C O L U M N 3
❸ 不安定で、不確実で、複雑で、曖昧な世界で求められる市場調査
公益財団法人日本交通公社観光研究部上席主任研究員
五木田玲子
不安定で、不確実で、複雑で、曖昧な世界(VUCAの世界)では、旅行者の動向を予測・想定し、対応することが難しくなることは想像に難くない。
2020年に突如襲った新型コロナウイルス感染症の流行は、まさにこのVUCAの世界であったといえよう。この世界において、不要不急とされた旅行は急速に控えられることとなり、世界中の観光客数は激減した。その後は、制限のあるなかでの旅行再開、リベンジ旅行と呼ばれる旅行の再活性化、一部の人々の旅行自体への興味喪失など、コロナ禍は旅行市場の需要を大きく揺るがした。いつ、どこで起こるかわからない災害であっても、いつか、どこかで必ず起こると想定して、そのリスク対策をとることと同じように、観光の世界においても旅行者の動向を予測・想定する市場調査の必要性は変わらない。
むしろ高まっていると言える。
コロナ禍のような事態に陥ったとき、人々は何を求めるのか。
コロナ禍においては、これまで以上に判断の基準となるものが求められたのではないだろうか。当財団では、長年、旅行市場の全体像や実態に関する、中長期的な統計データとして「JTBF旅行意識調査」「JTBF旅行実態調査」を社会に提供してきたが、この期間中、新型コロナウイルス感染症の流行が旅行市場におよぼした影響把握を目的として調査を拡充して実施し、その分析結果を順次公開した(https://www.jtb.or.jp/research/statistics-tourist/)。
コロナ禍当時、当財団のウェブサイトにおける当該ページのページビュー数は上位となり、瞬く間に注目されるコンテンツとなった。人々がこの調査結果にアクセスした理由は何だろうか。推測にはなるが、これまでのような市場の動きがみられないなかで、何が起こっているのかを知りたい、そして、直感に頼るのではなく、それらを把握したうえで判断を行いたい、という意思が働いたのではないだろうか。消費者がどういった考えを廻らし、どのように行動し、何を思ったのか。コロナ禍では、旅行市場の動向について、専門家ではない一般人が情報を求めたことからもそのことが言えるだろう。VUCAの世界において、市場調査とその公開はより一層、重要な役割を果たすと考えられる。
変動性・不確実性への対応としては、即時性という観点がますます重要となる。一つのタームが長いと変化を捉えきれず、重要な兆候を見落とす可能性がある。観光トレンドや消費者の行動の急速な変化に対応するため、リアルタイムでデータを収集して即時に分析することや、データ更新の頻度を高めることがこれまで以上に求められる。また、複雑性・曖昧性という観点からは、複数の要因が絡み合う旅行市場をより多面的に分析することが必要となるだろう。テクノロジーの進化により、大容量で複雑なデータ分析も可能となった。大量のデータから有用なインサイトを抽出するには、AIやビッグデータの効果的な活用が欠かせない。
その一方で、個々人の多様な価値観が重視される世の中にあって、個というものを隠したデータですべてを語ることができるわけではない。多様性の時代においては、個々の声や価値が尊重され、単なる多数決ではなく、個人に焦点を当てることが重要となる。すべての顧客に同じサービスを提供するのではなく、顧客一人ひとりの属性や行動履歴に応じて、最適な価値を提供すること。
そのためには、対象となる顧客一人ひとりを理解すること、つまり、パーソナライズ化したデータ分析が必要となる。ここでもテクノロジーの活用は必要不可欠だろう。
〝近代マーケティングの父〞と称されるフィリップ・コトラーは、1900年代から現代までの各時代のマーケティングの概念を提唱してきた。1900〜1960年代はモノをできるだけ安く売って利益を最大化させることを目的とした製品志向の「マーケティング1・0」、1970〜1980年代は顧客のニーズを満足させることに注力した消費者志向の「マーケティング2・0」、1990〜2000年代は社会的価値を重視し顧客との共感を目指す価値志向の「マーケティング3・0」、2010年代はデジタル時代において顧客エンゲージメントを重視する自己実現の「マーケティング4・0」であった。2020年代はテクノロジーを活用して顧客体験価値を高める「マーケティング5・0」が提唱され、具体的な施策の一つとして、限定的な規模で市場に投入することで、迅速に消費者の反応の収集・分析・検証を繰り返して最適化を図る手法であるアジャイルマーケティングが紹介された。そして、2023年12月、「マーケティング6・0」が出版された(英語版)。メタマーケティング、メタバース・拡張現実、没入感といった用語が並んでおり、進化するテクノロジーへの対応が継続することがうかがえる。
VUCAの世界でのマーケティングの概念の動きは速い。このようなグローバルな動きをローカルな観光に対応させていくことを当財団の役割として取り組んでいきたい。