観光地づくりオーラルヒストリー<第7回>猪爪 範子氏
1.「観光」への接近

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第7回>猪爪 範子氏<br />1.「観光」への接近
写真1 猪爪範子氏への取材風景 (2015(平成27)年9月15日、長野県上田市)

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現場での体験を通じてプランナーとしての『座標軸』を求め、
持続可能な地域社会形成への貢献を目指した

-都市・農村計画

猪爪 範子氏

 

東京生まれ。東京農業大学農学部造園学科卒業。同年(社)日本観光協会(現公益社団法人日本観光振興協会)入協。退職した後の1978(昭和53)年に由布院温泉観光協会事務局長を務め、次いで地域総合研究所を東京に設立。各地で計画策定や現場に関わりながら、大学での教鞭、原稿執筆、講演などに取り組み、2000(平成12)年には母校で学術博士を取得。現在は、軸足を国外に移行中。

(1)なぜ観光の道を選んだのか

生まれは東京です。私の父は戦前アメリカにいた人で、日本に帰ってから所帯を持ち、私と妹が生まれました。1952(昭和27)年に、「もく星号」という国内を飛ぶ旅客機が伊豆大島の三原山にぶつかって墜落した事故がありました。その1週間前に、家族みんなでその飛行機に乗りました。私は10歳くらい、小学生でした。たしか、名古屋空港に降り立ち、志摩観光ホテルまで延々と車に乗って行ったことを覚えています。父は、ホテルが好きでした。戦後、進駐軍に接収されていたホテルが次々に解除になった時代です。学校が休みになると、日光、箱根、中禅寺湖、河口湖、赤倉の赤い尖った屋根のホテルにも連れて行ってもらいました。写真がたくさん残っています。父自身、とても旅行が好きだったと思います。

私が中学生の頃、父は数か月間アメリカ各地を旅しましたが、行く先々からたくさんの絵ハガキを送ってくれました。そのどれもに、皆に見せたい、皆で来ようと書いてあります。筆まめな人でしたね。大きな箱いっぱいに残っているそのハガキは、大事な宝物です。今も、ときどき見ます。

そういう意味では、母もその影響を受けていましたね。通年、和服を着てすごした人でしたが、「死ぬまで年に一度はハワイ」を、実践しました。一番好きなハワイはマウイのハナ。最後のハワイはマウイのカアナパリ。92歳の時でした。その時、10年パスポートを取りましたが、旅券発給所のスタッフの方から「100歳過ぎてもハワイ」と激励していただき喜んでいました。でも、それから2年後の一昨年、そのパスポートを持って母は他界しました。私が旅行好きなのは、父母、とりわけ父の影響でしょうね。

私は勉強好きではなかったし、父は「女の子は嫁に行けばいい」という人でしたから、もともと大学に進学するつもりはありませんでした。高校1年の時、その父が突然に逝ってしまいました。高校を卒業するとき、母が「大学に行ったら」と言ってくれたものの、どうしてよいかわからず、大いに戸惑いました。

当時習っていたピアノの先生のお父さんが東京農業大学(以下、東京農大)の学長さんだったことや、住んでいたところが代々木八幡だったこともあって、経堂にある東京農大へは小田急線1本で行けるから便利でいいかなという程度が、この大学を選んだ動機といえば動機かもしれません。基本的には、あまり東京が好きじゃなかったこと、父が突然に亡くなって親族間でいろいろあったものですから、家や母から自立しようという思いも強くありましたね。卒業して仕事を持った時に、東京以外のところに住みたいとも思っていました。それには地方に関わりができそうな東京農大がいいのかなと考えた覚えもあります。母は、女子大の英文科とか家政学科などをイメージしていたようで、私の選択にびっくりしていました。でも、反対はしませんでした。それ以降も、少し変わった私の選択に、母はまったく反対しませんでした。「いいも悪いも、戻ってくるのは全部自分に」というのが、彼女の考え方だったようです。「自分が下した決断は、自分にしか責任がとれない」ということですね。

こうして東京農大の農学部に入り、造園学科に進みましたが、この学科を選んだのは消去法です(笑)。大学で学ぼうという動機が薄いものですから。最初は農学科にしようかなと思ったら、誰かが「田んぼに入ったこともないのに、農学科なんてやっていけるの」と。じゃあ林学科にしようかな。でも、運動神経の鈍い私は、木登りができないし…。なら、造園かな。楽そうだからと。でも、これも、思い返せば、父の影響が色濃いような気がします。父のライフワークのひとつは、地方の名園の復興でしたから。その現場にたびたび連れて行かれましたし、幼いころからの家族旅行の先々で、名園を見せられて退屈した覚えもありました。

その時の農大の先生に、江山正美さんという方がおられました。風貌、言動ともに、とてもユニークな方で、東京大学の林学を出られたとか。日本観光協会(以下、日観協(現日本観光振興協会))の仕事もされていたことを、卒業後、知りました。でも、あの時代ですから、平気で「化粧しないのか」、「化粧しろ」とか、おっしゃる訳です。洋服のことも、たくさんコメントされました。レポート出しに行って、何でこんなこと言われなきゃならないかと、当時思っていましたね。

造園学科の同期の女性は9人いました。造園学科に一番女子学生が多くて、他の専攻ではほとんどいませんでしたから、広い学内で女性用トイレは1か所だけ。体育の時の更衣室がなくて、体育教員室の一角をカーテンで仕切って使っていました。大学は面白くありませんでした。大教室での授業は薄かったし、専門的な職業教育のプログラムは皆無だと思いました。だから、結果的に在学中は遊んで暮らしました。社会人になって、いろいろな大学の出身者に出会って、学生時代に仕込んだことの違いに愕然としたものです。余談ですが、「農大は専門学校かい」と聞く人がいて、「なぜ」と聞いたら、「君は教養がないから」。絶句しましたよ。

学校に行かずに何をしていたかというと、小さな土木系事務所で、宅地造成の図面を書いて、土量計算をしていました。手で、ガシャガシャまわす、うるさい計算機で。ボタンタッチの計算機が出る前のことです。そのうち、造成する宅地に埋め込まなくてはならない公園の図面を書かせてもらうようになったので、設計資料集成のページを繰りながら、見積書までつくりました。社長夫妻は広島、一連の作業を手取り足取りで教えてくださった技術屋さんは徳島出身。大学を卒業してからお会いすることはなくなりましたが、50年以上たっても、忘れがたい方たちです。

もらったお金の使い道ですが、全部、旅行に費やしました。周遊券とユースホステルを使った格安旅行で、在学中に宗谷岬から枕崎、沖縄まで行きました。沖縄に行くために取った、簡単なパスポートが残っています。60年代の日本には新幹線も高速道路もなかった代わりに、それぞれに固有の景観や文化があって、それは美しく、人びとは寛容で親切でした。簡単に旅券が取れるようになったのは、東京オリンピック直前の大学3年のとき。だから、学生時代に国外に出る機会はなかったです。

 

(2)観光との出会いはいつ、どこで…

1965(昭和40)年に卒業しましたが、前年に国家公務員造園職の試験に合格していました。でも、女子の雇用についての前例がないという理由で、採用されませんでした。「少し早く生まれすぎたね」なんて言われましたよ。2次の面接試験で、「結婚したら仕事辞めるだろうね」なんて質問ばっかり。公務員試験が、資格試験で採用試験でないことも知りませんでした。造園職として、建設省(当時)に女性が採用されたのは、それから10年くらい後だったでしょうか。

卒業を目前にした私に、救いの手を差し伸べてくださったのが、日観協に勤めておられた高橋進さんでした。非常勤で東京農大で教えていらして、学生たちによる観光研究会の指導もされていました。私は大学に寄りついていませんでしたから、参加していませんでしたけど。「国家公務員の試験に受かっているなら、日観協に来たら」と言ってくださいました。オフィスは丸の内でしたから、ヒールのある靴を履いて、通勤電車に乗るOLになったわけです。

造園学科を出た女性の同級生たちは、3人がすぐに結婚して専業主婦に、就職を希望した人たちは大学の世話にならず全員就職しました。園芸関係の出版社に勤めた人、神奈川県の農業系高校の先生になった人、業界新聞の編集者になった人、岩手県の国体施設建設現場に潜り込んだ人、精神病院で作業療法士になった人、それに私。定年まで一筋に勤めあげた人もいます。

大学は、二言目には「就職先探すより、嫁に行く先を探せ」でしたよ。入学したときには、「これからの女性にとって、可能性に満ちた職域」なんて言っていた同じ先生が。だから、みんなで就職情報を持ち寄り、助け合いました。70歳を過ぎて会うことは稀になりましたが、卒業後も支え合って生きた、終生のよき友人たちです。

表1 猪爪範子氏の経歴

年                経歴
1965(昭和40)年 東京農業大学農学部造園学科卒業
1965(昭和40)年 社団法人日本観光協会調査部研究員
1978(昭和53)年 由布院温泉観光協会事務局長
1979(昭和54)年 大分県中小企業情報センター研究員
1980(昭和55)年 株式会社シーエスケイ(地域総合研究所)設立
1992(平成4)年 関東学院大学工学部非常勤講師
                       (工学部2部造園学総論)(建築学科1部景観論)
1992(平成4)年 東京農業大学非常勤講師
                       (特論、環境計画基礎)
1997(平成9)年 東京農業大学造園学科非常勤講師
                       (観光リクレーション計画論)
2002(平成14)年 広島市役所企画総務局理事
2005(平成17)年 社団法人ツーリズムおおいた事務局長を経て
                             ツーリズムコーディネーター

表2 学会および社会における活動

年度                 内容
1988(昭和63)年  森林フォーラム実行委員
1992(平成4)年    神奈川県観光審議会委員
1992(平成4)年    日本造園学会編集委員
1992(平成4)年    福井県ふるさと大使
1995(平成7)年    日本造園学会評議員
1995(平成7)年    林野庁林政審議会専門調査委員
1995(平成7)年    財団法人日本農業研修場協力団理事
1995(平成7)年    日本都市計画学会学術発表会論文審査部会委員
1995(平成7)年    まちづくり学会評議員
1995(平成7)年    財団法人地域活性化センター
                         地域づくりリーダー養成塾専任講師
1998(平成20)年  東京都観光事業審議会委員
1999(平成21)年  長崎県政創造会議委員
2004(平成6)年    独立行政法人国際協力事業団
                          「インドネシア共和国地域開発政策支援の専門家」
2005(平成7)年    独立行政法人九州研修所講師
2007(平成9)年    国土交通省北陸圏広域地方計画懇談会委員

表3 著書

年                 タイトル/共著・単著の区別    出版社
1974(昭和49)年 市のたつまち(共著)    現代旅行研究所
1976(昭和51)年 民宿 : 全国特選ガイド 現代旅行研究所編   現代旅行研究所
1978(昭和53)年 ネパールからアフガン・ソ連 はじめての旅・ひとり旅(単著)    あむかす事務局
1980(昭和55)年 地域の文化を考える(共著)   日本経済評論社
1980(昭和55)年 まちづくりと地場産業(共著)   日本経済評論社
1980(昭和55)年 観光地環境の再点検(共著、これからは知恵くらべの時代!
                         “地域”に根差した観光地づくり 新しい時代への準備を始めつつある湯布院町の例(共著)
                         社団法人日本観光協会
1981(昭和56)年 ムラおこしにおける理論と実践(共著)  総合研究開発機構  大分県中小企業情報
1981(昭和56)年 文化行政とまちづくり(共著)   時事通信社
1982(昭和57)年 中野まちづくり白書(共著)   中野区役所
1985(昭和60)年 環境を創造する造園学からの提言(共著)  日本放送出版協会
1989(平成元)年 リゾート開開発計画論-地域形成とリゾートコンプレックス(共著)   ソフトサイエンス社
1989(平成元)年 地方創造への挑戦(共著)     ぎょうせい
1989(平成元)年 まちづくり文化産業の時代 地域主導型リゾートをつくる(単著)   ぎょうせい
1989(平成元)年 湖都のおんな華やぐ 松江発女どきのまちづくり 松江市連合婦人会(編著) ぎょうせい
1990(平成2)年 プラスチックチルドレン(編著) 世田谷区役所
1991(平成3)年 自由時間都市まちだをつくる(共著) 町田市役所  地域総合研究所
1996(平成8)年 地域づくり読本-理論と実践(共著) ぎょうせい
1997(平成9)年 まちを設計する-実践と思想-(共著) 九州大学出版会
1998(平成10)年 女性によるまちづくりハンドブック―女性たちが拓く地域づくりの新しい世界(共著)  
                       地域づくり団体連絡協議会、ハーベスト出版
1998(平成10)年 ランドスケープの研究第2巻(共著) 彰国社

表4 論文、雑誌記事等
【表4 PDF】

表5 受賞

年                            受賞内容   授与者
1980(昭和55)年 第6回 造園大賞 東京農業大学
1982(昭和57)年 自治体学会公募研究論文一席 自治体学会
2000(平成14)年 論文奨励賞 日本都市計画学会

図1 『まちづくりと文化産業の時代』ぎょうせい、1989

図1 『まちづくりと文化産業の時代』ぎょうせい、1989