世界は未知の事態や不確実な現象に溢れている。自然災害はもとより疫病、事故、犯罪、為替変動、そして戦乱、テロ、暴動…。これらへの対処は決して簡単ではない。
8月8日には宮崎県でM7クラスの地震が発生し、政府は初めて南海トラフにおける「巨大地震注意」を発表した。
「ようすを見る」という1週間、各地の海水浴場などが閉鎖された。しかし、「今後30年間に発生する確率70%」という数字から単純に逆算すると、1週間という期間に巨大地震が発生する確率は0・02%。この微小な確率が数倍になるというわけだ。いかに甚大な事象とはいえ、「今日の降雨確率が40%」云々という次元の世界に暮らす私たちにとって、「この1週間」に限って特別の防護施策をとること自体に、自治体の姿勢を示す以上の実際的な意味は見いだせない。
上記の「注意」の意味は、忘れてはならないぞ!という一般的警告と解すべきなのである。このように、不確実な現象、とりわけ低確率もしくは未知の事象への対処は一筋縄ではいかないのだ。
それとは全く異なる次元で懸念されるのが、SNS時代となって高まった社会の「不安定性」である。最近の例では、タレントの不適切な発言に対する度が過ぎた非難や飛び火を恐れる企業の過剰反応、英国で偽情報拡散によって生じたイスラム教徒排斥運動など枚挙にいとまがない。こうした現象の基層には、「匿名の隠れ蓑」の下に発揮される、一部の歪んだ正義感や邪悪な加虐嗜好、あるいは噂や偽情報の興味本位の拡散行為や意図的悪意があるが、それが異常に拡大する理由には多くの人々の心に潜在する同調願望と同調圧力がある。こうした社会的な不安定性が高まる中、もともと「水もの」という性格が否めない観光分野ではなおのこと、情報の正確性と信頼性、つまり「信用」の確保に徹底して重きをおいていくことが不可欠だ。
しかし、観光分野に関してより重要なことは、こうした未知や不確実のポジティブな側面に真摯に向き合うことではないかと思う。D・J・ブーアスティンは、著書『幻影の時代』(The Image, 1964年、星野・後藤訳、東京創元社)の中で、情報化によって現代社会が大きく変貌し、実像の世界から「幻影」の世界へとある意味で退化しつつあることに早い時期から警鐘をならした。観光分野については、「旅行の最も古くからある動機の一つは、何らかの選択の余地がある場合は未知のものを見ることであった…(中略)新しい世界の発見はいつでも人間の精神に新しいいぶきを与えた。」と述べている。未知と不確実に力点をおく典型は放浪の旅だが、普通の人間にはなかなかそこまでできない。それでも本質的にリアルのウェイトが高い分野、例えば自然指向の旅には未知や不確実の要素がつきものだ。それを魅力と捉える観光の原点ともいえる精神は、「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」(徒然草137段)に見いだすことができる。
ところが、ブーアスティンは続けて、「しかし旅行から持ち帰るものは昔とは全く異なってきた。(今や)結果は、希薄化され予め作りあげられたものとなってしまった。」と指摘する。この危機感は日本では宮本常一の旅に関する一連の著作にも通底するもので、さらにSNSなどが席巻する現代はなおのことだ。そこでは、人為的に作られた流行の事象にただ追随し、写真をとって投稿する、「みんなで楽しめればいいでしょ!」だけの観光に堕し、「未知と不確実の魅力」から乖離していく。これでは、観光は「バーチャル」の楽しみに呑み込まれ、「人間の精神に新しいいぶき」を与える存在ではなくなってしまうのではなかろうか。未知と不確実が観光の原点であり魅力の源泉でもあることを再確認しておきたい。