〝観光を学ぶ〞ということゼミを通して見る大学の今
第⑩回石巻専修大学
丸岡ゼミ

震災は不幸なできごとだったが、それをきっかけにした出会いと交流があり、それが被災地で学ぶ学生と私の励みとなり、財産になった

東日本大震災後の被災地石巻市での観光教育

 平成23年3月11日の東日本大震災から今年で10年である。本稿は、その最大の被災地の宮城県石巻市にある石巻専修大学の私のゼミの観光教育をご紹介する。本学は平成元年に学校法人専修大学が開学した。私は平成10年に着任し、ゼミでは平成19年頃から観光に焦点を合わせ、学生には経済発展と観光について考えることを求めてきた。
 石巻市は1級河川の北上川河口の港町で、昔から漁港・舟運拠点として栄えた。石巻市、西隣の東松島市と東隣の女川町を合わせた石巻圏2市1町(震災前人口約21万人)における震災の死者・行方不明・関連死者数は約6千人を数え、本学学生も6人自宅等で亡くなった。多くの人が家族と家や職場を失い、避難所、仮設住宅等で暮らし、通学・就学環境も悪化した。
 震災前、石巻圏の主な交流拠点は、慶長使節復元船サン・ファン・バウティスタ号とその関連施設、そして宮城県出身漫画家の名を冠した石ノ森萬画館だったが、津波で沿岸部の建設物がほぼ壊滅的となり、通常の観光客の来訪はなくなった。代わって多くの行政関係者や支援・視察、復興事業に関わる土木・建設作業員等が訪れた。
 この激変の中の10年間の私達の学びは、すべてがアクティブ・ラーニングだった。

語り部

 例年よりも約1か月遅れて始まった震災年のゼミは学生の被災状況を聞くことから始まった。学生の一人は、市内沿岸部の自家用車内で津波に襲われ、脱出し水の中を歩き、水流を逃れて近くのビルにたどり着き、寒さに耐え生き延びた。事情を知った私は授業後に彼を呼び止め、来訪者に経験を話せるか尋ね、うなずくのを見て、それを勧めた。
 彼が経験を話すと、来訪者は皆その話に聞き入った。語り部の意義を自覚すると、彼は自主的に石巻観光ボランティア協会とともに活動を継続し、地元だけでなく東京等でも人前で話した。自ら被災地の最新情報を調べていたし、話し方はすぐに上達した。NPO発行の機関誌への寄稿など、目の前の学習機会をよく活かした。
 彼は4年時、当時問題となっていた自分の母校の門脇小学校校舎の遺構保存問題を卒業論文で取り上げた。津波の際の火災で焼け黒くなった校舎を「震災を忘れないよう保存すべき」という来訪者の意見と、「震災を忘れたいから壊して」という地元にある意見の差を認識し、自分で調査を行った。結論は、可能な予算に応じた遺構の部分保存という、現実的方法だった。私の教員生活で見た中でもっとも完成度の高い卒業論文だった。
 震災前、彼は目立たなかったが、つらい体験を経て積極的な学びの姿勢と技術を身に付け、傑出した学生になり卒業していった。

被災地への来訪者

 激変した環境の中で、私達は目の前の新しい交流に接し、その理解を目指した。幸い、「震災のことを考えたくない」という学生はいなかった。被災地の情報発信と教育を兼ね、学生の記事をかわら版『石巻復興NEWS』でHP配信した。
 震災後約半年、本学のグランドには各地から津波被災家屋の「泥出し」や「炊き出し」に来たボランティアのテントがあり、私達は彼らの活動に興味を持った。7月末、旧北上川岸に遺族の嗚咽が響く中、私達も来訪諸団体と協力し慰霊の灯篭を流した。8月末には私達も泥出しを手伝った。また、ボランティアへの住民感情は感謝か迷惑か、在宅者を訪問調査し、大多数が感謝という結果を得た。メディアと調査の相違を学生が実感した。

 この頃私達は、被災地のことを知り、伝えようとしていた。本学に出入りしていたピースボートや石巻災害復興支援協議会、石巻市社会福祉協議会にはゼミ時間に活動紹介をしていただき、被災地とこれらの組織の情報を得た。逆に私達も、NPO法人のツアー「石巻元気トリップ」(H.24.06)の時間を借り、被災体験と教訓、現地の様子を来訪者に紹介した。
 相次いだ教育機関の視察・支援活動等も被災地特有の学びをもたらした。会津短大・近畿大学・本学の3大学復興意見交換会を開催した(H.23.10)。奈良県立大学(H.24.05)、明治大学(H.24.12)の来訪時には、私のゼミ学生と合同で津波を想定した避難訓練をした。この頃は学生と私は、復興の方法として来訪者向けの防災研修を考えた。夢メッセみやぎでのビジネスマッチ東北(H.24.11)で学生が発表した研修旅行企画は、大きな拍手を浴びた。
 平成26年・27年には、東京の高校の修学旅行生が各年300人を超える規模で石巻圏に一日滞在し、本学での特別授業を受け、各年市内8ヵ所・10ヵ所でボランティア活動を行った。教員らが石巻での受け入れ準備と授業を行い、来訪日に学生は授業を高校生とともに受け、ボランティア活動を現場で視察した。これは、私達には、教育旅行で被災地に行き活動することの教育的・経済的・社会的意義、その継続性等について考える素材となった。
 異文化交流も活発化した。UCLA(H.23.12,H.24.03)、パプアニューギニア大学(H25.06)が被災地と本学を視察した。後者の書道・折り鶴等体験で私達も日本文化を意識し、また、石巻の被災状況と観光の説明を経験して学生と私の英語の練習になった。オーストラリア国立大学の学生歌舞伎団訪問時(H.29.09)には日豪交流会を行い、学生は自主的宴会も開いた。国ごとの大学事情の相違への理解が進み、度胸は付いた。
 このように私達は被災地来訪者らと行動をともにし、多様な人とコミュニケーションをとる学びを経験した。

被災地内外の認識差

 平成23年11月、被災地支援感謝、情報発信、観光復興アピール等を目的とする宮城県補助事業「仙台宮城食と観光首都圏キャラバン」が行われた。石巻から大学生・教員、石巻信用金庫と料理店関係者等総勢43名が東京神田の専修大学教室と銀座会場等に向かった。
 神田では被災前に石巻で撮影した映画「エクレールお菓子放浪記」上映と私の映画製作応援活動・被災地報告、学生と市民が音楽に合わせスコップを三味線のように鳴らす新芸能「スコップ三味線」、学生と信用金庫の石巻の飲料・菓子の紹介・試飲食・販売、被災地写真展で学生のPR実践機会となった。銀座では料理店の創作「いしのまき丼」が無料提供された。
 このキャラバンで石巻を離れたことで、被災地とその外の違いを知った。当時の石巻市は津波の傷跡が生々しく、関係者はおもてなしは難しいと思っていたのに対し、仙台市関係者はすでに観光復興に積極的だった。さらに、銀座で提供したいしのまき丼を放射能が怖いと言って断る人がいたと聞き、大きな認識差の存在を知った。
 福島第一原発事故後の放射能の風評被害の問題は農業・民泊体験先の農家の方からも聞く機会があり(H.24.11)、学生も私も、その克服方法を考える必要をリアルに感じた。

慶長使節400年

 江戸時代初期、伊達政宗が現石巻市で大型木造帆船を作らせ、支倉常長らをメキシコ経由でヨーロッパに派遣した慶長使節は、出発が慶長18年(1613)、支倉の帰国が元和6年(1620)である。平成25年-令和2年(2013-2020)はその400年後に相当した。
 市の誘致と被災地への関心により、石巻市には平成24年に2隻、25年に3隻のクルーズ船が寄港した。自前の宿泊・飲食施設を有する船のため、被災地寄港も可能だった。本学の観光3ゼミ(清水・庄子・丸岡)が岸壁のテントで乗客を歓迎した。これは、笑顔を見せにくい状況下での歓迎企画への挑戦だった。私達のテントの内容は震災語り部、防災、『石巻復興NEWS』拡大版、そして慶長使節400年だった。
 この機に私のゼミは被災と慶長使節を結び付けた等身大の船のオブジェ「がれきで作ったサン・ファン号」の製作を発案し、市の許可を得て廃棄物の仮置き場から材木を調達した。美術部部長の学生が率先し、材木を組みいかだを作り、マストと横木を固定しロープを張った。ロープを連結する「デッド・アイ」の穴あけの際に彫刻刀で手を切り出血しても完成に向かった彼は、ゼミのリーダーの経験という学びを得た。

 このオブジェは岸壁で記念撮影の背景となった。来訪者の写真をその場で2枚印刷して1枚を贈呈し、もう1枚をオブジェのロープに帆を張るように付けていく、乗客参加型アートとした。地域性と復興へのメッセージを備えた企画となった。
 しかし、被災のため、地元での慶長使節400年への関心は高まらなかった。平成25年度にはゼミで使節史の文献を読み、仙台の七夕祭り(H.25.08)で復興と使節の関連展示を行い、また、イベント展示用のサン・ファン号の模型製作を試みたが、学生の動機が強まらず、展示できる作品は完成しなかった。
 その後も市民と学生の興味を引こうと、慶長使節関連講演(H.27.10、H.28.11、H29.06)・復元船内覧会(H.30.11)・映画「ハポンさん」上映と監督ライブトーク(R.01.07)等の企画を実施し、また、令和元年10月のサン・ファン号の出帆記念イベントで帆船形の立体凧「帆船凧」の工作体験テントをゼミで開設した。しかし、残念ながら、400年の節目の間、学生から慶長使節を活用した展開企画の提案は出なかった。
 地元の資源を生かした観光振興に学生が継続的にかかわるため、資源と学生の関心の接点を見出すことが、教員としての私の未完の課題である。

継続的交流

 ほとんどの来訪者とのご縁は1、2度だったが、継続的交流の例もある。平成23年12月以来、日本計画行政学会の原田博夫氏(専修大学教授=以下肩書は初来訪時)、香川敏幸氏(慶應義塾大学名誉教授)、泰松範行氏(東洋学園大学准教授)らは幾度も来訪し、私のゼミと交流した。最初に訪れた学生の被災地学生を思いやる表情が印象的だった。
 この一行は政治学的な方法論「熟議カフェ」の石巻版を繰り返し開催した。その名称「ほえ〜るカフェ」は、牡鹿半島伝統漁の鯨(=ホエール)と、学生が声高に話す(=吠える)ことへの期待をかけてある(以下カフェ)。各地での臨時合同ゼミで日頃の活動紹介、4、5名の混合班での被災状況等の情報交換、新ツアー企画のアイデア交換等をした。これは背景・立場の異なる人との意見交換・発表と発想の訓練になった。
 平成24年12月、石巻の学生と私は訪問した東京でのカフェの翌日、東洋学園大学学生が企画・案内した復興ツアーに参加した。東京駅・秋葉原・浅草等を鉄道・水上バス等で移動し、東京駅設置の石巻産雄勝石製の美術作品や関東大震災後の復興で作られた橋々を見た。学生のイラストと解説付き案内冊子まで手渡された。石巻の学生も私も、東京の賑わいが復興の成果だと再認識し、また、温かい気持ちになった。

 平成26年12月、宮城県大崎市観光協会のモニターツアー「東北のセンターラインプロジェクト」に同じ東京の一行と私のゼミ学生が参加した。南三陸町での食事の際、双方に新潟県出身学生がいたため急に距離感がなくなり、連絡先交換に至った。同町で津波時の避難訓練・林業の間伐体験・カフェ・食事・宿泊、登米市で明治の尋常小学校舎等の訪問・6次産業化成功企業の見学・食事と地元の観光関係者との意見交換を行った。主催側は東京・宮城の学生の意見を歓迎し、また、両学生にとって間伐は新鮮な体験で好評だった。

 平成27年8月には一行に手塚崇子氏(川村学園女子大学講師)と学生、本学の庄子真岐氏(准教授)も加わり、石巻市の被災水産加工企業の見学、仮設住宅の住民から地域の震災前後の様子を聞き地図を作るカフェを開催した。被災企業の実態と牛タンつくね等の地元産品への来訪者の好印象、そして住民の地域への思いを知る機会になった。
 震災は不幸なできごとだったが、それをきっかけにした出会いと交流があり、それが被災地で学ぶ学生と私の励みとなり、財産になった。この場をお借りし皆様に感謝申し上げる。

新型コロナ禍の中で

 震災後10年目、令和2年度前期の授業の多くは、新型コロナ禍で人の移動が止まる中、画面越しの遠隔式で行われた。ゼミ教材に私は震災ではなく発展途上国の観光の文献を選んだが、発表者以外の学生の集中度がつかめず、理解が進んだ実感は乏しかった。
 後期、教室でのゼミが復活したが、学生も私もマスク姿で顔は一部しか見えない。指導不足のまま、12月の日本観光研究学会東北支部大会(遠隔)で私のゼミ学生が4件発表した。ほぼ自由に任せた中で学生が選んだテーマは震災関連1件、他は地域振興、プロ野球経営、東京オリンピックだった。自然なことに、時が流れ、世代交代と人心の震災離れは進んでいる。
 震災被災地で私達は人とのつながりと交流の大切さを実感したが、コロナ禍でそれらから隔離された。友人や教員との通常の対人関係、イベントや旅行に制限のある生活の中で観光を学ぶ学生は十分な成長のための経験を得ていない。それは全世界的現象としても、観光復興の推進力となる人材育成を必要とする被災地においては、より貴重な機会の喪失である。早期の平常化と被災地の復興の進展を祈っている。

 

丸岡 泰(まるおか・やすし)
石巻専修大学経営学部教授。上智大学大学院修了。博士(国際関係論)。経済発展と観光の研究中。論文に、丸岡泰「災害ボランティア・ツーリズムの中間組織の機能に関する一考察―東日本大震災後の石巻圏の経験から」『経営学研究』(石巻専修大学)、23(1),2011‥丸岡泰、大森信治郎、清水義春、庄子真岐「東日本大震災後の復興初期の石巻圏への旅行振興-旅行実態と奥尻島の防災研修事例に基づく考察-」『観光研究』24(1)、2012.09‥丸岡泰、泰松範行「東日本大震災の被災地への復興ツーリズムの可能性-宮城県南三陸町の事例から|」『日本海水学会誌』第70巻、2016等。