特集②-❷ スイスにおける非動力系交通を活用した観光ネットワークの整備と利用の現状
観光研究部 主任研究員
小川直樹
1.はじめに
世界的な脱炭素の流れや、若い世代を中心とした車離れの傾向の中、我が国でも自動車に頼らない観光地づくりの必要性が高まっている。加えて、今日的な観光のニーズを踏まえれば、交通手段には単なる移動手段としてだけではなく、それ自体が観光的な魅力を持つような価値の創造が求められていると言えよう。しかしながら、我が国においては、各地でロングトレイルや自転車道などの整備が進んでいる現状はあるものの、それらがハード、ソフトの両面で必ずしも有機的に結びついておらず、観光的な魅力づくりに十分に活用されているとは言えない状況がある。
筆者は、これまで都市計画的視点で地域づくりに携わってきた経験を通じ、歴史的資源など地域の魅力ある観光資源をつなぎ、新たな価値を創造することの必要性を感じていた。
以上のような背景を踏まえ、本稿ではスイスにおいて整備されている非動力系交通(non-motorized traffic)を活用した観光ネットワーク整備の取り組みである「スイスモビリティ」(SwitzerlandMobility)に着目し、その構築の経緯や運営組織に関して特徴を概観する。右記の目的のため、事前の文献調査を行ったうえで、実際に現地に赴き、トレイルや標識の整備状況、利用者の状況などを目視や実体験を通じて把握した。
2.スイスにおける非動力系交通ネットワーク構築の経緯
スイスモビリティを運営するスイスモビリティ財団(SwitzerlandMobilty Foundation)はスイスサイクリング財団(Cyclin ginSwitzerland Foundation)を前身としている。スイスサイクリング財団は、全国的なサイクリングツアーのネットワークを構築するというツーリングサイクリスト数名によるアイデアをきっかけとして1993年に設立された。そして、1995年にスイスの全州からの委託を受け、全長3000㎞を超える9本のナショナルルート、全国的な標識の整備などの取り組みを開始した。
その後、1998年には、持続的なレジャーと観光の提供という目標が、サイクリングだけでなく、ハイキングやカヌーなど非動力系交通の分野に拡大された。さらに、1999年、この取り組みに関心を持ったスイスハイキング連盟(Swiss Hiking Federation)がスイスサイクリング財団に働きかけたことにより、翌年、非動力系交通によりレジャーおよび観光の全国ネットワークを構築するというスイスモビリティ構想が発表された。そして、スイス連邦政府、スイス国内の各連邦州(カントン)、リヒテンシュタイン公国をはじめ、交通、スポーツ、観光の各分野から多くの組織が参加し、2004年秋よりスイスモビリティの実現に向けた作業に着手し、3年余りの準備期間を経て2008年春、スイスモビリティの設立に至った。
一方、1984年から2003年にかけて、ベルン大学において歴史的な道路や道路沿いの歴史的建造物などを記録した歴史的交通ルート目録(IVS)を作成する研究が行われた。その後、この歴史的交通ルート目録を観光活用する取り組みである「ヴィア・ストーリア」(ViaStoria)が2003年に開始された。ヴィア・ストーリアでは12本の主要ルートが設定されており、そのうち基準を満たしたコースがスイスモビリティに組み込まれている。
3.スイスモビリティの概要
スイスモビリティのルートは路線番号1桁のナショナルルート、2桁のリージョナルルート、3桁のローカルルートに大別され、総延長は約36000㎞に及び、意匠が統一された約20万基の標識が全国で整備されている。ルートは公共交通機関と連携しており、標識とアプリケーションなどを通じて、夏季はハイキングやサイクリング、マウンテンバイク、スケート、カヌー、冬季はスノーシューイング、クロスカントリースキー、ソリなどのトレイルの情報が提供されている。夏季ルートは857ルート(2023年春時点)、冬季ルートは648ルート(2022/2023年冬時点)がそれぞれ設定されている。
スイスモビリティのウェブサイトや携帯端末向けアプリでは、それぞれのルートに加え、公共交通機関の駅や停留所、自転車のサービスステーション、宿泊施設、観光スポットに関する情報が掲載されているほか、パートナーとなっているアウトドア系旅行会社のユーロトレック(Eurotrek)と連携し、ルート上での宿泊、荷物運搬、自転車レンタルなど総合的な観光サービスが提供されている。
さらに、ユーザー自身がウェブサイトやアプリ上でハイキング、自転車、ウインタースポーツなど多様なツアーを計画し、ルートとして保存や記録などができる有料(年額35スイスフラン)のサービスであるスイスモビリティ・プラス(SwitzerlandMobility Plus)が提供されており、総延長1億5200万㎞を超える約740万本のツアーが作成されている(2022年末時点)。
4.スイスモビリティの財団の運営
スイスモビリティ財団の収入は、スイス連邦政府、リヒテンシュタイン公国、各連邦州からの拠出金をはじめ、公共団体、民間団体や法人、個人からの拠出金などからなり、官民によるパートナーシップモデルが構築されている。財団の活動資金の大部分はスイスモビリティ・プラスの利用料金によって賄われており、収入総額(約614万スイスフラン)のうち約7割(約420万スイスフラン)を占めている。財団の支出の主な内容としては、スイスモビリティの重要なセールスポイントと位置付けている質の高いルート情報の提供、スイスモビリティ・プラスの提供などの情報発信(約274万スイスフラン)、インフラ整備や管理(約92万スイスフラン)、財団の運営(約81万スイスフラン)などとなっている(金額はいずれも2022年度)。
また、スイスモビリティ財団では、非動力系交通の発展や、その質の向上などを目的としたカントン・ワークショップ(Kantonale Workshops)をスイスの全26州とリヒテンシュタインにて開催するなど、緊密な連携体制のもとで、ルートの見直しや標識の点検、管理に取り組んでいる。
5.まとめ
スイスモビリティの特徴として、第一に、徒歩(ハイキング)、自転車、スケートなど異なる交通モードを複合的にネットワーク化していることが挙げられる。その際、単なる非動力系交通を組み合わせることによるネットワーク化は一義的な目的ではなく、観光やレジャーのための手段を提供する取り組みであることも注目すべきポイントであろう。
第二に、その運営体制に関して、国家レベル(2か国)だけでなく、各連邦州レベル、民間レベルの各分野の団体等が参画し、垂直、水平の両方向に広がりを持った連携体制により整備、運営されていることも特筆すべき点である。
そして第三に、大学の研究に由来するヴィア・ストーリアの成果がスイスモビリティに組み込まれており、学術的観点から観光的魅力を裏付ける検証がなされたルート設定がされているという点も注目に値する。
このような特徴を持つスイスモビリティは、横断的で緊密な連携体制により運営されていることで、長期的な維持、発展が可能であり、さらには社会、環境、経済にも利益をもたらす仕組みが構築されているなど、我が国の今後の観光地づくりのあり方を検討する際にも参考になる事例であると思われる。
実際、現地では、徒歩や自転車だけでなく、スケートによるトレイル利用など、さまざまな利用の様子が確認できた。学術的な裏付けによる質の高いルートが、ウェブサイトやアプリを利用したシームレスなネットワークでつながる様子は、いわば「非動力系交通版MaaS」ともいえる様相を呈しており、観光客にとっての利便性や、体験価値の向上につながるとともに、地域にとっての観光資源の価値を高めることにも寄与しているのではないかと感じた。
また、スイス政府観光局は、競合する他の観光地との差別化を目的として、国内の観光事業者の環境対応を認証する「Swisstainable」の制度を運用している。スイスの観光のイメージを特徴付けている「鉄道を利用した観光」とともに、今回取り上げたスイスモビリティのような非動力系交通のネットワークが観光やレジャーの手段として活用されることは、国家レベルで創出を目指している「サステナブルな観光に取り組んでいる国」というイメージを強化し得るものでもあると感じた次第である。
〈参考文献〉
1)SwitzerlandMobility Foundation WEBサイト(https://www.schweizmobil.org)、2024年1月12日最終閲覧
2)SwitzerlandMobility WEBサイト(https://schweizmobil.ch)、2024年1月12日最終閲覧
3)SwitzerlandMobility Foundation (2023), SchweizMobil Systemeinführung
4)SwitzerlandMobility Foundation (2023), Jahresbericht der Stiftung SchweizMobil 2022
5)SwitzerlandMobility Foundation (2023), INFORMATIONEN WORKSHOPS 2023
6)ViaStoria(2013), Gesamtkonzept Kulturwege Schweiz
7)Nagy, K. (2013), All roads lead to … Cooperation ‒ Cooperation model for cultural heritage routes with a Swiss case study. 9th
Annual International BATA Conference for PhDStudents and Young Researchers, Conference Proceedings, Article 28.