観光地づくりオーラルヒストリー<第2回>原 重一氏
2.「観光」における取り組み

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第2回>原 重一氏<br />2.「観光」における取り組み
ドイツ バーデンバーデン案内所の前で観光協会職員と共に(1984)

(1)観光分野で何をやってきたのか・観光分野での業績

僕のJTBF時代を改めて振り返ると、前半は観光資源調査とスキー場関連、後半はリゾート絡み、そして温泉観光地や旅館とのつきあいは長く続いたということになると思います。

●山形県総合観光基本計画 ―県計画の雛形モデルを目指して―

1974(昭和49)年に携わった山形県総合観光基本計画(図5,6)は、観光資源調査の結果を具体的に活用した初めての県レベルの観光基本計画として、我々にとっては試金石になる仕事で、スタッフ全員で全力投球しました。この計画では、観光旅行に対応する観光資源の発見と評価、それにリゾートやスキー場の可能性があるところをメッシュ分析手法でアウトプットしました。資源論に基づく計画づくりとして、ある意味、画期的な仕事でした。

溝尾さんと一緒に山形県庁に出向き、主旨を説明し、JTBグループに協力的だった後藤又兵衛旅館の後藤さんと山形交通株式会社専務の柏倉さんにご尽力いただき、約800万円という当時としては破格の予算がつきました。

全国観光資源調査のフィードバック的意味も含めて、現地調査もしっかり行い、精度も上げていましたし、メッシュ分析は林さんが当時、流行りだしたコンピュータを駆使して担当してくれました。県の基本計画が市町村レベルの基本計画のために、何をアウトプットしておけば良いのか、県の総合計画とどういう関係にあれば有効なのか等々、スタッフ皆で議論をしました。観光的な土地利用や観光交通計画などハードとソフトを折り込んだ提案もしました。今でも皆さんにさらっとでも良いから読んでほしい計画報告書だと思っています。

残念ながら、この基本計画書そのものは日の目を見ませんでした。理由はよくわかりませんでしたが、行政の他部局からの横やりや議会からのクレームなどで、担当課がびびってしまったとも聞いています。しかし、この計画を策定したことがきっかけとなって、その後、山形県の各市町村からの問い合わせが多くなり、具体的には山形市はじめ、酒田、米沢、蔵王、村山など、各地域のお手伝いをしました。そして、それらは長く続きました。

図5,6 『山形県総合観光基本計画』(1974)

図5,6 『山形県総合観光基本計画』(1974)

(左)表紙、(右)はじめに 財団法人日本交通公社

当時はまさに高度経済成長の時代でしたが、地方の市町村はどこも若者が都会へ出て行き、出稼ぎが当たり前、過疎化に悩んでいました。過密・過疎の問題は重要な政策課題であり、研究課題でもあり、今日まで未だに解決されていません。そんな時代でしたが、別の視点からみるとたくさんの活性化している町村長もおられました。月山のふもとにある西川町は典型的な過疎地域でしたが、ここの町長さんは「出て行きたい奴は出て行け、残った我々が幸せになろう」と町民に働きかけ、精力的に町の振興に取り組んでおられました。例えば、1万円の山菜料理を山形県を訪れる都会の人々に食べさせるという取り組みを始めました。

今の人達にはピンとこないかも知れませんが、これは当時としても画期的な試みでした。地元の人々からは「こんな田舎に、わざわざ1万円の山菜料理を食べに来る訳がない」とも言われました。当然です。彼らにとって山菜はごく身近にある当たり前の食材だったのです。「1万円もとるなんて・・・」です。

しかし、実際には大当たりでした。たくさんの都会の人々が西川町に出かけて、その山菜料理に舌鼓を打ったんです。この例を挙げるまでもなく、当時はこの西川町の町長さんをはじめ、地域振興ということで、いろいろな知恵を絞り、実践する「デキブツ」が全国におられました。

●スキー場事業とのさまざまな関わり
1) 札幌国際スキー場の現地調査から事業開業まで

札幌市の第三セクター札幌リゾート開発公社から受託した札幌国際スキー場の開発計画は、僕自身がマスタープランナーとして、計画から実現へ具体化した数少ないプロジェクトの一つであるという意味でも、ターニングポイントになる仕事でした。

1974(昭和49)年、札幌リゾート開発公社専務の中井さんが我々のところに相談に来られました。

札幌市に隣接する豊平町が札幌市と合併し、札幌市の郊外から定山渓温泉を結ぶ定山渓鉄道も廃止されました。市当局は定山渓温泉の活性化を目指して鉄道駅の跡地にレジャーセンターを開発・建設する最終的な設計案が出来あがっていました。その事業のフィージビリティをチェックしてくれという依頼でした。それが我々が策定した「定山渓鉄道跡地観光レクリエーション利用計画」です。

中井さんには具体的に「山の上に造波プールなんてやめた方がいい。温泉地の活性化にはスキー場が最適。日本一のスキー場を開発しましょう」と提案しました。定山渓温泉の後背地には小樽と札幌にまたがる白井岳・朝里岳の連山があり、小樽へのアクセスも通称「地崎道路」といわれた道路がすでにあり、しかも、この山岳地区は国有林で、国立公園に入ってないこともスキー場を開発する条件が揃っていると。中井専務は我々の提案を受け入れて、翌年の1975(昭和50)年に我々は「朝里岳ウインターリゾート開発基本構想」という大規模なスキー場計画を新たに策定・提案しました。中井さんは我々のアドバイス・提案によって、事業方針を大きく転換したわけです。

この事業は中井さんが居なければ、どうなったかわかりません。現実に彼は開業前に急逝され、当初の構想は中途半端のままで推移することになります。彼は豊平町の観光課の係長だった方ですが、合併に伴い、札幌市の観光課に異動し、この事業のために設立された札幌リゾート開発公社に出向されていたのです。中井さんは市に戻るつもりはなく、この事業に“懸けて”おられました。

因みに、この札幌リゾート開発公社は札幌市が主体となる第三セクターで、JTBも株主として参画し、JALもANAも出資していました。最初はどちらも単独でなければ出資しないと。市としては両方が入ってくれることに意味があるということで、時間を掛けて説得しました。JTBの資本参加にも紆余曲折があり、コンサルタントの立場として、ずいぶん苦労しました。良い経験にはなりましたが・・・。たまたまこの時期、JTBグループのディベロッパー会社に国鉄OBの北岡寛太郎さんがおられ、窓口になっていただきました。国鉄OBで技術やさんはJTBグループには初めての方でしたが、土木やさんでしかも縁の下の力持ち的役割を担う保線のご出身で、北海道総局長も経験され、開発事業にも関心を持たれ・・・と、この仕事には打ってつけの方で大助かりしました。

このスキー場計画のコンセプトの一つは初心者・初級者でも頂上から安心・安全に滑り降りてこられること。そのために1mコンターの地形図をつくり、地図でコース設計のスタディも試みました。地図を片手にまっさらの現地を何度も踏査しました。構想策定、マスタープランづくりと手順を踏んで仕事ができました。

設計段階では計画監修という役割で関与しました。中井さんが建設会社はじめ現場の関係者の前で「この人の言うことは私の言うことと同じ。そのつもりで従ってください」というわけです。皆さん、熱心に耳を傾けてくれました。勿論、安いコンサルタント料で、責任ばかり負わされても・・・ということで、弁護士とも相談して任につきました。そして、調査・計画から実現へと関われた数少ないプロジェクトでした

図7 『定山渓・朝里岳総合森林レクリエーション・エリア利用施設開発基本計画』(1976)

図7 『定山渓・朝里岳総合森林レクリエーション・エリア利用施設開発基本計画』(1976)

計画策定だけでなく、計画案と一緒に現地に我々のスタッフも派遣しました。当初、中井さんから「原さん、ぜひプランと一緒にリゾート開発公社に来てくれないか」と熱心に誘われましたが「僕が行ったらJTBFの調査部がつぶれちゃうから・・・」と。中井さんの強引さにはタジタジでしたが、結局、林さんに出向してもらうことになりました。当時、彼は新婚ほやほやでしたが、奥さんのOKも得られたので3年間、現場に行ってもらいました。懐かしく想い出します。

社員を関連会社以外に出向させるのは労働組合の関係もあり、結構大変でしたが、彼が現場に赴任して、計画が実践されるプロセスに関わってくれたことは、本人は勿論、双方に非常に役立ちました。マスタープランと実施計画にどういう齟齬があるか、基本計画から設計さらに具体的立ち上げと現実のプロセスを現場で勉強してきてくれた経験は、本人はもちろん、我々、調査部のコンサルタント業務にとっても非常に大きなストックになりました。JTBFのスキー場計画づくりはすごくリアリティがあり、実現性が高いのは、彼が現場で経験を積んで来てくれたからです。これが非常に大きかったです。

特に需要予測というか、現実の経営計画目標数値についてはデータの蓄積によって、かなり綿密に作業しました。経験的に得られる数値を説得材料としてどう積み上げるのか。計画が実現する段階の予測数値の精度が高ければ、経営ボードにとっても現場の最前線で営業・販売活動する人達にとっても、その数字は経営目標になり得るということです。「原さん達の予測は当たっていた」としばしば言われましたが、現場の人達は我々が予測した計画数値を経営目標として、日々のさまざまな営業活動、例えば、修学旅行の誘致であったり、日帰り客の拡大など、いろいろ一生懸命、努力してくれるわけです。

需要予測が経営目標になるとうまく機能するという意味で、単に数字合わせではなく現場に密着した目標数字をどうやって提案、提供できるかが、コンサルタントとしての我々にとっても必要であり、重要だと痛感しました。この「重回帰分析」による需要予測の手法は、その後のある時期、日本のスキー場で需要予測のスタンダードになりました。

札幌国際スキー場の場合、何よりも経営をリードしてきた中井専務がオープン直前に病に倒れ、経営トップが交代したことで推進力が弱まり、方向も見えなくなりました。JTBが民間企業として事業を主体的に引き受けたわけですが、当初の構想とは裏腹に事業は普通の市民スキー場のレベルにとどまってしまいました。そういう意味ではJTBグループのディベロッパーとしての限界が見えたという気がしております。もし「・・・たら、・・・れば」が許されるのなら、中井さんが存命なら・・・、事業主体が三菱地所や堤義明さんの国土計画グループだったら、構想は実現したと思うし、構想以上のスキーリゾートが実現したのでは・・・、2回目の冬季オリンピック誘致も可能だったのでは・・・と思います。そういう意味で、事業主体の総合力を実感したプロジェクトでした。

同時に、集落の自治力と自治体の自治体力―行政力といってもいいかもしれません・・・。これをきちんと見極めなければならないと痛感しました。100万都市札幌市と豊平町の自治体力はきちんと評価しなければなりません。スキー場や宿泊施設など、単体の施設の開発の場合、当該地域自治体との関係は大事です。開発の影響はプラスばかりではありません。事業規模、事業主体など、その地域にとって、何がベストなのか、ただ単に事業の採算性だけではなく、広い視点からの判断も必要であり、大事だと思います。旅館などの単体施設の開発でも、地域全体の面的な開発に影響を及ぼします。誰が事業主体となるのがその地域にとって、ベストなのか、一歩引いた視点から考えることが大事だと思います。

2) オニコウベスキー場のリゾートホテル計画

オイルショックが終わって、1970年代後半になると観光や余暇の問題が少し下火になりましたが、下火になった昭和50年頃に三菱地所は新しく「余暇事業部」を立ち上げました(現在はもうないと思います)。

一昔前の丸の内ですが、JTBFやJTBが入っていた交通公社ビルの半分は地所会社、地主はもちろん三菱地所だったわけですから「地所さん」といって、古くからつきあいはあったのです。それで、余暇事業部ができた時に「これからいろいろ協力してほしい」と。同事業部に鈴木研究室を卒業した貴船正路さんが在籍されていたのも幸いでした。僕のところに最初に相談があったのは富士スピードウェイの存廃の問題でした。それから長く深いつきあいが始まりました。

宮城県の鳴子温泉の奥にあるオニコウベスキー場はプロスキーヤーの三浦雄一郎と有名な建築家の黒川紀章が組んで、地所会社が開発したスキー場で話題になりましたが、初中級者には不向きのそれでした。このスキー場にリゾートホテルを建設するプロジェクトのお手伝いを頼まれました。当初案は建物が一番目立つ山の中腹に建設することになっていました。社長も了解していると・・・。どう思うかと意見を求められました。「スキー場、スキーヤーのためのホテルなら、山のふもとに建設するのが基本。どういう目的で、誰のためのどういうホテルを建設するのかを明確にしないと後悔しますよ」と助言しました。

余談になりますが、ある一定の土地の観光・リゾート開発を計画する場合、特に土地利用を検討する時、建築やさんは建物(ホテル)が一番目立つ、引き立つ一等地に建てたがる。造園やさんは一等地は共有の広場、公園、展望地などを考え、皆が利用できることを発想し、建物は一番売れそうもない所に建設して、全体の価値を上げようとする・・・。土木やさんは何でも良いから、工事費が嵩めば良い・・・と。

この関連で少し申し上げると、土木やさんが主役で、ブルドーザーで土地を改変して、ゴルフ場を開発・建設するのは日本だけです。本場イギリスはご承知のように“あるがまま”の自然に・・・ですし、アメリカでは造園やさんが参画して、美しいゴルフ場を造成します。オーガスタやペブルビーチを見ていただければ理解できると思います。しかし、土木やさんの入り込む余地はありません。カントリークラブも企業会員とか無記名会員など、まさに日本独特のシステムです。あちらはあくまでも個人です。

戦後の日本は産業振興・企業育成がすべて。企業を通して幸を得るシステムが長く続きましたが、もう変えなくては・・・です。

オニコウベの話に戻ると、当初の計画は白紙に戻り、もう一度、構想を練り直すことになりました。そこで「百聞は一見に如かずだから、ヨーロッパの古いスキー場から、最新の本格的なスキーリゾートまで関係者で視察に行かれては・・・」と海外研修旅行を提案しました。三菱地所さんも喜んでくれ、このリゾートホテル建設に関わる建設会社や設備会社、それに地元オニコウベの関係者も含めて15人くらいで2週間くらい視察に行きました(写真2)。勿論、こういう海外視察の場合、我々のスタッフも必ず参加するようにしました。この時は林清さんが参加してくれたと思います。

写真2 ドイツ バーデンバーデン案内所の前で観光協会職員と共に(1984)

写真2 ドイツ バーデンバーデン案内所の前で観光協会職員と共に(1984)

札幌国際スキー場の場合も、北岡さんはじめ幹部の方々から、しばしば「原さんのイメージしているスキー場、スキーリゾートが今一つぴんとこない、わからない」と結構、本音を言われていました。中井さんと相談し「とにかく本場で本物、我々の目指しているスキー場のモデルを見てきてもらいましょう」と、2週間くらいヨーロッパ視察旅行に行ってもらいました。「行ってもらった」ということは、中井さんも僕も参加しませんでした。「我々は二回目にしましょう。二人で出かけると何を言われるからわかりませんから・・・」と。これも良かったと思います。結果は「原さんが構想しているスキー場がよくわかった」となりました。札幌リゾート開発公社は札幌市の第三セクターで市からの出向は勿論、林野庁、金融機関など、いろいろな立場の人の寄り合い所帯です。プロジェクトの目標を共有してもらう、再認識していただくという意味からも、異国で二週間生活を共にすることで仲間意識の芽生えからも、視察・研修旅行をしたことは大成功、プロジェクト推進効果がありました。

そんな経験もありましたので、今回もこの方法は有効でした。本場ヨーロッパアルプスには、山頂近くにも、山の中腹にも、それぞれふさわしい山小屋やホテルが存在していました。オニコウベの場合、山の麓にリゾートホテルを建設することに皆さんが納得し、役割は果たせました(図8)。

図8 『オニコウベマスタープラン策定に向けた基礎資料の作成』(1990)

図8 『オニコウベマスタープラン策定に向けた基礎資料の作成』(1990)

いわゆる周遊観光旅行ではなく、ある目的のために海外に視察に行く旅行は結構盛んでしたが、我々の観光地やリゾートの場合、はしりだったのかも知れません。我々がさまざまな情報から、見たいところや視察が必要なところを大まかに計画を立て、旅行計画と実践は具体的には添乗員、現地情報、ガイドなど旅行業が本職のJTBの海外旅行部門、例えば、海外旅行虎ノ門支店などが担当してくれました。

当時はそれぞれの企業にも余裕がありましたから、こういう提案も喜んで受け入れ、社員教育やモチベーションなどに活用していたわけで、我々にとっても、前述したように、必ず若いスタッフを同行してもらっていましたから、調査部にとってもプラス、旅行業のJTBのビジネスにも貢献できました。まさに三方よしで、みんなが面白い、良い仕事が出来た時代でもあったと思います。

3) 車山新総合基本計画 ソフトとハードの融合

1983(昭和58)年に信州綜合開発観光株式会社とはペンションの問題でおつき合いがあり、その後、仕事を経由して、車山スキー場の再生計画のお手伝いにつながり、以後、長いつきあいが続きました。実はこのスキー場は、クライアントは別の会社でしたが、僕が猪谷先生のお世話になっていた頃、まだ更地状態の高原をリフトの位置をどうするか等、先生のお供で現場で調査する経験をした関係がありました。林さんと当時新入社員だった梅川智也(1981~現在)さんがプロジェクトに参画していたはずです。

子どもの遊び場や日帰り客用の休憩スペースなどアンケート調査など、実態調査やソフトに基づき、きめ細かくハードの整備計画を提案しましたが、クライアントも現場で判断して、実現してくれました。良い結果が長いつきあいにつながりました。

この時代、観光開発に限らず、地域振興の手段の一つは優良な企業の誘致でした。僕は開発事業において、外部の資本を入れる場合、二つの条件が大事だと強調していました。一つは本社をその地元自治体におくこと。もう一つは社長の住民票を地元に移すこと、つまり市民になることです。

車山の場合、本社は大阪にあり、スキー場開発はこれが初めてでした。後に社長になられ、当時、現場の責任者だった専務の山崎さんにこの持論をお話ししたところ「そんなことなら簡単です」と早速、茅野市の市民になられたのです。しかも、ご夫婦で、です。地域外から来た開発会社の責任者が、自分達の仲間になったわけです。よそ者と仲間・新住民との違いは大きいのです。まわりの対応がまったくというくらい変わったということです。山崎さん曰く「原さん、地元の人達に観光協会の副会長をやってくれといわれるようになりました」と。勿論、山崎さんはそれ以前から熱心に活動されてはいましたが、信頼関係がまったく変わってくるというわけです。いいアドバイスが出来たと思いました。

4) 一連のスキー場開発を通じて感じたこと

この時期、スキー場開発絡みの仕事はたくさん手がけました。事業主体も様々です。「事業は人なり」を実感しました。主体が第三セクターの場合もあれば、民間企業、自治体など、いろいろなケースがあります。目的は地域振興、産業開発、つまりお金儲けのためにやることでしたが、現実はそう単純ではなく、お金儲けは大変です。しかし、そうではなくて、地元の人達の冬のレクリエーション施設として、開発整備するなどいろいろあっていいのではと思っていました。例えば、夏は公園、冬はスキーという形で、多少の税金の持ち出しでも、半年、雪に埋もれる地域には地域住民のためのお金儲けを目的としないスキー場があってもいいのではと考えていました。

具体的には北海道のある自治体から相談がありました。地域外からスキーヤーにたくさん来ていただいて、お金を稼ぐ事業としては課題は少なくない。しかし、冬の市民スポーツの場として、夏の公園利用を考慮して、都市公園事業として検討してはどうかと提案したことがあります。自然公園や観光関係に比べて事業費は潤沢でしたから・・・。結局、手続き、前例主義など課題が多く、断念しましたが・・・。

1982(昭和57)年に、我々JTBFは新潟県の妙高村桶海地区リゾート開発についての調査・計画づくりのお手伝いをしました。はじめに日本長期信用銀行(以下「長銀」)からJTBFに調査依頼の相談がありました。この銀行は今はもうなくなり、再出発していますが、当時JTBグループともつきあいがあり、個人的にも長銀調査部とはエールの交換をしていました。北海道の観光について研究・提案・提言するプロジェクトを、これも今はなくなりましたが、北海道の拓銀と共同プロジェクトを立ち上げ、研究員として参画しました。ここで提案したツールド北海道は今でも生きているはずです。長銀からの仕事の事業主体は松下興産という会社で、カリスマ経営者松下幸之助の財産管理会社です。氏はご存じのように観光事業に熱心で見識もおありでしたが、企業としてはほとんど関心がありませんでした。ただ、その時の社長は幸之助の孫娘のお婿さんで、元々建築畑の出身だったのでスキー場はじめリゾート開発には本気でした。社長はやる気、取り巻く経営陣は消極的。当然、紆余曲折がありましたが、パインバレーというスキーリゾートは完成しました。オーナー社長は決断も早く、バブルの景況もあって金融機関も協力、和歌山の海浜リゾートや北海道そしてオーストラリアと拡大、さいたま市に都市ホテルも建設されました。

言うまでもありませんが、スキー場開発もまた、物・金・人で様々です。誰のために、どういう規模で、誰が主体的開発・建設するのか、そして開発後の運営は誰がどうするのか、きちんと「はまらない」と、繰り返しになりますが、後々、うまく行かないことを一連の仕事を通して実感しました。

スキー需要はかつてに比べて、著しく減少しているようですが、その理由は僕にもよくわかりません。わかりませんが、スキー活動は自然の中でスポーツを楽しむという原点を忘れているのではないかと思います。スキー場開発イコール索道事業開発になってしまったところに主な原因があるのではと思います。現役時代のある時期から強く感じていましたし、発言してきたつもりです。

スキーの楽しみの一つは、やはり最終的にはスキーを担いで、山頂に立って、白雪の中を滑り降りてくる醍醐味です。限りなくレジャーランド化したことに加え、テレビの影響なのかスノーボードなど見せるスポーツが盛んになり、アフタースキーも少しずれている感じです。歩くスキーも含めてまっさらな自然の中でスポーツを楽しむことを、再考する必要があるのではないでしょうか。

●旅館との関わり ―公旅連の経営研究会と婦人経営者セミナー

旅館経営コンサルタントの横溝さんの影響もあり、僕は旅館の経営者の方々とは独特の付き合い方、旅行業者の人達とは違った接し方をしていたと思います。JTBF調査部という立場上あるいは仕事上、温泉地や旅館の方々にストレートに物を言ってきました。そういう人はJTBやJTBFの中でも、あるいは世間にもあまりいなかったので、ずいぶん反発もされましたが、耳を傾けてくれる経営者も結構いました。

観光資源調査が終わって、観光計画室長だった頃、「7~8人でこの城を守り育てる」とか言っていたのですが、時代の要請もあって「真ん中の席に座ると、もう少し違う面白い仕事ができるかな」という状況になってきました。「公旅連の仕事も原さんがやった方いいのでは・・・」と溝尾さんがアドバイスしてくれたこともあり、昭和50年代後半頃から公旅連の経営研究会に出るようになりました。それまでは井上達久(1967~1983年在籍)さん達が担当され、その後、青山有三(1973~1986年在籍)さんが各種セミナーの開催など、孤軍奮闘されていました。

婦人経営者セミナーや21世紀委員会などには積極的に関わりました。僕は旅館の経営者の方々には「経営の問題はあなた方はプロなんだから、しっかりやって下さい。我々は経営環境や観光地の課題については解決策も含めて情報提供できます。それでエールの交換が出来るのではないでしょうか」と。

21世紀委員会は3年くらいかけて議論し、報告書も出しました。各研究会の課題の整理議論のアドバイス、そして報告書の取りまとめまで、亡くなった岩佐吉郎(1979~2012年在籍)さんが取り組んでくれましたし、その後の旅行会社5社の旅館連盟による共同研究会では大野正人(1991~2008年在籍)さんが関わってくれました。研究会の開催とできあがった報告書はもう少し評価されても良かったのではと思っています。観光経済新聞社の社長だった故江口恒明さんは、編集長の時代からの古く長いお付き合いでした。業界では得難いジャーナリストのお一人でした。

江口さんもそうですが、横溝さんを通してたくさんの優れた旅館経営者と知り合えたのは、僕の大事な財産です。城崎温泉「西村屋」先代の西村四郎さん、京都「柊家」の西村源一さん、あるいは「ハトヤ」の岩井一路社長の父上、皆さん鬼籍には入られましたが、経営熱心で勉強家で尊敬に値する中小企業経営者でした。

地域の仕事を通して地元の信用金庫、信用組合の理事長さん達にもたくさんお会いしましたが、「なるほど」と感心する方々もおられました。旅館の社長さん達も含めて彼らにブレーン・スタッフがもう少し揃えば、地域の金融機関として存在価値が倍増するのではないかと感じました。他方、一流の大学を出て、大手銀行で預金獲得に汗水垂らしている若い金融マンがこういう理事長の下で働けば、本物の面白い金融業務ができるのに・・・などとも思いました。

こうした委員会や研究会に出席される旅館の経営者の方々は全国から選ばれて来られるのですが、ここで得た情報や人脈を地域・地元に還元するのは意外に難しく、個人の情報にとどまっているケースが少なくないわけです。東京で得た情報を地域の各旅館経営者にちゃんとフィードバックすることは意外に難しく、苦労したのを覚えています。

当時は旅館の旅館たる所以のサービスやおもてなしは女将・女性の実質的な役割であり、計り知れないものがあるにも関わらず、旅館経営者団体は男社会でした。女性達も全国の心ある人達同士でもっと交流を盛んにし、情報を共有し、個々の経営や地域の活性化に反映させたらいいのではないかと提案し、婦人経営者セミナーを衣替えし、出来るだけたくさんの方々に集まっていただき、交流していただく会に変えていきました。比較的好評で、時代とともにこのセミナーは20年以上続きました。段々他の旅行会社などでも同じような会合が増えて、一定の役割を果たしたということで区切りをつけたことも今にして思えば、よかったと思っております。

今では多くの方々が第一線を退き、現在活躍されている女将さん達は少なくなってきましたが、南三陸のホテル観洋の女将阿部憲子さんは東日本大震災の復旧・復興に大活躍されています。若い頃からこの会合に先輩諸姉と共に参加されていました。

●東京都の仕事 ―都市観光とアーバンリゾート―

観光政策の如何に関わらず、東京が日本一の観光地であり、1980年代に入って、我が国でも海外旅行が盛んになり、初めての海外旅行者がロンドン、パリ、ローマあるいはニューヨークなど大都市を訪れる実態から、改めて首都東京が世界に冠たる観光都市であると再認識されつつあったにも関わらず、議会も含めて、都当局が東京都の観光(政策)に無関心の時代は長く続きました。

この時代、東京都の観光政策、施策の重点地域は伊豆七島と奥多摩でした。いずれも国立公園地域に含まれています。小笠原諸島が返還されるずっと前から大島や三原山は都民に馴染みの観光地であり、島々の海浜は夏の海水浴の場として賑わっていました。

観光客やレクリエーション利用者の実態調査も何度か行われ、我々も協力しました。細野光一(1973~1999年在籍)さんが対応してくれました。彼は総理府(現内閣府)の観光実態調査や観光白書のベースになる観光入込客数の把握などに腕をふるってくれました。

古くは1970(昭和45)年に答申された観光政策審議会で、専門委員の加藤秀俊(社会学者)さんが「・・・世田谷区に住んでいる人が何年か振りで浅草の浅草寺に出かけるのも(日帰り)観光ですよね・・・」と発言されたのが印象に残っていますが、国民の休暇の最大のピークが8月のお盆休みだったこの時代は、“帰省”が一斉に始まり足も宿も満杯でしたが、少しお金に余裕のある人たちは大渋滞を避けて都心のホテルに泊まり、家族でホテルライフを満喫していました。この現象がアーバンリゾートと言われるようになるのはもう少し後、1990年代後半のことです。

その観光政策審議会をまとめた「観光の現代的意義とその方向」(内閣総理大臣諮問第9号に対する観光政策審議会答申)(1970(昭和45)年発行、内閣総理大臣官房審議官編) は、JTBFの「旅の図書館」にあると思いますが、一読に値する専門図書の一つです。

羽田耕治(1974~1998年在籍)さんと共に、亡くなった麦屋弥生(1982~2004年在籍)さんが、それまでもお付き合いのあった都の観光事業協会に「東京都の観光魅力は23区に凝縮されている、古くて新しい都市観光の対象となる観光資源を掘り起こし、評価、利活用することが必要ではないか・・・」と働きかけて、仕事化したのが、1997年から3年間、都から受託した「東京都新観光資源調査」です。僕はこの仕事も調査部のクリーンヒットの一つと高く評価しております。調査企画書を作成し地道に当局を説得して仕事化でき、具体的に調査し、そして調査結果を活用して観光客のためのハンディーで実用的なパンフレットにまで仕上げたことは、ある意味、我々調査部の仕事の幅を拡げたと言えます。

他方、東京ないし東京圏の人口集中は衰えず、過疎過密の問題は解決の糸口さえ見い出せずに、中小都市の中心市街地の空洞化が政策課題の一つに浮上してきました。そして、その解決策の一つとして都市観光、都市型観光、都心観光など言い方は様々でしたが、観光客の往来、千客万来で賑わいを取り戻せないかと、旧建設省都市局と旧運輸省観光部が研究会を設置し、議論を重ねました。僕も請われて研究会に参加し、「東京の観光魅力は銀座や歌舞伎町にある」「ビバリーヒルズや田園調布のような高質な住宅街は観光の対象になる」「住民・市民が支える多様な中小零細製造小売業が成り立つ中心街の観光魅力」など、持論を展開しつつ、「地下鉄銀座線沿線の都市観光魅力」など小論を発表したり、必要な情報も提供しました。この会の延長線からリゾート開発研究会でもご協力いただいた故渡辺さんや梅沢忠雄さんなど都市工学出身の方々にも参加・協力いただいて、アーバン・ツーリズム研究会を立ち上げ、梅川さんや大隅一志(1982~現在)さんにも協力してもらいながら、具体的に前橋市や桐生市などいくつかの都市の中心市街地の活性化にも取り組みました。

しかし、結局、いろいろ紆余曲折はありましたが、都市局主導の都市観光研究会が発足し、我々は梯子を外された格好になってしまいました。しかし、機関誌を発行するなど、研究会は一定の成果を上げたと思っています。

●北海道の観光振興とJTBFの多様な仕事

今、新しいJTBFがどうなっているのかわかりませんが、僕が在籍していた時代、特に昭和50年代は、JTBFも各地域に支部があり、JTBの各地域の営業本部の中に置かれていました。その中で、特に北海道と沖縄を含めた九州は大市場の東京圏から足も長く、旅行業のJTBには大事な地域でした。

地域の各自治体も観光地も東京圏からたくさんお客様に来訪していただきたいということで、JTBに期待していたわけです。各市町村から観光振興や観光客誘致について相談に来ることが少なくなく、本部長にもよりますが、営業本部もそういう場合にJTBFをうまく活用してくれました。

JTBの営業本部としては、JTBFをうまく活用することによって自治体への営業につなげられるというメリットを考えていたわけです。人にもよりますが、各支店長が結果的にJTBFの営業活動をしてくれていたように思います。僕自身も北海道に愛着がありましたし、積極的に協力し、北海道の仕事は必ずお手伝いしていました。

JTBFに入って、北海道と最初に関わったのは1972(昭和47)年の「第二次ニセコアンヌプリ観光開発基本調査」です。北海道で最大手のバス会社である北海道中央バスが、ニセコアンヌプリ国際スキー場を再活性化するには何をどうすればいいか、営業本部経由の仕事でした。ニセコについては民間企業、地元倶知安町あるいは関連省庁から政策が変わるたびに構想レベルから具体的事業まで関わってきましたが、一口で言えば資源ポテンシャルを生かし切れていないもどかしさを感じております。

その後も網走、釧路、函館、帯広などの自治体とは営業本部を通し、我々に声をかけていただき、具体的に観光基本計画の策定などをお手伝いしました。他にも開発庁、林野庁などとのおつきあいも続きました。例えば、網走市とは1977(昭和52)年に観光計画を策定する仕事して以来、今日までずっとつきあいが続いているはずです。

網走市が観光振興に取組みはじめたのは後発でしたが、それだけに熱心でした。経済部長が我々の報告書に赤線を入れて読んでくれていたのには感激しましたが、中田総一郎(1972~1982年在籍)さんや中根裕(1976~2001年在籍)さんもスタッフとして熱心に取り組んでくれました。その後、故麦屋さんが通い、堀木美告(1996~2016年在籍)さんにバトンタッチされ、今日に至っています。

表2 JTBFが受託した網走市観光計画一覧

表2 JTBFが受託した網走市観光計画一覧

図9 『網走市観光実施計画』(1981)

図9 『網走市観光実施計画』(1981)

図10 『網走市観光実施計画』(1981)の「はじめに」

図10 『網走市観光実施計画』(1981)の「はじめに」

僕が在職中、最後に関わったのが阿寒湖温泉です。阿寒町は釧路市と合併しましたが、釧路市とは1980年以来のつきあいです。JTBFがこの温泉地と関わるようになったのは2000(平成12)年からですが、その何年か前に知床のウトロで公旅連北海道支部の女性経営委員会で講演を頼まれたのがきっかけかも知れません。会の委員長が鶴雅グループの大西雅之社長で、委員をされていた女将がたまたま高校の後輩でもあり、以前から交流があったのです。

北見で日本観光研究学会の総会があった帰りに立ち寄りました。1999(平成11)年だったと思います。現地を見て回ったり、町長や議長とも懇談しました。当時の阿寒湖温泉は年間100万人の宿泊観光客が訪れていましたが、完全に団体旅行中心、温泉街はごちゃごちゃ・・・観光地としては旧態依然。印象的だったのは一昔も二昔も前に流行ったクマがシャケをくわえた木彫りの置物など土産物が所狭しと並んでいました。大西さんご夫婦はじめ町の幹部の方に素直に申し上げました。「これでは先が見えている」と。さらに「数を求めるほど大切なものを見失っていきますよ。80万人でもやっていける温泉宿泊観光地にしないと・・・」。

大西さんは当時、銀行を退職して地元に戻り会社を継いで、事業にも本腰が入りやる気十分、阿寒湖温泉もリーダーの世代交代の時期でもあり、21世紀をにらんで、ここでもう一度、国立公園の温泉観光地としてのあり様を見直そうということになり、JTBFが事務局となって2000(平成12)年にスタートしたのが「阿寒湖温泉活性化戦略会議」です。委員長には鈴木研究室以来の盟友である花岡さんにお願いし、委員も僕が直接掛け合って、実質的に役に立つ方々にお願いしました。

この会議は年に2~3回だけでしたが、外部の有識者と地域の人達が同席する会議は、当時も珍しくありませんでしたが、外部の専門家は実は名前だけというケースも少なくありませんでした。しかし、実質的にこの地域の役に立つことを優先しました。小磯修二さんや野口智子さんは今でも関わっていただいているはずです。

2001(平成13)年には地元の方々も参加していただき、カナダへ視察旅行にも行きました(写真3)。この会議から、大西さんを中心に現在の阿寒湖温泉再生のキーマンが育っていきました。僕らが手伝うようになってから、時を同じくして、鶴雅グループの事業経営は右上がり、大西さん自身も全国区と、阿寒湖温泉と共に活性化しています。

阿寒湖に関しては、梅川さんが今までも中心になって関わってくれていますし、通山千賀子さんもプロジェクトが立ち上がって以来ずっとJTBF客員研究員として梅川さんをバックアップしてくれています。

写真3 カナダの国立公園視察(2001)

写真3 カナダの国立公園視察(2001)

外部有識者として忘れられないのは、亡くなられた環境省OBの菊地邦雄さんです。僕の古い仕事仲間で、周囲が国立公園である阿寒湖温泉にとっては、適切かつ有効なアドバイザーでした。そしてもうお一人、旧日本エアシステム(JAS)の船曳寛眞社長にも参加していただき、お世話になりました。東京から釧路へスタッフが準備や調査で行くには、飛行機代がかなりかかります。僕がそのことをお話ししたら「お安い御用です」と我々JTBFの事務局スタッフの釧路出張の場合、半額で出かけられるよう取りはからっていただきました。このことによってスタッフが現地に行く頻度が増え、地元阿寒湖温泉の方達と密なコミュニケーションをとることができました。そればかりでなく、船曳さんは現場に強い方でした。営業部長時代は冬の網走や女満別の活性化に本当に苦労され、地域にとって何か必要かということがよくわかっておられました。JTBと合同で冬の北海道のキャンペーンを仕掛けた張本人です。地元にとっては強い味方が参加してくださったことになります。船曳さんに会議に加わっていただいたことは、僕のクリーンヒットでした。

図11 『阿寒湖温泉活性化基本計画・阿寒湖温泉再生プラン2010』(2001)

図11 『阿寒湖温泉活性化基本計画・阿寒湖温泉再生プラン2010』(2001)

●草津温泉との交流50年

草津温泉、草津町とのつきあいは、1964(昭和39)年ですから50年近くになります。観光開発計画のプロフェッショナルとして、僕の原点はやっぱり、草津温泉、草津町です。文字通り、僕の観光開発計画論のフィールドの一つです。それは名町長といわれ、最後は県の教育長までやられた中澤清さんというデキブツがおられたからです。

草津温泉イコール草津町は人口1万人に満たない自治体ですが、地域主義、自主独立路線を目指しています。ある時期まで地域外の資本は、一昔前の草軽電鉄の関係会社だけでした。まちづくりは自分達の力でやると。東京資本がゴルフ場開発に進出しかけた時も、これを拒否して自分達でやると・・・。実際、自分たちの力でゴルフ場をオープンしました。

僕が鈴木研究室にいた頃は草津の若手将校と言われた中澤さん達が、何かあると鈴木先生のところに相談に来られていました。それで僕もつき合いが始まったわけです。

中澤町長が誕生してからは、18歳以上の全町民参加の「私が町長なら・・・」という今で言うワークショップも取り入れ、実施、考察まで含めて「草津町社会開発計画」なる報告書にまとめました。小久保恵三(1972~2001年在籍)さんが担当してくれました。構想計画策定の際は東京大学都市工学の大学院の実習を兼ねて、草津温泉街の作業模型、計画模型を地元の中学生の参加で作成する仕事も実施したりもしました。現在の草津温泉街はこのときの計画案がベースになっているはずです。草津町は周囲が国有林で国立公園区域、様々な制約がある中で、スキー場開発にも積極的でした。このお手伝いもしました。中澤さんは旅館の経営者でもあり、日観協よりもJTBFと付き合いを深めた方が実質的だということもあって、僕のところにいろいろ仕事をふってくれたわけです。

他方、草津町は政争が激しいところでもありました。従って一時、少し距離ができた時期もありましたが、バブル以降は政争どころではなくなり、新しい草津町とのつきあいは1997(平成9)年頃から始まりました。実務は故麦屋さんを中心にソフト事業に力を入れてきました。中澤敬町長、宮崎観光協会長など旧知の方々が受け皿になって下いました。30年前に構想した湯畑を中心とした温泉街も少しずつ整備され、活性化していると思います。今後は日帰り客よりも、宿泊観光客の誘致にもっと力を入れるとか、21世紀の湯治場、本格的温泉リゾートを目指して欲しいと願っております。それと合併問題との関連でアドバイスしていることは、軽井沢との連携です。幸い草津はたくさんのアドバイザーがおられます。上手く活用して、文字通り21世紀に通じる温泉観光地になってほしいと思っています。

●沖縄国際海洋博覧会と県の観光・リゾート政策

沖縄県とは復帰以前から個人的にはつきあいはありましたが、JTBFが受託した最初の仕事は、海洋博の入場者予測のプロジェクトでした。1975(昭和50)年に開催された沖縄国際海洋博覧会は当初から会場の選定などいろいろあり、最後まで入込の予測数字を巡って運輸省と通産省で対立していました。運輸省は実際に具体的に飛行機や船舶の準備をしなければならないので、あまり大きな数字を出してもらっては困る、他方、主導する通産省はできるだけ大きな数字の予測を期待して対立していていました。

直前になって妥当な数字というか、現実に対応できる予測というより実態数値をということで、海洋博協会から我々のところに仕事がきました。そこでJTBFでは井上さんが中心に、スタッフが沖縄に泊まり込み、旅館の予約宿泊客数、沖縄に各地から来る飛行機が最大どれくらいの人数を運べるか、旅行会社の予約はどうなっている等々数字を積み上げ、取りまとめました。需要予測というより聞き取り調査で、電話でヒアリングしたり、現場に足を運んだり、大体これくらいという落としどころの数字を算出したわけです。

結果は島外から来訪する人々の数字は大体予想通りでしたが、トータルの入場者数は予測より少なかったわけです。県民の入込数がまったくはずれました。会場の選定からあらゆる局面で様々な対立が尾を引いた結果です。その後、主催者関係者は沖縄海洋博を口にすることはありませんでした。

分析してみると、県はじめ教職員組合が反対し、教育委員会が学校行事にできなかったわけです。学校行事になれば、当然子ども達は訪れます。ただ、学校行事ですから、見学対象が限られます。今度は親にせがんで、好きなところを楽しみます。場合によってはリピートします。この種のイベントは地元の人達、日帰り圏の人々がリピートするかどうかがポイントです。沖縄の場合、不幸にしてそうならなかったわけです。この経験を通して、国際的にしろローカルにしても博覧会成功のカギは地元の教育委員会が認知するかどうか、学校行事になるかが、重要なポイントだということがわかりました。

沖縄県はその後観光入込客数が落ち込み、回復の兆しも見えませんでした。沖縄開発庁、沖縄振興局は何とか回復させたいと、我々のところに相談に来られました。沖縄観光が活性化することは旅行業者であるJTBにとってもプラスになるわけで、会社の方も現地を中心に一生懸命協力しようということになりました。

振興局だけでなく沖縄県からも仕事をいただくようになり、1977(昭和52)年に八重山の沖縄県離島振興調査、昭和56(1981)年に沖縄観光振興に関する総合計画など(図12,13)を皮切りに、県の総合計画とリンクする観光基本計画は我々が積極的にお手伝いし、今日につながっているはずです。

図12 『沖縄観光振興に関する総合計画調査』(1982) 図13 『沖縄観光振興方策調査報告書』(1982)

図12 『沖縄観光振興に関する総合計画調査』(1982) 図13 『沖縄観光振興方策調査報告書』(1982)

ご承知のように、沖縄県はいろいろな問題を抱えています。地域振興の視点でも、観光・リゾート事業が大事だと自他共に認識するのはかなり後になってからで、復帰当時は他府県並に第二次産業の振興、企業誘致が県当局、経済界の悲願であり、主眼でした。他方、沖縄県はことあるごとに国の大きな予算が計上されました。観光関係も例外ではなく、そのためいろいろな本土のコンサルタントが群がりました。そういう中で地域にとって必要な仕事をきちんとやることは重要です。僕はスタッフの諸君には、長くつきあえるようなコンサルタントを目指そうと言ってきました。そんな中で、小久保さん、中根さん、そして岩佐さんが引き継いでくれました。特に岩佐さんは亡くなる直前まで観光振興の仕事取り組んでくれました。

思い出すのは竹富島の仕事の時です。小久保さんが一生懸命取り組んでくれました。当初、「原さんは(忙しいでしょうから)来ていただかなくても結構です。ぜひ、小久保さんに来ていただきたい」と現地当局の方々に言われ、その時はちょっとカチンと来ましたが(笑)。それはそれでクライアントに信頼されるスタッフが育ったということで、喜ばしいことなのです。

草津や東京都の仕事など実績を残して退職した麦屋さんも不慮の事故で亡くなられましたが、彼女もコンサルタントとして新たなチャレンジの途上でした。残念なことです。世代交代と共に新しい人材が育っていく・・・これもまた大事だなと思います。

沖縄観光については、もう一つコメントしておきたいことがあります。皆さんは矢部宏治さんの「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」という長いタイトルの本をご存じですか。サブタイトルには「沖縄・米軍基地観光ガイド」とあり、写真や地図が満載です。正直一読して衝撃を受けました。「観光は平和のパスポート」を気軽に使っていた我が身も振り返ってもいます。細かいコメントは避けますが、沖縄観光に関わる人のみならず、一読をお薦めします。

●東日本大震災と福島県とオートキャンプ場

今さら云うまでもなく東日本大震災は未曾有の自然災害でした。加えて原発事故「フクシマ」が追い討ちをかけました。自然災害と観光の問題では、現役の諸君が現場でそれぞれ対応されていますし、僕も南三陸町や岩手県大槌町の復旧、復興に関わりましたが、ここでは述べません。

ただ、大隅さんが熱心に取り組んでくれたオートキャンプ場ふくしま県北の森「フォレストパークあだたら」の仕事を想い出しております。我々は、鈴木先生の関係もあり、建設省公園緑地課主導のオートキャンプ研究会のメンバーとして参画しておりました。

この関係もあり、日本一のオートキャンプ場を開発整備したいと熱心な福島県の佐藤栄佐久知事に協力し、適地選定の段階から具体的に開業オープンするまで関わりました。大隅さんは出向して、現場の立ち上げまで活躍してくれました。彼とは二人で知事室に何回か伺って説明したのを想い出します。この日本一のオートキャンプ場が大震災の避難場所として機能したことは知る人ぞ知ることです。

あるいは岩手県の田野畑村のお付き合いも彼と二人で熱心な町長に協力しました。国立公園北山崎の観光価値を改めて、町長をはじめ地域の人々に再認識させたのは、観光資源調査と写真集「美しき日本」の成果ですが、この北山崎を観光地として具体的に計画・設計したり、海岸のサッパ船(漁師の小舟)を活用した観光タクシーの提案など大隅さんが担当してくれました。彼は我々にとって得難い戦力でした。