観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏
1.「観光」への接近

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏<br /> 1.「観光」への接近
<写真>座談会風景-日本交通公社ライブラリー会議室(2013年10月18日)

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-元(株)ラック計画研究所 代表取締役社長 三田 育雄氏

         1939(昭和14)年東京生まれ。造園学をベースに実践から学術の領域まで幅広く活躍。造園から観光計画、そして地域計画へ。

(1) 林学を志すまで

私は東京の大井町の生まれです。小学校に上がる直前に疎開をして、終戦をむかえて1年生の途中で東京に戻ってきました。高校3年生のときに今の農大のそばの世田谷に引っ越しました。父は絵描きでした。その影響もあって、あまり束縛されるのが好きではなく、サラリーマンや役人にならなかったというのがありますね。

●林学科を選んだのは「山が好き」だったから

1958年(昭和33年)に、東京大学理科II類に入学し、3年生になって農学部に進学しました。

その頃、農学部はそろそろ斜陽になってきていて、学生には人気がなかったと思いますね。重化学工業の時代ですから、その頃勢いがあったのは工学系や化学系です。ちょうど東京オリンピックの直前ですから土木、建築も人気があがっていました。

私は林学科が自分に一番合うと思いました。林学科に進んだ一番の理由は「山が好き」だったからです。僕は大学でワンダーフォーゲル部に入っていて、年間120日ぐらい山登りをしていたので、それに一番近いところにあった林学科を選びました。

当時の林学もすでに人気がなかったです。林学科の主流は森林経理や林政、造林、利用でした。学部3年生の後期に、友人に誘われて鈴木忠義*1先生が在籍していた造園学教室に出入りするようになり、次第に教室の調査などに参加するようになりました。造園学教室は造林の傍系の研究室で、鈴木先生が助手で、助教授や教授がいない研究室でした。造園にはいつも1学年に1人いるかいないかでしたが、私の時は珍しく2人いました。

そういう不完全講座の造園ではカリキュラムが整備されておらず、1週間に1回、前期と後期1回ずつ、外部講師による都市公園と自然公園の話を聞く以外はほかのコースの授業を聞いたり、他学部の土木で鉄道工学などを聞いていました。私は猪熊さん*2という先生の森林樹木学を、わりと一生懸命聞いていました。当時、造園を出て就職するとなると、厚生省の国立公園部のレンジャーになるか、東京都の公園緑地部に行くかでしたが、私は造園に入る時、将来どうなるかと考えたことはなかったですね。

●観光施設の計画や観光診断に取り組む

卒論のテーマは「高速道路の植栽計画」です。鈴木先生がその頃、道路公団の仕事をやっていた関係で、高速道路の沿道修景とか自然風景地の自動車の休泊施設など、観光施設の計画に力を入れていました。その影響は受けています。

当時は、観光診断華やかなりし時代で、鈴木先生は茨城県や大分県などで観光診断をやったり、国鉄のスキー場のユーザー調査もやっていました。それに僕らはかばん持ちみたいな感じでついていっていました。

今ならそういう仕事を引き受ける民間のコンサルタントがあると思いますが、当時は大学しかなかったと思います。コンサルタントと言えば、前野さん*3がその頃設立したスペースコンサルタントがトップランナーだったんじゃないでしょうか。日本で地域計画系のコンサルタント会社が設立されたのは、昭和30年代後半から40年代前半だと言ってよいと思います。

 

表-1 三田育雄氏の活動年表

【経歴】
1962年 東京大学農学部林学科卒業
1964年 東京大学生物系大学院林学専修課程修了(林学修士)
1964年-1966年 V.H.ピンクニーJr.設計事務所(米)
1966年-1968年 北海道庁(百年記念事務局など)
1969年 (株)ラック計画研究所代表取締役社長
1993年 東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科教授
1993年 (株)田園プラザ川場代表取締役
2006年 長野大学環境ツーリズム学部教授
2007年 (株)田園プラザ川場取締役会長(現在に至る)
【主な業績】
・野幌森林公園 基本計画・設計管理
・三井物産相模湖ピクニックランド 基本計画・設計管理
・原村ペンションビレッジ 基本計画・設計管理
・群馬県川場村における地域間交流からのむらづくりの企画と実践/村づくりアドバイザー
・川場村/世田谷区との交流事業プロモーション
・道の駅「田園プラザ川場」計画・経営の実践    
・山形県八幡町体験交流型さとづくり
・山形県西川町美しいまちづくり調査及び診断とイベント支援
・山形県上山市総合計画策定委員会委員長 
・日本観光研究学会での「ゆたかな旅と観光地研究」
・別所温泉魅力創生事業
【学会】
日本観光研究学会会長、日本造園学会東北支部長(初代)
【表彰等】
1984年 日本造園学会賞 受賞
1988年 田村賞(日本国立公園協会) 受賞
2013年 上原敬二賞 受賞
【主要著書】
1975年『観光レクリエーション計画論』技報堂
1985年『農村と都市の交流』ぎょうせい
1985年『環境を創造する』日本放送出版
1987年『地方都市想像への挑戦』八朔社
2012年『道の駅「田園プラザ川場」の20年』上毛新聞社

 

(2) 観光との出会い

●大学院からアメリカの造園事務所へ

私が研究室で行った観光がらみの仕事で一番印象に残っているのは、修論の「自然風景地の利用特性」に関する研究ですね。富士宮市内の猪之頭にある静岡県の養鱒場が富士周遊客の立ち寄り地点になっていて、私と同期のM2生と2人で夏に1週間ぐらい泊まり込んでアンケート調査をやって自然風景地の利用のメカニズムを分析しました。

到達確率や滞留時間の分布などの人の動きに一定のルールを見つけるという研究で、これがきっかけとなって計量計画的なことに少し興味を持ちましたけども、根はやっぱり造園設計のデザインに興味があり、図面を描きたいという気持ちが強かったです。時々、「庭の設計をしてくれ」とか「工場庭園の計画をしてくれ」という依頼も来ていて、喜んで引き受けていました。

最初は、卒業したら大学院に行こうとは思っていたわけではなく、厚生省の試験を受けようと思っていました。そしたら親に反対され、同期生が「大学院に行く」と言っていたので、じゃあ俺も行こうかと。

その後の就職も、偶然の出会いと衝動的な選択による連続でした。博士課程進学直後の1964(昭和39)年5月、ちょうど国際造園家連盟(IFLA)の国際会議が東京で開かれて、ロサンジェルスでランドスケープのデザインをやっている先輩が東京に来ていて、その方に勉強がてら手伝わないかと誘われて、博士課程を中退し、渡米しました。

その先輩はランドスケープ・アーキテクトの資格を持っていたわけではなく、施工会社などの下請けで図面を描いたりしていました。その事務所に3カ月くらいいて、ロサンジェルス郊外のパサデナにあるV. H. PINCKNEY JR造園設計事務所に押しかけで移りました。ここは小さい事務所でしたが、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のキャンパスのランドスケープなど大きな仕事を受けていて、私はそこで図面を描いていました。

そこではすごく仕事に恵まれて、日本ではできないような仕事をずいぶんやらせてもらいましたが、事情があって1966年(昭和41年)の1月に日本に戻ることになりました。

●アメリカから北海道へ

その後、北海道庁に入りましたが、これも計画的ではなく、ちょうど研究室のサポート役だった加藤誠平*4という、森林利用の先生のところに北海道から「北海道100年記念事業で森林公園を造りたいから調査をやってくれ」という話が来たのがきっかけになったのです。

私がちょうど日本に帰ったときで、「お前、現地へ行け」と言われました。身分がはっきりしないのはまずいと言うことで面接を受けて、北海道庁の職員になったのです。アメリカから帰って来たのが1966年(昭和41年)1月で、4月には北海道に飛び、1969年(昭和44年)1月までいました。

最初の1年は国定公園の担当で計画調整役をやっていました。ニセコや利尻などの集団施設地区とか単独施設など、国定公園関係の計画を作る仕事です。やがて野幌の森林公園の話が急速に進んできてそちらに転属になりました。

野幌の森林公園は元々は国有林です。一部、戦後の開拓農地が入っていますが、衆議院議員の町村信孝さんのお父さんが知事の頃、工業化の進む時代でありながら、森林公園を造るために道がこの開拓農地を買い上げたのです。結果的には北海道立自然公園という自然公園体系に入りましたが、国有林と道の土地を合わせて2000ヘクタールぐらいの森林公園が誕生したのです。

2年半ぐらいは調査と国有林との調整がありました。国有林がまだ森林レクリエーションなどをあまり重視しない時代でしたが、札幌営林局との調整がうまく進んで国有林も含めて指定することに成功しました。

そういう調査と調整をやりながら、周辺の整備計画の作成や北海道100年記念塔の設計コンペの手伝いなどをやっていました。基本的な計画は北海道庁がおこない、設計業務を北海道コンサルタントに委託していました。

北海道にはもう少しいるつもりでしたが、家庭の事情が突発したために、1969年(昭和44年)1月に道をやめて東京に戻ってきました。短い期間ではありましたが行政の中で仕事をして、その視点や仕事のやり方を知ったことは、以後の仕事に生きています。

<写真>野幌森林公園

<写真>野幌森林公園

<注>

*1:鈴木 忠義氏-東京工業大学名誉教授
*2:猪熊 泰三氏-元東京大学名誉教授
*3:前野 淳一郎氏-元(株)スペースコンサルタント代表取締役社長
*4:加藤 誠平氏-元東京大学名誉教授