④…❸ インタビュー 南三陸町の10年
観光まちづくりは、これからも続いていく

〈コロナ前までの状況〉

-震災後から、コロナ禍前までの状況をお聞かせください。
宮川 震災直後は、約100万人だった震災前の観光客入込客数にはほど遠い状態でしたが、2012年から16年にかけて80万人くらいまで回復しました。
 南三陸さんさん商店街が仮設から本設になり、三陸沿岸道路が仙台主要部から南三陸町まで全線開通した2017年には初めて140万人を超え、2018、19年も震災前を上回る観光客入込客数を記録しました。ただし増えたのは日帰り客で、宿泊客数はなかなか震災前の数字に回復せず、宿泊客の底上げが課題でした。
及川 震災前から行っていた民泊は1日400人が受入可能でしたが、震災後は120名規模になり、その後も受入家庭の高齢化などにより40〜60名規模に縮小しています。
 震災前は中高校生の教育旅行を多く受け入れていましたが、震災後は大学生や企業の研修旅行が増え、町内の宿泊施設に滞在してプログラムを受講する形が伸びました。最初は「震災について住民目線の話を聞きたい」というニーズが多かったのですが、その後は防災や減災、産業復興など、企業や自治体の取り組みにつながる研修へと変化してきました。

 震災後は、台湾からの修学旅行も受け入れました。南三陸町への多大な復興支援がきっかけとなり、双方向の交流を通して若い世代が防災などを学び合いながら、震災の記憶、そして感謝を伝える取り組みになっています。

 個人宿泊客については予約システムを導入し、大手予約サイトに未加入かつ自前のサイト構築が難しい町内の宿に加盟いただきました。お金の流れが域内で循環する仕組みを作り、泊まった後に町内を周遊できるよう工夫しています。
-震災に関するプログラムの参加者の数はどのように推移していますか。
及川 南三陸町観光協会のプログラム受講者数は震災後1、2年目がピークで、そこから徐々に右肩下がりですが、町内の企業や団体でも語り部活動は盛んに行われており、地域全体で見るとそんなに急激に落ちているわけではないと言えます。
 私たちも正直、震災関連のニーズがここまで続くとは当時は予想しませんでしたが、「10年目のタイミングで初めて被災地に行ってみたい」という声も聞きます。
 三陸の海産物や海のアクティビティなど、地域コンテンツを目指して訪れるお客さんが徐々に増え始めたのが、震災後5年目くらいからです。今後は震災関連のプログラムと地域コンテンツをいいバランスで組み合わせた形に変化していければと思います。
宮川 南三陸における震災プログラムの需要が根強いのは、観光協会のこれまでの見せ方が大きく影響していると思います。
 観光協会のサイトでは今でも、語り部プログラムをはじめとした震災関連のコンテンツをトップページに掲載しており、そうした情報を求めている方達に届きやすい面はあると思います。観光協会は、こうしたプログラムを最初から観光復興の収益事業の一つの柱にしていこうという思いがあり、商品としてきちんと設計していることも大きいのかなと。

 震災復興は防災や減災だけではなく、産業再生など幅広い分野に関連します。震災当時の話や復興過程を学ぶという切り口もあれば、今は日本各地で自然災害が起きているので、災害そのものを学ぶという切り口で、今後も続続していけるのではと思います。



〈コロナ禍の状況〉

-観光客数が震災前以上に回復してきた中で起きたコロナ禍ですが、どんな影響があったでしょうか。
宮川 宿泊は、数字的な影響は確かに大きいですが、さんさん商店街や観光協会が管理する神割崎キャンプ場など、屋外で感染リスクを減らせる場所の入込数は、昨年秋頃には前年比の数字を超えていたりします。大変な状況に変わりありませんが、「底」ではないという印象です。
 地域の人とは「震災ほどの苦労じゃないよね」「大変だけど、今は寝る場所も食べる物もあるよね」と言い合っていますが、そうしたことを経験して来た人たちが担い手となっているので、他の地域に比べて底力は強いかもしれません。


 観光協会もただ「大変だ」と言って何もしないのではなく、迅速に次の手段を打ち出し、それが地域の関係事業者の希望につながっていると思います。目に見えて動くことが、町と観光協会に与えられているミッションだと感じています。
 今回、交流や接触を避けなければならない状況の中で、デジタル化も一定程度進める必要があることが明らかになりましたが、やはり人と人との交流は普遍的なものであると改めて感じます。南三陸が提供するプログラムはやはり現地に来て人と会って、触れて、感じていただくことが大事だと思っています。
及川 GoToトラベルや県、町のコロナ対策の補助事業に支えられ、なんとかマイナスからゼロに近づけられたかなと思いますが、今後も来訪者、受け入れ側双方が補助に依存する体質になってしまわないかという懸念はあります。
 交流の価値を地域の皆さんと再びどう共有するかは、コロナで数字が落ち込んだこととは別の課題だと感じています。人の行き来が回復した時に億劫になって「やらなくてもいいや」とならないよう、「こういう状況だからこそ、本来持っている地域の力を使って、新しいことを仕掛けていこう」という気運をもう一度作ることは、難しいけれどやらなければいけないと思っています。
 コロナ収束後も、また別の何かが起きて交流がストップすることがこの先もあると思います。将来に備えゼロか100ではなく、現地に来なくてもできる交流や観光という「第3の道」についても模索していくことが、今後の取り組みのポイントになると思います。

〈観光協会の自立、官民の役割分担〉

-南三陸の観光を振り返り、ターニングポイントとなった出来事は。
宮川 南三陸観光協会は平成21年に法人化して旅行業に登録しましたが、それ以前は役場の中に机を置く任意団体で、民間組織として自立するという意識はなかったと思います。そこから官民が一緒になって喧々諤々協議し、「こういう方向に向かおう」という結論に行き着いたことは大きな分岐点になったと思います。ただし、法人化して旅行業登録したから自立できたということではなく、自立するための手段として旅行業登録が必要であり、それには法人化が必要だったと。これはあくまでも手段であって、結果ではないということです。
 地域でその当時、観光協会の役割を表現する言葉としてよく使っていたのが「中間支援組織」です。この町の規模や今後の人口減少なども想定すると、現場の実働と行政をつないでビジネスにしていく組織が、絶対に必要というのが関係者の共通認識でした。
 その後に震災が起こったわけですが、震災前の数年間、観光協会を地域の観光業における中心組織として、みんなで盛り上げていこうという気運が盛り上がっていたことは非常に大きかったと思います。もしその気運がなかったら、震災後にどのような観光復興の形があったかどうか、ちょっと想像ができません。
 観光協会の運営資金は震災まで概ね補助金で賄っており、震災が起きたことによって、ほとんどの事業ができなくなりました。協会の解散も一時は検討されましたが、「そうではない。これからこそ、復興の中で観光が必要では」という考えから再び動き出しました。
 苦難の中、観光協会の皆さんに一生懸命動いていただき、長い道のりがありましたが、現在は、行政は計画立案・監理を行い、観光協会は継続的に人材を抱え、実働部隊の現場と連携していくという当初理想としていた役割分担ができていることは、本当にこの町の強みだと私は思っています。
及川 観光協会が法人格を取って動き出してからも、町の補助事業に支えられていたり、しばらくは脆弱な状態だったと思います。しかし、国内のある地域を視察し、観光推進組織が自立的な組織運営を実現している例を目の当たりにしたことをきっかけとして、観光協会も毎年補助に支えられていくのではなく、将来に向けて持続的な組織を作り、その組織で持続的に観光まちづくりをしようという方針に変わった時があり、そこが組織的には一つの転換期だったかなと思います。
 しかし、旅行業のみで自立の道を目指すのは非常に厳しく、様々な事業展開も計画しましたが、当時はまだ〝町の観光協会〞が収益を上げていくこと自体に馴染みがなく、板挟みに悩む時期もありました。それでも少しずつ実績を重ね、法人化当初、町に出資いただいた旅行業の保証金も返還することができ、法人として自立の方向に向かっていきました。組織自らも、維持・成長のために収益を確保しつつ、その資源となり得る公益的な観光まちづくりに関わる〝両輪〞の形が明確になりました。
 観光協会が組織としてそういう方向に行けたこと、町と連携して方向性を決められたのは大きかったと思います。今も町と観光協会は常に同じ方向を向き、そのためには何が必要かというコミュニケーションがとれていると思っています。

〈観光が復興に果たした役割〉

-震災後10年の持つ意味とは。
宮川 世の中が一つの大きな節目として捉えていることも理解できますが、一住民としては、本当に一つの通過点に過ぎないと感じます。
 南三陸町の観光に関しては、総合計画に観光をまちづくりの手段として位置づけた2006、7年の頃が実質的なスタート地点だったと思います。そこから観光協会の組織整備を含め、急ピッチで気運を高めていったことが、今の現役の担い手たちの記憶にあります。
 震災という大きな出来事によって、ある意味、その気運を強制的に加速させなければならなかったというところはあります。これを復興の一つの要として動かしていくためには、震災前になんとなく、「こうしていけば、観光でこの町が活気づいてくるのでは」とみんなが考え、チャレンジしていたことに対して「今こそ、あのやり方だ」という思いがあって。それによって、この町は民間主体で観光復興が大きく前進していったと言っても過言ではないと私は思っています。
 そう考えるとこの10年は、確かに中身はぎゅっと凝縮されて濃かったけれど、震災前に掲げた南三陸町の観光まちづくりという大きなテーマの中の一部分に過ぎないとも言えます。私たちの観光まちづくりは2021年以降も続いていくわけで、今年は次の段階を考える節目ではあると思います。
 今、10年ということで、私たちのところにはものすごい数の取材依頼が来ています。なぜ敢えて震災前の話をしたかというと、節目はあっても「終わりはない」ことを理解いただきたいからです。住民はこれからもここで生きていき、これまで復興事業としてやってきたことを今後はまちづくりとして続けていくわけで、10年で何かが終わるというような周知の仕方は避けたいと感じています。
-南三陸の復興にとって、観光はどんな役割を果たしたと思いますか。
及川
 私が観光協会としての役割を強く感じたのは、まさに震災後です。漁師さんたちが漁業をいつ再開できるかわからない状態であった2011年の5月頃、「いつ漁が再開できるかわからないので、今ある船で漁業体験を再開し、その日のお金を稼ぎたい」と協会事務所に相談に来られました。民泊協議会の方々からも「いつか受け入れられるよう、受け皿を整えておきます」と言っていただいたり、中間支援組織としての役割を感じる機会になったと思います。
 また、地域には宿泊施設や飲食店など観光客に直接関わる事業者だけでなく、一次産業の方や一般の地域住民の方も、交流事業に関わってもらえる下地はある程度できていると思います。
 それは震災後にボランティアの支援をいただき、地域外の人と交流する中で地域の資源や取り組み、産業が認められ、経済的な面ではない部分の喜びや価値を感じ「もっと外に広めたい、見てもらいたい、食べてもらいたい」という思いが生まれたことが一つのきっかけとしてあるのかなと。観光以外の生業を持つ人たちが、その生業の合間に交流事業に携わり、それを生きがいや喜びにしてもらい、ちょっとした副収入にもつながるような形がうまく作れて来たと思います。
 元々、震災前から民泊や漁業体験、お祭りなどに取り組んでいた地域の方々は多く、その方々が作ってきた下地が継承されたことも大きいです。震災前はそうした方々の年齢層が高く、若い世代にどう引き継ぐかが課題でしたが、震災をきっかけに、交流事業に価値を感じて取り組む若い世代が増え、大きな課題がそこで一気に解消されたと感じています。今の南三陸では、まちづくりの先輩方が、若い人たちの取り組みに対して後押しする構図が出来上がっていると思います。
宮川 南三陸に限らず被災地にとっては、観光に取り組むことが、「心の復興」にとても寄与したのではと私は思っています。多くの支援を得て立ち上がった被災者が、ご支援いただいた方やボランティアの方々をお世話する側になるというのは、観光で見る自立の一歩の動きだと思います。
 もちろん経済効果が大前提にはなりますが、それだけが観光ではなく、人を受け入れようという気持ちの自立も、観光がもたらした効果だったと思います。そういう意味で観光は、復興の中で地域が自ら立ち上がるきっかけを作ってくれたものではと感じています。
 何かあった時に他者とつながり、もう一度踏ん張ろうと思えるかどうかは、すごく大事なことです。その時に観光が役立つのなら、平時から交流を持続していくことは意義があるのではと思います。今はコロナで大変な時で、この先も何があるかわかりませんが、南三陸の観光は観光協会を中心に、民間主体で自走しています。常に見直しや修正を行いつつ、今の感覚でこの先も10年、20年やっていければと思っています。

聞き手:菅野正洋(上席主任研究員)
編集協力:井上理江

 

宮川 舞(みやがわ・まい)
南三陸町商工観光課 課長補佐兼観光振興係長。宮城県南三陸町出身・在住。1995年南三陸町(旧志津川町)入庁。産業振興課観光振興係(現商工観光課)などを経て2019年から現職。観光振興事業全般のマネージメント、主に観光による地域づくり事業、観光復興事業、中間支援組織育成事業、国内外誘致事業、交流人口・関係人口拡大事業などを担当。

 

及川和人(おいかわ・かずと)
一般社団法人南三陸町観光協会事務局長。宮城県南三陸町出身・在住。2009年組織が法人化する際に入社。2019年から現職。震災後は地域の方々と震災学習プログラムや自然体験プログラムの造成、宿泊予約システムの導入や台湾交流事業の推進など官民一体で観光地域づくりを実践中。