概要
●関連主体参画の計画過程が合意と実践を引き出した「那須町観光振興基本計画」
1982(昭和57)年暮れに、那須町から観光振興基本計画を策定したいとのお話がありました。当時は石油危機以降の低成長の中で、観光地域は低迷を続け、惰性化したキャンペーンとイベントの繰り返しで悶々としていた時期です。
現地に出向き、益子重雄町長、室井平七那須町観光協会長とお会いしました。町長は会社社長のご出身、室井会長は那須温泉・那須観光を主導してこられた重鎮で、芭蕉が滞在した那須湯本の清水屋のご主人でした。
町の観光審議会で答申された計画案を見せてもらうと、数枚の文章で記述された方向づけだけでした。「これだけでは町ぐるみで取り組む計画にはならない」のでプロジェクト化した計画立案を、と提言しました。後に、その答申を受けた観光振興基本計画の策定が決まり、結果的に我が社が担当することになりました。那須町では初の観光基本計画の策定でコンサルを入れるのも初めてでした。
具体的な計画立案は町と観光審議会(観光業界等)を中心にコンサルが関わり、アドバイザーとして県の観光主管課が参加する方式で進められました。結果、基本計画は1983(昭和58)年度にできました。類例もつけて、誰がどう関わればいいかというプロジェクトの推進方式案を出したところ、行政も民間も関わり方がある程度わかったということで、計画はかなり実現性を帯びてきました。これまで公共・民間ともに活性化の必要性を認識し、意欲ある民間グループ活動などもありながら、活性化の方針・方策を共有できなかったため具体化しなかった様子がうかがえました。
この基本計画では全体計画とともに、17の主要プロジェクト化によって課題解決を具体化し、合意とある程度の実効性を持たせることができました。
実現した主要プロジェクトの一つを少し説明します。後に「那須高原友愛の森」と呼ばれる施設です。プロジェクトの内容は地場の芦野石産業の観光資源化による産業と観光の活性化を狙ったものです。那須高原の観光流動のコア地区にある町のコミュニティスポーツ施設想定地を使って「ストーンガーデン」として整備する案です。整備手法は芦野石を使った現場制作による国際彫刻シンポジウムを中心とし、施策プロセスの観光資源化と完成後の観光流動とからめて芦野石等地場産業の宣伝PRを促進するといった構想です。これは那須町のプロデュースによって芦野石産業、町内芸術有識者を介した国内彫刻家集団の結集と著名建築家の投入となって彫刻シンポジウムが開催され、併せて関連施設も完成しました。その後道の駅にも登録され、那須高原友愛の森自体がまるごと芦野石の見本施設といってもよいものになっています。
このほか県の既定計画かつ那須町の観光振興の先導的取り組みとして殺生石園地の整備が進みました。温泉地区でも鹿の湯伝説にちなんで温泉につかる鹿の石像、公衆トイレのセンスアップ及び県、町による湯本園地の整備が進められその実施の一部をジェドで担当しました。その後、町営共同利用模範牧場を「体験型観光牧場」に転換するプロジェクトの事業化計画も担当しました。この考え方は後に総合保養地域整備法(略称リゾート法)の計画にも取り込まれ、栃木県内で最初の承認にもつながりました。そのほか基本計画と絡めて民間主導で実現したのが地元出身の有名な民芸作家故五十嵐豊氏作品の展示施設「ギャラリー駒」、那須湯本温泉街の町並景観整備の誘導を企図した清水屋(先述室井会長の旅館)の先導的修景整備、湯本観光案内センター・観光協会事務所の再整備など、ソフト面でも、若手による九尾太鼓が創設されました。
低成長時代の終息期でもあり、この計画が水面下の潜在意欲を顕在化した面があったのかもしれません。しかし、多くの計画事業が推進された直接の要因は、民間企業の社長ご出身であった益子町長と室井会長という官民の先見性あるリーダーの下に、民間事業者の参画、県関係者の側面支援といった数々の連携が進んだからだと思います。計画作業を担当した側からすると、計画のプロセスのアクションプランニングと位置づけた関係者参画が功を奏した面もあったように思います。
その後、平成2002(平成14、15)年度にもコンペで那須町観光振興基本計画の立案を担当。地域再生とからめて那須高原友愛の森の再整備及び管理運営計画に関わりました。前者では、休日に交通渋滞で慢性化する那須湯本温泉の車乗り入れ緩和のための那須高原友愛の森発のバスシステムの検討、後者では那須高原友愛の森に農産物直売所の複合化と公の施設全体の効率的管理運営方式の検討でした。特に後者については公設民営化を含む管理運営方式を代替案で提言しました。那須町とは1983年の観光振興基本計画以来2003(平成15)年まで20年間のお付き合いです。
この仕事との関連で、隣接する黒磯市、大田原市の観光振興基本計画等も担当させていただきました。黒磯市では、基本計画のほか「那須の巻き狩り鍋」の事業化、板室温泉の国民宿舎跡地の施設計画が実現に繋がり、新幹線那須黒磯駅の周辺整備などをとおして商店街と観光との連携を含む観光まちづくりにも参画しました。
●住民参画型で実現した岡山県「むかし下津井廻船問屋計画」
ジェドではできるだけ民間事業者を含む住民参画型の計画づくりを心がけてきました。平家の里、那須町の観光振興基本計画などはその一端です。これまでの官民連携による観光計画では、概して住民・関係者参画がそれほど手厚くされていなかったきらいがあったと思います。しかし、それでは地域としての計画の意義や実行性が担保されにくい面があります。観光施策の推進から事後の観光地経営段階まで活力を再生産させるためには当初から住民・民間関係者の参画がポイントと考えています。
その意味で1988(昭和63)年から1994(平成6)年まで、6年かけて岡山県下津井周辺地区の観光による地区活性化のコアを目指した「むかし下津井廻船問屋計画」は、特に住民参画による方法で実現をみた例だと思います。
この計画は、県から「町並み保存地区」に指定された下津井の漁業集落と、金毘羅両参りや北前船十里港として賑わった下津井港に残る約100年前のニシン蔵(旧山高)を活かして、下津井地区の街並み環境整備及び観光による活性化を図るのが目的でした。特にこの事業にはニシン蔵を生かして若者がイベントや交流できる場をつくりたいという岡山県(長野士郎知事)のご意向もありました。
県主導のプロジェクトとして立ち上がり、初年度は日観協経由で全体構想の作業をジェドで担当。2年度目以降は我が社に直接依頼があり、日観協と相談してジェドで作業を担当しました。作業は全体構想に基づく街並み整備の方向と旧山高の整備内容の合意が課題で、代替案による住民との意見交換を積み上げ、結果としてニシン蔵を中心に町並み整備を進める方向づけとなり、ニシン蔵は資料館化が決まりました。6年目に着工・完成した資料館「むかし下津井廻船問屋」は、日本家屋の梁や柱の構造をそのまま内部デザインとして活かし、ニシン蔵は若者の集まれるビアホール・カフェバーのような賑わい空間を演出。横には下津井名物のタコ料理屋を配しました。
この事業で何よりも重視したのは、下津井住民の誇りを大切にし、地区づくりの拠り所とすることでした。そこで集落に継承されてきた“お宝”の発掘・展示を進めました。結果、明治以来の下津井の写真10万点をお持ちの住民の方がご寄贈くださった写真を資料館に展示するなど地元の隠れた資源が発掘されました。計画から実施にいたる推進体制は副所長(樋渡牧人)を軸に資料館に精通した建築家の参画を得、展示の実施は(株)丹青社と連携させていただきました。
「資料館の管理運営を住民に」と主張しましたが、残念ながら実現せず倉敷市の管理運営となりました。現在資料館は無料化され住民ボランティアガイドの案内もあります。数年前に訪ねたら年間10万人くらいの来訪者があるとのことでした。
●「若狭小浜食芸工房構想」の複合コンセプトが活かされた「若狭おばま食文化館」
平成元年度に福井県小浜市の「若狭小浜21観光ビジョン」の公募コンペで計画を受託しました。市初の観光ビジョンの作成です。「海のある奈良」といわれ、城下町でもある小浜は海のシルクロードの終点で北前船の十里港でもありました。また東大寺二月堂のお水取りに送る3月2日の神宮寺のお水送り神事はよく知られています。そのほか若狭塗り、若狭めのう、若狭和紙、若狭塗り箸、若狭瓦などの伝統工芸、日本遺産にも認定された鯖街道とかつての御食国にふさわしい海の食材、江戸時代の花街で重伝建地区の三丁町の街並み、八百比丘尼や杉田玄白、梅田雲浜や歌人山川登美子等の事績が残るいぶし銀のような深みのあるまちです。ビジョンはそれらの資源性を主要事業として活かす方向を検討しました。
このビジョンの骨子固めは数年前から住民参画で進められており、ビジョンは市民各界の人々からなる委員会方式で合意されました。その後事業の具体化の中で、伝統工芸産業の観光利用を含む地場産業会館調査、物産館整備による工芸・観光活性化調査(略称、平成8年度)を担当し、結果として御食国の食と工芸を複合した「食芸工房構想」を提案しました。これは当時の湯田辰夫産業部長が長年温めておられた考えも取り込ませていただいたものです。提案はビレッジタイプの複合施設でしたが、2003(平成15)年の若狭路博2003の海会場として建設された御食国若狭おばま食文化館(海の駅)にそのコンセプトが息づいているように思います。
小浜市は「食のまちづくり条例」を基軸に地区レベルでの住民主導によるまちづくり事業(いきいきまちづくり事業)を進めて魅力凝縮都市の形成で成果を出して います。私はビジョンを担当して28年、御食国大使として地道な積み上げと成果を確認してきました。また、ご縁があってお水送り神事の場である鵜の瀬の環境整備計画も担当させていただきました。
●「日本1/0村おこし運動」を観光につなげる「智頭町交流観光基本構想」
鳥取県智頭町は岡山県境にある千代川の水源地域の町です。智頭杉で有名な林業の町で調査当時人口9千人弱の過疎地でした。町の林業が外材などに押されて衰退する中で、「日本1/0村おこし運動」(「ゼロイチ運動」と略)は、郵便局長の寺谷篤さん、製材所経営者の板橋登志行さんの2人がリーダーシップをとって起こした自力更生の集落おこし運動です。ゼロイチとは無(0)から有(1)を産み出す運動の意味で、集落が一つの誇り(宝)づくりを行う運動です。運動は前段として10年以上「智頭町活性化プロジェクト集団」を立ち上げて展開されました。それが功を奏して町内の集落おこし運動に進展し、後の1997(平成9)年に行政が自主性を損なわない範囲で支援する制度を創設しました。
この集落・地区おこしを軸とする「ゼロイチ運動」を広い意味での観光に結びつけたいという話を、当時智頭町長補佐官の河原利和さん(現島根県中山間地域研究センター職員)からうかがいました。そこで相談して固めたのが当時まだ少なかった「交流観光」というコンセプトです。「地域個性(生活文化)を介した交流による振興から広く観光にも繋げる」という考え方、すなわち集落や地区とがお宝を介して域外との交流を促進し、熟度が上がれば都市域等との対流型の広域観光として幅と厚みをもたせていく考え方です。
町内では日本初の集落NPOを立ち上げた智頭町新田集落が特産の米を介して大阪いずみ生協と連携、その関連で夏には一泊二日で小中学生のファームステイ、さらに新田の人形浄瑠璃芝居などを訪ねる交流型の観光にも展開しています。これは一例で各集落でいろいろの取り組みがあります。これらのソフト振興を地区レベルで支えるのが町のゼロイチの支援制度です。その後、ハード整備の補助事業「田園空間博物館整備事業」が導入されて交流基盤も徐々に整備され、それを活かす住民・コミュニティビジネスの育成で盛り上がりました。この時、私は事業のスーパーバイザー、一部観光情報施設を担当しました。また2002(平成14)年度には、国土交通省・日観協と板井原伝建地区と智頭駅を結ぶ乗合タクシーの実証実験に参画しました。これらは交流観光の主旨を堅持し、寺谷誠一郎町長(後の観光カリスマ)を中心にまちぐるみで取り組まれました。
先日久々に智頭町に行ってみました。高速道の延伸等で観光面では少し元気が萎えている感じをうけましたがゼロイチ運動は健在とうかがいました。
近年、地域の人口減少・高齢化が特に問題視されていますが、住民が基盤にならないと地域魅力の基礎はつくれません。そのことも含めて、基本論ですが、「住んでよし」をベースに「訪れてよし」の構造をつくる基盤から観光まちづくりの展開がうかがえる好例と考えています。最近天然酵母のパン、自家製ビール屋タルマーリ-の移転・事業化などでも智頭町は知られていますが、自立性ある地域には自立する人々が集まるということかもしれません。
●館山市の赤山地下壕等戦争遺跡が平和学習拠点として利用へ
2003(平成15)年度、自治省の外郭団体(財)地方自治研究機構と館山市による、戦争遺跡を再発見して地域振興を考える共同計画研究「平和学習拠点計画」の作業を担当しました。
館山市には館山海軍航空隊跡、州ノ崎海軍航空隊群遺跡、東京湾要塞群遺跡、館山海軍砲術学校軍遺跡があります。その中で市が管理している赤山地下壕が、無断で見学に利用されて安全管理などが課題となっていました。そのため、赤山地下壕の測量と安全性の確認などを含め、戦争遺跡を再発見して地域振興に寄与させる計画の研究を進めました。防衛研究所をはじめ文化財関係の専門家、赤山地下壕の研究家などを結集した委員会での叩き台づくりが主な作業でした。民有地に遺跡が分布し周辺に関係者が住んでおられて太平洋戦争はまだ完全に過去の歴史にはなっていないので扱い方が難しい作業でした。検討の結果、戦争遺跡を地域内外の平和学習の場として整備・供用することで合意されました。そこで防災等の専門企業である大成基礎設計のご協力を得て測量と安全チェックを行いました。後に市が本格的な安全対策を進めて現在供用されています。
調査を実践的にサポートしてくださった赤山地下壕の研究者で当時高校教諭だった愛沢伸雄先生は、その後安房地域の文化遺産や学習旅行の振興などを進めるNPO法人安房文化遺産フォーラムの代表に就任され、平和学習に取り組まれておられます。昨今はディズニーランドと絡めた修学旅行が訪れるなど、平和学習旅行も進展しているようです。戦争遺跡の中核を占める赤山地下壕が平和学習観光というコンセプトで可能となったという意味では実効性のある計画研究でした。私は大学で安房地域のダークツーリズム研究の素材として折々紹介しております。
●大学等で観光地域づくりを教える
ジュピオ、ジェドのコンサル時代も含めて大学で観光地域づくりに関連する教育にも係わってきました。
ジュピオ時代の大学院在学中の1970(昭和45)年4月には、研究室の大先輩である藤井博巳さん(後の芝浦工業大学建築工学科教授)から芝浦工業大学建築工学科の兼任講師の声をかけていただき、以後16年間建築図学・設計製図・地域計画等の卒業論文を担当させていただきました。特に卒業論文では、観光とのクロスを入れた農村計画、離島振興計画、都市廃棄物問題ほか八幡平国立公園の土地保全分級と観光利用、対馬の石屋根集落の保全と観光活用などを指導しました。
その後、平成13年に前田博さん(現京都造形芸術大学教授)からのお誘いで、岐阜県立森林文化アカデミー(旧県立林業短大)の非常勤講師として、観光地域計画の実務を含む実践計画ゼミを10年間ご一緒させていただきました。大卒後に専門性を高めるために入学した諸氏等受講生は多彩で、卒業後は地域で観光やコミュニティビジネスを起業化した方もいます。こちらも大いに学びました。
2004(平成16)年後期に、日観協を辞されて後城西国際大学経営情報学部教授に就任しておられた奈良さんの補講をお手伝いしたのがご縁で大学から教員にとの打診がありました。観光学部を創設するということでしたのでお受けし、翌年から経営情報学部教授として観光を担当し、観光学部設立に伴って異動しました。現在は観光学部の客員教授、大学院国際アドミニストレーション研究科教授として観光まちづくり、観光地域経営等の講義を担当しています。
この間、2010(平成22)年4月から一年間、旧知の佐々木俊介さん(青森公立大学教授)からお声をかけていただき非常勤講師として観光を講義させていただきました。下北半島の地域開発、三沢市などの観光振興計画等にも参画してきましたのでありがたい機会でした。学生諸氏等にお役に立てた面があれば幸いだったと考えています。
(2)観光分野での業績、そして自慢できる功績は何か
大学院、ジュピオ、その後30数年のジェド時代、そして大学教員として多くの観光地域づくりに係わりました。主なもののいくつかは先に概説したとおりです。
自慢の出来る功績はありませんが、観光政策面で関わった次の2つは制度化・ルール化されました。新しい分野に携わったという意味で挙げておきます。
①総理府観光政策審議会専門委員としての制度づくり(「国際観光モデル地区」)
観光政策審議会(以下「観政審」と略)で「国際観光モデル地区」検討の専門委員を1984(昭和59)年から5年間務めました。「観政審」が運輸省に移管される直前の時期です。ワーキンググループは運輸省、座長は日観協の津上毅一副会長が担当されました。渡辺貴介さんも委員でした。そこでは一部お手伝いもし、「外国人も一人歩きでき、自在な交流もできる観光地づくり」を提案しました。その後、ジェドでは栃木県からの依頼で日光・宇都宮地区、日観協からの依頼で広島・宮島、松江・出雲の3地区の実施計画作業を担当しました。
日光・宇都宮地区では英語、韓国語、中国語のアンケートを実施し、i案内所と準i案内所の整備、案内版や案内標識の外国語併記、和洋トイレのミックスや維持管理、宿泊施設のプライバシー確保)、医療機関での外国語対応の問診票の整備などモデル地区の主旨である受入態勢の整備を軸に観光魅力の向上策も検討しました。その後5年間実施計画の進行管理委員会にも参画しました。
このモデル地区は受入体制の整備が中心でしたが、最近の多国籍客の来訪増大に伴う情報提供の多言語化や異文化対応(ハラール対応等)、スマホ普及に伴うWiFi機能の整備、クレジットカードの多様化などは当時と少し様相を異にする面はあります。しかし、受入態勢の基本方針は大きく変わらない。それを考えますと、モデル地区を指定した頃から30年近く経ったにもかかわらず受入態勢を巡る国際化の内実はそれほど進んでいなかった様子もうかがえます。
納得はしてはいませんが、来客が少ないと先行して受入態勢を整備することに力が入らないものか、と改めて感じています。
②わが国における「スカイスポーツ」振興のルールづくりへの参画
1989(平成元)年から4年間(財)運輸経済研究センター・運輸省に協力して、ジェドとしてスカイスポーツ調査に参加しました。当時はまだスカイスポーツにルールができていない状況で実態が先走っており、安全対策も追いついていない状況でした。まず実態を把握し、ルール作りと地域整備研究のお手伝いをしました。
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発注者 | 公益財団法人日本交通公社 |
実施年度 | 2016年度 |