観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏
1.「観光」への接近

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏<br />1.「観光」への接近
<写真>取材風景-リージョナル プランニング事務所(2013年11月6日)

私の「観光からのまちづくり」

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-リージョナル プランニング代表 前田 豪氏

1943(昭和18)年東京生まれ、1970(昭和45)年東京大学農学部生物系大学院(林学科造園学研究室)博士課程中退。同年(株)ラック計画研究所入所、以来一貫して観光計画のコンサルタント業務に従事。1990(平成2)年リージョナル プランニングを設立し、観光計画(観光からのまちづくり)を柱としたコンサルタント業務を継続、現在に至る。

(1) 観光との出合い

●東京大学農学部林学科造園学研究室が原点

生まれは東京都杉並区の、善福寺近くの旧三谷町(現桃井四丁目)です。旧町名縁の滝と谷の他、まだまだ多くの田畑が残っており、善福寺川で魚を捕ったり、裏の田圃の米を刈り取った後でザリガニ採りを楽しんだりして、まあまあのびのび暮らすことが出来ました。そして住宅がどんどん増え、かつ農薬が普及するにつれ、川が下水道化し、畑からモンシロチョウが消え、そしてその畑も宅地化し、農の風景が消えていくのを目の当たりにしました。

1962(昭和37)年、幸運にも東京大学の、この年に理科3類から分離した理科Ⅱ類に現役入学でき、親の了解もあって大いに遊び、旅行したり、習字や益子で陶芸を習ったり、目的無しに漂流していた結果、農学部林学科に進学しました。水産か獣医ぐらいしか選択肢がありませんでしたが、4年(1965(昭和40)年)の時に選んだ講座が、造林研究室の“庶子”とも言える造園学研究室で、ここで始めて観光に触れ、これがその後の進路を決めることになりました。

この研究室は、現在は森林風致研究室として独立し、観光からはかなり離れてしまいましたが、元々の研究室は本多静六先生などが奔走して設置したと聞いており、昭和初期には田村剛先生が国立公園の制定などにも関わっていたようです。本多先生個人は、日比谷公園の設計に関わった他、「由布院温泉発展策」など今でいうところの観光開発計画も実に多く手掛け、観光の色合いが強い活動をされていたようです。そういう意味で、小生と観光計画との出会いの原点は、この造園学研究室です。

●“大学コンサルタント”で実戦勉強

大学4年から大学院にかけての5年間(1965(昭和40)年から1970(昭和45)年)、今でいうところの“コンサルタント的な調査”として、静岡県発注の伊豆半島の観光振興調査や北海道庁発注の野幌森林公園計画などをやっていました。その当時、観光を手掛けるコンサルは皆無でしたから、コンペにも参加し、武蔵丘陵の国営公園のコンペでは3位でした。教室の責任者は塩田敏志先生で、身分は助手でした。教室の大学院生は小生だけでしたから、学士入学で建築科も出られた塩田さんの建築も含めた教えをたっぷり受けつつ、言ってみればオン・ザ・ジョブ・トレーニングで、観光計画の一端を学ぶことが出来ました。我々の給料はなく、ご褒美は夕食に大学近所の美味しい店での食事で、うまい物に目覚めました。

ともあれ学問的には、観光は本流どころか傍流にも存在せず、わずかに東大農学部の林学の一講座の片隅で息づいていたという感じでした。因みに立教大学に常設の公開講座「ホテル講座」が出来たのは、1971(昭和46)年で、観光というよりまさにホテル経営の講座でした。学生時代、一番参考になったのは、井上万寿蔵氏が書かれた『観光教室』朝日新聞、1957(昭和22)年です。不勉強でしたので、そのぐらいしか観光に関する参考書を読まなかったように記憶しています。

大学院時代に塩田先生方の指導の下で、旧(社)日本観光協会(現在の(公社)日本観光振興協会)が発行していた『観光』No.17に「自然風景計画のための景観解析Ⅲ眺望景観」という原稿を書いたのは、1968(昭和43)年1月です。それ以前のことはよく解りませんが、一般の人は「景観」という言葉を殆ど知らなかったのではないでしょうか。有名な古文の先生だった塩田先生のお父さんでも知らず(?)、「『鶏姦(この意味に関心がある人は、独自に辞書をお引き下さい)』かい?」と揶揄されたくらいですから。当然、景観に関する論文も殆ど無く(?。何事も全否定は凄く大変ですので、あくまでも小生の“寡聞”にしての話です。以下同様です)、風景や景色と言っていたと思います。景観という言葉を、観光計画で使ったのは、東大が初めてじゃないでしょうか。

●メッシュ法の観光計画への適用

私の卒業論文は、前述した受託調査に便乗し、1ヶ月間伊豆に滞在しての伊豆半島の海水浴場の実態調査でした。東大の観光関係のドクター第1号であられる鈴木忠義先生のドクター論文「海水浴場計画(?)」(正式名称「観光交通ならびに観光地計画の基礎的研究」1962)と同じく、林学なのに「なんで海水浴場?」と冷やかされました。出来上がったしろものは、学位論文というのはおこがましく、出来が悪い高校生レベルの調査リポートで、「穴があったら入りたい」ぐらいです。なんともお粗末でした。

「いくらなんでもこれではまずい」と考え、遅まきながら修士論文のあたりから観光計画ということを強く意識するようになり、その頃注目され始めたメッシュ法にのめり込みました。メッシュ法というのは、地域をメッシュ(網の目)に切り、各メッシュ毎に必要なデータを収集して分析したり、統合する方法です。当時急速に普及し始めたコンピューターを使い、それで広域の景観計画とか県の土地利用計画に活用できると思っていました。ちょうど東大に、日立のHITACという大型計算機が入り、院生は無料で使えましたので、あまり数学が得意ではないにもかかわらずコンピューターに狂っていました。その一例が、北海道庁の依頼で行った『支笏湖周辺観光資源開発計画』1967で、メッシュを使って景観構造を分析し、景観計画を作成したことがありました。

1970(昭和45)年に博士課程を中退し、鈴木忠義先生を後ろ盾にして小生の4年先輩である三田育雄氏が所長をされ、大学院や学部出たての造園(Landscape architecture)・建築(Architecture)・土木(Civil engineering)を専門とするスタッフからなるラック(LAC)計画研究所に入社しました。昭和43(1968)年に東大騒動で安田講堂が占拠され、学内は騒然とし、小生も林学大学院の委員長(!?)でしたが、このまま『阿Q正伝』のように本質を理解しないままに、空疎な議論をしていても埒があかないと考え、前年の昭和44(1969)年に設立されたラックに参加したわけです。大阪万博が開催された年で、国全体が高揚感に包まれていたように記憶しています。

●ラック計画研究所に入社し、本格的に観光計画にのめり込む

ラックで最初に手掛けたのが(財)国土計画協会から委託された『滋賀県自然保護計画』1970で、メッシュ法を駆使して滋賀県全域を17タイプの保護区分を設定しています(右がその結果)。試行錯誤やプログラムエラーなどで、連続二晩ぐらい徹夜してコンピューターを回していました。当時民間の大型コンピューターの賃借料は30分あたり1万数千円で、エラーする度に何万円かが失われるわけですから、必死でした。初任給が3万円の時代です。小生にとって社会人になって最初の仕事ですから、当然印象に残っているわけですが、発注者の(財)国土計画協会の担当者だった福田さんも強く印象に残っていたのか、それ以降交誼が今も続いています。

メッシュ法利用の第2弾が、当時の運輸省から(財)日本交通公社に発注された『全国観光資源調査』1971~1973です。基本的に全国を10kmのメッシュに切り、そこに観光資源やレクリエーション資源や施設をプロットするだけですが、作業は膨大でした。これを応用して全国の観光資源と利用の需給関係を調べたのが、当時は同僚で後に東工大の教授になり、10年ほど前になくなった渡辺貴介さんと一緒にやった自主研究「観光・レクリエーション資源の評価方法とその展開;国土の定住構想への接近」『都市計画』1976.6です。これからの住まい方には、観光・レクリエーションが必要不可欠になり、その需給関係をメッシュで調べようとしたわけです。『全国観光資源調査』も旧運輸省が発注しているのは、これからの交通機関の需給に、観光が大きく係わってくるという判断からでした。ともあれ「メッシュでなんでも出来る」とはいかないまでも、「かなり使える」と舞い上がっていました。

そしてその年に「メッシュ法とそれを応用した観光・レクリエーション計画技法に関する研究」という博士(請求)論文を書き、博士号を得ました。この論文は、1978(昭和53)年度の造園学会賞も受賞していますが、今となってはあまり利用価値もなく、恥ずかしい限りです。

●“空軍的活動”から“陸軍的活動”に方向転換

ラックに入社して5年目の1975(昭和50)年に、ラック計画研究所のスタッフ全員で書いた、『観光・レクリエーション計画論』技法堂(右はその表紙)が一つの転機になりました。この本は日本最初の観光計画論と言えるかと思いますが、まだろくに実戦経験が無いにもかかわらず、丁度その当時同僚だった渡辺貴介氏と競い合うようにドクター論文を書いていたこともあり、やたらと大上段に振りかぶった本でした。しかし、この本を読んだ静岡県観光課の方が、「町として初めての観光計画を作成したいが、どこか良いところがないだろうか」と相談に来た西伊豆町観光課の職員に弊社を紹介していただき、それを小生が担当することになり、「観光からのまちづくり」を初めて実践することになりました。それ以前は、実戦経験どころか、さほど観光地(遊びで行った観光地の経験は、まったく役に立ちません。あくまでも仕事がらみで行った観光地のこと)もろくに知らないままに、観光計画論や全国の観光資源調査を専らとしており、いわば“空軍的”な活動だったのに対して、狭い地域を何度も歩き回る“陸軍的”な行動に変わっていったわけです。1976(昭和51)年のことでした。

●ラック計画研究所との“二足の草鞋”から自前のリージョナル プランニングを設立

三田所長が決めたラックの55歳定年制は、一つの卓見だったと思います。コンサルタントとしての創造力や体力を考えますと、55歳あたりが一つの限界でしょうから。ただ、人生はまだ続きますし、やり方次第でまだまだ“前田豪流”の観光計画は出来ると思っていました。ですから、1990(平成元)年、47歳の時にリージョナル プランニングという株式会社を設立し、55歳まで二足の草鞋を履き、その後はリージョナル プランニング一筋で今日までやってきました。

1987(昭和62)年に総合保養地域整備法が施行され、空前のリゾートブームが起きました。戦後の最初のリゾートブームは、田中首相の列島改造(1972(昭和47)年)に伴う“別荘地(になりそうな土地)漁り”で、現地を見もせずに投機的な需要が膨れましたが、石油ショック(1973(昭和48)年)であえなく縮みました。今度は金余りもあり、生活大国を目指す上で別荘ぐらい持たなくては、といった漠とした思いが国民にあり、前回が“虚需”だとすれば今度は“実需”だということで、様々な民間企業から大規模総合リゾート計画の作成依頼が殺到しました。丁度、二足の草鞋を履き始めた頃でしたから、調査費用の安い市町村単位の計画などはまともに引き受けられないぐらいの、てんてこ舞いの忙しさでした。年間で10件以上をチーフとして担当し、同時でも5、6件のプロジェクトをこなしていましたから、原稿はテープに吹き込み、それを秘書に打ってもらい、それに朱を入れ、追加はまたテープに吹き込むというやり方をしていました。列車の連結器のところで、テープを吹き込んだことも多々ありました。このテープを利用するやり方は、自分でワープロを打つようになった2003(平成15)年まで続けていました。しかし、リゾートブームは1988(昭和63)年頃から1995(平成17)年ぐらいの短い期間で、まさにあっという間に瓦解してしまいました。一時的に小金を持ちはしたが、リゾートをしっかり実践するだけのバック(経験や有給休暇の消費等)がまったく未成熟だったのが原因でした。

その間、大規模総合リゾート計画調査を、20数件手掛けました。いずれも民間(不動産やリゾート開発、建設会社、金融関連等)からの発注で、しかも地域振興とはいえ、専門家筋の「金儲け」の話でもありますから、建設費の算定から事業計画の作成まで実にシビアで、随分勉強になりました。調査に関連して、海外のかなり高級なリゾート地も見に行きました。フロリダのボカラトン、ハワイ島のハイアットリージェンシー・ワイコロア、イタリア・サルディニア島のコスタ・スメラルダ、フランス・コートダジュールのポール・グリモ等々。

完全に独立した1995(平成7)年以降は、バブル経済崩壊に伴って観光市場がどんどん冷えていく中で、それをカバーするが如くの市町村レベルの観光開発がちょびっと盛り上がり、そうした計画調査を中心にしていました。「そろそろ引退しようかな」という想いも頭をかすめ、仕事の間口を広げることやしゃにむに営業することは、まったく考えませんでした。もともと営業活動は殆どしたことがありませんでしたから、会社が縮小していくのも、「こんなもんかな」と思っていました。

しかし、振り返って考えますと独立するのは、かなり遅かったと思います。私が思うに、会社を作るのは40歳が限界ではないかなと思います。それぐらいの歳ならば、大学院出たての若いスタッフが、締め切りや手が回りかねるボリュームの仕事を抱え、もたついていても、手間取っている仕事を全部引き受けてこなすことも出来たかなと思います。その意味で、リクルートが入社後10年か、40歳になったら会社を辞めるというルールは腑に落ちます。しかし、50歳近くなりますとそうもいかず、勢い若いスタッフにかなりの仕事を割り付け、その尻を叩き続けてなんとか帳尻を合わせるようなこともあり、過剰な負担を掛け、結果的に組織のひび割れにつながっていったように思います。全ての仕事にしっかり係わり、かつ自分流を貫きましたから、組織を作り、後継者を育てる能力は欠けていたように思います。ただ、その結果、ほぼ100%の仕事に関して、“前田豪流”は出せたと考えています。

65歳の時も仕事を辞めようかなと思いましたが、現実的には65歳以降にも生活があったわけで、自宅以外の居所確保(これは非常に重要でした)や経済的な要件もさりながら、もう少し自分の経験を活かして、「観光からのまちづくり」でお役に立ちたいという気持ちが強く、現在も宮崎県西米良村などの仕事を続けているわけです。ある人から「テーマをしっかり絞り込み、それを専らとしているからこそ、70歳を過ぎても仕事依頼があるのですよ」と言われ、そうかなと思っています。

表-1 前田 豪の活動年表

活 動 内 容

1943(昭和18)年

0

東京都杉並区桃井4丁目(旧三谷町57)に生まれる

1962(昭和37)年

19

東京大学理科Ⅱ類に入学、大いに遊ぶ

1964(昭和39)年

21

東京大学農学部林学科に進学

1965(昭和40)年

22

東京大学農学部林学科造林学研究室造園学教室に入り、観光に出会う

1966(昭和41)年

23

同上卒業、東京大学農学部生物系大学院修士課程に進学

伊豆半島観光資源開発試論

1968(昭和43)年

25

同上卒業、東京大学農学部生物系大学院博士課程に進学

野幌森林公園基本計画、伊豆丸野山周辺苑地計画

1970(昭和45)年

27

同上退学、ラック計画研究所入社。初仕事は滋賀県自然保護計画

1971(昭和46)年

28

全国観光資源調査(~1973) 、九十九里開発のソフトウエア計画

1972(昭和47)年

29

総合森林レクリエーション・エリア開発モデル調査、別荘地実態調査他

1973(昭和48)年

30

観光レクリエーション施設基準に関する調査研究、総合森林レクリエーション適地選定調査

1974(昭和49)年

31

大規模観光レクリエーション総合調査(~1975)、大規模年金保養基地全体基本計画他

1975(昭和50)年

32

志摩開発計画(前年が構想計画) 、大規模観光レクリエーション総合調査他

1976(昭和51)年

33

中規模観光レクリエーション基地総合調査、西伊豆町観光整備基本構想調査他

1977(昭和52)年

34

金沢伝統工芸街構想(~1981)、 松崎町観光整備基本構想計画他

1978(昭和53)年

35

賀茂村観光整備基本構想調査、西伊豆町計画管理開始(1978~1983)他

1979(昭和54)年

36

盛岡手づくり村計画(1979~1981)、 観光からの町づくり事例研究他

1980(昭和55)年

37

綾町産業・観光振興計画、浅虫地区森林公園基本構想他

1981(昭和56)年

38

西伊豆町内の観光施設に関する調査、黄金崎自然公園整備実施構想他

1982(昭和57)年

39

須美江家族旅行村実施設計(1)、 相良エネルギープラザ構想(~1981)他

1983(昭和58)年

40

棚倉町シティスポーツプラザ基本計画、加賀温泉郷活性化構想他

1984(昭和59)年

41

リゾート関連市場動向調査、綾町国際クラフトの城基本設計他

1985(昭和60)年

42

盛岡手づくり村開業、静波プチ・リゾートガーデン計画他

1986(昭和61)年

43

足助町老人白書づくり、宇部市常盤公園再整備計画他

1987(昭和62)年

44

八ケ岳・野辺山リゾート開発構想、南郷村観光開発調査(百済の里づくり計画他

1988(昭和63)年

45

南陽クアパーク整備実施計画、1989年基本設計、1990年実施設計協力

1989(昭和64)年

46

韓国・双龍エンジニアリング計画助言業務、片山津レイクサイドリゾート計画他

1990(平成 2)年

47

(株)リージョナル プランニング設立、ラックと二股。第4次宮崎県観光振興計画他

1991(平成 3)年

48

宮崎花の展開戦略、第2次南郷村「百済の里」拡充計画他

1992(平成 4)年

49

『観光・リゾート計画論』出版、南郷村水清谷地区観光開発基本構想他

1993(平成 5)年

50

第6次産業育成モデル研究調査、宮崎県サービス点検調査集計・分析他

1994(平成 6)年

51

西米良村総合産業育成ヒィージビリティ調査、高浜町景観づくり基本計画他

1995(平成 7)年

52

西米良村総合(観光からの村おこし)計画、上越市観光振興5か年計画他

1996(平成 8)年

53

西米良村の助言開始、南郷村観光振興計画、塩沢町観光振興基本計画他

1997(平成 9)年

54

諸塚村全村森林公園化構想、島根県海士町「さざえカレー」産品開発調査他

1998(平成10)年

55

海外リゾート事情調査(以降2006年まで毎年実施、2007年からは自主研究)、(釜山広域市機張郡)観光開発計画、能登島町地域資源調査事業他

1999(平成11)年

56

観光地づくり推進モデル事業、観光地づくりプログラム作成業務他

2000(平成12)年

57

第二次上越市観光振興5か年計画、柳井市花の産地振興ビジョン作成調査他

2001(平成13)年

58

西米良村「川の駅」基本計画、椎葉村長期総合計画他

2002(平成14)年

59

西米良村作小屋村計画、全村森林公園化構想の具体化に関する指導及び助言(2)他

2003(平成15)年

60

西米良村の助言業務及び作小屋村実施計画(Ⅰ)

2004(平成16)年

61

西米良村の助言業務及び作小屋村実施計画(Ⅱ)

2005(平成17)年

62

西米良村の助言業務及び作小屋村実施計画(Ⅲ)

2006(平成18)年

63

東京都大島観光再興計画及びその推進事業(1)

2007(平成19)年

64

東京都大島観光再興計画及びその推進事業(2)、以降「大島町観光応援歌」を送信

2008(平成20)年

65

西米良村の助言は13年目、海外リゾート事情調査12年目

2009(平成21)年

66

下呂市観光計画策定助言・監修、以降「下呂市観光応援歌」を送信

2010(平成22)年

67

下呂市萩原町観光計画策定、以降「萩原町観光応援歌」を送信

2011(平成23)年

68

西米良村の助言は16年目、前年の10月からみやビズ・宮崎観光応援歌を翌年まで掲載

2012(平成24)年

69

西米良村の助言は17年目、旧須木村すきむらんどの再興助言開始

2013(平成25)年

70

西米良村の助言は18年目、旧須木村すきむらんどの再興助言2年目

2014(平成26)年

71

西米良村の助言は19年目、旧須木村すきむらんどの再興助言3年目