期的な手法を導入し、現在のパラリンピックのルーツとなる国際ストーク・マンデビル競技大会を創設していました。多くの脊髄損傷患者がスポーツを通じて社会復帰を果たしている姿に衝撃を受けた中村博士は、帰国後矢継ぎ早に行動を開始します。
 1961年に大分県身体障害者体育協会を設立、同年第1回大分県身体障害者体育大会を全国で初めて開催し、翌年には第11回国際ストーク・マンデビル競技大会へ選手2名を派遣します。彼らは、日本はもとよりアジアから初の参加選手となりました(このとき、博士が派遣費用を捻出するため自家用車を売却したという逸話はつとに有名です)。このニュースが世界に向かって報道されると、国内でも認識が改められ、障がい者スポーツに対する関心が高まっていきました。
 遡ること2年、1960年のローマオリンピック開催後に、同地で国際ストーク・マンデビル競技大会が開催されていました。(これが後に第1回のパラリンピックとされます)次の開催地は東京です。博士の行動力が多くの関係者を動かし、1964年、博士自身が選手団長を務めた東京パラリンピック開催へと繋がります。日本障がい者スポーツ協会の発足と第1回全国身体障害者体育大会の開催は1965年であり、中村博士の功績は、大分県を我が国における障がい者スポーツ発祥の地へと押し上げました。
 その後も博士は休むことなく進み続けます。日本の障がい者スポーツは力強く歩み始めましたが、アジアを中心とした太平洋地域の障がい者のスポーツ環境は、欧米に比べ著しく劣っていました。1975年、博士の提唱で「第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(Far East and South Pacific Games Federation for the Disabled、通称:フェスピック競技大会)」が大分市・別府市で開催されます。フェスピック競技大会は、2006年までに9回開催され、「アジアパラ競技大会」として引き継がれ、現在に至ります。

3.大分国際車いすマラソンの誕生

 車いすマラソンの歴史はアメリカに始まります。1974年にオハイオ州で10名の選手が参加した「第1回アメリカ車椅子大会」がその起源とされていますが、距離など詳しいことはわかっていません。しかし、翌年伝統あるボストンマラソンで常識を覆す出来事が起こります。
 24歳の青年、ボブ・ホールが参加資格を巡り訴訟を起こしてまで車いすで参加し、42.195kmを完走しました。記録は男子優勝者に遅れること約49分の2時間58分でしたが、彼の勇気が世界中の車いすランナーの闘争心に火をつけました。こうした動きは当然我が国にも伝わり、県内でも車いすランナーのチャレンジ精神が高まります。
 当県には、国内でも歴史と伝統を誇る別府大分毎日マラソンがあります。
 1978年の第27回大会では、県出身の宗茂、猛の双子のランナーがワン・ツーフィニッシュを果たし、優勝した茂選手は当時の世界歴代2位の記録をマークするなど、大会は黄金時代を迎えており、県内の車いすランナーがそこに出場したいと願うのは必然でした。
 「ボストンのように健常者と共に走らせたい」との思いから、中村博士は大分陸上競技協会などへ車いすでの参加を正式に申し入れますが、「足で走る」というルール上の問題から実現には至りません。しかし、「車いすだけの大会を開催するなら協力する」との言葉が次へとつながります。
 1981年は国連総会で国際障害者年となることが決定しており、大分県ではその記念行事を検討していました。そこへ「世界初となる車いす単独の大会を」という中村博士の提案が持ち込まれ、ついに大分国際車いすマラソンの開催が決定します。
 当初は風光明媚な別大マラソンと同じ海岸コースが検討されましたが、交通規制上の問題から実現せず、国道197号の大分県庁前をスタート、県道大在大分港線へ向かい、ここをメインに大分市内を周回、大分市営陸上競技場をフィニッシュ地点とするコースで決着しました。結果的にはこれが功を奏し、市街地を走ることで沿道から多くの声援が得られるとともに、高低差の少ないフラットな地形が好記録をもたらすコースとして、大会の知名度向上に一役買うこととなります。
 1981年11月1日、爽やかな秋晴れのもと号砲が鳴り響き、世界15カ国地域から117名の車いすランナーが一斉にスタート、ここに大分国際車いすマラソンの歴史が始まりました。

4.大会の軌跡

 記念すべき第1回大会は、フィニッシュでハプニングが起きます。2人の外国人選手がゴール間際で手を握り合い並んでフィニッシュラインを越え、友情の同時優勝を主張しましたが、「大会は競技であってレクリエーションではない」として、1位と2位の順位を明確にしました。
 慎重論からハーフマラソンのみでスタートした本大会ですが、第3回から待望のフルマラソンを開始し、国際ストーク・マンデビル車椅子競技連盟の公認大会となりました。
 1984年7月23日、中村裕博士が急逝されました。享年57歳。同年の第4回大会は、これを惜しむかのように朝から雨が降っていましたが、スタート直前に雨は止み、カナダのアンドレ・ビジェ選手が1時間48分25秒の世界最高記録で後の4連覇へと繋がる初優勝を飾りました。
 翌第5回大会は、皇太子同妃両殿下(現上皇上皇后両陛下)のご臨席のもと開催され、本県の山本行文選手がマラソン男子で国内1位となりました。
1990年10月28日、秋篠宮同妃両殿下のご臨席のもと、世界37カ国地域から大会史上最多となる441名の選手が出場し、第10回記念大会が開催され、マラソン女子でオランダのジャネット・ジャンセン選手が世界最高記録で優勝しました。レースに先立ち10回連続出場となる選手を表彰するとともに、歴代優勝者を招待するなど、節目の大会を盛り上げました。
 1993年の第13回大会では、マラソン男子でスイスのハインツ・フライ選手が大会新記録で2年ぶり3度目の優勝を果たしました。車いすの鉄人といわれ、今ではスーパーレジェンドであるハインツ選手は、この後10連覇を達成し、通算でも最多の14回の優勝を誇るなど「大分国際の顔」として長く王者に君臨することになります。
 1998年の第18回大会から、OBS大分放送によるラジオ実況中継が開始されるとともに、翌年の第19回大会では、ハインツ・フライ選手が1時間20分14秒の世界最高記録で7連覇を達成しました。この記録は今なお男子マラソンT53/54クラスの世界記録となっています。

 ミレニアムの2000年11月12日、寛仁親王殿下のご臨席のもと、世界30カ国・地域から417名の選手が出場し、第20回記念大会が開催されました。県内のみならず羽田や関西国際空港での歴代大会のポスター・写真展の開催や20回連続出場選手の表彰等の記念行事を実施しました。8連覇を達成したハインツ・フライ選手には初となる外国人名誉県民証が授与されました。
 2002年の第22回大会は、大会史上初の雨の中でのレースとなりました。信じられない話ですが、ここまで21年間雨に見舞われたことがなく、雨天時の運営マニュアルが存在しない中で臨機の対応となりましたが、幸いにも全てのスケジュールをつつがなくこなすことができました。この年以降数度の雨のレースを経験することとなりますが、事前に準備した雨天時のマニュアルにより、大きなトラブルもなく円滑な大会運営を行っています。
 2006年の第26回大会は、国際パラリンピック委員会の公認大会となるとともに、T53/54クラスで本県の笹原廣喜選手が日本人として初優勝を果たしました。
 2010年11月14日、皇太子殿下(現天皇陛下)のご臨席のもと、世界20カ国・地域から307名の選手が出場し、第30回記念大会が開催されました。節目の大会として、大会功労者や連続出場者を表彰する記念式典を行事として独立させたことをはじめ、数々の記念事業を実施しました。新たに賞金制を導入したレースでは、後に絶対王者となるスイスのマルセル・フグ選手がT34/53/54で初優勝を飾りました。
 そして2016年の第36回大会で、ついに大会関係者の長年の悲願であったテレビの実況生中継が実現します。ここまで幾度となく各放送局等へ実現に向けた働きかけを行ってきましたが、一部コースの狭小さ等もあって技術的に困難とされており、録画でのダイジェスト放送に止まっていました。空からの映像等により困難を克服し、生中継の実現に尽力いただいた地元の大分放送やTBSテレビ、大会の協賛企業でもある本田技研工業をはじめ多くの関係の皆さまにあらためて感謝します。レースは7連覇を狙ったマルセル・フグ選手がまさかのクラッシュでリタイヤとなり、福岡県の山本浩之選手が初優勝、千葉県の鈴木朋樹選手も2位に入り、大会史上初めて日本人のワン・ツーフィニッシュとなりました。

 翌第37回大会は、18カ国・地域から258名の選手がエントリーしていました。開催日にあわせるように台風第22号が接近する中、レース前日の開会式は実施し、最後まで開催の道を探っていたものの、当日未明県内に暴風警報が発令され、早朝のコースチェックで実施は困難と判断、大会史上初の中止と決まり幻の大会となりました。
 そして2020年、大分国際車いすマラソンは第40回記念大会を迎える予定でした。スイスのマニュエラ・シャー選手が女子T53/54の世界記録を樹立した第39回大会終了直後から関連イベント等の検討を開始しましたが、1月以降新型コロナウイルスの世界的な流行が深刻化し、3月にはオリンピック・パラリンピックも延期が決定、開催が見通せない状況となりました。障がい者スポーツ発祥の地として何らかの形で開催できないか検討を重ねた結果、40回記念大会は延期し、国内選手に限定した「大分車いすマラソン2020」を開催することとしました。国内外の主要なスポーツイベントが大会が相次いで中止・延期となる中、感染拡大防止と大会開催の両立は困難を極めましたが、選手全員へのPCR検査の実施などできる限りの対策を講じた結果、大会関係者の感染はゼロでした。

5.大分国際車いすマラソンの特色

❶ 世界トップレベルの大会

 今日では、パラリンピックを筆頭に、車いすの部が設けられているアボット・ワールドマラソンメジャーズと呼ばれる世界6大マラソンなどで一流選手による最高峰の戦いが繰り広げられていますが、本大会もそれらと並び称されており、マラソンT53/54クラスの男女を始め、本大会でマークされた3つの記録が現在も公認世界記録とされています。(R3・10・1現在)
・T53/54 男子:ハインツ・フライ
1:20:14 第19回大会1999
女子:マニュエラ・シャー
1:35:42 第39回大会2019
・T 52 女子:八巻智美
2:07:28 第28回大会2008

❷ 世界最大規模の大会

 参加者数の累計は、昨年の2020大会まで、実に世界78カ国・地域から述べ1万1697人となっています。参加者数においてピークに達した1990年代は毎年400人規模の開催が続き、その後減少したとはいえ、ここ10年でも毎年200人を超える選手が参加するなど、一大会としては世界最大規模を誇ります。選手が大分県庁前を一斉にスタートするシーンは壮大で、大分名物といっても過言ではなく、見る者を圧倒します。

❸ ボランティア等による協力体制

 本大会の最大といってもいい特色として、かつて3000名ともいわれたボランティア等による大規模な協力体制が挙げられます。国際大会として不可欠な通訳は、当初から大分イングリッシュ・スピーキングクラブや大分外国人妻の会などのメンバーがボランティアとして参加し、第15回大会を機に「大分国際車いすマラソン通訳ボランティアCan-do(キャン・ドゥ)」へと発展しました。海外選手からは「OITAは世界一のホスピタリティ」との評価を得ています。
 競技主管である大分陸上競技協会の全面協力はもとより、運営面では、中村博士が設立した太陽の家の関連企業であるオムロン、ソニーグループ、本田技研工業、三菱商事、デンソーなどをはじめとした多くの企業ボランティアが県内外から駆けつけ、観客や交通整理、会場での受付などにあたっています。
 また、車いすの輸送などには自衛隊の強力な支援をいただくとともに、地元の学生や生徒、交通指導員、さらには沿道の市民までもがレース当日の朝にコース上の清掃を行うなど、大会事務局もその正確な数を把握できないほど多くの方々の協力に支えられてきました。

6.第40回記念大会の開催に向けて

 そしていよいよ大会は、この11月に第40回の記念大会を迎えます。記念大会の延期を決定した昨年夏の時点では、事務局をはじめ多くの関係者が今年こそ盛大に記念大会を開催できるものと思っていました。しかしながら、世界中で猛威を振い続ける新型コロナウイルスは衰えることを知らず、年を明けても国際大会の開催など全く見通せない状況が続きます。
 コロナ対策は2020大会での実績があり、場面に応じたマスク着用、ディスタンスの確保、手指消毒といったベースとなる対策のノウハウこそ持っていたものの、今回は国際大会としての対策を実行する必要があります。
 2020年のUSオープンテニスは、コロナ禍で行われた最初の国際スポーツ大会の一つで、関係者の行動範囲をバブルと呼ばれる空間に限定したことや定期的な検査の実施といった対策を採っていました。また、2月にはオリンピック・パラリンピックのプレイブック初版が公開され、おぼろげながらも対策の骨格が見えてきました。
 次の課題は、我が国が海外からの入国者に対し厳重な防疫対策を採っている中での外国人選手の招聘です。オリンピック・パラリンピックは海外からの入国を前提とした国家的なイベントであり、招聘手続きの参考とはなりません。
 幸いにも本県では、世界的なピアニストであるマルタ・アルゲリッチさんが総監督を務める「別府アルゲリッチ音楽祭」が1998年から毎年開催されており、昨年延期された第22回音楽祭は、5月8日から6月22日にかけての開催が予定されていました。残念ながら第4波の最中、音楽祭は中止となりましたが、アルゲリッチさんを始めとする海外からのソリストの来日は、入管法に定める特段の事情に該当するものとして国から事前に認められていました。ここに来てようやく方向性が見え、車いすマラソンでの海外選手の招聘の目処が立ちました。
 最後になりますが、コロナ禍で課される様々な制限と、通常大会とは異なる記念大会との両立には特に苦慮しました。準備を進める中で、第4波、5波に見舞われ、開催そのものの可否も問われかねない状況でしたが、東京2020オリンピック・パラリンピックの成功も大きな後押しとなり、「感染防止対策ガイドライン」を医師など専門家で構成した「新型コロナウイルス感染症対策委員会」の技術的助言を受けて作成し、大会実行委員会で当該ガイドラインや記念大会としての関連行事を含めた大会実施要綱の承認を得ることができました。
 執筆時点で、大会まで1ヶ月余りとなっていますが、大会が無事開催でき、成功裏に終わるよう、事務局一丸となって全力で取り組んでいます。