⑥…❸ インタビュー宝来館の10年
「女将のお話の時間」から「女将との対話の時間」へ

 釜石市鵜住居地区の根浜海岸沿いにある「宝来館」は、津波によって2階部分まで浸水しました。私も津波にのまれ死が頭をよぎりましたが、運よく助かりました。地区内には多くの犠牲者がでました。津波が引いた後、裏山に避難していた私たちは建物に戻り、3階より上の室内で寒さをしのぎ、生き延びることができました。
 地域の避難所としても利用してもらいました。その時、これが終わればこの建物には意味がなくなると考えていました。ところが、復旧作業にきている工事関係者から、自分たちはトラックの中で寝なければならない。電気がつかなくてもいい、水も出なくてもいい。足だけ伸ばせればいいから宝来館に泊めてほしい、とお願いされたのです。壊れたこの宝来館が必要だと言ってくださった。衝撃でした。あの頃、必要とされることが生きる勇気になった。それがうれしくて、おかみのスイッチが入りました。自分の立ち位置が見つかったのです。1回目の修繕を終えて事業の一部を再開したのは2012年1月5日。その後、流れた部分を再生し、元の部屋数に戻してリニューアルオープンしたのが2015年です。
 この間、3年、7年とか、一般的に言われる節目ごとに、前を向こうということを考えてきました。お泊まりいただいたお客さまがたには、「女将のお話の時間」として震災時のことをお伝えしてきました。「語り部」と言われますが、私は報告義務者だと思います。日本中の方々、世界中の皆さんから助けていただいた自分たちの義務です。そして、この「お話の時間」を10年
たった3月11日で終了することにしました。

今、ようやく3月12日を迎えたのです。

 3.11、その日から私は「生きること」をもらったと思ってきました。そして、生きるためにこうしたい、ああしたいということを言い続けてきた。私は3月11日という日を10年かけて生きてきたのです。たった1日を10年かけて。多くの皆さんは、その翌日から私たちのことを大変だ、どうにかしなくちゃいけない。自分ができることを何かしなければ、と思って行動してくださいました。しかし、私は自分たちの思いだけを伝えてきた。あのときから私たちを見続けてくれた人、ボランティアとして来てくれた人、実はそうした皆さんの10年でもあるのです。すごく濃い10年が。その皆さんのお話を教えてほしいな。私の知らなかった皆さんの話が知りたいと考えられるようになりました。これからの10年は、私たちを見てくださった皆さんの思いを知ること。今、ようやく3月12日を迎えたのです。
 この10年間に、街がもどり、普通にビジネスができるようになり、ラグビー・ワールドカップも経験しました。振り返ると、浮き足立ってやってきたな、という反省もあります。10年のタイミングとは、こうやって自分が見える、普通の感覚に戻ってきたということかもしれません。現実として今の自分が見えるようになり、3.11前の3月10日の自分も見えています。

 震災前から、人が来てくれる交流の村づくりをしたいと考えており、震災後にその思いはさらに強くなりました。来てくださった皆さんとともに釜石や、根浜エリアの今後の方向性のイメージを作り、整備も一緒にしていただきました。この10年間、外から来る皆さんとともに作り上げたエネルギーがありました。その中で育てられた若い人たちに思いをつないで、この次の10年が始まるようにしなければならないと思います。自分たちの年代になってくると、たくさんの課題がみえ、心配する意見がたくさんでてきます。しかし若い人たちにはそうしたことにとらわれず、今のエネルギーのままで挑戦し、作り出していくことを期待しています。
 私は、山、海、自然、人の良さを商品としたいと考えていたのですが、なかなかすすみませんでした。ところが震災後に外の人がきてくれ、自分が思っているふるさとづくりは間違いではない、やれるということを確証してくれ、一緒に伴走してくれた。自分たちが描いていた村づくり、街づくりが一気に進んだと実感しています。震災前は、例えば、プラットフォームが必要だというような議論が、地元の中でぐるぐる回るだけでした。
 そして今は、当時は高校生だった、中学生だった子たちが帰ってきて、一緒にふるさとづくりをやっています。自分たちでふるさとつくりたい、ふるさとのために役に立ちたいと言ってくれます。ここに移住してくれた若い人たちも、プレーヤーとして取り組んでいます。
 こうした子供たちに対して、外の一流の皆さんがものの考え方とか、未来を感じさせ、経験もさせていただきました。
 色濃く行ったり来たりした時期もありましたが、今は少し間をおいて見てくださる。私は、この感覚がすごく大事だと思っています。いつまでも一緒に伴走してくれるのではなく、今は外から見てくれる。この、見続けてくれる人たちのおかげで、道を間違えなかったと思っています。そしてこの緩い関係がすごく大事だと思います。見ているよ、応援しているよ、という人たちがいることが、自分が生きていく上で、すごく心強かった。前を向こうと自分に言い聞かせるのは、こうして出会った人たちが見ているぞ、という思いがあったからだと思います。

被災した宿だからではなく、旅の宿として選ばれる宿を目指してきました

 この10年間にボランティアで来る方、仕事で来る方、復興支援の方も、ある意味観光のお客さまと同じだと思っています。釜石は鉄の産業の町であり、目的があって訪れ滞在する人たちが多く、これが釜石の観光でした。三陸の風景や、食材を目指してお客さまが来てくれたのではないのです。震災後も、震災応援という目的がある皆さまに対するいっときの受け皿としての観光であり、その10年だったと思っています。一方で、宿として一人前になりたいというのが、私の課題でもありました。具体的に動き出すきっかけは、ラグビー・ワールドカップだと思います。それが終わるとどうなるのかを考えていました。震災応援が目的ではないお客さま、一般の方々にも来てもらわなければならない。宝来館としても、この3年間は被災した宝来館だからではなく、旅の宿として選ばれる宿づくりを目指してきました。
 私は3月11日に語り部やめますと言い、自分でひとつの線を引いたと思っています。もう後ろは無い。それをやるしかない。でも、3.11を経験しているので、何が起こっても生かしてもらった結果です。あのとき私は、命をもらったぞ、と思いました。一度は亡くなって、無い命かもしれないのに、まだ生きていることが、すごくありがたかった。何があったとしても生きているだけでいいんだと。
 昨年来、コロナで世界中が被災者になりました。このタイミングに、震災から10年目を迎えた意味あいを強く感じています。そして、今年は復興オリンピックがあります。私たちは、スポーツで勇気をもらうという大きな経験をしました。選手たちが頑張っている姿は、生きる希望になりました。オリンピックによって世界中の人々は絶対に勇気をもらえると思います。
 岩手県は3月11日を県民の日にし、『大切な人を想う日』という副題をつけました。大切な人と話しをする日、語り継ぐ日です。これからも、3.11という数字を見たとき、きょうは自分のかけがえのない人を思い、話す日だというメッセージを世界中の人に届けたい。私が、一番伝えたいのは、このことです。(談)

聞き手・文:寺崎竜雄

 

岩崎昭子(いわさき・あきこ)
「浜辺の料理宿 宝来館」女将。宝来館は岩手県釜石市鵜住居町、大槌湾の根浜海岸にある1963年創業の旅館。父である先代が開業した宿を20代で継いだ。地域住民主体の英国式ボートレスキューの仕組みづくりを行う(一社)根浜マインド代表理事も務める。