【特集】…⑥ 長野県野沢温泉村

村民主導の地域づくり、スノーリゾートの実現
「イベントを開催し地域収入をあげることと、イベントを通じて人材を育て地域振興に結び付けることは、長いスパンで見れば大きく違う」

森 晃
野沢温泉スキークラブ理事長

 長野県野沢温泉村は古くから温泉とスキーの村として広く知られている。日本にスキーが伝来する前の雪深い山村の冬と言えば、育つ作物もなく家を押し潰すほどの雪に閉ざされ、ただ春を待つ毎日であったと言われている。ウインタースポーツの王様「スキー」の到来は、村人の生活を一変させ、現在では豊富な積雪を武器に世界中からスキーヤー・スノーボーダーを集める日本有数のウインターリゾートへと成長させてくれた。日本のスキー史と共に歩む野沢温泉は、スポーツツーリズムの先駆けであり、スポーツイベントを手掛ける事で地域を発展させてきた。この原稿を執筆するにあたり、あらためて野沢温泉のスキー史を紐解いてみたが、先人の情熱と行動力そして愛情溢れるユーモアには感激するばかりである。「地域振興は人材育成から」。スポーツを通じて人材を育成し、その人材を中心にスポーツイベントを成功させ地域振興を図ってきた野沢温泉村。大手資本に開発されたスキーリゾートと一線を画す「和のスキーリゾート 野沢温泉」のスポーツイベントとの関わり、そしてその魅力をお伝えする。

温泉とスキーを中心とした村民主導の地域づくり

 野沢温泉のスキーリゾートとしての歴史は、日本のスキー史と共に歩んでいると言っても過言ではない。ここでは日本と野沢温泉のスキー史を少し振り返ってみる。1911年1月12日新潟県高田市(現・上越市)で陸軍スキー専修将校14名が、オーストリア・ハンガリー二重帝国 テオドール・エードレル・フォン・レルヒ少佐に一本杖スキー術の指導を受けたのが日本のスキー史の始まりと言われている。翌1912年に民間にスキー術を広める為、長岡中将が新潟県高田市にて講習会を開き、飯山中学校(現飯山高等学校)の市川達譲先生が参加した。帰校した市川氏が飯山中学校でスキー指導を行い、長野県でのスキー発祥となる。飯山中学校でのスキーを習得した中学生が、春休みに帰宅して向林地籍で滑ったのが野沢温泉でのスキー発祥となった。


 国内でスキーが盛んになるにつれ、野沢温泉にもスキーヤーが訪れるようになった。誘客やスキーヤーへの対応が必要になり、その為の組織として1923年12月に野沢温泉スキー倶楽部が設立された。設立時の野沢温泉スキークラブ会則には『スキー普及心身ノ錬磨及当温泉ノ発達ヲ図ル』とあり、明確に地域振興を目的とした。翌1924年シーズンより固定のジャンプ台を建設し、大学スキー部合宿を誘致する等「当温泉ノ発達ヲ図ル」事業に着手している。1948年には国民体育大会 第1回冬季大会スキー競技会を開催し、既に日本随一の大会運営組織として認知されていた。スキー場の発展の切り札としてスキークラブは、1950年日影ゲレンデに当時民間では日本で2番目のスキーリフト(第1リフト)を建設した。


 その当時リフトのような物と言えば、鉱山から石を運ぶ為の物がある程度で一般的には全く普及しておらず、銀行に資金調達の趣旨を説明し理解してもらうのは至難の業であった。クラブ員の家業で旅館を経営する者が、順番に寝具購入や木炭購入を口実に資金を借り入れる等、リフト建設や運営にまつわる様々なエピソードは、現代ではありえない波乱万丈・奇想天外で、ある意味喜劇のストーリーでもあった。鉱山に技術者派遣を何度も断られるも、強引に押しかけ何とか日曜日のみ派遣の許可をもらったが、結局リフト建設の間は野沢温泉に閉じ込めておいた話も素晴らしい。リフト建設を機に、スキークラブはリフト運営・経営に乗り出し収益を上げていく。その収益は更なるリフト建設に充て、第1リフトから第4リフトまでを建設している。その間リフト収益の一部はクラブ選手の用具や遠征費にも充てられ「スキー普及心身ノ錬磨」が進められた。当時の選手は「酒もタバコもダメで、品行方正でなければならない。村の指導者になるのが基本だ。」と言われ、そんなクラブに入れてもらえるだけで感激したと語っている。
 法人格を持たないスキークラブが、借金をしながらスキーリフトを建設するだけでも大変な事だが、更に1963年クラブは驚くべき行動に出る。スキーブームが到来し、クラブの経営では更なる投資が追い付かないと判断し、苦労して建設し運営してきた4本のスキーリフトを村に無償移管したのである。移管の覚書にはその条件が以下のようにある。「野沢温泉村は野沢温泉スキー倶楽部に毎年金壱百万円をその育成と運営の費用として助成する。但し右の金額は物価の推移により両者相諮り改られる。また期間は野沢温泉スキーリフト並に野沢温泉スキー倶楽部の存在の間とする。」スキー場とクラブが続く限り人材育成と運営の費用を助成する事を大きな条件にし、別記として「スキー場からあがる収益はスキー場施設あるいは地域の観光開発以外には使用してはならない」との約束も存在する。先人たちの地域とスキー場、そしてクラブへの愛情が今日の「温泉とスキーの街」の礎を築いたのである。

バブル景気の終焉から続く苦難の時代と新たなスタート

 1963年にスキークラブから村に移管された野沢温泉スキー場は、村営企業として順調に規模や入込人数を伸ばし、単独のスキー場としては日本最大級の規模を誇るまでに成長していった。国内のスキー場の多くは、高度成長期からバブル期にかけて利用人数や宿泊のキャパシティーを超える程の活況を呈していた事は周知の事実。スキーバブルの勢いは凄まじく、世界のスキー生産台数の半分は日本に輸出されていた事もあったほどだ。ところが1993年に1800万人を越えた日本のスキー人口は、バブルの終焉と共に縮小し2018年には580万人とピーク時の30%程に減少した。我が野沢温泉スキー場もご多分に漏れず、1992年の110万人から2007年には31.3万人と実にピーク時の28.5%まで減少した。1991年に村営企業の売上は過去最高の49億5千万円となったが、急激な景気悪化に対応できず、たった6年後の1997年には単年度赤字となり1999年には累積赤字が19億円を超えた。
 野沢温泉村は坂道を転がるような来場客減少と負債の増加を食い止めるべく、村営企業からの脱却を図った。2003年より村内の複数組織によるスキー場経営検討委員会が設置され、2005年に村がスキー場資産、負債及び借地権を所有し、新設する運営会社にスキー場資産を貸し付ける上下分離方式の経営に移行した。新設のスキー場運営会社「(株)野沢温泉」は、温泉やスキー場を含む山林を管理する地縁団体法人野澤組、観光協会、旅館組合、民宿組合、宿泊業組合、商工会、スキークラブ及び地元JAにより設立された。社長には当時のスキークラブ会長河野博明氏が就任した。当初の運営組織は、村営時代の管理職を中心としたが、営業や総務を補強して、営業力と本部機能の強化を図り2年後には村からの出向者雇用を終了させた。様々な改革で日本人スキー場利用者数が下げ止まった事に加え、インバウンド客の増加に後押しされたスキー場の経営状態は飛躍的に改善された。全国のスキー場入込人数は下降を食い止められずにいるが、野沢温泉スキー場の入込客数は2007年31.3万人→2019年42万人と順調に増加した。組織改編からの7期合計で「(株)野沢温泉」から「野沢温泉村」への施設使用料支払いは33億円を超え、村の財政も大幅に改善された。現在(株)野沢温泉の社長は7期務めた河野氏から、元五輪選手で前スキークラブ会長の片桐幹雄氏に引き継がれ、2020年には設備更新が出来ずにいた長坂ゴンドラリフトを、国内最新鋭のゴンドラリフトに架け替えを行う等、発展を続けている。

スポーツイベントと地域振興

 野沢温泉にとってのスポーツイベントと言えば「スキー大会」と同義語と言える。宿泊を伴い、長期滞在を見込めるスキー大会はスキー場創世期から頻繁に開催され、集客の大きな柱となっていた。全国規模のスキー大会を誘致すると事前のトレーニングに訪れる選手も多く、大会期間以外にも集客が見込めるメリットもある。多くのスキー大会を手掛ける事でスキー場利用者を増やす事は同時に宿泊客を増やす事であり、宿泊施設は地域の商店から食材や飲料をはじめ様々な物を仕入れ、さらに雇用を生み出していく。冬の野沢温泉にとってスキーはまさに経済の中心だ。
 野沢温泉が最初に全国的な大会を手掛けたのは1930年の明治神宮大会。距離・飛躍・リレー・滑降・回転の5種目が行われ、選手関係者合わせて2000名が集まるビッグイベントであった。1948年に国民体育大会 第1回冬季大会スキー競技会を開催し、既に日本随一の大会運営組織として認知されていた。
 長きにわたり国内レベルの大会運営を手掛けてきたスキークラブは、1982年からアルペン種目の国際大会、FIS(国際スキー連盟)大会を開催するに至る。これは集客と言うよりも国内選手のレベルアップを主な目的としたもので、採算よりも競技会としての質が問われた。欧州や北米から派遣されるFIS‐TD(技術代表)はルールや安全対策に精通し、それまでの国内で行われていた大会運営の常識より高度な要求に応えなければならない。このFIS大会は1985年からコンチネンタルカップと言うワールドカップに準じたクラスに引き上げられ、更に高度な大会運営技術を必要とされるようになった。この大会は白馬、志賀高原といったスキー場でも開催され、長野県内の大会運営能力は飛躍的に高まる事となり、その後の長野五輪の誘致と成功の礎となった。
 1995年には35か国から1700人を超える関係者が集まり、世界スキー指導者会議(インタースキー)が開かれた。誘致活動として1991年に姉妹村であるオーストリアのサンクト・アントンで開かれたインタースキー会場に大招致団を派遣する等、村をあげて大会成功に取り組んだ。多くの外国人選手・スタッフに対応するための施設改修や英語のレッスンなども行われ、大きな情熱を持って村史上最大の国際スポーツイベントを成功させた。
 当初競技開催地から外れていた1998年の長野五輪では、自然環境保護等の絡みにより、クロスカントリースキーと射撃を組み合わせた「バイアスロン」種目を開催する事となった。野沢温泉はもちろん、国内でも馴染みの薄い種目であった為、様々な困難があったが無事成功させる事が出来た。世界最大のスポーツイベントの一翼を担う事が出来た素晴らしい体験であった。
 2000年には野沢温泉でノルディック複合のワールドカップが開かれ、地元出身選手が3名出場するとあって有料観客は村の人口を凌ぐ5000人を超えたと言われている。地元選手の活躍と相まって大きな盛り上がりをみせた事は言うまでもない。
 現在野沢温泉は全国中学校スキー大会(通称:全中)の拠点開催地として11年連続開催の3年目を迎えている。全国で最も熱くスキーに打ち込んでいる中学生スキーヤー達が、野球の甲子園のように野沢温泉に憧れを持って日々を過ごす素晴らしいチャンスを頂いている。選手達が大人になっても野沢温泉は昔憧れた聖地として記憶に残っていくだろうし、こんな優れたマーケティングコンテンツは滅多に無いと感じている。以前は毎年会場が変わっていたが、全国中体連が6〜7年前に拠点開催の公募を行った際、運営主体のスキークラブは富井村長に立候補の伺いをたてた。村長の答えは「全種目10年間開催すると言って立候補しろ」であった。全種目10年間を掲げて立候補した所は他になく、すんなりと開催地として決定して頂いた。その後も村長には「(経費が莫大な)ワールドカップ以外はドンドン持ってこい」と発破をかけられているが、大会運営は大変なのでそんなにホイホイ招致する事は出来ていない…
 スポーツイベントの開催は地域振興にどんな恩恵をもたらすのか?初めて全国規模のスキー大会を誘致した1930年の明治神宮大会を皮切りに、数々のスキー大会を開催してきた野沢温泉村は歴史的に国内で最も多くのスキー大会を開催してきたと言っても過言ではない。しかし野沢温泉村の人達はスポーツイベントの開催をただ単に集客の為のツールとは考えていない。スポーツイベントを集客の為と捉えるか、それに加え人材育成の大きなチャンスと捉えるかで、その後の地域の発展は大きく異なる。「地域振興は人材育成から」を是とする我々は、スポーツイベントを人材育成の為のツールとしても捉えている。大きなスポーツイベントは関わる人間を成長させ、その結果次代を担う人材が育つと考えている。スキークラブが選手を育成し、選手引退後は大会運営や次の人材育成に関わり地域の発展に貢献する。そんな循環が長い間行われてきた。イベントを開催し地域収入をあげる事とイベントを通じて人材を育て地域振興に結び付ける事は、長いスパンで見れば大きく違うという事を認識している。
 最後に野沢温泉のスキーを全力で支えて頂いた偉人の言葉を2つ紹介したい。
「休診の 札をかかげて スキー行」
富井英士氏:野沢温泉の地で初めてスキーをした方で、後に歯科医院を経営。後進の指導に邁進された。(前述の市川達譲先生と生徒の写真左端が富井英士氏)
「今日もまた 妻に託して スキー行」
 片桐匡氏:野沢温泉第1リフト建設を牽引した。後に全日本スキー連盟副会長、長野県スキー連盟会長を務めた。先人が残した素晴らしい遺産を引き継ぎ、次代の人材を育てて継承して行く。今まさに引き継いでいる人の事を野沢温泉では「時代(トキ)の当番」と呼んでいる。「スポーツイベントを誘致し経済と人材を育てる」という当番の仕事は、いつの時代も家業そっちのけで取り組む酔狂な仕事でもある。。。

森 晃(もり あきら)
野沢温泉スキークラブ理事長。1992年米国コロラド・マウンテン・カレッジ スキー場運営学部卒。現全日本スキー連盟アルペン委員会副委員長、長野県スキー連盟競技本部長。2016・2020年アルペンスキーW杯苗場大会競技委員長を務める等、スキー大会運営のスペシャリスト。全国旅館組合青年部副部長、日本旅館協会クレジットカード委員会委員長等を歴任した旅館業界活動の他、野沢温泉観光協会インバウンド部会長として海外誘客事業にも従事している。