わたしの1冊
第30回
『深夜特急』
沢木耕太郎・著
新潮社刊
藤里町長
佐々木文明
令和5年12月白神山地は世界自然遺産登録から30年を迎える。ある日を境に裏山が世界の遺産となった。あの頃共に汗をかいた先輩や仲間と分かちあった高揚感を、今も鮮明に覚えている。
秋田県藤里町は、世界自然遺産白神山地の南側に位置している。町には白神山地を唯一南北に横断する県道西目屋二ツ井線がある。崩れやすい凝灰岩地質もあり、豪雨災害等により数年置きに通行止めとなるなど、安定したエコツアー催行に苦慮している。
今回ご紹介する私の一冊は、「深夜特急」(沢木耕太郎著/新潮社)である。バックパッカーのバイブルでもあり、ご存知の方も多いだろう。30代当時全巻を一度に買い、毎日一冊ずつ夢中になって読んだ記憶がある。
日常から離れた「深夜特急」の世界。日本からヨーロッパまでの旅のスケール感。藤里町に暮らしながら、一緒に体験をしている感覚となった。特に東南アジアの空気が陽炎のようにゆらめく生生しい様子や、濃密で様々なものが混在する路地裏の匂いが想像できた。何十年経っても強い印象が残っている。
私自身、バックパッカーとして世界を旅したことはない。残念ながら、仕事と子育て、趣味の野球など休みなく過ごしていたこともあり、世界への旅は叶わなかった。この本の持つなんとも言えない雰囲気が自分の心に合ったのだと思う。
現在、白神インバウンドの第一ターゲットはアジアの方々である。本書を読んだ頃は、まさか藤里町が世界自然遺産になるとは思ってもいなかった。ましてや、アジアの方々を呼び込もうということは想像もできなかった。
彼らは何を目指して日本にくるのか。国内には寺社仏閣文化遺産や、食文化、アニメカルチャーなどをはじめ多くの魅力がひしめいている。競合の中で、本州の周縁の地白神に残る、彼らが求める価値とは何だろうか。かつて、「深夜特急」で感じたような、ここしかない旅心をくすぐるものは何だろうか。
近年のSDGsやESG投資など環境志向の高まりに加えて、コロナ禍による働き方や暮らし方が変わり、旅で求められるものも、大きく変わったよう
に感じる。
平成23年に環白神エコツーリズム推進協議会設立に関わり、ご縁あって令和元年より会長を拝命している。遺産保全だけでなく、より周辺地域を活用したプログラム開発、安定財源の確保など解決すべき課題は多い。
ただ協議会立ち上げから10年が過ぎ、ようやく白神エコツーリズムと時代がかみ合ってきたようにも感じる。
保全と地域振興の両立を目指したエコツーリズムを通じて、私たちもまた旅人と共存し、白神山地のメッセージを永く伝えていかねばならない。
かつて日本が急激な経済成長の中で置いてけぼりにしたものは何だったのだろうか。現在、成長するアジアの方々に伝えられるものがある。
「深夜特急」の旅の終わりは、ロンドンであった。
旅人は道の終わりに憧れをもつ。そのような意味で、本州で人の手が止まった場所、白神山地は道の終わりともいえる。
周縁の地で立ち止まり、落葉の森の匂いを感じてほしい。
佐々木文明(ささき・ふみあき)
1956年秋田県藤里町生まれ。高校卒業と同時に藤里町役場に勤務。2011年8月より藤里町町長に就任し、現在4期目。趣味は、ドライブ。早寝と早朝読書。令和元年より白神圏域の七つの自治体で組織する環白神エコツーリズム推進協議会会長。秋田県水源林造林協議会会長。(一社)全国森林レクリエーション協会理事