特集⑧ 宿泊産業の構造的低賃金問題からの脱却戦略について

原 忠之
セントラルフロリダ大学ローゼン・ホスピタリテイ経営学部テニュア付准教授、
兼九州産業大学地域共創学部客員教授

 多様な観光産業群のコアとなる宿泊産業において「人手不足」が声高に叫ばれている。人材の供給側の日本人人口が減少に転じており、年代別人口数を表す人口ピラミッドを見ても、昭和30年代から加速した人口増を前提とした昭和時代の人海戦術的な運営形態が破綻しつつある。需要側はパンデミック後の日本人旅行需要復興には個人給付金を3回供与し個人消費が国民の自由な意思で観光関連産業支出に急増し米国経済急復興を牽引した米国のケースの模倣は困難だが、米国には無かったインバウンド需要の急成長という外的ショックが米国と同様の観光需要側と観光供給側の均衡点を揺さぶり賃金上昇圧力が一部地域で発生しつつある。
 今回は如何に観光需給バランスのくずれを利用し、宿泊産業の30年以上の罠である低賃金長時間労働条件の改善を地域住民の生活の質向上に結び付ける事が出来るかという具体的な行動策を戦略として提示したい。そのためにはまずは戦略論策定方法について述べてから議論を展開する。

1.戦略論について

 戦略構築には3つのステップがあると筆者は米国大学ホスピタリテイ経営学部で教えている。それは
(1)現状把握
(2)理想像設定
(3)現状から理想像に移行する時間枠設定
である。

(1)現状把握

 すなわち、現状を変革しようと思ったら、まずは現状を正確に把握する事が必須である。例えば、皆様が現在地から車で東京デイズニーランドに行きたいと思ってもカーナビが現在地を正確に把握出来ていないと、次の交差点を直進・右左折どちらに行くべきかの指示が出来ないのと同じである。現状把握の過程においては、耳の痛い指摘も出るが、それに対し逃げずに直視することが、改革への第一歩となる。
 ところがここに日米文化相違を感じる。日本だと現状把握を躊躇する、或いは回避したいという意識が米国に比較して強い感覚がある。あたかも人間ドック診療を嫌がって逃げ惑う中高年者のように、「肥満度が高い、運動不足、脂肪肝有」等の心地良くない現状を医者に指摘されるのが嫌だからというケースに類似している。日米で産学官を経験した観点で言うと、日本の場合は悪い現状を正式に認めるとそれは現担当者の責となり、前任者含む先人達の責任を負わされて割が良くないし自分の経歴に傷がつくという意識がより強いため現状把握を拒んで先送りとなるが、米国では現状の問題点を把握して出し切ると、そこからの改善の手柄は現担当者の手柄となるという感覚があるため現状把握への後ろめたさが少ない。現状把握をすると、自分が業務を始めた時点からどの指標が改善した、どの指標は更なる悪化を防いだというアリバイ作りによる自己保全にも使えるという感覚もある。

(2)理想像設定

 理想像設定にはこれも出来る限り数値を入れて設定しないと、後任なり、後世の人間が客観的に評価出来ないという問題が生じる。また評価者の交代や、組織トップ交代、米国でよくある政権交代があった際に、評価者や環境が変わっても誰でも客観的な評価判断を下せるような環境作りには、数値化する事で人間の主観や恣意の介入を最小限にするメリットがある。

(3)現状から理想像への到達期間設定

 現状を把握し、理想像を設定すれば、それをどの程度の期間で移行するかを決める。単年度ではなく短くても3年程度、中長期ならば10年や20年という期間設定が良く使われる。そして現状も理想像もきちんと数値目標を入れる事で、その設定期間で割れば、毎年の進捗状況もチェックすることが可能となる。

2.日本の宿泊業界・現状把握

(1)宿泊需要側の現状

 観光産業は2024年の時点では盛況と言えよう。但しそれは以前から想定されていたインバウンド層、訪日外国人旅行者に先導されている点は明白である。観光庁観光統計宿泊旅行統計調査の2023年の年間値を見ると、延べ宿泊者数は、6億1747万人泊(前年比+ 37・1%)で、うち外国人延べ宿泊者数は1億1775万人泊(前年比+613・5%)。延べ宿泊者全体に占める外国人宿泊者の割合は19・1%とほぼ2割の宿泊需要がインバウンド層から発生している。

(情報源:https://www.mlit.go.jp/kankocho/content/001751247.pdf

 これを2024年の7月までの数値でパンデミック前の2019年同月比で月別で見ると日本の宿泊需要の成長を牽引しているのはインバウンド客需要である事が明白になる。(図1)

(情報源:【観光庁統計値】7月延べ宿泊者数、外国人は単月で最高 日本人も7月として最高‐観光経済新聞(kankokeizai.com))

 このインバウンド層主導による2023年の需要復興は都道府県別に見ると三大都市圏(東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、京都、兵庫)は対2019年で+ 16・0%、地方部(上記8都道府県以外の39都道府県)では22・1%減と需要復興ペースには差が有るが、図1を見る限りはインバウンド層の需要増が全体の宿泊需要増を先導する形が今後継続すると想定できる。パンデミック時には1兆円を下回ったものの、2030年というあと6年の期間で政府目標のインバウンド年間観光消費額15兆円を達成する可能性は十分有り、それは複利計算すると年間30%超の成長率が必要となるが現在の成長ペースはそれに十分な物である。日本国内の積上げ発想だとそんな成長率維持出来るのかと感じられるかもしれないが、海外から見た日本の特異性・物価・治安の水準を俯瞰すると世界経済の成長率をそのまま需要側で取り込めるインバウンド層需要増は安定成長が予想出来る。

(2)宿泊供給側:産業従事者の待遇問題

(2‐1)産業セクター別給与収入

 このように需要側がインバウンド層の需要増加に先導されている一方、供給サイド、特に宿泊施設運営での最大投入項目、且つ最大費用項目である人件費・労働力側について現状を確認する。
 宿泊産業が各産業界との対比でどのような位置づけにあるのかを国税庁の統計ベースで確認する。

(情報源:https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan/top.htm

 図2は日本国内の産業を14セクターに区分し、給与所得者(正規・非正規を含む)の平均年収別に並べて整理したものである(情報源:All About)。
宿泊産業はこのレベルの大区分だと宿泊業、飲食店、持ち帰り・配達飲食サービス業と一緒の産業セクターとなる。(図2)

 ここでわかるのは、宿泊業・飲食サービス業が年収ベース、及び男性・女性別でも14産業中最低水準の年収である点である。観光業界、とりわけその中核を担う宿泊業でインバウンド客増加による「人手不足」を訴える経営者が多いが、実態は人手不足ではなく、低収入による「職場の魅力不足」である事が判る。
 宿泊飲食サービス業の男性年収額は産業界平均年収比で64%の水準、女性は58%の水準である。
 男尊女卑の年収形態が多い日本の産業界平均年収額を男女比較すると、男性の平均給与額532・2万円に対して女性は292・6万円と54%のレベルであるのに比較し、宿泊業・飲食サービス業では343・1万円対171・8万円と50・0%のレベルと、女性の待遇の低さが平均以上に突出して目立つ結果となっている。産業セクタートップの電気ガス熱供給水道業を見ると、男性766・7万円、女性529・9万円と女性年収は対男性比で69・1%であるが、卸売業・小売業は同比率が48・2%と宿泊業よりも劣悪な数値である。
 もちろん、女性の相対的な低年収に関しては扶養控除の枠(所得税法上の控除対象扶養親族がいる場合、一定の所得控除を受けられる制度。税法上の扶養親族の要件の1つとして、扶養に入る人の合計所得金額がパート・アルバイト、非正規雇用等、給与所得者の場合は、年収103万円以下であること)を指摘して、自分の意思で低賃金を選択している人が居るので仕方ないという意見も存在する。年収103万円を遥かに超える年収額を得ている産業セクターが有る訳で、少なくとも女性給与所得者平均年収の292万円を得ている場合には税引後で103万円に抑えた所得控除のメリットよりも多くの収入が入る事は想定出来る。

(2‐2)雇用形態別給与収入

 次に正規雇用、非正規雇用という枠組みでの年収差を確認する。産業セクター別でのデータが入手出来ないので全産業別であるが、重要な点は確認出来る。(図3)
 最新の2022年度データでは、正規雇用男性は560・7万円、同女性は364・0万円である一方、非正規雇用男性は男性226・7万円、同女性が152・9万円と4年間で正規・非正規の年収格差も年収男尊女卑状態も図3から大きく変わっていない。

(2‐3)正規・非正規雇用者の割合

 総務省統計局労働力人口統計室の公開データ(資料1 令和4年就業構造
基本調査の結果について (stat.go.jp))によると2022年10月1日時点の有業者は6706万人(男性3671万人、女性3035万人)と、仕事のある人の総人口比率は60・9%。その内訳を雇用形態で見ると54・0%が正規雇用者、31・6%が非正規雇用者、その他14・4%(自営業主7・6%、役員5・3%、家族従業者1・5%)であり、非正規雇用者規模を推定計算すると、6706万人×0・316=2119万人。次に1〜3次産業の有業者比率を見ると、第三次産業従事者は73・9%。その内訳で宿泊飲食サービス業従事者は2022年で5・6%。宿泊飲食サービス業従事者は6706万人×0739×0・056=277万人と推定される。

 厚生労働省雇用環境均等局雇用機会均等課のデータ(https://www.mhlw.go.jp/content/11901000/001101169.pdf)によると2022年の非正規雇用者数は2101万人、内男性が669万人、女性が1432万人と非正規雇用者全体での女性比率が68・1%であることが確認出来る。(P 11)。
総務省統計局の10年前、2013年の報告書でも「非正規の約7割は女性が占める」と指摘されており、過去10年間、非正規雇用での女性が過半数である点は変わりがない点が理解出来る。

(2‐4)宿泊飲食サービス業での雇用者数と男女比率

 産業セクター別明示されたデータが無いが、これも推定は可能である。
上記厚生労働省のデータによると、令和4年の産業別雇用者数男女別データを見ると、宿泊飲食サービス業の男性雇用者は120万人、女性雇用者は210万人(P 18、P 19)とあり、合計の宿泊飲食サービス業総雇用者数330万人中、63・6%が女性である。

(2‐5)宿泊産業大企業での年収確認

 これは上場企業の場合は公開情報となっている訳で、それを確認してみる。(図4):

(情報源:ホテル業界の年収
(上場企業10社の平均年収一覧)
(jinzai-tenshokuroot.jp))

 ホテル業界でも株式上場しているような大手企業では図2に引用した宿泊飲食サービス業界平均値251万円よりも相応に高い年収であり、同図に引用した日本産業界全体の平均値である433万円を上回る年収が過半数の企業で確保されている。
 (2‐1)から(2‐5)までの実態を俯瞰して宿泊飲食サービス業の現状に関して言えるのは、
●国内14産業セクター別の年収水準は平均額、男性、女性ともに最低の14位。
●大企業に就労の正規雇用の場合は産業界平均又はそれを上回る年収は可能。
●他産業同様に、非正規雇用者の年収は低いが、特に女性非正規雇用者の年収は最低水準である懸念がある。
●宿泊飲食サービス業での雇用者総数中の女性比率はほぼ2/3であり、それに非正規雇用である条件が組み合わさると国内産業界最低レベルの年収。
●経営者が良く発言する「人手不足」は実態は低賃金業界環境放置による「職場の魅力不足」であり、昨今の英語でいうSustainability(必ずしも環境ではなく、組織やビジネスモデルの持続性を意図する)に欠ける業界環境を変革する必要性が明白。

(2‐6)比較用の参考数値:米国での雇用統計

 まずホテル産業に絞ったデータであるが、米国内平均の2024年度最新データは以下の表の通りである。(図5)

(Source:ZipRecruiter:Salary:Hotel Employee (September, 2024)
United States (ziprecruiter.com)をベースに筆者作成)

 ドル円為替レートを$1=Yen150とすると、年収平均で738万円、時給水準だと3600円が米国全体のホテル産業従業者年収の平均値である。
 ちなみに、全米の市区町村で最も年間来訪環境客数が多い(2023年74百万人)のフロリダ州オーランド(行政区域はフロリダ州オレンジ郡)は平均年収は$45945(同レートで689万円)と全国平均に対して0・93の水準であるが、時給ベースで$
22・3(同3345円)と年収・時給共に日本での就労条件との相対的差異は極めて大きい。
 次に筆者の勤務先の米国フロリダ州セントラルフロリダ大学ホスピタリテイ経営学部卒業生で毎期、米国グローバルホテルチェーンの幹部候補生プログラム(Management in Training Programs)に入る学生が数十名居るが、その学生の初任給年収がパンデミック前の2019年で$3万8000(同570万円)、2020年4月にパンデミック勃発後、米国内観光需要が復興開始したのが12カ月後の2021年4月であるが、2022年度は同数値が$5万3000(795万円)と約4割上昇、2023 年度は更に$ 6万1000(915万円)とパンデミック前の6割上昇となっている。

(Source:Rosen-Professional-Internship-v7-low-res.pdf (ucf.edu))

 オーランドの場合は未経験者のホテル初級職時給もパンデミック前の時給$10(1500円)から2022年半ば以降は$ 16(2400円)となっており、こちらもパンデミック後の時給6割上昇が定着している。なお、フロリダ州は2020年11月の大統領選挙時に共和党トランプ候補を過半数が選択したが、同じ投票時の州民投票で、通常は共和党政策に馴染まない最低賃金法案が同じ有権者に圧倒的な多数(60・8%)で賛成されて、当時の最低時給$8(1200円)から7年後の2026年には$15(2250円)にほぼ倍増するという州法が出来たが、3年目に当る2022年にはパンデミック後の観光需要急復興で最低賃金法の最終年の目標を上回る時給がオーランドの宿泊業労働市場で確立されてしまった経緯がある。

(source: Florida Amendment 2,$15 Minimum Wage Initiative (2020) -Ballotpedia)
(図6)
(Source:Florida’s Minimum Wage Changes Through 2026 ¦ Office of Human Resources (fsu.edu)をベースに筆者作成)

3.日本の宿泊業界・理想像設定

(3‐1)観光産業理想像設定

 需要側を見るとインバウンド客需要に牽引されて三大都市圏(東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、京都、兵庫)の需要は既にパンデミック前の水準を超えており、今後の見通しは明るいが、観光の供給側の最大投入項目である労働力・人件費水準は市場実勢価格で時給1100円程度まで上昇しており、2024年最低賃金法改正額と比較してもほぼ同じ水準を超える額が改正後時給1000円を超える予定の三大都市圏では実現出来つつあるように拝察する。

(Source:【2024年】最低賃金の引上げによる影響は?中小企業がとるべき対策も解説 (neo-career.co.jp))

 但し、日本人行政にありがちな今年と次年度程度の基本単年度発想の視野では組織や産業界改革の方向性展望が不可。本来ならば10年間程度の実行期間を持った理想像への移行が望ましいが、①観光産業にはインバウンド層という追い風が吹いている②2030年末の国家戦略目標であるインバウンド層年間消費額15兆円(6千万人)を実現するために労働投入側でのボトルネックを三大都市圏だけでなく地方経済圏でも実現するため2030年末を目標達成時期とした6年間で達成可能圏ぎりぎりに野心的な理想像を設定すべきである。なぜならばそれが組織・社会の変革方向性の明確化に繋がるからである。
 2030年末の理想像(数値は三大都市圏以外全国一律。三大都市圏は10%上乗せ)
●宿泊産業従業者―非正規女性年収300万円、同男性360万円(時給ベースでそれぞれ1500円、1800円)
○女性はほぼ倍増、男性は60%増
●宿泊産業従業者―正規女性年収400万円、同男性530万円
○女性は国内全産業平均値達成から30%増、宿泊産業内の現状からは倍増
○男性は国内全産業平均値達成、宿泊産業内の現状からは相応の増
●宿泊産業管理職階女性年収600万円、同男性780万円
 なお、インバウンド観光奨励に必須な職務である「外国語観光ガイド」や「DMO職員」についても宿泊産業正規従業者と同水準の目標でキャリアパスと人生設計が両方できる水準の年収を確保してあげる事を理想像の一部としてもよく、DMO管理職については最低でも宿泊産業管理職階の年収を確保する事も理想像の一部とすべきであろう。
 上記を2024年から2030年末の6年間で達成するという時間軸を設定すれば、それが戦略であり、現状から理想像への移行の6で割れば1年間の進捗目標と今後毎年成果を評価することが出来る。
 例えば、2024年時点でのホテル勤務非正規女性の年収が150万円だとすると、理想像300万円が見えているため、(300万円―150万円)÷6なので毎年辺り25万円年収が増得るような社会環境と経営陣の待遇改善が必須となる。
すると年次目標として
2025年末……175万円
2026年末……200万円
2027年末……225万円
2028年末……250万円
2029年末……275万円
2030年末……300万円
と定量的な進捗目標を設定する事が出来る。

(3‐2)観光産業業務環境の構造的改善とその実行具体案

 上記の観光産業就労環境の構造的な改善は、キャリアパスと人生設計の双方が出来る水準の年収を確保する事で宿泊業界での人員・人材確保のために有益である。但し、他の条件、例えば売上高が変わらない環境で宿泊産業の人件費を増加させると、当然に営業費用率が上昇し、当期利益に下降圧力がかかる。民間営利企業、特に株式会社の使命は「当期利益最大化による株主価値最大化」であり、政府の補助金や法令改定改正による他力を前提としてはスピード感ある構造的変革は出来ない。
 当期利益最大化による株主価値最大化という資本主義の大原則には短期的には一見利益相反しているように見えても、業界待遇構造的改善という中長期の産業界の魅力再構築のためには、産業界自らが戦略案を策定し、労働市場の需要増という追い風を受けて、可能な時に変革を仕掛ける事が大切である。宿泊産業の待遇は大手企業勤務正社員等の例外を除き過去30年超大幅な改善が無かったが、日本のパンデミック後のインバウンド観光需要急上昇はパンデミック後、自国民の個人消費増(=「外食・芸術エンターテインメント・宿泊産業支出」が恩恵を受けた3大セクター)で経済を成長させた米国のケースと類似のシナリオを描くことが出来る。
 ついては、米国で発生した経済急復興と宿泊産業待遇改善について如何にしてそれが起こったのかを分析しておくと、日本の宿泊産業待遇改善の戦略実行案策定に参考となる。

「米国経済の急復興の要因分析」

 パンデミックは日米共に2020年4月に観光産業を含む社会経済を直撃した。日米観光産業の違いは、米国観光需要は12カ月後の2021年4月に復興が始まったのに対し、日本は2022年10月からパンデミックの水際対策を大幅緩和し、30カ月程度経過して復興が始まった。(米国は現時点(2024年9月14日現在)でCovid‐ 19死者数は121万9487名、日本は7万4694名と2桁違う数値となっている。)
 米国の経済復興ペースを欧州、英国、隣国カナダと比較したグラフを米国連邦銀行が作成しているのでそれを見ると、GDP、最終需要(個人消費)、企業設備投資の伸び率に於いて、2019年第4四半期を基準の100として、GDP、個人消費はダントツに復興し、設備投資も一時期カナダが上回ったものの、直近は比較対象国群を引き離す成長率になっているのが俯瞰出来る。(図7)

(Source:The Fed – Why is the U.S. GDP recovering faster than other advanced economies?(federalreserve.gov))

 米国連邦政府は個人給付金をパンデミック中に3回給付したが、観光需要急復興に火をつけたのが最後の第三回目のAmerican Rescue Plan である。これは一人当たり$1400(21万円)の現金が給付され、年収所得制限も夫婦で$ 15万0000(2250万円)以下ならば給付と、夫婦と子供3名の家族ならば$7000(105万円)の現金給付という大盤振舞であったが、受領者はその19%しか即座の消費(家賃・光熱費・食費等生活費、税金支払等)に使わず、残る81%は貯蓄と借金返済に充当された。この部分はプライマリーバランス派のエコノミストからすると全く無駄な支給と見做されるだろうが、この借金返済は米国人の多くにとってはクレジットカード短期借入金の返済であり、信用枠残高が増えた事で、あたかも自分が可処分出来る流動資金が増えたかの感覚を米国消費者に与えた。これに貯蓄した現金が合わさって、その後2年強、この流動資産が米国消費者の恣意による個人消費行為急増の起爆剤となったのが急復興の原因である。(図8)
 日本の場合はGotoTravel で旅行に行く事を条件としたが、米国の場合は紐付けせずに給付した所、産業セクター別には①外食②芸術エンターテインメント③宿泊に消費が向かい、結果として個人消費が観光関連産業のサービス消費増大に向かった。

「宿泊産業待遇急改善のメカニズム分析」

 観光関連産業は2020年4月のCovid‐ 19直撃以降、非正規職員は解雇、正規職員も残業ゼロ、場合によってはfurlough と言われる一時的な休職、つまり従業員が仕事は維持しながらも一定期間給与が支払われない状態をも強いられた。つまり従業員数は最低人員配置状態となった。12カ月後の2021年4月にはゲストが戻り始め、且つ上記の消費が「12カ月間のパンデミックで出来なかった事」への復讐消費状態となり、途端に宿泊産業を中核とする観光関連産業は労働力不足に陥った。

① 需要側増大に対応する為に人件費急騰

 ここでオーランド産業界内の対応はパンデミック前の待遇(未経験者初任給時給$10=約1500円)のままを提示する企業と急激な労働力不足をカバーするために時給を上げていく企業が出たが、オーランドの場合は待遇改善に躊躇した宿泊施設は退職者・転職者増加による絶対的な労働力不足で客室やレストラン群の一部の閉鎖を余儀なくされた一方、後者は退職者防止・転職者優遇の為に時給賃金を短期間で市場価格上昇を先導するかのように賃上げを行い、4カ月後の夏場2021年7月には市場時給は$ 16(=約2400円)と6割急上昇した。その後3年強経過したが、市場時給は$17程度であり、2021年程の急上昇は無くとも、高止まり安定している状態である。

② 経営陣&オーナーは人件費増分を全額小売価格に転嫁

 人件費、特に基本給を上げる事に抵抗のある経営者にとってはパンデミック後のような外的な需要が急増する際には、コスト増を躊躇し急増するビジネス機会を放棄するか、人件費増による営業費用増を容認してもビジネスを獲得する方向性の選択肢が有る。後者の場合、オーランドでは経営者・オーナー側に無理のない、「人件費増・営業費用増分を全て小売価格に転嫁する」という手法を取ったグループは勝ち組となった。日本にも多い「価格弾力性」による需要減(消費者が価格上昇を毛嫌いして需要が減るはずだという思い込み)を主張する人はいるだろう。ところが、復讐消費に動機付けされた消費者は全く減らないどころか、小売価格上昇を完全に吸収し、結果として稼働率も上昇した。市場の需給関係が崩れるほどに観光需要が高い際には価格弾力性議論は全く当てはまらず、むしろ2020年に前年比40%下落した年間宿泊税収に対し、2022年は前年比90%税収が増加しているほど、平均客室単価も稼働率も上がっている事がわかる。(図9)。復讐消費の凄まじい底堅さが見える宿泊税収推移であるが、定率制宿泊税でないとこのような税収推移にはならない点は別の問題である。

 では、どの程度売上高が上がれば人件費50%増による営業費用増を吸収出来るのか?そのためには米国ホテル統一会計基準の枠組みを簡素化した数値でシミュレーションしてみよう。図10には3つの損益計算書が並んでいる。一番左が現状である。真ん中は現状の売上のまま、人件費だけ50%増にした場合の当期利益予想であるが、当期利益は赤字となる。ところが、一番右のシミュレーションを見て頂くと、売上が20%増収しただけで、人件費50%増は十分吸収して且つ少額の増益も計上出来る事がわかる。
 これを理解した上で三大都市圏の宿泊産業の財務諸表を2022年2023年と比較するか、或いは2023年と2024年の同月月刊損益計算書を比較して増収比率がどの程度なのか確認して頂くと、人件費50%増が実現出来る20%増収が既に起こっているのかが確認出来よう。
(図10)

 実は日本でも少なくとも三大都市圏においては20%程度増収している宿泊施設が数多く存在する事が確認出来よう。今後三大都市圏以外のDMOを強化することでインバウンド層を地方部に誘客して宿泊してもらう事に注力して日本中で20%増益を目標に宿泊産業経営し、その実現時には全ての増収分を人件費50%増達成に利用する事で、産業界が厳しい雇用条件の現状を自ら変革する事が、中長期の人材確保に役立つ先行投資と考えるべきである。小売価格上昇による増収分で自らの改革の財源は確保出来るので、政府や補助金に頼らず自己変革を仕掛けた者が勝ったのは米国の例であった。

③ 時給急上昇の副次的効果

 非正規雇用・時給従業員の報酬が$10から$16になった事で、非正規職員が週40時間勤務で年に2週間休暇を取得するとすると、税引前で$2万0000(約300万円)から$3万2000(約480万円)に年収が増加した。それにより正規従業員との年収整合性が合わなくなるsalary compressionという状況が発生した。結果としてそれを人事部が補正する事で正規従業員年収も30〜40%程度上昇した。前述の当方学部卒業生初任給年収がパンデミック前の$3万8000(570万円)から$5万1000(765万円)と4割上昇したのが好例である。
 これにより、ホテル業界勤務できちんとキャリアパスと人生設計が両方出来る年収水準になったため、求人者が未経験・他産業からも集まるようになり、「長時間労働・低賃金」のイメージが急速に薄まっている。特に管理職階や幹部候補生の待遇が以前よりも更に良くなっている点は記すべきであろう。
 まさに、日本の観光・宿泊業界が中長期の持続性を意識した場合に最も構造改革すべき部分と言えるが、米国ではパンデミック後の市場需給状態の均衡状態が崩れた際に産業界(民間)が市場原理を利用して自ら改善を行った結果となった。
 つまり、米国で起こった観光需要増大期を利用して、従業者の待遇を短期間で大幅に改善する事を日本でも仕掛けることが出来れば、同じ結果が実現出来る。日本の場合は規模は大きいが成長率に欠ける日本人国内旅行需要ではなく、今後毎年30%超の成長率で2030年に向かって拡大していくであろうインバウンド層需要増を起爆剤として利用可能である。

4.観光産業戦略策定時の使命拡大による社会問題解決への貢献

 観光産業セクター内の待遇を改善する戦略案と手本・根拠となる米国事例、及び自己変革の財源も明示した。最後に、宿泊産業の構造的待遇改善戦略が実現出来ると産業の枠を超えて地方社会経済に好影響が及ぶ副次的な効果がある点を指摘したい。

「2023年エコノミストが予想していた米国景気後退が発生しなかった理由」

 2023年初頭には多くのエコノミストや経済紙が、復讐消費の燃料切れで米国経済は景気後退に落ち込むと推定していた。Wall Street Journal誌もその一つであった。しかしながら予想された景気後退は起きず、2023年8月10日にWSJ誌は“Women Own This Summer. The Economy Proves It.”(この夏は女性が主導権を握る。経済がそれを証明している。)という記事を掲載し、予想が外れた事へのお詫びとその原因について分析した。
 2023年は米国の女性給与所得者の平均年収が歴史上初めて$5万0000(750万円)を超えたが、WSJ誌曰く、「今迄の男性給与所得者が余剰資金を持った際に起こる固定資産への投資、例えば投資不動産購入や欧州製高級車購入は、大きな金額が域外や欧州地域に流出し、見合いの固定負債も発生するパターンだった。しかし女性の可処分所得が増えると、今迄の男性中心の消費パターンとは異なり、女性は固定資産購入をせずに、経験消費、例えばテイラー・スウィフトのコンサート券を購入し、その一生に一度の経験のためには、仕立てた特注ドレス、ヘアサロン、ぺデイキュア&マニキュア、特注ブレスレット作成等、実は経験消費は女性達の居住する地方経済内の労働集約型個人企業を刺激し、地域経済内でより循環するような物品サービスを購入するため、地域経済が女性の消費で底上げされてエコノミストが予想した景気後退発生を防いだ、故に女性の所得増が地方経済に与える経済効果を事前に予想出来なかった」という記事を発表した。
 つまり、日本で女性が2/3を占めながら、産業セクター中最低水準の待遇である宿泊産業従事者の待遇を改善すると、

●地方在住の女性の可処分所得が上がり、労働集約型産業への最終需要が多い経験消費への個人消費が増えて地方経済を底上げする。
●三大都市圏並みの待遇の業務が無いために三大都市圏で就職する地方出身人材を地方に留められる高待遇の業務が増える

が実現出来る。
 これら実現の為には、例えばインバウンド受入に必須で有益な特殊技能に十分な手当てを払う事でより高待遇を提供する、例えば英語検定2級保持者で月5万円、同1級保持者で月10万円の手当を支払えば、初任給年収200万円の人材が英検2級保持者で260万円、英検1級保持者で320万円となり、地方経済に於いても三大都市圏への人材流出を防げる待遇を提供出来る。また特殊技能への手当制度は、今後の中学高校での人材育成時に何を習得すれば高給での地元雇用を確保出来るのかが地方人材に明確に示せるため、より多くのインバウンド対応観光人材育成に役立つ。
 また、地方在住就労者の知識・スキル向上の継続教育の教育インフラを物理的な集合を強要する寺子屋方式ではなく、オンライン講座化してきちんと習熟度評価(試験)も行い、居住地域による教育の機会均等格差を解消し、自己投資(リスキリング)を行った人材には従業員から管理職階への昇進可能性を早める事で、より早期な待遇向上に貢献出来る。
 更に、14セクター中最低待遇の産業セクターが構造的に待遇改善すると、待遇が近い(低年収の)他の産業セクター、日本の場合は、卸売・小売、サービス業からの労働力流入が進むにつれてそれら産業セクター全体に賃金上昇圧力がかかるという副次的な構造変革への影響が増すのは米国で発生した現象である。
 小売価格上昇は従業員数に変化が無い場合は、労働生産性向上に直結する。
また地方圏で今後、三大都市圏で先行したインバウンド需要復興と急伸が継続していくと、ますます英語やその他外国語能力がある人材への需要が増し、今迄見過ごされて来た特殊技能にしっかり手当支給制度を導入する事で地方の若者(中学生高校生)によりよい待遇の地元就職のためにはそれら言語を手段として学ぶインセンテイブを見せつけることが出来る。今後各地に出来ていく世界水準DMOがきちんと定率宿泊税で地方特別目的税収を確保し、それを観光奨励にだけ使う形とすれば、各地域のDMO経営陣や職員に三大都市圏を上回る世界水準の待遇を確保して地域雇用の星となるような待遇を確保出来る。そこまで行えば、観光産業は長時間労働低賃金というイメージを払拭し、地方経済においても首都圏と遜色ない外貨獲得エリート輸出産業としての新たなポジショニングが可能となる。
 今後6年でまずは民間、宿泊産業主導で戦略案を実現して理想像に到達する事が大切であり、ここではその例を示した。


原 忠之(はら・ただゆき)
セントラルフロリダ大学
ローゼン・ホスピタリテイ経営学部テニュア付准教授、兼九州産業大学地域共創学部客員教授
UNESCO CSA、ICAOASA(文化、航空の国連統計サテライト勘定)の技術諮問委員会委員。上智大学法学部卒。日本興業銀行、外務省を経て、米国コーネル大学ホテル経営学部博士号取得。他、ホテル経営、経営、地域科学の3修士号を持つ。専門は観光産業の経済効果、ホスピタリティ・マネジメント。担当授業はファイナンス、応用統計学、経済効果計算、国際イベント経営等。琉球大学、一橋大学、京都大学、早稲田大学など、毎年日本のいくつかの大学で集中講義を行っている。観光学の分野では大規模公開オンライン講座(MOOC)の先駆者でもある。米フロリダ州在住。