観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏
3.「観光」に関する失敗と反省

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏<br  />3.「観光」に関する失敗と反省
<写真>東北芸術工科大学での最終講義

-元(株)ラック計画研究所 代表取締役社長 三田 育雄氏

1939(昭和14)年東京生まれ。造園学をベースに実践から学術の領域まで幅広く活躍。造園から観光計画、そして地域計画へ。

(1) わが国の観光の何が問題か

●国の政策、事業の本質的課題

国の観光政策というものは数えるほどしか存在しない上に、ほとんど失敗に終わっていると思います。観光基本法、観光立国基本法、大規模観光レク基地、総合保養地域、ビジットジャパンキャンペーン…。

国や多くの自治体は、総じて集客やプロモーションに傾斜していて、しっかりとした戦略に基づいて長期的なまちづくりやむらづくりに踏み込もうとしていないという感じをもっています。

山形が任地であった時代には蔵王にも関わっていましたけども、結局10数年間、やっていたのはデスティネーションキャンペーンなどのプロモーションぐらいで、体質改善への取り組みはほとんど見られなかったと感じました。結果として、地域を振興し観光客に感動を提供するような成果は得られなかったのです。

●地域の主体性が問われる

観光だけじゃなくて国の事業は、やはり「指定に始まって指定に終わる」というところがありますね。新産都市、テクノポリス…、リゾート、指定の段階はすごく一生懸命やる。しかも、こういったビッグプロジェクトは枠に縛られて臨機応変に変えるということができないから、よかれと思っても途中でなかなか変えられない状況が多く見られます。

ビッグプロジェクトを見ていると、国がマネジメントしきれないですね。リゾートもそうでした。だから、国が枠を作って、市町村、自治体を動かすのは無理じゃないかなと。少なくともメニュー方式といわれる事業はもっと臨機応変に地方が動けるようにしないとだめじゃないかなと思います。

そして、村長さんや町長さんが政治生命を賭けてやるぐらいの責任感を持ってやらないとだめでしょうね。

かつて各地で導入を図った地域総合整備債事業は、失敗例もあるけど成功例もあり、市町村が責任を持って自主的に考えてやるということでは、ひとつの手法でしょうね。

(2) 観光分野で何を失敗し、何を反省しているか

●「計画づくり」の意味、意義

役に立たない計画づくり、作ったことだけに意味がある「アリバイとしての計画づくり」をずいぶんやったという反省はありますね。ほんとに思い入れがなくて、ただ筆で書いたというか確信を持てないで書いていたり、論理的には体裁よく書いているけども、これでほんとに良いのかなと思うような計画をつくったと思っています。

計画は必ずしも実現できなくても必要なものはあると思います。何年間か目標となる青写真として機能したり、そこの行政や地域の人材育成や意識改革、刺激や触発材料になれば、せめて救いかなと思いますが、様々な思惑に振り回されて結果的にわけのわからないものになってしまったことが多かったですね。

そして、仕事が終了すると、地域と縁が切れるようなケースが圧倒的に多かったのも反省点です。

●独りよがりな「計画づくり」も

観光での失敗という意味では、Mプロジェクトに関しては、基本計画の主査として「戦犯者」という意識を引きずっています。コンセプトや理念に酔い、ビッグプロジェクトを手がけたいという願望から、現実への配慮が欠けた独りよがりの未熟な事業計画をつくったという反省があります。

そのプロジェクトのベースになっていた高齢者対策のための生涯学習というコンセプトは決して間違っていなかったと思っていますが、それをフィージブル(feasible)にするための対策、配慮が欠落していたことが問題でした。

なんといっても、同世代の40歳前後の人たちだけで議論して机上で構築されたコンセプトを下に、市場調査や実験的な取り組みを経ないままに基本計画を策定してしまったことは決定的なミスでした。

プロジェクトは、以降、あっという間に設計、施工という過程を経て、実現の運びとなったが、やがて失速し、大きな模様替えをせざるを得ないことになってしまいました。

●ソフトから入る計画づくり

この点、後で関わる群馬県の川場村での仕事と大きな違いがありました。川場村ではもっと時間をかけて慎重に試しながら進めたが、Mプロジェクトは基本計画を作って間髪を入れずに設計というプロセスで、立ち止まることがなかったが、計画管理に対する発言をしなかったことも問題だったと思います。

同じようなことは、破綻した宮崎シーガイアの関係者も「ものすごい勢いで動き出していて振り返る余裕がなかった。なにかおかしいなと思ったけれど、そんな余裕がなかった」ということを言っていましたが、Mプロジェクトの仕事も同じようなところがあったと思います。

川場村における世田谷区民健康村プロジェクトでは、ものをつくる前の設計以前の段階で「まず予備活動をしよう」ということで、村の施設を使って交流事業や体験教室を試行しました。世田谷区のまちづくりにはソフト優先という理念が根底にありましたね。

このような手法で取り組めば、軌道修正できたと思うが、その頃はそんなことは考えも及ばなかったし、できるような状況ではなかったですね。