観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏
2.「観光」における取り組み(2)

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏<br />2.「観光」における取り組み(2)

(2)観光分野での業績や功績

 
●観光プランナーとして「実現すること」を前提として取り組んできたこと

改めて「観光分野での業績や功績」と言われますと、怯んでしまいます。前述したような観光調査や計画の総数は、延べ約400件に及びます。それを大別しますと、前述したように「観光調査・研究」「観光計画の作成・実現までのプロデュースとその後のフォロー」「観光計画書の執筆」「講演・教育」になり、「観光調査・研究」と「観光計画書の執筆」は、書物として残されています。これが業績になるか解りませんが、批判的に読まれるにしろ「こういう考えもあったのか」と見ていただければと思います。

小生のメインテーマである観光計画の総数は、複数年に係わるものも含めますと、観光施設86件、観光地区89件、まちづくり103件、広域観光計画61件と、300件近くになります。実に多くの観光計画を手がけさせていただいたと感謝していますが、観光プランナーとして常に「実現すること」を念頭に取り組んできたものの、実現したのは1割くらいでしょうか。その中で小生にとって一番の“優等生”は、1985(昭和60)年に開業し、現在も約50万人ぐらいの人が訪れている「盛岡手づくり村」でしょうか。開業したものの、現在では苦戦しているところも少なくないのではと、心を痛めています。

「観光からのまちづくり」の場合は、一つの町の計画がずっと続いているケースが多く、最初の西伊豆町(1976)も5、6年係わっていました。また、長く係わらなくては、同じコンセプトを堅持しながらの「観光からのまちづくり」は出来ないと思います。西伊豆町にあっては、「花と潮騒のまちづくり」を基本コンセプトとして、「既存観光施設の梃子入れ」や「民宿の育成」、「沿道の修景」を提案し、その後押しを数年やってきました。「沿道の修景」については、コンクリートの吹きつけ法面を隠す沿道修景は今も残っていますが、手入れは充分でないようです。

「既存観光施設の梃子入れ」に関しては、国道にへばりつくような臨海型の大型ホテルや旅館の環境改善を図るべく、バイパス案を提案しました。しかし、当時はホテルの玄関のところで、旗を振りながらお客さんを呼び込む「客引き」が盛んに行われており、それがそれなりに効果もあったようで、とても耳を貸してくれるような状況ではありませんでした。主力観光施設だった洋らんセンターや東急が運営していた堂ヶ島レステルの改善策は、容易ではありませんでしたが、洋らんセンターはより中心地区に移転し、小生とは違う方のプランで「らんの里・堂ヶ島」が整備されました。それと共に、伊豆でランを実生から育てますと5年かかるそうですが、沖縄なら3年半に短縮出来るということで、沖縄に分園を整備しました。伊豆から沖縄にしばしば通われるのはあまり賛成ではありませんでしたが、当時内田熊一園長さんは脂の乗りきった時で、楽しそうに沖縄通いをしていました。しかし、伊豆の施設整備と沖縄の分園整備で約27億円の借金をすることになり、押印してきた日でしたでしょうか、「前田さん、27億円の借金、こわいぞー!」と言っていたのが耳に残っています。そしてバブル経済崩壊の観光不況によって伊豆の観光客は急速に減少していきました。しかし、円高もあり、アジアを中心とした海外旅行は伸びて続けており、お客さんの目がどんどん肥えていき、従来型の見せ物のような伊豆の観光施設は飽きられるようになり、らんの里・堂ヶ島は2005(平成17)年に倒産してしまいました。伊豆半島の観光的な盛衰は、我が国の観光地の盛衰を先取りしたような格好で「衰退状況」を呈しています。現在、伊豆半島は倒産と閉鎖したままの観光施設が多く残されているため、“廃屋半島”と呼ばれており、まだ新しい展望が見えていないようで、全国の観光地もいましばらくは、再興に向け、もがき続けるのではないかと思います。

山梨県の「観光からのまちづくり」の第1号は、前述したように早川町で、5、6年係わりのなかで、道の駅のハシリである「南アプラザ」「南アルプス邑白籏史朗山岳写真館(右の写真)」「ビラ雨畑」「やまめピア」「紅葉とそば祭り」等が実現しました。その後は手を離れ、町は上流圏構想とやらのコンセプトで町おこしを図っていったようで、手を離れても送られてくる町の広報誌を見ても、何をされたいのかよく解りません。2014(平成26)年の5月に約30年ぶりで「南アルプス山菜祭りを」見に行き、当時から今も町長をされている辻一幸町長さんにお会いしました。町長さんは、「約30年前に作っていただいた計画に基づいて今もやっています」と話されましたが、「南アプラザ」を除いて観光的にはかなり以前の活気が失われているようにお見受けしました。山梨県内でお手伝いしたところは、その後殆ど観ていませんが、同じような状況なのではないかと推察していますが…。

「観光からのまちづくり」も、持続・継続が肝要だとしても、時代は変わり、利用者の志向も変化・成熟していきますから、「旬」があることは避けられません。それにどう対応して、次なる再興を図るかが、今、大きな課題ではないかと思います。それを一人のプランナーが継続的にフォローすることは、殆ど不可能でしょうから、どれだけ将来的にも残る基礎的なところを、初期段階に固めるかがポントではないかと思います。その際の基本的な考えは、「不易流行」ではないかと思います。

この不易流行というのは、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の中で会得した俳譜の理論で、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」というものです。小生は、これを「不易=基礎をしっかり固め、その上で適宜流行を取り入れることが肝要」と理解しています。各種先進事例や流行をみて直ぐ飛びつき、流行が去ったときには何も残っていないことを多くみてきましたから、まずもってその地域の「不易」の良さをしっかり捉え、それを活かすことが基本になると考えています。「観光からのまちづくり」をする上で、不易とはその地域の自然、歴史、そして生活を含めた文化と考えています。西伊豆町にあっては、海の眺望と鰹漁業、花卉栽培等が「不易」と考えていましたし、早川町に関しては南アルプスの恵みこそが不易と考えていました。

西伊豆町における「民宿の育成」に関しては、1971(昭和46)年に草津にペンションの第1号が生まれ、すくさま清里高原等でペンションが次々に整備されていき、民宿のお客さんがペンションに流れ始めていた時期で、どうやったら民宿らしさが活かされるかを模索しつつ、『西伊豆民宿通信』という形で改善案を提案していきました。しかし、襖で仕切られた部屋にはプライバシーがありませんでしたし、トイレも和式でしたので、お客さんの「普段の生活水準」が日々向上している中で、旧態然とした民宿のハードウェアは致命的で、衰退を食い止めることは出来ませんでした。聞くところによれば、現在西伊豆町の民宿は昔からの顧客や釣り客が利用しているほんの数軒とのこと。諸行無常ですが、我が国の観光地において、ハード面でどのように時代に対応してリニューアルしていくかが最大の課題と思います。

その対応策は難しいところですが、これまでの反省を含めて、これからはリューアルが可能なように、余裕を持った「三圃式開発」が一策ではないかと考えています。これは「三圃式農業」という農業用語をもじったもので、もともとは土地を三分割し、冬穀・夏穀と休耕地(放牧地)に分けてローテーションするという、土地が痩せていたローマ時代の北ヨーロッパで生まれた知恵です。我が国の温泉地は、敷地目一杯に建物を建て、それが最盛期には“温泉街”となり、それなりに風情を生みましたが、建て替え時期に来ますと動きが取れず、現在のように廃業等が相次ぎますと、閉鎖した旅館が点在したり、取り壊して歯が抜けたようになり、なんとも無様な状態です。これからは、先を見通すことが極めて大事だと思います。

宮崎県における「観光からのまちづくり」については、前出したように西米良村とのつきあいは1993(平成5)年から今も続いていますから、21年間という長きにわたります。計画を作成し、それが実現し始め、お客さんが来るようになった時点ではそれなりに地域振興に貢献出来たと言えるかもしれませんが、小生の手を離れ、旧南郷村のように今では閑散としている状態になっている場合には、評価は変わってくると思います。問題は「観光からのまちづくり」が当初の基本理念や基本方針をしっかり継続し、集落が維持できるだけの若者の雇用の場が創り出せるかだと考えています。後述するように、西米良村の「観光からのまちづくり」は、正念場にさしかかってきていると考えています。つまり、業績としての評価は、後世の仕事になるのではないでしょうか。

●20年にわたる西米良村の取り組みを通じて

再三述べているように、西米良村の「観光からのまちづくり」のおつきあいは、20年以上経ち、今なお継続中で、大袈裟に言えば、小生の経験と現在の時間のほぼ全てを注ぎ込んで取り組んでいます。宮崎県の観光に係わってから大分経ち、宮崎県の概況や県民気質も大部解るようになり、「観光からのまちづくり」も綾町と南郷村を手掛け、それらの経験の中で集大成を図るべく、「西米良村でも適用できること」「西米良村では気をつけること」をよく考え、慎重かつ大胆に後押ししています。

西米良村の「観光からのまちづくり」を進める中で、留意したのは、以下のような点です。今のところ西米良村の「観光からのまちづくり」がうまくいっているとしたら、こうした留意点(あくまでも私案です)を地元に伝えることが出来たのかな(?)と考えています。

ア.温故知新で、西米良村ならではの特徴(魅力)を見出し、それを活かすこと

まず『西米良村史』から調べ始めました。当然の如く西米良村ならではのいろいろな特徴等がありますが、特筆すべきは明治の版籍奉還の時に、領主だった菊池則忠公は自分の領地、つまり村の全ての土地を各家庭に価値均等で分け与えていることです。凄い英断です。ですから西米良村の住民は、明治維新の時から「全て土地持ち」です。そして戴いた「自分の土で生き抜いてきたこと」、これが西米良人の礎だと思います。土地が持てたとはいえ、96%が山林ですから、平坦地はごくわずかしかありません。役場所在地の村所地区で言えば、まず集落を形成するために、多くの世帯は額を寄せ合うように集まって川縁に住んでいます。でも川縁の平坦地は各自の住宅や役場、学校などの公共施設を造ればほぼ埋まってしまいますから、菊池公からいただいた土地の中で、傾斜がゆるい場所を探してそこに田畑を作るわけです。人によっては、造成した田畑が川縁の家から遠い人もおり、農繁期に毎日集落から田畑に通うのは大変ですから、田畑のそばに作業小屋を作るわけです。それが作小屋です。

西米良村のまちづくりの一番大事なときに担当された総務企画課長の黒木敬介さんは、作業小屋と自宅近くの学校まで7キロくらい離れていたそうですから、6歳のときから中学校まで、農繁期はその道のりを学校のある時は毎日往復したそうです。なんとも大変です。しかし、敬介さんは、「行かなければ学校がないわけだし、帰らないと飯が食えないわけだから、なんにも苦にならなかった」と笑います。そして言います。「お袋が寝たのを見たことがない」。お母さんの一江さんは、朝は早くに起きて朝食をつくり、親父さんにお弁当を持たせて送り出し、昼は農作業、夜は夕食づくりです。山仕事をして帰ってきた親父さんは、焼酎を飲んで寝てしまいますが、一江さんはその後片付けや夜なべ仕事ですから、小さかった敬介さんがお母さんの寝るところを見ることがなかったのも無理はありません。

家族みんなで力を合わせ、一生懸命生き抜いてきたわけです。そして一江さんは「塩以外は、なんでも自分達で造ってきた。今でも全部覚えています」と微笑みます。当然、醤油と味噌も作っていて、醤油を作る中間過程でとれる「しょいのみ(醤油の実)」が私は非常に好きで、今も分けていただいています。この文化が、作小屋村の「小川四季御膳」に繋がっていくわけです。

こうした厳しい環境が家庭内と集落の協働を促し、それによって絆を強め、皆凜としています。しかし、皆人がよく、男女共飲み方を実によくしますが、宴席からは笑い声が絶えず、喧嘩したり、説経するような飲み方は見たことがありません。そして子供達も実に素直で、西米良中学校に登下校する生徒は、車が通るときは車のほうに向いて挨拶をします。これには吃驚します。こうした村民性が、「村全体を休暇村にし、村民全体でおもてなしをする」という基本理念に繋がっており、訪れた方が感激するぐらい笑顔の暖かいおもてなしになっているわけです。

ともあれ、地元の資源(魅力)を発見するコツは「温故知新」にあり、『市町村史』はその宝庫の一つだと思います。

イ.計画の実現に時間を掛けること

西米良村の前にお手伝いした綾町の場合は、主たる資源は照葉樹林でした。つまり、自然です。旧南郷村の場合は、百済王族が逃れてきたという伝説でした。つまり、歴史です。そして西米良村では、作小屋という生活の仕組みや凜としつつ暖かい人の良さです。つまり、究極の“資源(なにか抵抗感がありますが)”である人を主役にした「観光からのまちづくり」ですから、住民が納得してから動き出すことが不可欠です。例えば、小川地区では集落の仕事場になるような茅葺き屋根のおがわ作小屋村を整備し、地元の食材で創った「小川四季御膳」で賑わっていますが、この作小屋は当初描いたパース通りにほぼ出来上がったものの、パースを描いた2003年には地元住民は動きませんでした。住民にとっては、作小屋村がどういうものかよくわからないし、果たして運営していけるかもよく解りませんでしたから、会議を重ね、そうしている間にようやく各自の頭の中に具体的なイメージができてくるのでしょう。そういう積み重ねが大事だと思います。パースを示してから完成まで7年ぐらいかかりましたが、黒木村長さんは焦りませんでした。「自立自走」でまちづくりを進めるには、地域住民が主体的に動かれることが不可欠ですから、機が熟すまでじっと待っていました。

つまり、「観光からのまちづくり」においては、「思いついてもすぐやらない」ことが肝要ではないかと思います。いわんや他地域の施設やイベントをパクって直ぐ始めても、根っこがありませんから、ブームが過ぎれば直ぐ枯れてしまい、残るのは借金や次の行動を阻害する失敗体験だけです。

ウ.動き出した事業に対して魅力を追加していくこと

まともな計画ならば、完成し、開業した時には物見高い“ご祝儀客”が必ずいますから、それなりにお客さんが来るものですが、リピーターを惹き付け、評価を上げていくには新しい魅力を追加していくことが不可欠です。また、熟慮して結果動き出した事業ならば、その“成功体験”がありますからいろいろアイデアが産まれ、それを着実に実行していくようになります。その小川作小屋で、中秋の満月のときに集落の電気を消し、月の明りとかがり火と竹に点したろうそくで神楽の舞が楽しめる「月の神楽」というイベントが始まりました(右参照)。集落の人口が少ないですから、都市では出来ないライトダウン下で、満月に照らされて舞われる伝統的な神楽を楽しめるのは、西米良村ぐらいしかできないのではないでしょうか。これも西米良村の「不易」の一つと言える、月夜の美しさを活用したものです。早4回を数えていますが、変に小細工しなければ、世界的なイベントになることも充分期待できると考えています。

魅力の追加が施設を持続させるコツであることは、一人勝ちしている東京ディズーランド(TDL)をみても納得できると思いますが、TDL程のお金が無いところが殆どでしょうから、如何に知恵を絞るかがです。その鍵は、当該地域だけの温故知新だけでなく、海外事例も含めて「地球規模の温故知新」だと思います。如何に多くの事例を詳しく知り、これを熟慮して練り込むこと(創り出すこと)ではないかと考えています。観光は優れて文化であり、文化(Culture)の源は、Cultivate(練り込むこと)なのです。

エ.他産業との共存共栄を図ること

西米良温泉ゆた~とでも、開業した翌年、ほおずきに豆電球を入れた小灯しを村民の数だけ点灯させたクリスマスツリー(左参照)を飾るようにして、新しい魅力を追加しています。西米良村の特産品であるほおずきは、茎に交互にきちんと実がついているものしか高値で売れず、ぽつんと離れているのは売れません。その売れないほおずきに目を付け、それを村で買い上げて小灯しにしたわけです。ほおずきの宣伝にもなりますし、それまで捨てていたものが少額とはいえ収入の足しになったわけですから、ほおずき生産農家も喜び、村おこしにも積極的に協力するようになるわけです。

魅力的な観光地域づくりは、地域の総合力を高めることでもありますから、いろいろな分野の、いろいろな方策を関連させてそれぞれの解決を図り、逆に一つの方策を計画する際には直接的な目的だけでなく、他の分野のいろいろな課題解決に気を配り、その有機的・効率的な解決を狙うことが求められるようになってきています。 二人三脚・三人四脚の時代です。それが虻蜂取らずに終わらないようにするには、深い洞察力と優れた感性が必要で、これを磨き続けていくことが観光プランナーの鍛錬だと考えています。

オ.名リーダーの戦略とそれを実践するスタッフを支援する「応援歌」を適宜送信し続けること 

西米良村の場合、最初の濱砂五朗村長さんに信任いただき、かつその数年後に助役になり、五朗村長さんが亡くなった後を引き継いだ黒木定蔵村長さんからも同様な信任をいただき、「観光からのまちづくり」を長きにわたって携わらせていただいたことは、すごく幸せなことであり、心より感謝する次第です。特に黒木村長さんとは助役時代を含めて18年に及ぶお付き合いになり、名実共に名リーダーになられたと感服します。

計画づくりにあっては、『村史』等を調べると共に出来るだけ現地に足を運び、西米良らしい計画づくりにこだわりました。それと共に最初の計画においては、基本理念と基本方針の設定、それに基づく主要事業をかなり絞り込み、その実現に努めました。このスタンスは早川町や綾町、旧南郷村等の経験で身に付けました。旧南郷村の場合は8年ぐらい関わりましたが、最初の5年ぐらいは当初の計画だけで充分間に合います。また、小さな村ですからあれこれやるだけの財源がありませんでしたから、南郷村にある4つの集落の内、百済伝説のある神門地区だけに事業を絞り、恋人の丘、百済の館、南郷茶屋、百済小路、西の正倉院という5つの事業を完成させ、「村おこし」の軌道に乗せることが出来たわけです。ここまでは田原村長さんの的確なリーダーシップがあったことも見逃せません。そこから先は、次なる整備地区に入り、そこでの計画を考え、その結果「こういうものが必要ではないでしょうか」ということで、追加案件を提案していくわけです。それは後から出てくるもので、最初の当初計画でそこまで見通すことは出来ません。ですから、「観光からのまちづくり」においては計画の見直しではなく、追加をしていくことが肝要だと考えています。ただし、計画の基本コンセプトや、他の地域から学んでも真似しないとか、小さな本物づくりとか、そういう基本方針も堅持しなければ、元の木阿弥になってしまいます。この点も強力なリーダーシップが欠かせません。とにかく最初に作ったプランは、言ってみれば“1段目のロケット”ですから、引き続き“2段目のロケット”を追加していくことが必要です。

前述した小川地区の「作小屋村」も、当初の計画にはなかったものです。小川地区で当初のプランで考えたのは、「民話の庄」づくりで、既存の施設を民話の館や民話の宿に衣替えし、民話の語り部を養成し、民話語りを始めることでした。それをスタートさせ、今度は観光客の集客イベントとして山菜祭りを始め、そこに民話語りを組み入れていくわけです。そして常時人が呼べる装置として、西米良の歴史に基づいて「作小屋村」を整備したわけです。そして更なる魅力の追加として始めたのが、「小川花見山」づくりです。

小川地区でもレンギョウとかアジサイなどの花木を生産していましたから、それを元にした魅力づくりの参考事例として、福島の花見山の写真をお見せしたわけです。しかし、ここでも小川の人たちはすぐには飛びつきません。でもそうやって事例を折にふれて見せていると、そのうち“発酵”し、現地に視察に行ってみますと気持ちが変わって、「早くうちでもああいうのをやりたい」となります。そこで、今度はちょっとブレーキをかけるわけです。物まねではなく、独自性がないといけませんから、「植える花木は、西米良村の自生のものに限ることが大事」と話すわけです。あんまりブレーキをかけ過ぎるとやる気をなくしてしまいますが…。毎年3月に植樹祭をやっていて、2014年で5回目を迎えました。鍵は、どれだけ地のものを植えるかです。地のものだけでは確かに地味ですが、長い目で見たらそちらのほうが必ず人が来ると考えています。なにしろ50年近く観光を手掛け、いろいろ盛衰を知っていますから。例えば、宮崎県でもアジサイ(西洋アジサイ)を植えることがブームになり、沿道に相当長く植えているところや西米良村でも沢山植えているところがありますが、観光客はまったく見かけません。ガクアジサイやヤマアジサイだったら、街場では見られませんから見に来る人がいると思います。こうした失敗事例を沢山知っているのは強いですよ。「こうすれば失敗します」と言われてやる人はいませんから。

でも住民が自分達の好きな花を植えたいという気持ちも解りますから、最初から「これじゃなきゃ絶対だめ」とは言いません。若い頃には事例をいろいろ示して「これはダメ」とか、「これをやるべし」といった決めつけるような言い方をしてきたように記憶しています。でも、西米良村では「最終的判断は地域に任せることも必要かな」と思うようになりました。「観光からまちづくり」のプランナーとしては、あくまでもこういう計画・アイデアはどうでしょうかと提示することであって、それを採用するのは西米良村の判断ですから。そしてそれが実現しても、「自分がやった」と言える立場ではなく、あくまでも実行されたのは西米良村であり、地区の住民です。黒木村長さんも時折、「前田さんから知恵をもらって悪いけど、一応私どもが考えてやったと言っています」と言われますが、小生としては「どうぞ、どうぞ」という気持ちで、実現すれば自分のことのように嬉しくなります。そもそも長く係われるのもリーダーの理解があっての話ですから。

小生が提示しているのは、当初計画や事業毎の計画や基本設計の他、その実現のための留意点や実現した後の運営等に関する情報の提供です。それを「助言業務」という形で、1996(平成8)年度から適宜送信しています。最近は「目指せ“平成の桃源郷”西米良村応援歌」というタイトルで送信すると共に、年度末にその一年間に送った助言をまとめ、改めて村に送っています(右は最新の4年間の表紙)。黒木村長さんもしっかり目を通していただいているようで、先述したほおずきを使った小灯しは、たまたま自宅近くの渋谷の街を散歩しているとき、ほおずきで照明をやっている展覧会を見つけ、その場に居合わせたデザイナーに西米良村での応用アイデアを話したところ、「それは面白い」と言ってくれましたので、そのやりとりを応援歌で送ったところ、早速予算をつけてもらい、講習会を実施し、実現に結びついていきました。

これが小生の計画案を意図通り実現させたり、その後の運営に関しても支援・助言する「計画管理」です。小生的には確立していますが、観光業界では確立どころか概念もほとんど知られていないと思います。観光プランナーは、“観光主治医”といった役割をもっと果たすべきだと考えています。