観光地域づくりオーラルヒストリー<第9回>阿比留 勝利氏
2.「観光」における取り組み(1)

概要

観光地域づくりオーラルヒストリー<第9回>阿比留 勝利氏<br />2.「観光」における取り組み(1)
「平家の里」中庭周辺の様子(平成8年撮影) 資料:阿比留勝利氏提供

(1)観光分野で何をやってきたのか、観光分野での業績、功績は何か

●30歳で観光・地域計画のコンサル会社を設立

ジュピオに3年間在籍した後、1973(昭和48)年3月に退職しました。その後半年ほどは先輩や友だちの仕事を手伝わせてもらい、同年秋に福岡市で友人と(株)環境計画研究所を、東京ではJAEDジェド・日本環境ダイナミックス(以下ジェドと略記)を設立。1975(昭和50)年暮れに統合し、城西国際大学に勤めるまで以後約35年間ジェドの代表取締役として会社経営に従事してきました。

図1 (株)ジェド・日本環境ダイナミックスの業務範囲

図1 (株)ジェド・日本環境ダイナミックスの業務範囲
資料:阿比留勝利氏提供

 

仕事の内容は観光分野を中心に、文化、交流、ダム関連地域開発、離島や過疎地振興など都市・地域計画のコンサルタント業務及び建築設計・監理です。今様にいえば観光まちづくりのプランナーの仕事、広くいえばコンサルタント(以下コンサルと略記)業務です。

観光分野で取り組んだ仕事の細目は、(1)観光調査及び研究、(2)観光需要の予測、(3)観光地域全体計画、(4)特定テーマ別計画及び事業化計画、(5)建築設計・管理のプロデュース、(6)講演、委員、大学などでの観光地域づくり教育、(7)執筆、ですが、中心は(1)~(4)です。

具体的にいえは、観光地域振興のコンセプトづくり、計画案づくり及び計画立案のアドバイス、観光需要予測(潜在需要予測、開発効果を読み込んだ予測)、開発整備方式(主体、財源など)、財務シミュレーション、財源調達アドバイス(官民融資・補助制度など)、開発・経営組織づくり、事後評価などになります。

●コンサルの基本スタンスは「黒子的配慮」と「よそ者性」

私は観光コンサルの基本スタンスとして、自身が観光地域づくりを実現するものではなくサポート役だと考えてきました。コンサルの方には観光地域の成果について「私がやりました」という人がいます。その意味は様々です。無論特定の提案が実現の要となったという場合もあるでしょう。しかし、観光地域計画の実現についてコンサルタントが限定なしに「私が」というのは、少し違和感もあります。観光地域づくりでは、地域内外の多様な関係者が時間をかけて実現させていくものが多く、コンサルは主体性、すなわち自身の立ち位置を明確にしたうえで「黒子的配慮」と、安易ななれあいを排除し緊張感を喚起するという意味で「よそ者性」をもつことが肝要だと思います。

もちろん、コンサル側からすると、投入した提案などに手応え、成果が返ってこないという欲求不満も多々あります。また自己PRをしないと仕事をつくりにくいという現実もありますね。しかし、コンサルには地域で実現されたものの中に提案したコンセプトが感じられたらそれでよしとする姿勢も大切な気がします。

●観光地域計画は合意の結晶、推進のポイントは地域の担い手捜し

具体的な取り組み方は、①時間をかけて、②地域で取り組むリーダー(次世代等予備軍を含む)をはじめ専門スタッフなどになりそうな人を探し、③その人々への観光まちづくりと当該計画の考え方の伝達、場合によっては伝達するための素地をつくる実践教育(OJT)を行い、④プランを提言すること、と考えて進めました。

計画の実現には、①当該地域の観光まちづくりの考え方を言葉、型、図面、事例・共同視察など、いろいろの手段で理解してもらい関係者の心をつかむこと、②計画実現プロセスでは頻度ある訪問と提言、③生起する多様な地域の意見に対しては真に底を見極める姿勢でコンセプトを統合する努力、をまずは大切にしました。

観光計画の本質は、計画の実現を前提に、「観光振興の目的に添った多様な主体の合意形成による価値の創出」だと思います。民間企業の事業計画では、その企業目的(収益など)に沿う計画内容を軸に進めればかなり完遂できる面があると思います。しかし観光地域の計画では、多様な地域関連主体の利害を含むニーズ把握、計画効果の共有、推進プロセスにおける関係者の本音に基づく意向調整などを経た事業化が実現のポイントではないでしょうか。

コンサルの役割は合意や個別課題への技術・ノウハウの提供、課題解決を指向する想像力豊かな計画案の提起、検討プロセスにおける合意形成の促進剤的な役割が大きい感じがします。そのためにはコンサルタント自身の姿勢、信頼性の構築と想像力が問われます。単なる技術サービスではなく発見的、価値創造への挑戦をいってもよいかもしれません。反対意見者との胸襟を開いた議論でその真意を明確化して合意につなげること(一種のネゴシエーター的役割)が推進効果をもたらす様に思います。

●観光基本構想への参画から公私合わせて30年以上付き合いが続く熊本市

作業参画、担当を含めて多くの計画に関わってきましたが、思い入れがあり、成果も感じるものの一つが熊本市の取り組みです。それはジュピオに在籍していた1970(昭和45)年、日観協からの委託で行った熊本市初の観光基本構想(マスタープラン)の立案です。

熊本市の観光基本構想の主眼は熊本の観光拠点である熊本城、水前寺にもう1つ金峰山を拠点化して観光構造を強化することでした。それをうかがい、この計画検討では、今様にいえば「都市観光」という考えを打ち出しました。これだけの大都市(県都)の観光では、熊本城や水前寺に金峰山を付加して観光構造を強化するだけでなく、都市機能や都市環境そのものを魅力化しないといけないと主張しました。都市観光の魅力とは、都市機能(生活、生産、流通、中枢管理機能等)と都市活動、及び都市環境総体の魅力であり、端的に生活関連施設、都市内の公園、生産団地、基盤施設なども観光の対象になり得ると考えていたからです。時代はマス・ツーリズムの最中ですし、ましてや観光部門計画ですから市役所内では「概念の幅が広すぎる」という意見も出て論議がありました。幸い、最終的には「都市は単体資源だけでなく都市機能・活動全体の魅力が観光対象」という考えで了解されました。その後、市の観光課(坂田憲一課長、後の局長)が主導されて16部課に及ぶ横断的な「観光振興会議」を立ち上げられ、アーバンデザインと観光を接合して都市観光のコア部分である市街地の景観を含む魅力化に取り組まれました。これは後に、サンアントニオ市と提携を果たす坪井川リバーウオーク整備にもつながっています。また、古い地域の歴史性をビジュアル化して城下町の歴史的背景を示す画像付き案内版(「都市のルーツ案内版」と仮称)などの工夫も進み、都市観光のコンセプトが体現されてきました。後に、食品工業団地を観光と結びつけたフードパル熊本も整備されました。

熊本とは公私を合わせて30年以上のつきあいとなりました。最初の都市観光のコンセプトも現在の「観光コンベンション都市熊本」に引き継がれており、「あの基本構想の考え方があったから、ここまで拡大できました」と市役所の方から言われたことがあります。今年4月の熊本地震で市も大きく被災しましたが、旧知からは城の文化都市の再生を期すといった意気盛んなお便りが届いています。
(注)熊本市の観光基本構想策定の4年後にその施設整備計画が具現化
 
1974(昭和49)年度に入り、熊本市では先の基本構想に基づき西山(金峰山)地区の施設整備計画の策定が日観協に委託され、その作業を設立したてのジェドで担当させていただきました。日観協では高橋進部長(後の東京農業大学教授)がこの計画を担当されました。

この計画対象地区の金峰山は、雲仙・島原や有明海を眺望できる展望地で、昔は元服前の男子が必ず登る習慣があり、以後も市民の身近なレクリエーションかつ心の拠り所となっていました。そこで近郊緑地・金峰山の心と景観のシンボル性を活かすことを重視し、点在する自然、歴史などの個性的資源を活かして近隣者や市民の日常的反復利用を支持基盤とし、広域観光レクリエーションの利用に拡大する考えを基本方針としました。

整備のポイントは、風光明媚な肥後耶馬溪周辺、宮本武蔵が晩年五輪書を書いた雲巌禅寺周辺とアクセス道路、夏目漱石の「草枕」の一節「おいと声をかけたが返事がない」で知られる峠の茶屋周辺、金峰山頂と山麓を含む観光ルート整備などです。この施設整備計画に基づき、雲巌禅寺周辺へのアクセス道路の整備は路線を変更して実現しました。参考事例を提供した肥後耶馬溪への架橋ができ、峠の茶屋の実施計画案も後に担当させていただき峠の茶屋公園に結晶しました。

この計画が実現したのは、市の公的施設整備事業として推進されたということもありますが、何よりも市初の観光基本構想を軸に地区別計画を策定し、必要なものについてはさらに個々の実施計画という手順を踏んで実現性を吟味しながら推進された行政のぶれない姿勢によるものだと思います。

●地域・ユーザー協働型による過疎地のリゾートコミュニティ形成の実験

実現はしませんでしたが先駆的な取り組みだったと思うのが、1971(昭和46)年度から2年間ジュピオが日本農業新聞の委託で行った新潟県松之山町でのリゾートコミュニティ構想の実験です。この構想は、観光レクリエーションユーザー(東京都市圏住民)と過疎地松之山とを直接結んで交流型の振興を目指したものです。

高度成長期の1960年代半ばから農山漁村の過疎化が進み1970(昭和45)年には過疎地域対策緊急措置法が成立します。その翌年に日本農業新聞からジュピオに3か所の過疎地の一つをケーススタディ地区とする観光振興の相談がきました。対象は長野県美麻村、鬼無里村、新潟県の松之山町でした。

ジュピオの代表が都市・農山漁村交流型の「リゾートコミュニティモデル」を発案し事業化を実験することになって私も計画・実験等を分担しました。3か所のプレ調査の結果、長野県美麻村、鬼無里村には既に民宿が開業しており松之山町だけがまだ民宿も育っていなかったのでそこをケーススタディ地区に選定しました。

ユーザー側として当時約30万人の居住者を抱える東京の住宅公団自治協をはじめ、江戸川区都市環境会議など都内にあって自然地域への志向性の高い団体や個人の実験への参加を検討しました。役割分担は、ジュピオがモデル計画の立案、地元は松之山農協が滞在型観光を企図した受入態勢づくりとしました。

実験は秋葉原の日本農業新聞の本社前からバスを仕立てて住宅公団自治協の理事等関係者に同乗してもらい、アドバイザーとして日観協の豊川さんにご協力いただきました。現地では3軒の民泊サ−ビスの実験を含めて三日三晩交流プランを呈示して実現性を探りました。翌年には「松之山倶楽部」設立の話まで進んだのですが、地域環境や受入態勢には好感が持てるものの、片道8時間かかるのが難点と指摘され、より手軽にリピートできる場所がベターという声がユーザーサイドから上がりました。結果的に計画は実現しませんでした。しかし、後に民泊を受け入れた民家が松之山初の民宿を経営するなど観光振興の一助にはなったようです。この頃日本初のふるさと町民制が会津三島町で発足しました。

この取り組みを行っていた1971(昭和46)年に、長野県木崎湖夏季大学で過疎地振興をテーマに過疎地の全国研修会が行われ、私は講師としてこのモデルを発表しました。このとき過疎地振興を模索していた足助町の小沢庄一さん(後の観光カリスマ、足助町観光協会長)や山形県小国の高橋睦美さんなどとお会いし、この取り組みを評価していただきました。その後、足助町からジュピオに観光のアドバイス依頼がきて同僚の津田宏之さん(後の関東学院大学教授)と出向き、以来ご縁も深まりました。今では農林水産省で「都市・農山漁村の共生対流」が施策化されていて珍しくはないのですが、これは異なる地域環境とそこで育まれた生活文化(異日常性)を介した交流(生活者交流)による振興の方法、計画論的意味で「新しい都鄙連続体の形成」による地域振興の方法として展開できる発想でした。その意味でも、地域・ユーザー協働型の過疎地振興の実験は有意義な取り組みだったと考えています。

●環境保全をベースに土地利用規制を提案した石垣島観光開発計画

1972(昭和47)年、日観協からジュピオに委託された本土復帰まもない沖縄県石垣島の観光総合開発計画の立案に参画しました。

日観協の奈良さんほか、ジュピオ代表の伊久美さん等5名ほどでチームを組んで現地に入りました。年長の奈良さんが40歳前くらいでしたか。一方、現地関係者の多くは年配者で、若いチーム構成が少し気になったようでした。

この計画では、まずはマスタープランが求められているため、オーソドックスに観光立地条件の分析と展望を行い、拠点整備計画、観光ルート計画などを提案しました。その上で、特に力を入れたのが乱開発防止の土地利用規制です。

当時、尖閣諸島海域での石油埋蔵問題が表に出て沿岸域の平坦地はかなり島外資本に買い占められていました。対応策として、環境に適合した開発誘導が課題となり、結果的に、観光資源の保全と開発、既存の農地法、自然公園法(西表国立公園)などの援用や条例化等で誘導することを前提に、沿岸域に土地利用規制の網をかけた観光振興計画としました。以来、八重山地域とは公私のお付き合いができ、数年前の中型ジェット機就航に際し、(財)地方自治研究機構からの依頼でそのインパクトを受けた観光振興対策、水対策などの調査研究を担当しました。海洋性リゾート、国境離島振興などとの関連でも個人的に往来を続けています。

●低利用観光地域の「小規模性」と「知恵」による振興対策を研究

1977(昭和52)年、日観協の低利用観光地の利用促進対策調査の初年度を担当させていただきました。低成長期に入って低迷する過疎地の低利用な観光地域を利用促進するための調査でした。この調査では資源立地、市場立地の良悪のクロスから、「低利用観光地」を、①資源立地も市場立地も良くない観光地域、②資源立地は良いが市場立地が良くない観光地域、③資源立地は良くないが市場立地は良い観光地域、の3つに分け、特に②の対象として福島県只見町を、③の対象として長野県浪合村をケーススタディ地域としました。結果、低利用観光地はソフト(知恵)を使って利用を促進すべしという方針を導き、振興事例で利用促進策の大枠をまとめました。

敷衍すれば、低利用観光地を、過疎地域にあって体力(経済力)は小さいが体質(風土文化)は個性的な「小規模観光地」と規定し、その「小規模性」を活かす工夫を進めることを提起したものです。例えば小規模地域では入込観光客の規模ではなく質に留意すること、小規模地域故にその地域インパクトは大きいことなどを指摘しました。これは低成長期に成熟度を増す観光需要に対して知恵(ソフト)を使った観光地域づくりへの転換を示唆する研究になったと考えています。この調査の座長が当時(財)日本交通公社研修部主任の溝尾良隆さん(後の立教大学観光学部長)、委員に東京大学助教授の渡辺貴介さん、東京工業大学助手の永井護さん(後の宇都宮大学教授)、マーケティング専門家の安間一勇さんなどでした。その後、溝尾さんには特に日本観光研究学会、海外リゾート視察でお世話になり、城西国際大学観光学部でもご一緒しました。多くの観光研究者、実践家と出会えたという意味でも意義深い研究でした。

写真4「低利用観光地の利用促進対策Ⅰ」報告書表紙

写真4「低利用観光地の利用促進対策Ⅰ」報告書表紙
資料:阿比留勝利氏提供

 

●落人文化をテーマパーク化した「湯西川平家の里事業化計画(略称)」

ジェドで構想から事業化計画を受託して実現し、今でも経営が持続しているという意味で、まあ成功した事例かなと思うのが、1980(昭和55)年度に担当した「湯西川平家の里事業化計画」です。これは湯西川温泉の平家の落人文化と村民のアイデンティティをテーマパーク化したものです。

きっかけは栃木県栗山村からの突然の電話でした。湯西川温泉の活性化計画を委託するコンサルタントを東京で探している、村長が今から立ち寄りたいとのこと。栗山村との接触は初めてでした。齋藤喜美男村長によると、我が社が2社目の訪問先だとのことでした。村長は建設会社の社長ご出身で開発や経営管理に詳しい方でした。話を伺うと「湯西川温泉は日光の奥にあって交通条件が悪い秘湯的温泉で、精力剤のサンショウウオでここ10年やってきた。しかしこのままではもたない。次の10年間の活性を維持できる計画が欲しい」とのことでした。

意見交換になって観光ニーズの動向、宿泊定員稼働率の採算水準、宿泊の適正容量、季節変動対策、集落経営に寄与させる開発方式など一通りの話をしました。お話しの中で、湯西川は平家の落人部落という特性をうかがい、平家落人のアイデンティティを魅力化し、集落経営で落人の山里文化を引き出せれば活性化すると直感。茅葺き屋根を基調とする公設民営テーマパーク「平家の里」を提案しました。その後計画策定予算を目の前で見積もると、「ここに決めた」との一声がありました。受託後、現地調査を行い、平家の里のコンセプトを練りあげ、模型を作って施設構成を検討し、配置の適地選定が課題となりました。そこで地形、土地利用や土地規制などから三案の代替案を設定し比較評価で関係者の合意を得ました。こうして平家の里は1982(昭和57)年から4年の工事期間を経て、1985(昭和60)年6月6日にオープンしました。敷地は1.7ha、事業規模は約3億円で、主な財源は国の第三期山村振興対策事業補助金2億円に県単の山振事業補助が投入されました。国の補助を受けるために我が社も何度か同行して財務計画等を説明しました。オープンした初年度の経営収支差を聞くと、事前に行った財務シミュレーションと大きく狂いがなく事業化計画の妥当性が実証されました。

私は当初からこの事業は成功すると考えていました。奥まった場所にある湯西川には自然と集落以外に見学・体験する施設がない。一方平家の落人部落の誇りが生活に息づいているので、「平家の里」というコンセプトは住民と山里文化を求める観光客双方のニーズに合致すると考えました。住民の誇りや心の支えは実現性、持続性につながる重要な要因になると思ったからです。

実施は地元設計事務所が担当。建築と敷地計画は我々の計画に準じたものでしたがデザインや展示の一部に少し違和感をもつものがありました。「計画は東京、実施は地元」のスタイルはやむを得ない面もありますが、「計画コンセプトを実施主体につなぐ仕組み」が手薄でした。

写真5「平家の里」中庭周辺の様子(平成8年撮影)

写真5「平家の里」中庭周辺の様子(平成8年撮影)
資料:阿比留勝利氏提供