概要
観光コンサルタントのプロを目指して 財団法人日本交通公社調査部での35年の軌跡
― 観光者あっての観光地づくりと個性を活かしたプランナー育て ―
元(財)日本交通公社 常務理事
原重一氏
1938(昭和13)年京城(現韓国、ソウル)生まれ。1963(昭和38)年、北海道大学農学部卒業、東京大学工学部土木工学科研究生を経て、1964(昭和39)年、同都市工学科鈴木忠義助教授(当時)の下で観光開発計画論について学んだ後、1967(昭和42)年に(財)日本交通公社に入社。全国各地で観光振興のための調査研究、コンサルタント業務に取り組む。1991(平成3)年より(財)日本交通公社理事、1997(平成9)年からは常務理事を務める。2003(平成15)年より、原重一観光研究所を主宰、現在に至る。
(1)始まりはスキーから
僕は大学の農学部で花卉造園学を専攻して、1963(昭和38)年に卒業しましたが、観光の道を進むきっかけになったのは学生時代に始めたスキーです。スキーの面白さにとりつかれたことから、二人の優れた師に出会えました。
お一人は、日本初の冬季オリンピック銀メダリスト猪谷千春氏のお父さんで、文字通り「オリンピック選手の育ての親」である猪谷六合雄先生です。札幌で初めての冬のある日、本屋で数多い教本の中で、猪谷先生の『スキーはパラレルから』を偶然手にしました。
その本の巻末に「初心者が早くパラレルスキーをできるよう、指導法の研究をしており、そのモルモットを募集しています。関心がある方はぜひ応募を」とありました。パラレルスキーは魅力的だし、指導法にも興味を持ちました。スキーのインストラクターならできるかな・・・と。
早速、手紙を送りました。すると「一度、遊びに来ませんか」という返事をいただき、猪谷先生が当時フィールドにしていた志賀高原を訪れました。これがご縁の始まりです。
先生はオリンピック選手を育てた経験から、スキーも子どもの頃から始めるのが良い、そのためには何よりも母親の理解が必要だと考えておられ、母親予備軍である若い女性に「スキーは健康で楽しいスポーツ」であることをいかに理解してもらうかに重点を置いておられました。
先生は、指導者主導の「教え易いけど覚えにくい」方法ではなく、スキーヤーにとって「(教えにくいけど)覚え易い」指導法を研究されていました。なぜ初心者が転ぶのか、転ぶとどうなるか、その理由を理解しようとしない指導者が多かった時代ですが、猪谷先生は運動神経の鈍い人にすごく興味を持たれていました。
これは教育論にも通じる話ですが、スポーツや芸術は教えにくいけれど、身につき易い教え方が大事です。スキーの場合も感覚的な部分がありますから、例えば、ある程度スピードがあった方が曲がり易い、回転し易いということを、身をもってわかってもらう必要があります。
転んで疲れてスキーが嫌になってしまう子どもがたくさんいるわけです。転ばず疲れずにスキーを楽しむにはどうしたらよいか。スピードに対する恐怖心を取り除きながら、スピード感覚を養うには、どの斜面に連れて行って滑らせるか・・・。そのために、時には自然に停まるように逆斜面を人工的に整備するとか・・・。現場で実践的に自ら学習しながら、指導法というソフトとゲレンデ・斜面などハード面を同時に整備しながら独自に築き上げた指導法・メソッドが『スキーはパラレルから』でした。
猪谷先生は確か小学校しか出ておられず全て独学ですが、物理学など自然科学はむろんのこと、心理学や生理学も勉強され、指導者、研究者としては類い稀な方だと思います。「学識」と「学歴」の違いを身をもって教えられ、「なるほど!」と実感することができたのも猪谷先生です。
こうして僕は、まさに猪谷先生の指導法のモルモットとなり、身近に接し、「(教えにくいけど)覚え易い」指導法はじめ数々の教えを受けました。先生が実験的に開校されたスキー学校の助手としてお手伝いもさせていただきました。
先生は、自らが理想とするスキー場の開発も視野に入れておられ、オフシーズンにはご自分でキャンピングカーに改造したワゴン車に寝泊まりされながら、既存のスキー場や頼まれた開発予定地を見て回り、きめ細かいチェックとアドバイスをされておられました。スキー場開発の実践的なコンサルタントでもあったわけです。
僕はそうした現地調査にも何度か同行しました。その結果、益々のめり込み、卒論のテーマを「スキー場の開発計画」にしたいと思うようになりました。
(2)観光との出合い
●鈴木忠義先生との出会い
この卒論をきっかけに出会えたのが、もう一人の師である鈴木忠義先生です。文字通り恩師です。学問、研究の手ほどきから開発計画の理論から現場まで、あらゆる面で教えを受け、今日にいたっております。僕は鈴木先生の「内弟子」だったという実感を今でも持っています。
最初に鈴木先生の研究室をお訪ねしたのは、1962(昭和37)年だったと思います。スキー場開発計画についての卒論を書きたいという相談でした。当時、鈴木先生は、土木工学を卒業後、長く林学の造園で助手をされて、土木の交通工学科に戻られ、八十島義之助教授のもとで助教を務めておられました。
先生からは卒論ばかりでなく、その後の進路、就職などもアドバイスいただき、結局「君がやろうとしていること、やりたいことは10年ぐらい経ったらメシも食えるようになるだろう。今はもう少しじっくり、本格的に勉強したらどうか・・・」との助言を受け、大学卒業後の1963(昭和38)年から1967(昭和42)年まで、最初は工学部土木工学科の研究生として、その後新設された工学部都市工学科に先生が移られた時も鈴木研究室のメンバーとして加えていただき、引き続き、先生のご指導を受けました。都市工学科は、土木と建築それに経済学部も加えた時代にふさわしい新しい学科を目指したようですが、結局、昭和40年に新しく誕生した時は土木と建築の工学系だけの学科でした。国土計画から地域計画、あるいは都市計画論やアーバンデザインなど理論と具体的ケースなど多岐に渡って取り組んでいましたが、とにかく活気がありました。そんな中で、観光開発計画論は片隅で細々と勉強しているというのが当時の状況でした。
僕は研究室に在籍した4年間で、さまざまなスケールの観光計画の仕事に関わりました。時代はハード偏重、フィジカルなプラン全盛でしたが、先生はそれをトンカチ集団と揶揄され、批判的でした。観光は人間の大事な活動、お金の問題、余暇(時間)などいわゆるソフトを重視され、ハードとソフトは車の両輪、「人間に学べ」が基本にありました。
最初は日光の茶の木平の植物園の基本計画、設計でした。手づくりの報告書、計画図、設計図などは今でも大事にとってあります。その後、1964(昭和39)年の日南市観光診断報告書、1966(昭和41)年の下関市観光開発基本計画、1967(昭和42)年の瀬戸内海観光開発の構想計画(図1,2)などに参画しました。小さな公園の計画から瀬戸内海のような広域圏まで、この時代は何から何まで手づくりでパースも画き、スタディ模型も造りましたし、丁寧に研究の一環として取り組みました。現地調査や調査分析、計画策定や評価の手法など先生から直接、実践的に指導をいただきました。今振り返ると、先生ご自身が失敗の許されない実験、試行錯誤の真剣勝負だったように思います。草津温泉との関わりも、先生のカバン持ちで伺ったこの頃が最初だと思います。
図1,2 『瀬戸内海観光開発の構想計画』(1967)
(左)表紙、(右)委員会の体制 社団法人日本観光協会
鈴木先生が口を酸っぱくして言われたのは、「現場から学べ」ということです。そして、「現場で考え、知恵を出せ」も口癖でした。一方で研究室では、総論と各論、全体と部分、ハードとソフトなど体系化、何をアウトプットするか、提案・提言を相手に理解してもらう手法―僕は自分流に「説得の科学」と言っていますが、多岐に渡って議論し、勉強しました。
結局、というか鈴木先生の内弟子的修行のおかげで、財団法人日本交通公社(現公益財団法人日本交通公社、以下「JTBF」)という職場を得て、先生が言われたようにともかく10年後には独り立ちし“飯が食える”ようになりました。
鈴木先生のところには、観光や景観の学問・研究を志す徒ばかりでなく、迷える子羊も含めて多くの方々が集まってこられました。先生は基本的に来る者拒まずだったように思います。特に若い人達には、それぞれの人がもっているポテンシャルを見極めて、まさに適材適所というか、“はめる”名人だと思いました。「忠サン」の愛称で親しまれる人柄とさまざまなご経験と幅広い視野が成せる“わざ”で、研究者としては勿論、教育者としても尊敬しております。改めて、学校教育は勿論、家庭、社会でもそれぞれ教育は大事ですが、基本は人間個々人が持つ良さを丁寧に見つけ出して磨き、手解きすることが原点ではないかと実感しております。
●別府阿蘇道路調査 ―動景観分析調査と沿線開発調査―
昭和39(1964)年は、戦後初めて国際的なイベントである東京オリンピックが開催され、海外旅行も自由化、さらに東海道新幹線が開通し、名神高速道路も供用開始と高速交通網幕開けの年ですが、もう一つ、別府阿蘇道路が開通したことは観光的には画期的なことでした。これによって九州観光の周遊は一変しました。
別府阿蘇道路は、道路公団が幹線以外に観光的意味合いを持つ有料道路として整備した最初の道路です。別府、阿蘇、熊本、島原、雲仙、そして長崎と一気に通貫することにより、九州の観光周遊ルートはダイナミックに変わりました。これは新しいルートが開かれたという意味で画期的ですが、同時に自動車、特にマイカー時代の先駆け、幕開けとしても特筆すべきことでした。
この調査は、観光道路として沿道の景観が運転者にどのように見えるかの動景分析調査と、道路開通によって沿線がどのように開発されつつあるかという二点。発注元は道路公団か、先生のアドバイスで当時の日本観光協会(以下「日観協」)の自主研究か定かではありませんが、鈴木研究室が調査を受託したプロジェクトです。僕は研究室のスタッフの一人として調査に加わり、別府阿蘇道路をランドクルーザーで走り回って、沿線の開発状況を調べました。
別府阿蘇道路のレポートも大事にとってあります。道路の景観分析を学問的にアプローチした初期のレポートではないかと思います。このプロジェクトにかかわったのがきっかけで、個人的には別府や由布院温泉とのつながりが生まれ、今でもずっと続いています。大手ディベロッパーが由布院で別荘開発をしようとした時にもお手伝いをしました。別府温泉とは個々のプロジェクトも含め、仕事でも個人的にも長くお付き合いをしています。
JTBFの職員になってからも、由布院「亀の井別荘」の中谷健太郎さんや「玉の湯」の溝口薫平さんとは、日本交通公社協定旅館連盟(公旅連)の経営研究会など、いろいろな機会を通して深く、長くお付き合いをしてきました。
別府阿蘇道路もそうですが、インフラ整備は構想から実現まで一定の時間がかかります。これに対して、お祭りや映画祭などいわゆるイベント・ソフト事業は比較的短期で事業化できます。由布院温泉はこのお二人を中心に知恵と実行力でイベントを仕掛け、活性化していました。そして隣りの大山町(現・日田市大山町)農業組合も理事長さんが頑張って、農業も工業に負けずに収益性を上げようということで「梅栗植えてハワイに行こう」をかけ声に、徹底的にマーケティングに取り組み、福岡・博多の都市生活者に売れる農産物を生産・販売し、話題になっていました。その後、由布院や大山町の具体的な事例に誘発されて大分県の全市町村で始まったのが、当時の大分県平松守彦知事の提唱による「一村一品運動」です。
事例主義の我が国では、当時、由布院に泊まって大山町を視察するという行政視察旅行が流行りました。段々と別府に負けないぐらい由布院の知名度が高まり、観光による地域振興の成功例として由布院や大山町が脚光を浴びるようになりました。
別府阿蘇道路が開通した1960年代は、日本経済が右肩上がり、いわゆる高度経済成長真っ只中で、温泉観光地の旅館もこぞって大型化を目指していました。しかし、由布院の溝口さんや中谷さんは自らの旅館を大きくしようとはしませんでした。交通経済がご専門の大分大学の田原榮一教授が観光問題にも関心を持たれ、由布院のアドバイザーをされていらしたのもこの頃です。先生とは、先生が九州産業大学の観光産業学科を立ち上げる時にご協力するなど、長いお付き合いが続きます。
別府と同じことをしていたのでは、勝ち目は少ない。由布院が生き残っていくには別府のアンチテーゼとして、何をどうするかが彼らの基本的なテーマでした。当時、金融機関は「旅館を大きくするなら、いくらでもお金は貸すが・・・」と言って、彼らには協力してくれず、苦労されていました。
由布院の由布院たる所以、マスコミにも消費者にも人気が高まったのは、溝口さんと中谷さんの日本旅館らしい旅館があったからです。マスコミに取り上げられ、専門家にも注目されはしましたが、もてはやされ過ぎたのでは・・・とも思っています。僕は当時から「あなた方お二人が経営する旅館は素晴らしいけど、まちづくり、特に温泉街・中心市街地の整備はどうなっているのですか」とストレートに苦言を呈してきました。未だに課題は解決されていないのではないか・・・と。
●日南市と宮崎県の仕事 ―観光診断から観光基本計画へ―
鈴木先生のご指導で、いろいろな仕事ができましたが、日南市のそれは「観光診断」という名の「基本計画」の策定そのものでした。さらっと読み返してみると、今でも通用する現状分析ですし、計画内容だと思います。
この仕事の現地調査で岩切章太郎さんにお会いし、お話を伺えたことは僕の財産の一つになりました。
当時、1960年代前半、宮崎県は黒木知事と民間会社宮崎交通の岩切さんのコンビで、比較的、観光資源に恵まれない宮崎県が知恵と工夫と実行力で観光県として売り出し中で、全国区になりつつありました。
日南海岸は国立公園ではなくて国定公園ですし、道路は旧2級国道でしたが、沿道には積極的に植栽し、景観づくりを実践、ドライブを楽しめる観光道路づくりを推進されていました。「観光事業は植林事業と同じ。3代目で花開く長時間掛かる事業だ」と言われたのが印象に残っています。子どもの国は大人も子ども料金、ゴミチリが落ちていればすぐに片付け、いつでもきれいにしておく。ディズニーと同じ思想と実践をこの宮崎県で、この時代に具現化されていました。バスガイドやタクシーの運転手の対応は日本一、お客さまを迎えるサービスソフトも評判でした。テレビドラマの舞台も提供、観光事業をハード・ソフトの車の両輪で具体化し、新婚旅行のメッカにまで仕上げました。これは、陸路が不便な農業県宮崎がいち早く空港整備に取り組み、東京、大阪からの航空機による観光客誘致に力を注いだ結果です。
話は長くなりますが続けます。1973年、昭和48年にジャンボジェットが就航します。この大量輸送機の出現によって、航空運賃がリーズナブルになり、海外旅行の大衆化に拍車がかかるわけですが、国内の観光旅行も当然影響を受けます。つまり、飛行機が新婚旅行など特別な時の乗り物ではなくなり、文字通り大衆の足になってくるわけです。“東洋のハワイ”が本物のハワイと競争しなければならなくなりました。現役の若い方々にはイメージし難いかも知れません。
ジャンボジェット就航に備えて、各県が空港整備・誘致合戦というか、乗り遅れまいと競い合いをしました。ところが、航空先進県を自認する宮崎県は宮崎市議会の僅か1票差の反対のため、空港拡張工事が頓挫します。その結果、福岡、長崎、大分、熊本、鹿児島の九州観光の新航空ネットワークから完全に取り残されてしまいました。そして、リゾート法に基づくリゾート開発事業で更なる苦労が続くわけです。
JTBFに入ってからも宮崎県とのお付き合いは続きますが、様々な方々との長いお付き合いの中で、このような「成る程!そうだったのか・・・」と判ることがたくさんあります。長く付き合うこと、エールの交換ができるカウンターパートが大事になります。
この間、我々は1980(昭和55)年に県からの委託で観光基本構想「亜熱帯性ベルト構想」策定のお手伝いもしましたし、民間企業からの相談でサファリパークの需要予測というか入り込み客の予測と事業の採算性のアドバイスもしました。この種の事業は過去の事例から、開業3年目にピークがくること、それ以降は入場者を維持することと新規投資のバランスをとって10年間で投下資金の80%を回収できるかどうか、また、人気が出れば当然もっと立地条件の良い東京や大阪など大市場に近いところにライバルが出現しますから、観光価値は下がってしまいます。予めそれらのことを予見して事業に取り組むか否かが、ポイントになります。実際この施設は、10年も経たずに予測した通りゴルフ場に衣替えしました。
●(財)日本交通公社に入社 ―横溝博さんの功績―
僕がJTBFの調査部に入社したのは、1967(昭和42)年4月で、既に横溝博さんは在籍されていました。横溝さんは大学を卒業後、東北開発公社に勤務されていましたが、当時のJTBF常務理事だった谷島常賢さんにお声をかけられ、JTBFに転職されました。谷島常務は外部から積極的に人材をリクルートされていました。
実は僕もその流れの一環で、お世話になることになります。 勿論、鈴木先生からの紹介・推薦が第一でした。「日観協とどっちにする?」と言われて、横溝さんがいるということで、僕はJTBFを選びました。と言っても、横溝さんと面識があったわけでもありません。横溝さんは観光事業の経営の勉強をされていて、鈴木先生の研究室に時々来られていました。我々は事業経営のことは弱かったし、事業の可能性―フィジビリティスタディーは課題の一つでもありました。こういう方がいる職場なら、何年かいれば経営の勉強もできるなと思ったのです。
僕は当初、3年くらい勤めたら辞めようと思っていました。地域の観光開発のコンサルタント会社でも起業できれば・・・、そのためにはフィジカルなプランナーとしてもフィジビリティスタディー―事業の可能性の勉強は必須だと・・・。そんなわけで、JTBFに入ったわけです。ところが、それから観光開発のマスタープランナーとして36年余り、2003(平成15)年6月まで在籍することになりました。
ちなみに、鈴木先生からみると、横溝さんは仕事仲間、我々とは違う関係だと思います。世代論的に言うと、横溝さんや三田育男さんが少し上、花岡利幸さんは鈴木研究室で同世代、少し下に亡くなった渡辺貴介さん、前田豪さん、森地茂さん達がいて、さらに永井護さんや林清さん達につながります。
僕がJTBFに入社した当時、(財)日本交通公社は株式会社日本交通公社(以下「JTB」)と分離して4年が経っていましたが、組織の主要な機能―旅行業業務―が株式会社に移管され、JTBFには財産を管理する総務など管理部の他、調査部と教育部が残っていました。理事者は、これから先調査部はじめJTBFの事業を具体的にどうするか、いろいろ模索をしていた時代でもあったわけです。
僕は谷島常務から、「原さん、とりあえず何をやっても結構ですからこれから3年間くらいかけてJTBFにふさわしい仕事を見つけて下さい」と言われました。これは面白いところに入ったと思っていましたら、肝心要の谷島常務は1年ほどでお亡くなりになり、谷島さんから声をかけていただいた横溝さんや我々は途方に暮れる・・・というわけです。我々は少数の“よそ者”でしたから・・・。
当時のJTBFはJTBからまとまった調査費をいただき、自分達でテーマを決めて自主調査を行う仕事が大半で、外部からお金をもらって仕事をするといういわゆるコンサルタント的な仕事はスタートしたばかり、細々でした。
そういう中で横溝さんは、旅行業のカウンターパートとして最も大事な旅館経営者を相手に経営コンサルタントとしての仕事を始めておられました。1971(昭和46)年には、観光経営相談室を立ち上げました。最初は旅館の経営コンサルタントが中心でしたが、だんだんと自治体や民間企業からも相談が来るようになり、そこから仕事も生まれてくるようになりました。こうした外部との窓口も横溝さんの存在が大きかったと思います。
横溝さんは調査部に必要な外部の専門家の先生に積極的に教えを請い、鈴木先生もそうですが、地域経済の専門家で当時は東京女子大学の教授をされていた伊藤善市先生には「観光による地域経済効果」の調査でご協力をいただきました。瀬戸内海の小豆島を具体的なケースに、観光による地域経済効果の調査は、多分、我が国最初の本格的経済効果の調査であり、後々の調査部の仕事を見れば、特筆すべき調査だと思います。お二人の先生は、JTBFの初代の専門委員であり、この点でも横溝さんの功績は大です。
横溝さんは1972(昭和47)年に退社、独立されました。独立後も我々とは今日まで、公私共々お付き合いは続いています。旅館経営コンサルタントの仕事で常々「大変だけど、俺は一流の経営者とつきあうようにしている」とよく言われていました。「コンサルタントは自分が持っている情報に付加価値を付けて、持っていない人にその情報を提供するのが仕事だ」とも言われていました。
一流の経営者は持っている情報も一流なら、課題も一流です。そういう専門家とつき合うためにはこちらもそれなりの見識、情報力がないとつきあえません。一生懸命勉強しなければなりません。一流の経営者とつき合って相手に情報を提供し、相手からも得るという対等な関係を築くことは疲れるところもありますが、向学心が強い横溝さんは、そのことに果敢に挑戦されていましたし、YMCAの講師として若い次代の旅館経営者を育てたり、旅館経営コンサルタントとして、時代の中で役割を果たされた方でもあります。
●秩父鉄道株式会社から受託した仕事と全国観光交通資源調査
JTBFで横溝さんとご一緒した仕事はいくつかありますが、1971(昭和46)年に秩父鉄道株式会社から受託した鉄道沿線の観光開発調査はかなり気合いを入れました。「秩父鉄道長瀞周辺開発調査」という報告書が残っていると思います。スタッフ全員で現地調査を行い、限られた資料やデータの収集、ヒアリングとこれらの分析、全員参加の議論を通して構想案を策定し、事業費を概算し、10年くらいで事業経営が成り立つようにするにはどうしたらいいかを事業計画として取りまとめた報告書でした。
当時、こういうアプローチでプロジェクトに取り組むコンサルタントはほかになかったのではないかと思います。観光開発基本計画でフィジカルな計画(プラン)を事業性のフィジビリティスタディーと組み合わせて一体化できたのは、横溝さんとご一緒してなし得た仕事です。
当時調査部で外部から受託した仕事は、受託費が大体30〜50万円くらいだったのですが、この秩父鉄道の仕事は、200万円と、当時としては単位が違う大きな仕事で、仁科五郎常務が喜んで築地の料亭に招待してくれたのを憶えております。そのくらい画期的な仕事だったわけです。
当時、JTBFの組織は会長の下に専務理事がおり、その下に常務理事が2名いました。仁科常務は谷島さんの後任で、元々は満州鉄道に勤めておられたエリートです。JTBF調査部の仕事にも関心が強く、積極的に取り組んでおられました。
ちょうどこの年の前後に、「観光交通資源調査」の仕事がJTBFに飛び込んで来たのです。このプロジェクトについては、「創業1912年から1世紀 創発的進化へ向けて~調査研究専門機関 50年の歴史~」や「旅行動向」の巻頭言等で累々述べてはきました。全国の観光資源を調査、リストアップして、評価し、体系的にまとめるというプロジェクトは旧運輸省観光部や日観協など観光関係者にとっては長年の悲願であり、懸案事業でした。
しかし調査方法もさることながら、お金もかかるし、調査員も必要ということで、なかなか実現できませんでした。恩師の鈴木先生もあらゆる機会を捉えて、観光関係者に「全国レベルの観光資源調査が必要」と、ことあるごとに力説されていましたが、運輸省観光部の予算では見通しすら立たなかったのです。
ところが、建設省道路局が高速道路のネットワーク構想を具体化する際に、保護や保全すべき観光資源をあらかじめ把握しておく必要があるという名目で、全国の観光資源調査が予算化され、1971年から3年間のプロジェクトとして約1億円近い巨額の予算がつきました。
鈴木先生の関係もあり、僕のところに白羽の矢が立ったわけですが、「こんなに質・量ともに大掛かりな仕事は今のJTBFではとても無理だ。スタッフも足りないし、見通しも立たない」と逡巡していたのですが、津上毅一専務理事直々に「この仕事は後々、調査部の大きな財産になると思います。原さん、大変でしょうけどぜひ引き受けて下さい。私も全面的にバックアップします」と。
津上専務は運輸省の観光局長まで務めた元高級官僚ですが、建設省の課長に頭を下げても、この仕事はウチで引き受けたい・・・と。これはある意味、異例のことでした。それくらい彼には「この仕事はJTBFでやった方がいい、やりたい」という熱意があったのです。津上専務がそれほどまでに、ということで取り組むことになったわけです。その代わりというか、この仕事がうまく完了できたら、定期的に大学卒を採用すること、一段落したらスタッフの海外研修を実施すること」など3、4つくらい要求を出しました。JTBF調査部の中に観光資源調査室を立ち上げ、スタッフも3、4人でスタートしました。林さんが調査部直接採用の新卒として入社したのは、1971(昭和46)年4月だと記憶しています。
鈴木先生を委員長とした調査委員会が設立され、三田さんや前田さん、故渡辺さん達鈴木先生一門の観光関係の方々が全力で協力してくれました。フィールド調査は、観光研究学会関係の全国ネットワークは未熟でしたから、ネットワークが整っていた地理学会に全面的な協力をお願いし、各県調査が進められました。スタッフに加わった溝尾良隆 (1969~1989年在籍)さんや永松紀義(1967~1972年在籍)さんが地理学出身で、学会にアプローチしてくれました。
調査は委員会で特A、A級、B級、C級の4ランクなど分類、評価基準をつくり、これをベースに都道府県単位でリストアップ作業をお願いした後、フィードバックを何回も行い、委員会で約8000件まで絞り込みました。都道府県の観光担当者からは「なんでうちの県のこの資源がAクラスじゃなくて、Bクラスなのか」などと、調整も大変でした。
仕事が一段落した後には専務との約束通り、林さんと溝尾さんが2~3週間かけて海外研修旅行に行くことができました。その後、JTBFの職員が1年間海外の大学や研究機関へ研修に行くことが制度化されましたし、調査部に必要な人材の直接採用も可能になり今日に至っているなど、いろいろな点でJTBF調査部のターニングポイントとなった仕事でした。
また、作業の過程で人間と観光活動の関係、観光対象としての観光資源、資源が存在する地域との関係など、観光の総論的な整理ができたことは組織にとっても、各スタッフにとっても大きなストックになりました。この仕事を引き受けることによって、JTBF調査部の一つの方向性が決まってきたわけです。前述したように3年くらいで辞めるつもりだった僕は、この仕事をきっかけにJTBF調査部に腰を落ち着けることになりました。
そして、この調査が行われた30年後1999(平成11)年に寺崎竜雄さん(1989~在籍)や久保田美穂子さん(1989~在籍)も加わって、観光資源の写真集『美しき日本』(図4)が刊行されたわけです。僕にとっても集大成でした。文部省や環境省が出している自然や文化財の写真集はこれまでにもたくさん出版されてきましたが、観光資源という名において統一された評価のもとに全国区の写真集は他にないと思います。観光資源調査を引き受けたことは、JTBF調査部の大事な財産になったと思います。その意味からも津上専務にはお礼を申し上げねばなりません。
表1 原重一氏が関わった主要業務一覧
【表1PDF】
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発注者 | 公益財団法人日本交通公社 |
実施年度 | 2017年度 |