観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏
4.「観光」の計画とその実現 

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第1回>三田 育雄氏<br />4.「観光」の計画とその実現 
<写真>田園プラザ

-元(株)ラック計画研究所 代表取締役社長 三田 育雄氏

1939(昭和14)年東京生まれ。造園学をベースに実践から学術の領域まで幅広く活躍。造園から観光計画、そして地域計画へ。

(1) 川場村とのつきあい-公私を超えた取り組み

●「世田谷区民健康村」の計画と実践

計画が実践に結びつく仕事に恵まれるのは5年から10年に1回ぐらいのチャンスかもしれないと感じています。実現までに関わった仕事はごく一部だったが、常に実現と供用まで関わりたいという強い気持ちを持ち続けていました。

その中で、35年お付き合いしている川場村は例外的なケースだろうと思います。きっかけは、当時の沼田営林署長がワンゲルの後輩で、川場村の村長がスキー場をつくりたいと言っているので僕にちょっと面倒見てくれと言われたのが始まりです。私が最初に感じたのはスキー場もいいけども、田園地帯の豊かさですね。

その数年後、世田谷区で移動教室と区民向け休暇施設を兼ねた「世田谷区民健康村」をつくるプロジェクトが持ちあがりました。関東周辺で52カ所の候補地が挙がり、川場村は最初は有力ではなかったが、ふるさとの原風景が残っていて抜群に良いという評価が高まって対象地に選ばれました。その頃、地元ではそんなもの来たってしようがないという感じでしたね。

●永年にわたる取り組み

結局、川場村とは35年間のつながりになるわけですが、その大半は受委託の関係を越えるものです。当時、我が家では毎年、子どもたちを連れた家族旅行はあの辺と決まっていました。

ともかくも、社務としてだけでなくというよりも、公私を越えて踏み込んでやらないと、一つの地域に長期にわたって関わることはできないと思っています。川場村のケースでは、幸運にも恵まれたが、自分のライフワークとしてやろうと思いこんだから長期に続いたのでしょうね。

そういう思い込みを促したのは人と人との関係です。村には、一人は亡くなりましたが、僕にとっては盟友と呼べるすごく親しい人が何人かいて、その人たちとのつながりでのめり込んでいったという感じです。役場にも一人いましたが、ほとんど地元の農家の人たちです。

●田園プラザ川場の社長として

世田谷区民健康村をオープンしたあと、田園プラザ川場に23年間関与しました。健康村事業は1981(昭和56)年に両自治体が協定を締結して、1986(昭和61)年に施設が供用開始になりましたが、はじめは交流がうまく行かず、ずいぶん衝突があったりしました。それで、世田谷区との縁組協定10周年へ向けて、検討委員会で立て直しの検討を2年間取り組みました。

その中で出てきた考え方の一つが、交流活動は、単に世田谷区の確保した土地で世田谷区がつくった施設でやるだけではなく、もっと広く村内で様々な形で行われるべきだということでした。そしてもう一つ、地元の農家の人が自分たちの農産物をPRしたい、直売したいという要請が出てきたのがきっかけとなって田園プラザのプロジェクトがスタートすることになったのです。

とにかく何もないところでしたから、村にないもの全てを一緒にした場所をつくろうという話が出てきて、平成の始めに、新しい村づくりの集大成としてタウンセンターをつくろうという動きになったのですが、ベースには健康村交流事業があって、その延長として派生してきたプロジェクトといえます。

それまで、自分自身として、多くの仕事で腰が引けているようなスタンスが多かったという反省がありました。責任を取ることに対する臆病なところがあったり、後で負担になるのをどうやって避けようかというような意識が常にあって、それで踏み込み不足になっているところもありました。

田園プラザのプロジェクトでは、私がその運営にあたる第三セクターの代表取締役になったわけですが、村内ではバブルのはじけたあとで、みんな臆病になっていて誰もなりたがらなかったので、受けざるをえなかった事情があります。

当初は、非常に反発があったプロジェクトで、なりたいという人は、自薦他薦なしでしたから、村長が仕方なしに僕のところに持ってきたのです。受ける決断をした一番の理由は、やはり責任というか、不適任な人にやられたらたまらないという思いはありました。

●やがてプラスのスパイラルに

実際に引き受けてみて、やはり大変だと実感しました。4年目に黒字転換しましたが、最初の3年間は赤字でしたからね。お客さんは少ない、売れない、従業員の意識が非常に低いと、良いところがなくて批判も常に出て、ほんとに大変でした。

でもやめられなかったです。そういうときだからこそ、やめられないでしょう。「ほれ見ろ」って言われるだけですから。議会もみんな反対していたものね、その頃は。

田園プラザの全体の計画づくりは私とラックの同僚の大橋清治さんが、個々の施設は前橋の設計事務所がいくつか手がけました。最初はミルク工房しかなく、次に直売所ができて、そば屋ができてと段階的につくって行きました。最初は何もないから赤字です。施設がある程度集積しだして、ちょっとずつ黒字になって行きました。

直売所を作った時、農家の人たちのほとんどは最初ばかにしていました。「そんなものやったってしようがない」ということで。最初はほんとに荷が集まらなくてパラパラでした。それだとお客も来ないので年間営業ができなくて、春秋は週末だけ、夏休みだけ毎日、冬は閉鎖という形でした。

やがて80人ぐらい出荷するようになって、それからどんどん増えて今は出荷者数が400戸を超え、直売所だけでも年間4億円近くの売上があります。とにかく最初はどうしようもなかったのが、少しずつ良い方向に向かうと、プラスのスパイラルに入って良い方向へ向かって行きました。

ぐんと伸びたきっかけは、関東道の駅連絡会のスタンプラリーで、好きな道の駅の投票を行っていて、平成13年に田園プラザが突然2位になったことです。

それで、注目されてブログなどで名前が出るようになりました。その後、5年連続1位になって、マスメディアに載るようになり、ぐんぐんお客が増え出して、今は対前年比2桁伸びを確保しています。

人気が出た原因は2つあって、一つは中心広場です。当初、多くの地元の人は駐車場にして便利にしろ、そんなところに広場を取ってどうすると非常に反対しました。大手の流通関係の関係者にもそんな使い方は非常識だと言われました。

でも、それが逆に、車をシャットアウトしてゆったりできる機能を持った道の駅として評価されました。もう一つは、特産品づくりを目指していて、場内にミルク、パン、ビール、ソーセージといったいろいろな工房があって、単に売店だけが並んでいる道の駅じゃないということで、この2つはプランニングの成果かなと思います。

●動かしながら軌道修正していく

とは言え最初から不動のプランが出来上がっていたわけではなく、取り組みを進めながら軌道修正して行きました。最初はもっと地域消費に焦点を合わせていました。村内に4000人という購買力があるにもかかわらず、買い物はみんな沼田のまちに出るので、それをある程度村内に引き止めるための物販機能も目指していましたが、あちこちでのテスト販売や先行施設の動向などを踏まえながら、どんどん減らして行きました。先行したファーマーズ・マーケットの利用者は圧倒的に外部の人が多かったし、沼田に大きなショッピングセンターができたこともあって、村内需要は大幅に切りました。そういうことも時間をかけて走りながらやったので、できたのかなと思っています。

その後は順調で、今は地元の若い人が社長になっていますが、会社の経営としてはすごく良いのですが、セクターの売上至上主義のところがあって、村民に還元するとか、もっと地域全体の底力を上げるとか、六次産業化を進めるといった所まで発想が及ばないところがあってちょっと不満です。

<写真>世田谷区民健康村

<写真>世田谷区民健康村

<写真>田園プラザ

<写真>田園プラザ

(2) 一般的に「観光計画」はなぜ実現しないか

まず、発注者側が実現を目指していない場合もけっこうありますね。「計画を作りましたよ」というアリバイとして作るというのが一つあります。それからプランナーの気力が十分でなくて、実現のほうに強く引っ張りこめないというケースもありますね。「絶対大丈夫」とは言えないにしても、強い気持ちを持って引っ張り切れず、ちょっと腰が引けているために、それ以上はなかなか進まない。

計画を実現化するツール、財源手段に関しては、プランナーが知っていればそれにこしたことはないが、その点は行政が非常に熟知しているので、プランナーが疎くて実現の障害になっているとは考えられません。

川場村は財政が弱いところですが、田園プラザ事業で、関連事業も含めると30億円ぐらいかけているから、財源も首長や担当者が本当にその気になれば、方法はいろいろあると思います。そういう気持ちになってもらうように、プランナーも思い入れが強くないと実現へ向けた動きは起きないと思います。

一方、市町村は、主体性をもって、現地に則した総合的な取り組みを担うことが大事です。国や県ではきめ細かな取り組みは不可能なので、担い手を市町村に委ね、打ち上げた「住んでよし訪れてよしの国づくり」のスローガンに沿って、市町村の取り組みに対して的確なサポートを行うことに徹すべきでだと思います。