概要
●観光計画の体系
観光計画という分野が確立しているという前提で、この質問項目が立てられているのだと思いますが、私は観光計画だけをやってきたわけではありません。思い返せば、持続的な地域のありかたを、主に市町村行政の現場の方々ととともに模索してきたと考えています。
由布院の草創期と思われる40年前、旅館の奥さんたちは、インスタントでない、本当のコーヒーを楽しみたいと頑張りました。お客さまもさることながら、「私が美味しいコーヒー飲みたかったからよ」という動機。ウエッジウッドのイチゴ模様のカップとソーサーがまぶしく見えた時代です。特別のおもてなしではなく、「自分たちの生活そのものを共有していただく」。このスタイルが好きです。それで、成功の果実も手にしました。いうところの、生活観光地です。しかし、今は外からたくさん資本が入ってきて、コミュニティは変質しています。
「川が大事だよ」とか「道をきれいにしよう」などの課題を、気持ちのいい顔見知り関係のコミュニティが変質したいま、どういう道筋を辿ることで地域の合意に導けるでしょうか。空念仏の自己満足に終わらない計画とは、誰に向けて、どんなアプローチをすべきでしょうか。ここでも、由布院のケースは生きてきます。それは、ここで、どういう風に生きることが格好良いのか。その姿を、リーダー自身が自分で具体的に示しました。だから、外部から流入した資本も、ここで稼ぐには「木造平屋がよさそうだ」、「家のまわりに樹林が必要だな」、「泊まる人向けだけの施設でなく、ふらりと立ち寄る人たちのための空間やサービスを旅館内に用意すべき」などなど、形の模倣を始めました。
広島市役所で働いていた時に知り合った人たちが、水上タクシーの会社をNPOで立ち上げて始めました。もう、10年くらいになるでしょうか。市や、河川管理者である国も手掛けようとしましたが、成就しなかった事業です。趣味とボランティアでなければなりたたない。一方、河川での運行の安全、何か起きたときの対応について、幅広く知識を持ち、対応を万全にしておかないと、問題が起きたらすぐに中止勧告を受けることは、明白です。さらにやっかいなことは、一級河川での水上タクシー運行を管理する役所の部署、それに法律や条例もいまひとつはっきりとしていません。
水上タクシーひとつとっても、観光計画という形で、「こういうことをやったらいいですよ」と書くことの有意性を疑います。パチンコ台を思い出してください。板面に絵がかいてあります。たくさんのポケットがあって、そこに導く釘が打ってある。聞けば、釘師という職業があって、玉を誘導する道筋の釘を動かして調整するという。板面の絵、落としどころとしてのポケット群、そこへの誘導を促す釘、日々調整するその向き。観光計画を、こんな風に整理して学生さんたちに話せばよかったと、今になって思っています。
幸いなことに、私は、地域振興という観光も包括するところから地域と向き合えました。役所がクライアントだからといって、単年で終わらせずに経年の変化に付き合う体制や余力もありました。トップデシジョンによって対象地域に遭遇するという幸運にも、恵まれました。実に幸運だったと思います。
●地域の人と一緒に作るのが当たり前
観光計画は、地域の方々の話を聞いて、一緒に作ることが当たり前だと思っています。だって地域の人達が当事者だから。私たちプランナーは一過性の旅人であり、何もしなければ、1年未満で多くの関係が終わります。その間に、当事者の思いを、どれだけ引き出すことができるか。立場の違う当事者に、どれだけ計画の内容をインプットしてもらうことができるかが勝負どころだと思っています。
だから自分が作った計画が実現したか、成功したかということを考えたことがないです。私に与えられたフィールドは、そんなに単純ではないからです。キャンプ場や、野菜の直売場をつくるなど、単体のハード事業なら別でしょうが。
結果としてこのみち一筋できましたが、長い経験から、私は、正義も真実も多様にあるのが地域社会だと思うようになりました。自分自身の立ち位置によって見えてくるものは違います。だから、外部の専門家として現場に立ちながら、自分は正しい場所に位置しているかどうかを、いつも気にします。正しいとは、地域の持続性にかなっているかどうかにつきます。そうであっても、私たちの考え方は、報告書によって残すことが通常です。すぐにそれがかなわなくても、不思議とその痕跡は残るものです。曖昧ないいかたをしないで、時には、大胆なビジュアル表現で方向を示しながらです。それは独り歩きして、思いがけないところで浮上するケースを、数限りなく体験しました。
住む人の目線に立った観光。市民型観光。住んでよく訪ねてよい。まちづくり型観光、ムラおこしなどが、いま、違和感なく使われていることに感動しています。
●提案が一人歩きすればいい
観光計画って、作ってもすぐに実現しないのが常ですよね。事業化までには距離があります。当事者がその気になるまで時間もかかります。ともかく、短年では勝負がつきません。だから、観光計画書のポイントは、意思表示を明解にすることに尽きると思います。そういうことを意識した作り方をしてもきました。
特に、観光計画などで使っていた言葉や提案が部分的につまみ食いされて、あとで動き出す。洪水の後に中州が三日月型に残るみたいに、前後の脈絡はないにしても、ある形が残る。いつか浮上するような仕掛けをしておきます。提案者の立ち位置が間違っていなければ、できます。そのために、後で浮上しやすいように、将来を見据えた、大胆な提案を残すようにしました。
地域総合研究所が、墨田区の委託で観光計画を作りました。国技館も江戸東京博物館もできる前の時代です。“都民”のためのレクリエーション行政や外国人の案内だけが観光行政と考えられていた時代です。この時、当時の山崎区長は「下町という言葉を使うのは嫌だ」とおっしゃいました。「下町人情というのは電車にいち早く乗りこんで、後から乗り込む仲間のためにハンドバッグや帽子を置いて席をとるようなこと。そういうのは、心が狭いから嫌だ」と。宿題は下町に変わる別の言葉を考えよう、でした。現代的な下町の再生の意味合いも込めてということで、作ったのが、「川の手」という言葉です。今はほかでも使われているみたいですが、墨田区が一番最初です。当時の荒川区長にヒアリングをしたときに話したら、彼はすかさず河畔の再開発の名称にこれを採用しました。その年の新語大賞も受賞したような記憶がありますが、荒川区と墨田区のどちらが言い出したか、問題になったらしいです。言い出しっぺは、私たちに他なりませんが。
ちなみに墨田川を水上交通に利用しようという提言は、この時が初めてです。まだ川が汚い時代でした。時間はかかりましたけど、その後に東京都のマイタウン構想に採用されて、今では実現しています。
広島市役所では、早晩、去る覚悟をしていましたから、何かを残そうと画策しました。それで、勝手に観光計画を作って置き土産にしました。ただパソコンから打ち出した原稿を置いてきただけでは日の目を見ないに決まっているので、自腹で冊子を印刷し、「お世話になりました」という言葉とともに、市長をはじめ、いろいろな方々に配ったんです。あとで、印刷費は戻してもらいましたが。
「千客万来のまちづくり」というタイトルで、観光を産業として位置づけようという内容でした。国際平和文化都市に観光などそぐわないというのが、当初、つよくありましたね。千客万来という言葉は、かつて市長さんだった方の本が残っていて、そこに広島市はこうあるべきという提言とともに、記述されていました。さらに、私は、観光をビジターズ・インダストリーと言い換えることで、プライドの高いこの都市の、観光への違和感を除くようにしました。負の歴史を背負ったこの大都市を訪問する人たちは多様なので、観光客ではなく、ビジターズと言い換えることもしました。当時の秋葉市長が辞めてから出版した本(『ヒロシマ市長 <国家>から<都市>の時代へ』朝日新聞出版)で、一章分使ってその観光計画の内容について紹介していました。東京都でも、後で千客万来という言葉を使いましたね。そもそものところは書けないにしても、書き物として形を残すと、残骸でもそこから何かが残ります。使われやすいようにしておくことが重要です。だから、自分によって成功がもたらされた観光計画というとらえ方はしたことがありません。
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発注者 | 公益財団法人日本交通公社 |
実施年度 | 2015年度 |