特集① 京都市の観光行政の変遷

はじめに

 未曽有のコロナ禍により、世界の観光業界は大きな打撃を受けたが、このコロナ禍後にあっても、京都は多くの観光客が訪れる世界が注目する観光地の一つである。京都がこのような位置を占めるに至るのは、多くの観光関係者や市民の尽力があってのことであるが、国や経済団体などと共に、その中心となって政策を進めてきた京都市が果たしてきた役割は大きい。
 本稿では近代以降の京都観光がどのような歴史をたどり、また、その中で京都市はどのような政策を進めたのかを概観しながら、京都市の観光行政のこれからについて考えてみたい。
 近代京都観光の歴史をたどるために、次の4つの時期に区分して考える。
 第1の時期は、近代観光がスタートした明治期から、太平洋戦争開戦までである。京都の先人は、長い歴史と文化の蓄積を観光資源として生かし、東京遷都に伴う都市復興の取り組みとして先進的な観光政策を進め、また太平洋戦争開戦直前まで、さまざまな観光事業を通じて地域の発展を支えてきた。この時期を近代京都観光の第一の成長期として、今日につながる取り組みを見ておきたい。
 次に、第2の時期として、戦後復興期から高度経済成長期までを見る。京都の戦後復興においても多大な役割を果たした観光は、高度経済成長の波に乗って、大きな躍進の時期を迎える。
京都観光の歴史では第二の成長期ともいえる。一方で、観光客の急増に伴う問題が、特にマイカー観光による交通渋滞として顕在化した。
 そして、第3の時期として、日本が低経済成長期に移るとともに、京都観光が停滞期を迎える時期について見る。
 さらに、第4の時期として、依然、経済の低迷期にありながらも、観光客数を大きく伸ばす1990年代後半から近年に至るまでの京都観光を、第三の成長期として見ていく。
 最後に近代京都観光の歴史から見える課題と京都市観光行政のこれからについて私見を示す。

(1)第1の時期
明治期から太平洋戦争開戦まで

 日本の近代観光の黎明は、明治期の鉄道の開通(1889年、新橋|神戸間)、帝国ホテルの開業(1890年)、民間の外客誘致組織「喜賓会」の創設(1893年)などに求められるが、古くからの「都」であり、社寺や景勝地が数多い京都は、人々を惹きつけ、近世初期には社寺参詣を名目とした「京見物」により行楽・遊楽の対象としてにぎわった。
 明治期においても、京都の先人は、1872年に京都博覧会を開催し、1895年には平安遷都千百年紀念祭、第4回内国勧業博覧会(会期中113万人来訪)を誘致するなど、遷都に伴う京都の復興策として、誘客に力を入れ、外国人を含む多くの観光客を迎えてきた。
 第一次世界大戦の終結(1918年)により、欧米各国において観光事業が国策として注目され、京都市行政においても、工業とともに観光を重視する声が高まる。当時の市長は「遊覧都市」としての発展を工業都市としての発展と両立させる政策方針をとった。
 1928年、京都で行われる昭和天皇の即位大礼による多くの来訪者を見越し、京都市は、大礼記念京都大博覧会の開催、観光案内所の設置を決める。
この年、京都を訪れる人は大幅に増加し、一気に観光都市化が進んだ。また、同年には外国人向けの英文パンフレットも作成している。
 即位大礼でのにぎわいの翌年、1929年にアメリカに端を発した世界恐慌の波が日本にも及び、不況が深刻化、観光業界は深刻な打撃を受けることとなるが、不況の渦中にありながら、1930年に京都市は観光課を設置する。同年前月に鉄道省の外局として国際観光局が設置されるが、都市レベルで専門部署を設置したのは、京都市が初めてであった。また、翌年には京都駅前に観光案内所を開設している。
 観光課は、葵祭などのポスターの作成による観光宣伝や案内人の養成、有名な行事や名勝の保存に補助金を交付するなど、今日も続く事業をこの頃から始めている。
 観光課は当初、独立した課であったが、1935年には産業部の設立により、同局の事業課となる。この組織改正には、観光事業が市民の福利増進につながらないとする批判に対し、「観光を一産業として強調したい市の思惑があったと考えられる」。後に見るように、京都市はその後の組織改正でも、観光を産業から独立させ、観光局としたり、文化に引き寄せ文化観光局とするなど、その位置付けの変遷が見られる。
 今日、観光政策を担う観光MICE推進室は、産業観光局内の組織となっており、産業政策の中に位置付けられている。
90年前の昭和初期にすでに観光を産業に位置付けていることは興味深い。
 1937年の日中戦争の開戦により、戦時輸送の確保などから旅行制限が強化されるが、例外的に参拝が奨励された紀元二千六百年奉祝紀元節大祭(1940年、奈良県・橿原神宮)に向けても、京都市は誘客に努めている。大阪学院大学教授の工藤泰子氏の研究によると、京都市は、「日本精神涵養に優れた都市であることを強調することで生き残りをかけ」た、とされる。同研究に示された資料写真を見ると、参拝の奨励にあやかり、京都を大きくデフォルメした関西圏の路線図に京都市内の遊覧バスコースや料金まで印刷されており、京都観光振興に尽力した先人の意気込みが感じられる。
 太平洋戦争に突入すると、観光は一層制限を受ける。京都市産業部観光課は1941年12月に解体され、教育部文化課に事業が引き継がれることとなった。
 明治期から太平洋戦争開戦に至るまでの、この第1の時期に、観光は京都市の経済を担う産業の重要な分野として認識され、外国人を含む観光客への観光宣伝、案内を積極的に行い、時局が緊迫する中にあっても、諸制限を受けるまで続けていたことは、記憶にとどめられるべきだろう。こうした戦前に培われた政策の土台は、戦後復興期においていち早く観光事業に取りかかる基盤となった。

(2)第2の時期
後復興期及び高度経済成長期

❶戦後復興期(1945年〜1954年)

 1945年、太平洋戦争の終結により、京都市は、戦争で途絶えていた観光を復興させるため、戦後いち早く取り組みを開始した。1947年に、観
光課を復活させ、翌年には観光局を置いて、観光事業の復活に取り組んでいる。戦前からの政策の基盤と共に、京都市は大都市の中で唯一壊滅的な戦災を免かれた都市であり、多くの社寺、景勝地や町並みが残り、観光事業を再始動する優位性を持っていた。
 すでに、終戦の翌年1946年には、春の鴨川をどりが、夏には京都五山送り火の一部が復活している。
 国内情勢に目を向けると、1950年ごろには朝鮮戦争に伴う特需によって、日本経済は立ち直り、国民経済の安定を受けて全国的に観光ブームが起きる。京都市の観光客数は1948年に180万人、1951年に352万人となる。日本経済は、もはや戦後ではないと1956年の経済白書に書かれるまでに復興した。
 この時期の京都市の組織を見ると、1948年には観光局となっているが、1952年、簡素化を目指した組織改革により経済局と統合され産業観光局となる。さらに2年後には、朝令暮改だと批判されながら、両局は再び2つに分けられる。
 1920年代にも「工業か、観光か」と議論され、並び立つ分野であるとされた産業と観光は、組織の簡素化に当たっては一本化されるが、どちらにも力を入れるためには「両方を分けて取り組まなければならない」と、当時の高山市長は説明している。京都市は、さらに、その4年後、「国際文化観光都市」づくりに向けての組織改正で、観光局から文化局を独立させている。

❷高度経済成長期の京都観光(1955年〜1975年)

 戦後復興期を経て、高度経済成長期に、京都観光はさらに観光客数を伸ばしている。1957年には、918万人となった観光客数は、東海道新幹線開通、名神高速道路全線開通など交通の便の改善が追い風となり、東京オリンピック(1964年)の開催も相まって、翌年には、2187万人にまで増加した。
また、1960年、京都市観光協会が設立され翌年には社団法人となっている。
 1965年、京都市は、行政組織の肥大化を懸念し、再び2つの局を一つにまとめる大規模な組織改正を行い、これにより、文化・観光の2局は文化観光局となる。以来、1995年の組織改正まで、文化観光局はその骨格を変えることなく、文化、文化財、スポーツ、観光政策を担う局として存続することとなる。このことがその後の産業政策との隔絶につながったと考えられる。
 また、1970年には大阪万博が開催され、京都市の観光客数は、3396万人。万博直後から開始された国鉄のディスカバー・ジャパン・キャンペーン、「小京都」ブーム、社会現象にもなったファッションと旅行をテーマにした女性雑誌の創刊による「アンノン族」などが重なって、京都観光は活況を呈し、1975年には観光客数は3800万人に到達した。
 一方で、マイカーによる観光客の急増は、排気ガスによる環境リスクとともに交通渋滞を招き、市民生活に大きな影響をもたらした。今日の「持続可能な観光」、サステナブル・ツーリズムにつながる問題だ。こうしたことから、京都市は、1971年に京都観光の在り方を検討し、「呼び込み観光との訣別」を掲げる「京都観光会議報告書」をまとめ、1973年11月には「マイカー観光拒否宣言」を出すに至っている。

(3)第3の時期
観光停滞期1976年〜1994年

 日本経済は、1973年のオイルショック後、低経済成長期に移行する。観光も海外旅行ブームが終焉し、町並み観光や温泉・秘湯ブーム、〝安・近・短〞の旅行にシフトする。京都市の観光客数は、1975年の3800万人以降、横ばいとなる。
 1980年代に入ると、神戸ポートアイランド博覧会などが開催され、観光需要が高まることが期待されたが、1982年は3778万人程度で推移し、大きくは伸びないままとなる。
 また、京都市が構想を打ち出した社寺の文化財を鑑賞する行為に課税する古都保存協力税に、市内の社寺は反発、同条例の施行により金閣寺や清水寺などの有名寺院等が拝観停止する、いわゆる古都税問題が生じ、観光は大きく打撃を受けた(断続的に行われた拝観停止は1987年に解除)。
 当時の観光政策について論述した山添敏文氏は、「戦後の観光行政といっても個々の事業をみるとそれは驚くほど戦前の事業を継承している」と述べ、また1985年に策定された「京都市基本計画」にも、新規性のある事業としては、「観光情報センターの設置」が数えられる程度であり、低迷から脱却する観光政策の方向性が見いだせないままであったと考えられる。低経済成長期という環境要因はあるが、1971年の「呼び込み観光との訣別」以来、明確な政策を打ち出せず、産業政策との関係もあいまいなまま、誘客への戸惑いが続く。
 その後、1990年には大阪で国際花と緑の博覧会が行われるなどにより、観光客数は、一時的に4085万人まで伸びるが、再び減少、1994年の平安建都1200年記念事業により3966万人となるが、1995年には阪神淡路大震災により、京都の観光客数も3534万人に減少する。
 一方で、1975年から20年の長期に及ぶ観光客の伸び悩みに対して、京都市は1992年、京都市観光基本構想「21世紀(2001年)の京都観光
ビジョン」をまとめている。
 6つの方針の一つとして、観光を産業として位置付けしなおし、観光産業をこれまで以上に重要な産業として育成・振興していく必要があるとしている。さらに、観光客のための政策が市民の京都に対する誇りを一層高め、また市民生活の向上にも直接つながる政策であるとして、市政における観光政策の重要性を示している。この「21世紀(2001年)の京都観光ビジョン」の策定が、その後の京都市の観光政策の大きな転換点になる。

(4)第4の時期
1995年からコロナ禍前まで

 阪神淡路大震災が起きた1995年、京都市はこの年の4月に、大きな組織改正を行った。1965年以来、長年にわたり文化と観光を担ってきた文化観光局を解体、観光分野を経済局に統合し、新たに産業観光局を発足させている。1992年のビジョンの推進に向けた体制整備といえよう。
 この組織改正には、文化を大切にしてきた京都の観光が、他都市と同じように経済活性化の一手段になってしまうとの批判もあったが、ほぼ戦前からの政策の延長線上にあった文化観光局での観光政策は大きな変容を迫られることとなる。
 第三の成長期、その成長要因の一つは、このように組織上も観光が産業政策の中で重要な戦略として位置付けられたことだ。組織改正を機に、観光客数や観光消費額などの高い目標を掲げ、これらを強く意識した取り組みが進められた。
 第三の成長期を支えるもう一つの要因は、相次いで出された観光振興計画である。1998年から2021年まで、京都市は7度にわたって計画を策定している。計画には数多くの事業が書き込まれ(多い時には191事業)、精力的にこれらの事業が進められた。
 その概要を表1にまとめた。1998年の基本計画では、観光客数を最盛期の4000万人に回復することを目指し、さらに、その推進を図る2001年計画には、2010年に観光客数を5000万人とする高い目標を掲げる。
インバウンド対応に力点を置き始めた2006年計画により目標の5000万人を達成した(2 0 0 8 年)後は、2010年計画で観光客数を維持しながら、質の向上へと転換を図る。また、2014年計画では急増するインバウンドの受け入れ対策を掲げ、観光客数を伸ばすが、オーバーツーリズムとの批判を受け、観光と市民生活の調和をテーマに据えた修正を行う(2018年)。さらに、2021年計画では、コロナ禍からの復興と再生の視点で計画を策定している。

 また、この間、京都市の観光事業予算も大幅に増えている。1998年度の4 8 6 百万円に対し、2019年度には1321百万円と2・7倍に、ま
た職員数も、1998年度15人、2000年度20人、2010年度26人、2020年度45人と約3倍に拡充されている。
 さらに、三つ目の成長要因は、観光関係者が一丸となって取り組んだことだ。「オール京都」と呼ばれ、京都府、商工会議所等の経済団体、仏教会なども、計画の策定や推進に加わり、個別事業の実施主体となっている。また、観光政策の中核である京都市は、京都市観光協会、京都文化交流コンベンションビューローとの間で、出向・派遣人事を拡大するとともに、外部からの有能な人材の確保を行うなど、執行体制を大幅に強化している。さらには、京都市観光協会が観光地経営機能の強化を図るために、インバウンド事業を担当する多くの人員を、コンベンションビューローから観光協会に転籍させるなど、スタッフの強化が進められた。
 こうした第三の成長期の取り組みや体制は、コロナ禍を経た今日も維持されており、今後の京都観光の安定的な成長を支えていくことが期待される。

(5)これからの京都観光

 前節までに述べたように、明治期に近代観光として先進的に着手された京都市の観光政策は、戦時下にあっても粘り強く続けられ、戦後もいち早く復活し、戦後復興期、高度経済成長期を通じて、現在の京都観光の姿をつくってきた。また、マイカー観光の拡大による交通渋滞(マイカー観光拒否宣言)、20年に及ぶ長期にわたる観光客数の低迷、インバウンドの急増によるオーバーツーリズム、そしてコロナ禍による観光客数激減などと、幾度もの危機を乗り越えてきた。
 こうした京都観光の変遷を見ると、そこには、今日にも続く持続可能な観光という課題が横たわっていることに気付かされる。大気汚染などの環境への影響や市民生活への影響という持続可能な観光の問題であり、また、同時に、観光という営みそのものをどう持続させるのかという問題でもある。
 1970年代、観光客の急増は交通渋滞などを引き起こしたが、これを「観光公害」と呼んだのは、京都に生まれ、京都大学で長く研究した社会人類学者、民族学者の梅棹忠夫が初めてだといわれる。京都市文化観光局観光課が主催した「観光事業経営者夏期講座」という講演会の中でのことである。
 梅棹は、「戦後の観光奨励政策のおかげで、京都にずいぶん観光客が来るようになりましたが、もはや、よろこんでばかりはいられない。このままいったら、観光公害で京都は荒廃しはてるのではないか」、「観光公害がおこらないように、なにか基本的なところでかんがえなおさなければならない時期にきているのではないか」と、環境や市民生活との関係について、半世紀前に指摘している。
 今日、コロナ禍後の急激な観光客数の回復に伴い、改めてオーバーツーリズム対策は、焦眉の急となっている。京都市は、時期・時間・場所の3つの分散化をはじめ、マナー問題、民泊問題などに精力的に取り組んできたが、観光が及ぼす市民生活や都市構造への影響も考慮した政策が引き続き必要である。
 また、梅棹は、この講演の中で重要な指摘をしている。それは、「情報産業としての観光産業」という考え方である。「京都の観光産業をかんがえるときも、ひろい意味での情報産業の一環としてかんがえてゆかなければならない」として、観光産業は土産物やサービスを売っているのではなく、「体験情報」を売っているのだ、としている。
その上で、さまざまな分野の観光産業全体を通しての一つのシステム化が必要であり、「観光産業は一大総合産業であるべき」だとする。
 長く観光地として繁栄してきた京都は、宿泊、飲食、交通、土産物、エンターテインメントなど、多くの観光産業を集積してきた。長い低迷期を経て、観光をめぐる都市間競争の中で、京都観光の振興に向け、オール京都の体制で取り組んだことは第三の成長期に見た通りである。今や、観光は、一つの生態系(エコシステム)を形づくり、関連産業を含め、実に多くの産業分野に影響するものとなっている。
 京都の観光産業は、第三の成長期を経て、梅棹の言う「一大総合産業」として発展しつつある。また、観光客に「『体験情報』を売る観光産業」という面でも、京都は成功していると考えられる。一方で、多くの観光客が集まる京都で、観光客から得られる情報は、うまく活用されているのだろうか。
 京都市観光協会では、インバウンドの国別の動向予測、所得階層や年齢など顧客層の分析などの他、携帯電話の位置情報による観光地の混雑情況のリアルタイム分析、「行こう指数」を用いた観光需要予測などの先進的な取り組みを進めてきた。
 こうした観光客の動向を情報として活用することは、観光産業が、交通や宿泊、飲食などにとどまらない拡大を見せる中で、今後ますます重要となろう。現在は京都市観光協会が行っているこれらの事業は、観光事業者、観光関連事業者の事業活動を支えるとともに、観光客により利便性の高い情報を提供するものであり、事業化(マネタイズ)が可能なものだ。
 京都のある寝具メーカーでは、ラグジュアリーホテルや高級旅館の客室を自社製品のショールームと見立て、寝具や関連製品のみならず、寝室のデザインまで商品とし、売上げにつなげている。
 観光客から得られる情報の収集、分析、加工、提供といった「観光客情報」の事業化は、梅棹の言う「情報産業としての観光産業」の一つの在り方だともいえよう。さらに言うと、個々の事業者が長年の観光事業を通じて蓄積したさまざまな知恵、ノウハウ、技などの無形の情報資産をどのように継承し、これからの観光産業に活用していくのかという点も課題だ。
 NFTをはじめ、さまざまな情報技術を活用した新事業が広がりつつある。
京都の観光を将来にわたって持続可能なものとするためには、観光客、観光事業者、観光資産の集積を情報として産業に活用していく「観光情報産業都市」としての道を探ることもひとつではないだろうか。

おわりに

 近代京都観光の歴史を、市政を中心に概観してきた。もとより観光客数や観光消費額の多寡のみで観光を語り切れるものではないが、これらが京都の地域経済に与える影響は、極めて大きい。それ故、戦前や戦後復興期、高度経済成長期においても地域の産業振興策の一つとして観光政策が行われ、低経済成長下の観光停滞期の後は、より明確な産業政策上の位置付けを与えられた。そして、累次にわたる計画策定とオール京都の推進体制が、産業としての観光の成功を導いた。営みとしての持続可能な京都観光を考えるとき、観光を産業政策に位置付けることはゆるがせにはできないものと考えられる。
 京都における産業としての観光の発展は、その近代化に向けて常に力を尽くしてきた先人の歩みに負うところが大きい。産業そのものが大きく変革を迎える今日、将来にわたる京都観光の発展もまた、今日の行政、観光事業者、市民の手に委ねられている。

※1…工藤泰子(2010) 近代京都と都市観光-京都における観光行政の誕生と展開-.京都大学博士論文.131
※2…工藤泰子(2011) 戦時下の観光.京都光華女子大学研究紀要.49.56
※3…ただし、京都でも西陣や馬町での空襲の被害はあった。
※4…山添敏文(1984).京都市観光行政の沿革、現状、課題「. 市民自治の展望:京都市政調査会報主要論文集」.京都市政調査会.253-263
※5…京都市市政史編さん委員会(2012).京都市政史第2巻 市政の展開.109-191
※6…梅棹忠夫(1970)七〇年代の観光ビジョン.梅棹忠夫著作集.17.235-237

〈参考文献〉
●新井直樹(2022) インバウンド観光の意義、効果と課題.奈良県立大学研究季報.30(1)
●梅棹忠夫(1970) 七〇年代の観光ビジョン.梅棹忠夫著作集.17.
●京都市(1992) 21世紀(2001年)の京都観光ビジョン-京都市観光基本構想-
●京都市(1998) 京都市観光振興基本計画
●京都市(2001) 京都市観光振興推進計画
●京都市(2006) 新京都市観光振興推進計画
●京都市(2010) 未来・京都観光振興計画2010+5
●京都市(2014) 京都観光振興計画2020
●京都市(2018) 京都観光振興計画2020+1
●京都市(2021) 京都観光振興計画2025
●京都市観光局(1958). 観光京都10年のあゆみ
●京都市市政史編さん委員会(2009) 京都市政史第1巻 市政の形成
●京都市市政史編さん委員会(2012) 京都市政史第2巻 市政の展開
●京都商工会議所百年史編纂委員会(1985). 京都経済の百年
●工藤泰子(2010) 近代京都と都市観光-京都における観光行政の誕生と展開-.京都大学博士論文
●工藤泰子(2011) 戦時下の観光.京都光華女子大学研究紀要.49
●社団法人京都市観光協会(2011) 京都観光50年の歩み 
●白須正・細川孝(編)(2023) 地域産業政策の新展開. 京都を中心とした歴史研究と比較研究を踏まえて.文理閣
●山添敏文(1984) 京都市観光行政の沿革、現状、課題「. 市民自治の展望:京都市政調査会報主要論文集」.京都市政調査会


龍谷大学政策学部教授
高畑重勝(たかはた・しげかつ)
1962年大阪生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了。京都市職員(京都市観光協会専務理事、東山区長)を経て、2023年4月より現職。専門は地域産業政策、観光政策。