④-1 女川町「民間主導の公民連携」による復幸まちづくり
寺崎竜雄(理事・観光地域研究部長)

 女川町は最大津波高14.8メートル(津波浸水高20.3m)の大津波により、死者・死亡認定者827名(人口の8.3%)、住家全壊2924棟(住宅総数の66.3%)という大災害に見舞われた。行政が被災者の捜索や生活基盤となる物資調達、避難所運営に追われる中で、町の商工会長は100年先を見据えたまちづくりの考え方を示し、復興に向けて民間が一つになった組織の立ち上げを指示。そして被災から一か月あまり、2011年4月19日に、女川町商工会、女川魚市場買受人協同組合、女川町観光協会、宮城県漁業協同組合女川町支所、女川水産加工協同組合などが中心となり、「女川町復興連絡協議会(FRK)」が発足した。
 その設立総会の挨拶で、商工会長は『還暦以上口出すな』と発言。次の世代に町の将来を託し、それまで町の中心として活躍してきた世代は盾となって支えることを伝えた。FRKの代表は商工会長が務め、「まちづくり創造」「水産関連」「商業関連」「サービス関連」「建設工業」の5つの委員会を設置。各委員会での協議内容や、構成員の所属団体・組織で話されたことなどが、月一度の全体会議で報告・共有された。
 一方の行政は、「復興推進室(4月15日)」、「女川町復興計画策定委員会(5月1日)」を設置し、復興まちづくり計画の検討を開始。『減災』という基本理念のもと、海とともに生きていくため、陸と海を遮るものを造らず、居住地は高台に移る。かさ上げしたJR女川駅周辺を町のヘソとし、そこに都市機能と動線を集約したコンパクトな町を目指す。こうしたグランドデザインを描いた『女川町復興計画(計画期間8年間)』が町議会で可決(2011年9月)された。ここにはFRKが提案した『女川町復興計画の基本的考え方-100年先に向けた女川町のグランドデザイン-』が骨子として反映されている。

 こうした経過をへて、FRKは『住み残る、住み戻る、住み来たる』町を理念とする『復興提言書』をまとめ、2012年1月に須田善明新町長(2011年11月就任)と町議会に提出。この中に商工業者が連携しながら復興を目指す法人「町づくり事業組合(仮称)」の設立が提案されている。FRKとしての活動は、これが一区切りとなった。その後、地元産業・住民参加型の取り組みは、町長が設置した「女川町まちづくりワーキンググループ(2012年6月設置)」を中心に進められていくことになる。
 この頃、民間による商業活動は、商工会青年部が中心となった「おながわ復幸市(2011年5月4日)」の開催をきっかけに再開し、7月には仮設商店街「女川コンテナ村商店街(7月1日)」を開業。民設民営のため、公平性を気にかけることなく、その時に立ち上がれる人が出店したという。被災地の中では最も早くできた仮設商店街だといわれている。続いて商工会主導により「きぼうのかね商店街」の準備が進められ、被災地最大級の仮設商店街が2012年4月29日オープンした。被災事業者限定という制約にとらわれず、震災後の起業者も出店するなど、創業支援機能も備えていた。こうした方向性は、新たにつくる商業施設にも受け継がれていく。
 新しい女川の象徴、にぎわい拠点となる商業エリアの整備運営方針は、商工会メンバーが中心となった「女川町中心市街地商業エリア復興協議会(2013年6月設置)」で検討が進められた。議論はもっぱら、エリアマネジメントを担う機関について。その後、女川町が出した『公民連携による商業エリア復興基本方針(2014年4月15日施行)』には、『民間が行政の協力を得ながら新しい公共としての「まちづくり会社」を動かしていくことが必要不可欠である。中心市街地のまちづくりを担う会社は、地域密着型の公益性と企業性を併せ持ち、ディベロッパーとしてハード、ソフトの両面から中心市街地の再生に取組むことが期待される。商業施設・集客施設の整備と運営管理、併せて商業エリアのマネジメント等を担うまちづくり会社を地域関係者との出資により設立する。(筆者要約)』と記されている。
 こうして民間主導公民連携を具現化した第三セクターの「女川みらい創造株式会社」が2014年6月23日に設立された。行政はこれに先立って町役場の中に「公民連携室(2014年4月1日)」を設置し、このまちづくり会社を支援する体制を整備した。
 一方、ハード面の取り組みでは、外部の専門家を委員として招聘した「女川町まちづくりデザイン会議(2013年9月)」を設置。事業者や住民の意見を取り込んで、高台住宅地、商業施設が立地する市街地、メモリアル公園や漁港施設なども含め、新しい女川の町を具体的に描いていった。
 そして、JR女川駅から海に向ってまっすぐ続くレンガみちに沿って、テナント型商業施設「シーパルピア女川(2015年12月23日開業)」が完成。27店舗が入居して営業を開始する。その1年後には「地元市場ハマテラス(2016年12月23日開業)」がオープン。商業関連の大規模施設の建設はこれでひと段落した。いまでは仙台圏を中心に多くの観光客が訪れ、賑わいをつくり、週末には人気店の前に待ち行列ができるほどである。また、Uターン者や移住者が起業し、シーパルピアに個性的な店舗を構えている。

 震災前の女川は、多くのことが行政主導民間参加で進められてきた。事業者団体の横のつながりは希薄だったという。しかし、復興(復幸)の過程では、経済界が結束し、住民、民間事業者らが意見を交わす場が設けられ、そこでの提言を積極的に取り入れた計画づくり、事業執行が行われている。こうした取り組みは、まさに民間主導の公民連携ガバナンスによるまちづくりである。
 背景には、1)被災前から人口減少という危機感が民間の中で共有されていた、2)被災直後の行政は生活基盤づくりに追われた、3)全てを失いゼロからのスタートだった、4)小さな町なのでまとまりやすかった、5)時代の変化に先駆けて自分たちでなんとかするという気質が従前よりあった、という女川町固有の要因があったといわれている。
 その上で、6)ビジョンが明快でぶれない、7)ビジョンが町民に広く浸透、8)参照する先行事例をキーマンらが体験的に共有、9)ビジョン達成に向けた手法の検討・具体化・共有の場を設置・開催、10)議論参加による責任感と相互の信頼・扶助の発揮、などが実効的なガバナンスを作り出したといってよいだろう。
 そして、11)町長の卓越したリーダーシップ、12)民間にも優れたリーダーシップをもった人材が世代ごとに存在、13)外部からの支援、14)一流の専門家らとの協働、そして15)リーダーの考えを実務化し、社会ネットワークを運営し、諸計画の実践を担う事務局担当者の情熱と行動力があってこそ、現場が動いたと考える。

参考資料(主なもの)
・女川町ホームページ
・『女川町東日本大震災記録誌』(2015年11月)宮城県女川町発行
・『女川復幸の教科書-復興8年の記録と女川の過去・現在・未来』(2019年3月)(株)プレスアート発行
・『東日本大震災遺構・旧女川交番』の掲示内容
・女川町の行政・民間事業者らに対する聞き取り調査(2021年2月から3月にかけて実施)